メッテルニヒの退陣


 夜が明けた。

 出版の自由や検閲の緩和を求める声は、次第に、現体制への不満へと代わっていった。


「メッテルニヒは退陣しろ!」

「独裁者から皇帝を解放せよ」

「皇帝を我々に返せ!」

 民衆の不満は、決して、皇室に向くことはなかった。

 代わりに、メッテルニヒの罷免を要求する声は、日増しに大きくなっていった。


 宮殿の窓辺に立っていたゾフィー大公妃の口元に、笑みが浮かんだ。

 ……フランツル。見ていて?


 ゾフィーは、決して忘れることはなかった。

 若くして、無念のうちに死んでいった甥を。

 最後まで礼儀正しく、彼女に忠実だった、背の高い、金髪碧眼の青年を。



 彼に死が迫っていた頃、彼女は、あまりに若かった。フランツ・ヨーゼフ長男マクシミリアン次男の出産が続き、自分のことで、せいいっぱいだった。

 彼女の目には、メッテルニヒは、頼もしい宰相としか映らなかった。


 ……けれど。

 メッテルニヒは、彼が秘跡の儀・・・・を受けたその晩、在パリのフランスアポニー大使へ、ライヒシュタット公死去の告知を書いていた……。

 その事実を知った時、ゾフィーの中で、何かが壊れた。


 秘跡の儀。ハプスブルク家の一員が、死に瀕した時、必ず受けなければならない、宗教上の儀式だ。言い換えれば、秘跡を授けるということは、お前はもう死ぬのだと、宣告するようなものだ。

 そして、秘跡の儀を受けるよう、フランツルに勧めたのは、ゾフィー自身だった。


 もちろん、秘跡という言葉は使わなかった。間近に迫った自分のお産の無事を祈るついでに、彼の回復を祈る。

 通常の聖餐だと、説明した。

 だが。


 ……「死ぬ準備はできている」

 秘跡を受ける朝、彼は、そうつぶやいたという。また告解の後、司祭に向けて、

 ……「病が重いことは、知っています。しかし、良くなる望みを捨ててはいません」

 と、語ったそうだ。


 彼は、知っていたのだ。

 これが、秘跡の儀であることも。

 自分は間もなく、死ぬということも。


 ハプスブルクの人々が、総出で、彼の意識を、死に向き直らせたのだ。

 彼は、最後まで、生きようとしたのに……。

 そして、ハプスブルク家の先頭に立ち、彼に、聖餐を受けるよう勧めたのは、ゾフィー自身だ。

 ……。



 長いこと、慚愧の思いに、ゾフィーは、身も世もあらぬ思いが続いた。

 最後に見舞ってから(それは、彼女のお産の前日だった)、その死までの16日間、彼の元を訪れることがなかったことも、臓腑が捩れるような、いたたまれなさに拍車を掛けた。


 ……私はあの子に、なんて残酷なことを。

 ……フランツルは、いつだって、私の味方でいてくれたのに。



 彼の死の2ヶ月前、ホーフブルク宮殿から郊外のシェーンブルン宮殿に移った頃、彼の容態は安定したと聞いていた。

 大きな発作はあったが、危機は脱したと、医師団は宣言している。秘跡の前に行われた最後の医療会議では、秋になってからの転地を進言しようと、話し合われてさえいた。


 ……彼に秘跡を受けさせたのは、誰の意思だったのか。


 秘跡を受けた後、容態は、格段に悪化したと、ゾフィーは、付き人から聞かされた。迫りくる死を自覚したからだ。


 ……あの時点で、秘跡を受けさせる必要があったのか。もっと後でも良かったのではないか。

 ……せめて、お母様のマリー・ルイーゼ様が、お帰りになってからでも。

 ……そもそも、メッテルニヒが、もっと早くに、転地を許しさえすれば。


 そうすれば、彼はまだ、自分の隣にいたはずだ。あの頃と同じく、自分の横に座り、はにかんだような微笑みを浮かべて……。


 ゾフィーの心の中で、彼は、いつまでも、あの頃のままだ。

 人混みの中で、エスコートしてくれた、優しいしぐさ。

 大隊を堂々と指揮し、ゾフィーのいるベランダの下を、彼女の方を一顧だにせず、通り過ぎていった子どもっぽさ……。

 おとなになりきった彼を、ゾフィーは、想像できない。彼は、彼女から、永遠に奪われてしまったからだ。


 宰相がナポレオンの息子ライヒシュタット公に、ウィーンから出ることを許したのは(フランス以外という条件がついたが)、彼の死の、40日ほど、前のことだ。ちょうど、フランスで起きた6月暴動が、鎮圧された頃。

 ……宰相は、フランスしか見ていない。

 ……かつての敵ナポレオンの息子としてしか、フランツルのことを見ていなかったのだ。


 ウィーンから、決して外に出さず、希望の軍務もお飾りのように扱い、それなのに、彼は、身体を酷使し、過酷な訓練に打ち込んで……。


 あれほどの絶望を。

 想像を絶する苦しみを。


 許せない、と思った。

 彼女は、じっとチャンスを窺っていた。



 今年(1848年)2月22日に、パリで、2月革命が起きた。知らせを聞いたその日から、ゾフィーは、周到な準備を重ねた。


 劇場では、メッテルニヒを風刺した喜劇が上演され、好評を博した。これを、検閲する者はいなかった。検閲当局が、見逃したからだ。

 街には、メッテルニヒが、皇帝を支配している、という噂が、流された。今の不景気は、メッテルニヒが皇帝を牛耳っているせいだ。

 それらの陰に、ゾフィー大公妃がいた……。



 「さあ、あなた。行きましょう」

ゾフィーは、夫のF・カール大公の腕を取った。

 宮殿の外へ出ていく。


 市民の間に、歓呼の声が沸き起こった。

 皇帝の弟F・カールその妻ゾフィーは、手を振って、民衆に応えた。



 今年、8月。夫妻の長男、フランツ・ヨーゼフは、18歳の誕生日を迎える。

 皇帝即位が許される年齢だ。







 メッテルニヒのウィーン体制は、完全に朽ち果てていた。

 プロレタリアートの不満は募り、暴動は、激しくなる一方だった。

 それに呼応するように、メッテルニヒ解任を叫ぶ声も、大きくなっていった。


 宮廷は、国民へ譲歩を示す必要があった。

 おとなしいと言われていたルードヴィヒ大公先帝フランツの弟が、皇族を代表して、メッテルニヒに引退を要求した。


 「私は、流血の原因になりたくない。また、政府を困らせるつもりもない。よろしい。辞任を受け容れましょう」

 メッテルニヒは言った。

 さらに続けた。

「これで、私の、フェルディナント皇帝守護の誓約は、無効となります。これは、フランツ帝先帝が、私に託された、任です」


 先帝フランツ帝は、死の床まで、自ら政務を執れない長男フェルディナンドを、心配していた。その御代の安寧を、何よりも望んでいた……。



 辞任を受け容れ、宮廷から自宅へ退こうとした時。メッテルニヒの馬車と知り、叫んだ者があった。


「この、ライヒシュタット公殺し!」





 翌日。メッテルニヒ一家は、ボヘミア、そしてロンドンへ向けて、亡命した。














¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

ライヒシュタット公とゾフィー大公妃については、「ライヒシュタット公とゾフィー大公妃―マクシミリアンは誰の子?」がございます。

https://kakuyomu.jp/works/16816927859493291159









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る