Eri 03

 ヤバいとこに目をつけられて、拉致られた。

 つまりそういうこと、らしい。

 スカウトを辞める辞めない、の揉め事。

 謂れのない因縁を押し付けられて、抗って、そうなったらもう相手は強引で、有無を言わさず翔哉を連れ去った、らしい。

 過去にそうやってその連中に拉致られて、帰ってきた人間はひとりもいない、とも。

 男も男でその連中に追われ、誰にも知られてないこの場所に逃げるよう、拉致られる直前の翔哉に言われたそうだ。

 俄かには信じられないような、話。

 所詮、狭い世界で生きるあたしたち高校生には、預かり知れない世界。

 でもあたしはそれを、事実と受け止めた。

 それをあたしに伝える男の、表情や口調の中に溶ける沈んだ色の、さらにずっと奥。そこにあるくすんだ光。その光が、ぴたりと微動だにしない時、人は真実を語っているということを、あたしは知っている。そう。逆に母のそれはいつも、揺らいでいたから。

 ―――翔哉もう、帰ってこない。

 男が語った、事実。

 正直あたしは、自分で自分に驚いていた。

 突きつけられたその事実に、あたしはもっと、ショックを受けるものだと思ってた。間違いなく翔哉は、あたしの中で唯一の、大切な拠り所だった。それを無くしたことに、どこの誰とも知れない連中に奪われたことに、もっと狼狽え、嘆き、その理不尽さに憤るかと思っていた。

 でも、違った。

 何故かはわからない。けど、あたしの胸のうちは怖いくらいに凪いでいた。

 「なんだかな、ホント、間が悪いな」

 男はあたしの言葉に、訝しげに首をかしげた。

 「翔哉にさ、言わなきゃいけないこと、あったんだ。でも、そっか。翔哉はもう、戻ってこないんだね」

 「アイツに言いたいこと?」

 そう訪ねてくる男に、あたしはその言葉の意味が示すこととは裏腹な、薄っぺらい声色で返した。

 「デキちゃったんだ。翔哉の赤ちゃん」

 返してそっと、お腹に、手のひらを添えた。

 男はあたしの顔とお腹に添えられたてを交互に見て、小さく笑んだ。

 柔らかくて、でもどこか苦味を携えた、見方によっては泣いているようにも見える、複雑な笑みだった。

 「そっか」

 何かを諦めて、別の何かを見つけて安堵する、そんな響きの声。

 男は、続ける。

 「こんなことを言うのもなんだけど、アイツは、翔哉は、俺から見ても相当クズなやつだったんだよな。ほら、アイツってそれなりにイケメンだろ?女の子の気を惹いて、つけこんで、依存させて、風俗に落とす、みたいなのがアイツのセオリーでさ。オレらの界隈でもあんま評判良くなかったんだよ。まあ俺も、そんなアイツを手伝ってたから、同じようなもんだけど」

 言いながらおどけるように笑って、男はベランダに立つあたしに向きあったまま、ぺたんとフローリングに腰を降ろした。

 「じゃあさ、あたしもその、ターゲットだったのかな?」

 そのあたしの問いかけに、男は横に首を振った。

 「あんたは違うよ。絵里だけは別だって、アイツははっきりそう言ってた。今までアイツがそんなふうに女を扱うことなんてなかったから、最初は俺も信じなかったけどな」

 「そんなふう?」

 問いかけを重ねるあたしからまなざしを外して、男は虚空をじっと見つめた。

 「アイツとは中ボーん時からの腐れ縁なんだけど、アイツんちもオレんちも母子家庭で貧乏で、すげえ荒んでたんよ。特にアイツは、誰彼構わずつっかかって、それなりにケンカの勘みたいのもよかったから目立ってさ。で、そういうヤツってヤバい大人に目をつけられやすいっていうか、そんなヤバい連中に誘われてスカウト始めて、えげつない感じで女の子をどんどん風俗に沈めてくわけ。アイツは母親を憎んでて、それがそのまま、女が憎い、みたいな感じになってるところがあって、だから、ホントに鬼畜みたいなやり方だった。でもそれが、1年くらい前から、変わったんだ」

 言って男は意味深に、あたしをじっと見つめた。

 「絵里とまともな生活がしたい、稼げなくてもまっとうな商売しようと思うって、言い出すようになってさ」

 何かを回想して、それを慈しむように、穏やかに、男は笑った。

 あたしは、言葉を継げない。

 あたしが翔哉を変えた?

 ホントに?

 翔哉にとってあたしは、それほどの存在価値があった?

 そんなの、わからない。

 「とにかくさ」黙っているあたしに構わず、男は続ける。「あんたがアイツを変えたのは間違いないんだ。アイツずっと、色んな意味で危うかったから、素直に嬉しかった」

 最後に小さく、ありがとな、と男は付け足す。

 少し語尾が震えてた。少し瞳が、湿っていた。

 「で、どうすんだ?」男はそんな辛気くささを振り払うようにな感じで、言った。「ひとりでも産むか?まだ高校生だろ?」

 微かに、男の瞳の中に、あたしに縋るような色が見えた。

 ―――繋いでほしい。

 声にならない声が、あたしに届く。

 それでようやく、あたしはわかった。

 翔哉はもう戻らない。その事実に押し潰されなかったのは、あたしはあたしで、縋れるものがあるからなんだ。翔哉を繋ぐ血が、あたしの中にあるからなんだ。

 改めて、お腹に手を添える。

 「産むよ、あたし。てか、最初からそのつもりだったから。翔哉がどんなに反対しても、そう伝えるつもりだったから。ひとりでも産むつもりだったから」

 自分に言い聞かせるような感じの言葉が、部屋の壁に反響して、ぼわんと震えた。

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