Eri 04
よほど疲れていたのか、ぐっすりと眠っていた男を置いて、あたしは翌朝、翔哉のマンションを出て学校へ向かった。
今日も、やっぱり晴れ。憎たらしいくらいに、空は青い。
学校に近づくにつれて、同じ方向へ向けて道を歩く生徒の数が増えていく。
嫌味なくらいにきらきらした陽の光に、まるで溶けちゃうみたいに、あちこちから上がる生徒たちの弾むような声。
たった一晩会わなかっただけなのに、まるで十年ぶりに再開したみたいなテンションで、おはよう、を交わし合う女子たち。
無駄に大袈裟な素振りで、じゃれあって、やっぱり無駄に大きなボリュームで、自分をアピールするように笑い合う、男子たち。
なんだか、眩しい。
もう少ししたらきっと、あたしはそっち側には完全に立てなくなってしまうんだな、と思う。それが少し寂しい。でも、もう、決めたことだ。
ふと、そんな心地好い騒々しさの中に、そこだけ浮いたように、違う雰囲気を携えた空間を見つけた。
手を繋いで歩く、男子と女子。
ちょっとぎこちなく、もじもじとして、時々目を合わせては、お互い少し俯いて、どこか弱々しく、でも、完全に周りの喧騒をシャットアウトして、自分達だけの世界の中に浸る、男子と女子。
ああ、いいな。
素直に、そう思った。
あたしと翔哉には、あんな初々しさ、なかったな、とも。
池袋の夜の街か、あのマンションでしか会ったことがないあたしと翔哉。
形だけでもいいから一度、あんな風に、きらきらした陽の光の中で、手を繋いで歩けたら、よかった、な。
そう思い巡らせた刹那、お腹に鈍い痛みを感じた。
最初は小さな、疼きみたいなものだった。けど、それがどんどん、もの凄い早さで、重く、深く、鋭く、膨れ上がる。
立ってられない。
膝を突く。
心地好かった喧騒が、ざわめきに変わる。それもだんだん、遠のいていく。
そして意識が、とんだ。
まず目に入ってきたのは、クリーム色の天井と、どこか白々しい光を放つ、蛍光灯。
あたし、寝てる?
首を横に傾ける。
ベッドを囲うカーテンと、その隙間の向こう側に見える、白衣の背中。
ああ、保健室か、と気づく。
半身を起こすと、まだお腹にうっすらと、鈍い疼きを感じた。
カーテンの向こう側で誰かと電話で話していた白衣を来た人影が、こちらを振り向く。保健の、確か、恩田、という名の先生。
「今、病院に運ぶタクシー呼んだから、来るまで横になってなさい」
柔らかい声。
多分、あたしの母と同じくらいの歳。でも、母にそんな声で語りかけられた記憶は、ない。
あたしがもう一度横になると、恩田先生はベッド脇のパイプ椅子に座って、あたしの手を握った。
柔らかいな。人の手って、こんなに柔らかかったっけ?
「別に責めてる訳じゃないから、落ち着いて聞いてね」先生はほんの少し、握る手の力を強める。「あなた、妊娠してたでしょう?」
どきりとした。
妊娠の事がバレたからじゃない。
産むと覚悟したことだから、別に今さら誰に知られたところで、構わない。
どきりとしたのは、“してた”という、恩田先生の言い回し。
過去形。
つまり、そういうことだ。
「そっか、ダメだったんだ」
先生は何も答えず、もう少しだけ、手に力を込めた。それが答えになる。
「やっぱ無茶だったのかなぁ。神さまが無茶だって、言ってるのかもね」
はは、と乾いた笑い声が漏れた。
「まあでもこれで、あたしもも少し、普通の高校生を続けられるわけだ」
そう。あのきらきらした陽の光の下で、あたしもはしゃげばいい。
「相手の男も消えちゃったしね」
翔哉はもう帰ってこない。父親はいない。だから、これでいい。
「また新しいオトコ、探さなきゃ」
あの男子と女子みたいに、あたしも今度は、高校生らしく恋愛すればいい。
あの眩しさの中に、身を委ねればいいんだ。
その時すっと、先生の手があたしの頬に延びてきた。
「そんなふうに、自分の気持ちと態度をずらしてると、ホントの自分がわかんなくなっちゃうよ」
耳の奥にじわりと溶けていくような、優しい声。
薄っぺらい笑みが、あたしの顔から消えていく。
「産むつもりだったんでしょう?そんな勇気のいる覚悟が流れちゃったなら、辛くないはずない」
言いながら先生は、両手であたしの頬を包んだ。
暖かい。
その暖かさが胸に染みて、あたしの中の何かにひびが入る。
「カッコつけなくていいよ。少なくとも、今、ここでは」
とどめだ。
その瞬間、あたしの中にいろんなものが雪崩れ込んできた。
翔哉のくすんだ瞳、あたしの“主語”を受け止めてくれる笑み、あたしと同じ胸の傷、あたしを抱き締める筋肉質な腕。
声。
あたしを溶かすあの声。
味方と言ってくれた、あの。
そして、あたしの中に入ってきて、生まれた、命。
それが全部あたしの中に雪崩れ込んで、膨らんで、何かを弾けさせた。
ああ、殻だ。
それまでずっと、厳重に覆い隠して外に漏れ出さないようにしていた、あたしの本当の感情。母に壊されてしまわないために、それを閉じ込めていた胸の中にある殻。太ももの裏側にすこしだけ切れ目を入れて、弾けとんでしまわないようにしていた殻が、今、弾けた。
あたしは泣いた。
これでもかというくらい、声をあげて。
無くしたものの尊さ。
翔哉。翔哉の子。あたしの全て。
それを無くした重圧に押し潰されそうになって、いっそ、死んでしまいたくなった。
けど、あたしを支えてくれる恩田先生の暖かさが、命綱になった。
涙が胸の中の何かを一緒に流した。
感情をさらけ出すことで救われる心もあるんだと、初めて、知った。
窓からふわりと入ってくる優しくて乾いた、この5月半ば独特の風を感じて、そんな10年前の記憶が、ふと脳裏を過った。
養護教諭になった今、もし仮にあの時のあたしのような生徒が現れたとして、あたしはそのコの、命綱になれるのだろうか。
判らない。
例えばあの、パンクを地で行ってしまう危うい女の子たち。
例えば大学進学を辞めて、春から服飾の専門学校に通い出した、卒業生のコ。
少なくとも彼女たちの拠り所には、なれたのかもしれない。
今はまだ、それでいい。
彼女たちの中の、狭いようでいて広い、シンプルなようで複雑な宇宙の、拠り所であれば。
窓辺に立って、空を見た。
もうすぐ、夏が来る。
エクスペクティング・ガールズ・フェイス/ High-School Girls' Universe 3rd 北溜 @northpoint
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