02 Eri
「そうか、あんたが絵里か」
その男は、あたしを知ってた。
どこまで何を知っているのかは、わからない。
あたしをまじまじと見てから、そうやって、あたしの名前を口にしただけだから。
筋肉質な翔哉とは違って痩身の、でも背丈は翔哉よりも、ずいぶん高い男。
たぶん翔哉と同じ、20代半ばか、後半くらい。
中途半端な長髪。Vネックの黒い長袖シャツと、いくつも穴の空いたスキニージーンズ。片耳にピアス。指にはゴツい指輪がいくつも。とても、まともな仕事をしているようには見ない。やっぱり同じようなカッコをしてる、翔哉と同類な雰囲気。
「で、あんたは誰?」
何だかその男だけあたしを知っていることが癪で、あたしは問いかける。
「俺は翔哉の、そうだな、仕事のパートナー?かな」
言いながら男は後ろ手に鍵を閉めて、部屋に上がる。あたしは少し、身構える。
「ビビんなって。何もしないから」
警戒したあたしの胸中を見透かしたように苦笑いを浮かべると、男はキッチンの冷蔵庫を物色して、中から炭酸水を取り出し、ぐびぐびと一気に半分くらい、勢いよく飲み下した。
「翔哉の仕事って、何なの?」
それまで何となく、聞けてなかった翔哉の素性を、その男に尋ねてみる。
「聞いてないの?まあ、そりゃそうか」
何かを含んだような、もの言い。
「で?何?」
勿体ぶる感じにあたしは少しイラついて、声色にそれが滲む。
「まあ、スカウトみたいなもんかな」
言って男は私の横を素通りすると、ベランダに出る。一度階下を覗き込むように少し身を出してから、すぐに踵を返して部屋に戻ってくると、ばたんとベッドに横になった。
「ちょっと、寝ないでよ。いろいろ聞きたいこと、あるんだから」
「わりぃ。全然寝れてないから、1時間だけ休ませてくれ」
男は寝転がったままでそういうと、すぐに寝息を立て始めた。
ガサツ。でも、悪いヤツじゃ無い、気がする。この無防備さも相まって、そんな予感を抱く。
スカウトみたいなもの。
翔哉について、聞き出せたのはそれだけ。
スカウトと聞いて連想するのは、女の子を水商売とか風俗とかに送り込む、アレ。
違和感はない。何となく翔哉は、いわゆるまっとうな仕事をしているわけではないとは思ってた。
この際、いろいろとこの男に聞いてみたくなった。翔哉に直接ではないところに少し後ろめたさはあったけど、それでもあたしはあたしで、翔哉についてもっと知っておかなければならない事情があった。
そう思いながらあたしはそっと、あたしのお腹に両手を添える。
―――味方だから。
翔哉のその言葉に胸を抉られたあの夜から、あたしは西口公園に着くと、うすぼんやりとした夜の闇の中に、翔哉の面影を追ってまなざしを泳がせるようになった。そして翔哉もその期待を裏切らず、一日置きくらいのペースで、西口公園に現れた。
最初はどこかぎこちないやりとりだった。厳密に言えば、上ずっていたのはあたしだけだったけど、それでも翔哉はいつも、あたしの他愛のない話を、ぎこちない言葉の羅列を、あの、無垢な感じの、瞳だけが濁った笑みで、受け止めてくれた。
初めてだった。
母も、クラスメイトも、いつだって“主語”は自分だった。自分を語り、自分に向けられる愛情を求め、そして何も与えようとしない。
それを否定する訳じゃない。別にそれでよかった。受け身があたしの役回りで、それがあたしの存在価値なんだと、あたしは当たり前のように思っていたから。
でも、あたしを受け止めてくれる翔哉と出会ったことで、あたしは知ったのだ。
“主語”で語ることの高揚を。それを受け止めてくれる人がいることの、尊さを。
いつしかあたしにとっての翔哉は、あたしの日常を、役回りを忘れさせてくれる、ただひとつの拠り所になった。
「夜の池袋をブラつくのって、結構物騒だから。ここ、いつでも使って」
翔哉と出会って二ヶ月が過ぎた、高一の夏休み直前。翔哉はそう言って、このマンションの部屋にあたしを連れてきた。自宅は別にあるから、気兼ねなく使っていい、と。
言われてあたしは、翔哉に抱きついた。
新しい居場所を与えてくれたからじゃない。
二ヶ月目にして初めてだったからだ。翔哉とふたりきりで、隔離された空間に置かれたのは。
あたしは、翔哉を欲していた。手放したくなかった。ずっと近くにいたかった。だから強引に、キスした。
少し驚いて、少し躊躇うようなリアクションを一瞬見せたけど、翔哉もあたしを受け入れてくれた。
まさぐるように、でも優しく、翔哉はあたしの制服のブラウスを脱がし、ブラを外して、露になったあたしの乳首を、口の中に包み込む。
電気が走った。そんな感じだった。刺すような、でも、どこか優しい、痺れ。
そして胸からあたしの首筋まで這い上がってきた翔哉の舌が、あたしの耳元で止まる。
「絵里・・・」
そんなふわりと浮いたような声の響きで、あたしはあたしの名前を、初めて聞いた。
溶けそうだった。
でも、翔哉の手があたしのスカートに伸びたとき、そんな感覚は全部吹き飛んだ。
「やっぱ、ダメ」
自分から求めたくせに、肝心のところで、あたしは翔哉を拒んだ。
太ももの裏側の傷跡が、ひりひりと痺れる。
これを、見られるわけにはいかない。直感的にそう思った。
「だいじょうぶ」
その声色にまた、溶けてしまいそうな感覚が戻ってくる。その隙を見計らったように翔哉は、あたしの抵抗を力強く、でも柔らかく押し退けてスカートを下ろすと、太ももの傷を見つけた。
幾筋にもなった傷跡を、翔哉が指でなぞる。ひりひりとした麻痺したような感触が、翔哉の指先の熱で消えていく。
温かい。
「ホントの自分が自分の中で膨れ上がって破裂する前に、ここから少しずつ、逃がしてたんだろ?そういうの、わかるよ」
ほら、と言って翔哉は、シャツを脱いで自分の胸元を指差した。
あたしの太ももに刻まれたものと同じ、無数の切り傷。
「だからいったじゃんか。絵里と俺は一緒だって」
すごく嬉しかった。生まれて初めて、救われた気がした。
あたしは翔哉を強く、抱き締める。
翔哉も強く、でも優しく、あたしをその筋肉質な腕で包む。
その日あたしは、翔哉のオスを受け入れた。
夕方の橙が、空を包み始めてた。
あたしはマンションのベランダの手すりに顎を乗せ、エントランス辺りを見下ろす。
もうずいぶん長い間、そうしてる。
「待ってんのか?アイツのこと」
背中に声がぶつかった。たぶん、寝入っていたあの男の。あたしは何も答えず、エントランスをぼんやりと見つめ続ける。
「あいつはもう、ここへは来ないよ」
その言葉に、あたしはゆっくりと男に向き直った。
「やっぱ、捨てられてのかな、あたし」
「そういうんじゃないんだ」
「じゃ、どういうの?」
胸の内側は、何だか嫌な予感で、さざ波だってた。でもあたしの口から漏れる言葉はどこか冷めてて、どこか、薄っぺらかった。薄っぺらく発しないといけないような気が、何故か、した。
「来ないと言うか、もう、来れないんだ」
男はあたしの向こう側の、夜の藍色が降り始めた空を見ながら、呟くように言った。
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