たぬきそばがタヌキな理由

一矢射的

東京モンと大阪モン


 僕がトイレからリビングへ戻ると、ルームメイトである奈々子の奴がコチラを見ながら一人ほくそ笑んでいた。それを目にした途端、悪い予感が隙間風のように背筋を駆け抜け僕はブルルと肩を震わせた。


 ―― コイツめ、また何か企んでいるな?


 可愛い同居人にして いずれ式をあげる予定の婚約者だが、根っからの大阪人気質で少しばかり悪戯好きなのが玉に瑕だ。

 大和なでしこの名に恥じぬ黒髪でポニーテールを束ね、泣き黒子ほくろを携えた切れ長な瞳はほんの一瞥いちべつで男を魅了する。奈々子は間違いなく器量よしの美女だ。その口をほんのちょっと閉ざしてさえいれば。



「どうしたん、遅かったね? 大きい方やろか?」

「止めてくれよ、これからオヤツだっていうのに」

「こんなん大阪では普通や。タッちゃんもええ加減、慣れた方がええで。本気でウチと結婚するつもりなら、そうあるべきや」

「小杉達也、東京生まれの東京育ち。そうなれるよう努力します」



 奈々子が頬杖ほおづえをつくダイニングテーブル。そこにはカップ麺が二つ並んでいた。

 二人で仲良く日課のジョギングを終え、今は待ちわびた至福のオヤツタイムだ。

 今日のメニューは「赤いきつねうどん」と「緑のたぬきそば」トイレに行く前、両方ともお湯を注いであるのでそろそろ食べ頃のはずである。

 とっくに三分は過ぎていた。


 彼女が何を企んでいるのかは気になるけれど、それは追い追い判る事だ。

 僕は彼女の対面に腰を下ろし、自分の取り分である「緑のたぬき」に手を伸ばす。

 カップ麺のフタに指をかけ(上目遣いに彼女の動向をけん制しながら)僕は待たせてしまったお詫びを口にする。



「それじゃ、のびる前に頂こうか」

「あっ、イヤ、ちょい待ち。今なぁ、ウチの頭にすごーくビビッときたのよ。けったいなアイディアが浮かびおった。それについて今からキミと話したいんやけど」

「なんだよやぶから棒に……どうせ僕が止めても話すんでしょ」

「モチのロンや!」



 鼻をフンスと可愛く鳴らしながら、彼女は小ぶりな胸を張った。


 ―― 本当に黙っていれば美人なのに。麺がのびる前に食べようよ?


 結婚とは忍耐を知ることだ。そんな親父の格言を思い出しながら、僕は興味津々のフリをして尋ねた。



「奈々子ちゃんは、いったい何を考えていたの?」

「ズバリな『たぬきソバがタヌキの理由』やで。どや? 面白そうやろ?」

「どうして……今それを?」

「まーまー、聞いてくれよ。気になるやろ? 日本人なら気になって当然やん。関東では天かすや揚げ玉がのったソバを『たぬき蕎麦そば』いうんやろ? それなのに動物のタヌキ要素は一切ないとくるやんけ」

「そうだね、タヌキの肉が入っているわけじゃあるまいし。キツネうどんならまだ判るんだけどな。油揚げといえばお稲荷さんだし、揚げの色も『狐の毛皮』みたいな色をしてる」

「せやねぇ、それを『見立て』言うんや。月見うどんなんかもそうやね。実際に月が入ってるわけじゃないけど、生卵のトッピングでそれらしく見せているねん」

「だけど、たぬき蕎麦はそうじゃない。天かすと狸には何の繋がりもなさそうだ。揚げ玉と狸なんか似ても似つかない。丸い揚げ玉は『見立て』じゃないってことかな? いや待てよ。タヌキと言えばキンタ……そうか判ったぞ!」



 パーン!


 彼女のビンタが僕の頬を打った。

 スナップが効いてなかなかに痛い。

 愛のあるツッコミということは判っているんだけど。



「アホぬかせ。下品すぎるやろ! 全国のたぬき蕎麦ファンに謝罪会見ものや」

「すいません……大阪のノリを真似たつもりでした」

「キミは大阪をなんやと思ってるの? そんなオチ、向こうじゃ許されんで」

「じゃあ、お手並み拝見といきましょうか? 奈々子博士はどう考えるの?」

「よくぞ聞いてくれました」



 奈々子はそこで一息いれると、矢継やつぎ早にこうたたみかけた。



「そもそもな『たぬきそば』のタヌキとは、動物のことじゃないんやで」

「ほう?」



 彼女が言うには、元々そば屋には「たねものそば」という言葉があるらしい。

 鴨南蛮そばに鴨肉が、天ぷらそばにエビの天ぷらがのっているように、蕎麦だけでは物足りないお客様向けに「どんぶり麺に具をのせたメニュー」を総じて「たねものそば」と呼ぶそうだ。

 言い換えれば、蕎麦にのせる「満足度の高い具材」をタネと呼んでいたということ。


 ―― ふーん、何だか判りかけてきたようだぞ。


 奈々子のご高説はなおも続く。



「そうした肉々しいメニューと比べて『たぬきそば』はどうなんやって話」

「なるほど、タネと呼べる動物性たんぱく質が欠けているね」

「タネ抜きのたねものそば。略して、たぬきそばや。タネ抜きでたぬき」

「えー? こじつけじゃないの? 誰がわざわざ具材を抜いて頼むの?」

「失礼やな、キミは。昔からそば屋で『ぬき』のメニューを頼むのは食通のたしなみやんけ。しかもそれは東京モンの十八番。大阪じゃあまるで通用しない『いき』って奴じゃないんけ? 息しとるんか、ワレ」

「そういえば、そんな話を聞いたことがあるような……?」



 東京が誇る名門そば屋、やぶ

 そこには「鴨南蛮のぬき」という裏メニューがあるらしい。

 「鴨南蛮のぬき」とは通常の鴨南蛮から「そばを取り除いた」汁物を差す。


 常人にはちょっと信じられない話だが、わざわざ麺の入ってない具とスープだけを注文するのが江戸っ子らしい粋なはからいなのだ。それを酒のつまみとしてゆっくり楽しんだ後、最後に改めて盛り蕎麦を頼む。するとどうなるのか? 


 一度注文すれば済む話なのに、わざわざ二度にわけてスープと麺を運ばせ、別個で食べる。それはこの上ない贅沢ぜいたくであり、玄人くろうと好みの食べ方なのだ。

 これなら、いくらゆっくり食べても麺がのびる心配もないし。


 この作法はどうもウナギにも適応されるようで、ウナギの蒲焼かばやきを注文してそれを堪能たんのうした後に、タレのかかったご飯を注文するというやり方もあるらしい。うな重のメシ抜きか? 食通おそるべし。


 ―― 確かに贅沢ぜいたくだけど……普通に食べた方が美味しくない?



「そこまでけったいな食べ方をする東京モンやさかい、天ぷらの揚げ玉をのせた蕎麦を『たぬきそば』と注文したら『ヌキをやってる俺、玄人っぽいじゃん』なんて……勝手にそう思い込んでいたんや。そうに決まっとる」

「へぇー、確かにそれらしい理屈だね。奈々子は賢いなぁ。良い奥さんになるよ」

「なんやねん、めたって何も出んよ。アンタも良い旦那になってや!」



 少し照れて、頬を赤く染める彼女はとても可憐かれんで美しい。

 これで終わったら単に良い話だったのだけど。

 僕が大阪の「こってりした恐ろしさ」を味わうのはこれからだった。


 いい加減に頃合いだと見て、僕は「緑のたぬき」のフタを開く。

 そして絶句した。


 そこに本来あるべき物が失われていた。



「あの、奈々子さん?」

「どうしたんや? そんなオモロイ顔をして」

「僕の『かき揚げ』がなくなっているんですが」

「あらら? 欠陥けっかん品かいな? 返品ものやな」

「お湯を注ぐ段階では確かにあったでしょ! 僕は先のせ派なんだ! これじゃ、ただの、かけそばじゃないか!」

「緑のたぬきの『ぬき』やん」



 なんと……しょーもないオチだろう。

 僕の婚約者にして美しい同居人は、僕がトイレへ行っている間に「緑のたぬき」から「かき揚げ」をちょろまかしたのだ。

 小学生レベルの悪戯である。


 彼女はニヤニヤ笑いながらこう弁解した。



「だからね、キミも東京モンなら蕎麦とかき揚げを別々に食べるべきなんや。今夜の夕飯はかき揚げやさかい。そこで好きなだけ食べたらええ」

「酷いや。僕は食通になんかなりたくないよ」

「ンモー、泣くようなことちゃうやろ? 仕方ないなぁ」



 彼女は肩をすくめてみせると、自分の「赤いきつねうどん」を開けてそこから油揚げをはしつまみ取った。そして、それをそのまま僕のカップかけ蕎麦へと乗せた。



「これで我慢しとき? 知っとるか? 大阪では油揚げをのせたそれを『たぬき蕎麦』言うんやで。大阪モンは食通気取りの御託ごたくに耳を貸さんのや。狐の対義語は狸に決まってるやんけ。うどんと蕎麦で綺麗なシンメトリーにせいって話よ? 仁王様しかり、狛犬しかり、日本では昔から左右対称が美しいんや」

「ああ、菜々子さまは慈悲深い御方だ。私に油揚げを恵んで下さるなんて情けが身にしみます」

「ふん、まあまあやな。意趣返いしゅがえしとして完璧やろ? これが大阪の味や、東京モン。この赤いきつねはウチの実家から送ってもらった関西版やさかい。あんじょうしいや、ア・ナ・タ」


 そこでようやく気が付いた。

 夕飯が愛情のたっぷりこもった「自家製の天ぷら」だと知りながら、嫁の前で美味そうに緑のたぬきを食うとは何事なのか……と。それは旦那の横暴おうぼうだ。どうも彼女はそんな理由でつまみ食いをしたらしい。

 そうならそうと言ってくれたら良いのに、大阪モンは素直じゃないのだ。

 今日の所は、大人しく油揚げが入った緑のたぬきを頂くことにした。


 東京風の濃厚なそばつゆと、関西風のさっぱりした油揚げ。

 それらがミックスされたカップ麺はまったく新しい味がした。

 馴染みのない風味だけと、なぜか温かくて本当に心が落ち着く。

 まるでこれから始まる僕たちの新婚生活みたいだ。

 これがきっとウチの定番となる ――僕にはそんな予感がした。


 東京モンとしては尻に敷かれっぱなしは我慢ならないのだけれど。

 親父の格言通りに頑張るしかないのだろう。

 結婚とは忍耐を知ることなのだ。


 そういえば、父から教わった格言はもう一つあった。

 それはこうである。


 夫婦の借りは全部ベッドの上で返せ。

 結論……やっぱり東京モンの方が下品なのかもしれない。


 僕は濃い味付けのツユを味わいながら一人ほくそ笑んでいた。



「なんやねん、ニヤニヤしおってからに。気持ち悪っ!」



 お互い様っしょ? 大阪モン。

 いつか緑のたぬきを食べた時、君の悪戯全てが懐かしく思えるように。

 どうか今後とも末永くヨロシクお願い致します。



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