蜂起



 皇帝フランツ亡き後、厳正なしきたりに則って、皇位は、長男、フェルディナントが継いだ。フェルディナントは、宮廷の、誰からも好かれていた。だが、政務のできる体質ではない。彼には、自立した生活さえ、難しかった。

 補佐役には、皇帝の弟F・カール大公、皇帝の叔父ルードヴィヒ大公、宰相メッテルニヒ、内相のコルヴィラートがついた。


 F・カールは、無気力な大公だった。そして、ルートヴィヒは、おとなしかった。


 この人選が、メッテルニヒの手によるものであることは、誰の目にも、明らかだった。

 ウィーンは、依然として硬直したメッテルニヒ体制の元にあった。




 国民の生活は、逼迫していた。特に、リーニエと呼ばれる土塁の外側に住む労働者プロレタリアート達は、まるで、家畜のような生活を強いられていた。


 それは、土塁リーニエの内側に住む市民ブルジョワと、対称を成していた。

 観劇を楽しみ、美食を味わうブルジョワ達は、未だ、プロレタリアの苦悶に耳を塞ぎ、ビーダーマイヤーと呼ばれる小市民的繁栄の中にいた。



 1848年2月、再びパリで起きた革命の波は、今度こそ、オーストリアの市民を揺り起こした。

 同じ年の、3月。


 ハンガリーのコッシュートが、議会で演説をした。彼は、メッテルニヒ体制を非難し、ハンガリーのオーストリアからの独立を訴えた。そして、オーストリアの他の民族にも、同じような改革を、強く勧めた。


 オーストリアの知識人たちも黙ってはいなかった。ウィーン大学で学生の大集会が開かれ、教授を巻き込んで、出版・教育・信仰の自由を請願する書類を作成した。

 ブルジョワもまた、工業・農業・商業の団体組織についての請願書を提出した。


 これに対し、皇帝フェルディナントの名で、オーストリア帝国の国会が招集された。人々は、請願書を持って、ウィーンに押しかけた。


 押し寄せた大群衆の中で、突如、友人に肩車された男が、演説を始めた。

 彼は、平凡な医局員だった。

 演説の、声は震え、内容は、ありきたりな自由主義に基づくものだった。


 だが、人々は気がついた。

 これが革命であることに。




 領邦議会の前に集まった群衆の前に、馬に乗った3人の将校が進み出た。

「家に帰れ」

真ん中の将校が命じた。


 カール大公の息子、アルブレヒト大公だ。かつて、父のカール大公は、アスペルンの勝者と呼ばれた。息子もまた、クストツァの勝者と呼ばれていた。

 父が、怪物ナポレオンの勝利神話に最初の汚点を付け、国民の誇りを守ったのに対し、息子の勝利は、ごく部分的で、目立たぬものだった。


 「へん、誰が!」

群衆の誰かが言い返した。

 多くの声が、賛同した。

 彼らは、近くに落ちていた小石や木屑を拾って、将校たち目掛けて投げつけた。


 木片が一つ、一番右側の馬に当たった。臆病な馬は、恐怖に嘶き、後ろ立ちになった。不意のことで、馬上の将校は、危うく落馬しそうになった。後ろにずれた鞍から尻を浮かせ、馬の首にしがみつく。


 ひどく不格好だった。群衆の中から、どっと嘲笑が沸き起こる。


 アルブレヒト大公は、唇を噛み締めた。

 やにわに彼は、手綱を引き、馬を反転させた。石畳に蹄の音も荒く、陣営に引き上げていく。

 両側にいた将校達も、それに続いた。


 群衆は喜び、ますます囃し立てた。大仰な手振りで踊りだし、敵に背を向けた将校たちを、嘲る者さえいた。

 

 束の間の勝利だった。


 直後、銃剣を携えた大隊が出動してきた。

 指揮官の大尉が、発砲命令を出した。


 軍は、民に向けて、発砲した。



 その頃、市外には、土塁リーニエの外から、続々と、貧民階級である労働者が集まっていた。

 彼らは、彼らを搾取する工場職場を焼き払い、パン屋や肉屋から、略奪の限りを尽くした。


 そこへ、市内から、発砲の音が聞こえてきた。

 プロレタリアートによる暴動は、手をつけられなくなった。








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