第4話

 世知辛くなったからというのもおかしいが、母校を訪ねるのにも身分証明が必要だろうと予想した。現在の身分だけでなく、確かにこの学校の児童だったことを示す証が。思い出の詰まった段ボール箱をひっくり返し、卒業証書と卒業記念アルバムを持っていくことにした。

 そのときアルバムを開かなかったのは、時の経過を忘れて見入ってしまうのを避けたかったのと、それ以上に、集合写真を見るのが苦しかったせい。クラスの集合写真の右上、縦長の楕円に収まった篠塚美紀を見ると、悲しみや寂しさがぶり返してくるに違いない。

 途中、北川を拾ってから高速道に乗り、およそ四十五分を要して、懐かしい街に踏み入れた。子供の頃の方がよく記憶しているものらしく、次々と現れる景色のほとんどに確かな既視感がある。おかげで迷うことなく小学校に到着した。

 休みなので人がいないかもしれないと心配していたが、杞憂に終わった。校庭では子供達が遊び回っている。体育館の方からも何やら声援が聞こえてきた。でも、三つある門扉はいずれも閉ざされていた。通用口も同様で、錠が下りている。

「さて、どうやったら入れてくれるかな」

 車の置場所もなく、周りをのろのろと走りながらごちる。二週目に、小さな看板を見つけた。北川が降りて、確かめてから戻ってくる。インターホンで来意を告げるようにとのことらしい。

 車を一旦、路駐し、二人で向かう。名前と来意を告げると、しばらくしてがっちりした体格の男性教師が出て来た。年若く、僕らの在学中には当然いなかった。

 南野や北川の名前が卒業生名簿にあることは、すでに向こうが把握していた。身分証の提示を求められ、さらに二、三の質問をされて、ようやくOKが出る。それで終わりでなく、黄色の腕章を渡され、付けるように言われた。

「今日は休日のため、職員室を除く校舎内には入らないでください。体育館は区のママさんバレーの方達が使っておられますので、やはり遠慮してください。グラウンドに出るときは私に声を掛けてください」

 僕は少々がっかりしていた。昨夜の思い付きを確認するだけでなく、他にもあちこち見て回ったり、知っている先生に挨拶をしておきたかったのだが、こんなにも堅苦しい思いをするのなら、さっさと済ませた方がよさそうだ。

「中庭を見るのは僕らだけでかまいませんか」

「かまいません。帰るときは腕章を返してください」

「それと車で来たのですが、駐車場所は」

「その辺の道でかまいません。うちが通報しない限り、取締りはないも同然ですから」

 今日が初対面とはいえ出身校の先生だ。信用し、路上駐車したまま、僕と北川は中庭に足を向けた。校舎の角を折れると、すぐそこだ。ほぼ一年中、日陰になるため、土が湿っぽく、空気はひんやりしている。足下に注意しつつ、北川がつぶやいた。

「なーんか、やな対応だった」

「同感だね。悪い印象がこれ以上膨らまない内に、退散した方が賢いだろうな」

「でも、石田いしだ先生がおられるかどうかぐらい、聞いてもよかったんじゃ?」

 五、六年時の担任の名を出す北川。昨日の同窓会で聞いた話だと、まだここに勤められている。

「そうか。あとで聞く――」

 台詞が途切れたのは、目的の物を見つけたため。ひょっとしたら撤去されている可能性もあると覚悟していたが、残っていた。

 僕はその長椅子に駆け寄った。塗り直された様子もない。汚れこそ目につくが、表面塗装の加工技術の賜物か、当時のままのよう。

「来るときも教えてくれなかった目的の物って、この椅子?」

 不思議そうに見下ろす北川。僕は、自分がいつの間にか跪いていたことに気付いた。

「そうだよ。これのこと、篠塚さんはなんて呼んでいたか、知らないか?」

「……覚えてない。ただ、みんなが色んな呼び方をしてたのは、ぼんやりと思い出してきたわ」

「僕は長椅子と呼んでいた。他にも単に椅子とか腰掛けとかあったけれど、女子の多くは、ベンチと呼んでなかったっけ?」

「あぁ、言われてみればそうだった……え、ベンチって、ひょっとして」

 ぴんと来たらしい。僕は北川にしゃがむよう、手振りで促した。

「彼女はここを待ち合わせ場所に指定した。すると、『ベンチ裏』とはこれじゃないかな」

「裏というのは、このベンチの下側ね?」

「それを確かめに来た」

 僕は大きくなった身体を折り曲げ、首を捻って、ベンチの下を覗き込んだ。雨が降ったときの泥跳ねが無数付着し、乾いていた。白くなった砂を払うと、やがてそれは現れた。ベンチの裏側、ちょうど中程に白い文字で、篠塚の言葉が記してあった。長い長い年月の間、僕に読まれるのを待っていた。はっきり読めるのは奇跡かもしれない。


<南野君 好きです つきあってくれますか?

 OKだったら ここにあなたの名前を書いてね

                        篠塚美紀>


 「ここに」の箇所から矢印が伸びて、相合い傘の絵を差している。傘の下のスペースの片方は、篠塚美紀の名前で埋められていた。


「当たっていた」

 姿勢を戻し、裏返り気味の声で言う僕。北川が「私も見ていい?」と聞いてくる。同行させておいて、見るなというはずもない。小学生の僕なら、第三者には絶対に見せたくないだろうが。

 ベンチの裏を確認した北川は無言だった。静寂に息が詰まりそうで、僕は口を開く。

「彼女は白のマジックを持って、あの夜、学校に忍び込んだ。『ベンチの裏』にこれを『サイン』するために」

「昼間、学校にいるときは、先生やみんなの目があるから、実行できなかったのね……」

「恐らく」

 奥歯を噛みしめる。学校にいる間に書くことができたなら、彼女は事故に遭わずに済んだ。

「こんな告白の仕方を思い付くなんて、美紀ったら、賢いんだか馬鹿なんだか。相手、目の前に呼び出すんなら、直接言えばよかったのに」

「……それでも篠塚さんの気持ちを今、確かに感じて、受け止めることができて、よかった……と思う」

 途切れがちに言って、僕は息を深くついた。

 沈黙がいくらか続き、不意に北川が聞いてきた。「南野君の返事は?」

「返事か」

 迷うことはない。僕は財布の感触を確かめてから、学校の塀の向こうを見やった。

「近くの文房具店、横田屋といったっけ? まだやってるかな」

「多分。来るとき、同じ場所にそれらしい店が開いてたわ」

 僕はうなずき、きびすを返した。

「じゃ、ちょっと行ってくる」

 白のマジックを買いに。


――終

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白の魔法は刻を埋める 小石原淳 @koIshiara-Jun

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