エクスペクティング・ガールズ・フェイス/ High-School Girls' Universe 3rd

北溜

01 Eri

 今のこの五月の半ばって、梅雨入りした六月半ばより、確実に暑いよな。

 なんてどうでもいいことを、マンションのベランダの手すりに顎を乗せながら、あたしはタバコをふかして思う。

 あ、やば。

 今は吸っちゃダメなんだ、と思い出し、足元に置いていた灰皿でそれを揉み消してから、また手すりに顎を乗せ直す。

 今日も晴れ。ここんとこ、ずっと。

 無駄に眩しい太陽と青い空は、今のあたしの胸の中をあえて真逆に表現してるようで、なんだかちょっとムカつく。

 ちくりと肌を刺してくるような渇いた暑さも、やっぱり、イラつイラする。

 あたしは顎を手すりに乗っけたまま、裾上げした短い制服のスカートの両端を摘まんで、はたはたと扇ぐように揺らした。でも、焼け石に水。涼しさなんて、これっぽちも感じない。

 いっそ脱いじゃおっか、と思う。

 まあ、この部屋でなら、別にそれもありかな。

 この部屋。

 翔哉しょうや名義で借りてるという、翔哉の自宅とは別の、マンションの一室。

 ここにはあたしと翔哉しか、入れない。と、聞いてる。ホントんとこは、わかんない。でも少なくとも、今までここで、翔哉以外の誰かを見たことはない。

 思えばあたしは、翔哉のホントの正体というか、素性というか、人となりを知らないな、と今更、翔哉との出会いを思い返す。


 あたしには、父親の記憶がない。

 物心ついた頃にはもう、あたしは母とふたりきりだった。

 ―――あんたを産んだから、あの人は出てった。

 とか。

 ―――産まなきゃよかった。

 とか。

 いわゆる水商売を生業にしている母は、悪酔いして朝方に帰ってきた日は決まって、そう嘆いた。あまりにも幼い頃からその言葉を何度も浴びせられてきたから、それが意味するところの残酷さを、あたしは今でも実感することができない。

 そしてそんな言葉を浴びせた後で、必ず母は、泣きながら詫びるのだ。

 ―――本当は違うの、絵里。あなたは私の全てなの。あなたがいなきゃ、私は生きていけない。

 散々泣いて喚いて、あたしに縋り、最後はいつも、こんなふうに締め括る。

 ―――だからお願い。私と一緒に死んで。

 何が、だから、なんだか。

 ホントに死ぬ度胸なんて、これっぽっちもないくせに。

 そんな母のせいでいつからか、あたしの心はずっとひりひり痺れたままで、痛さって何か、今でもよくわかってない。

 これって、いずれは身体も痛みを感じなくなるんじゃない?

 ふと、そんなことを思った。

 そうなったら、きっと素敵だ、とも。

 なぜ素敵なんて思うのか、その理由はわからない。

 でもとにかくあたしは深夜、母が仕事で家を空けると、誰にも見つからないであろう太ももの裏側をカッターナイフで切りつけて、心と一緒に身体の痛さを失っていないか、確かめる。

 それがいつしか、あたしの日課になった。


 そんな日々が、ずっと続いた。

 そして、すぐ働けばいいと言い張っていた母に抗って、保健所の職員を上手く利用して高校に進学した頃から、あたしは母を避けるようになった。

 学校が終わった後、母が仕事で家を出る深夜まで、あたしの居場所は最寄りの駅から二駅先の、池袋の街になった。翔哉と出会ったのは、その頃だ。


 学校が終わると夜中までふらふらと、池袋の街を歩き回ることが習慣になっていた。

 あてもなく東口から北口へ抜け、西口の繁華街をぐるぐるまわり、最後は西口公園で落ち着く。大抵の場合、そこがゴールになる。

 池袋の街は、いろんな顔を持ってる。それをひとつひとつ確かめるように、夜の街をたゆたうことが好きだった。新宿の西と東ほど、バカでもわかるように単純じゃない池袋の街の複雑なメリハリが、あたしにとってはとても魅力的だった。


 ゴールデンウィーク直前のその日、いつものようにぐるっと街中をひとまわりして最後に落ち着いた西口公園で、ナンパしてくる連中をガン無視し続けながらスマホをイジっていた時、不意にあたしの隣に誰かが腰かけてきた。それが、翔哉だった。 

 新手のナンパの手法だろうと、やっぱり無視を決め込もうとしたけど、翔哉は上半身だけをすっとあたしの前へ滑り込ませると、じっとあたしを見た。

 「やっぱり、膜がある」

 あたしの瞳を覗きこんで、そんな、訳のわからないことを言う。

 それがちょっと気持ち悪くて、怖くもあって、あたしは無視を続けたけれど、翔哉はめげない。

 「ほら、一緒一緒」

 言って、自分の瞳を指差す。

 少し強引だったのと、確かに不思議な感じにくすんでいた翔哉の瞳を目の当たりして、あたしは思わず、うん、と答えてしまった。

 「だろ?」

 翔哉は笑った。無垢な感じの、濁りのないきらきらした笑みだった。

 瞳を覆う膜みたいなくすみだけが、異物みたいに浮き上がって見えた。その違和感がなんだかあたしの心を惹いた。

 「遠くから見てさ、何て言うの、湧き立ってるオーラ?みたいなのがさ、俺と同じじゃんって、思って」

 頭を撫でられる。唐突だったから、あたしの身体は思わずびくんと震える。

 「大丈夫。怖がんないで。俺はきっと、味方だから」

 味方だから。

 それが、全てだった。

 味方なんてずっといないと思ってたあたしに、その言葉はずるい。

 ピンポイントに、刺さる。抉られる。

 そんなあたしの胸中を見透かしたのか、全く意に介していないのか、どちらとも取れない不思議な感じで笑みを深くしたかと思うと、翔哉はすっと立ち上がり、そのまま夜の街の暗がりの中に消えていった。

 追いかけたい衝動に駆られそうになった。けど、そっとしておかなければいけないような尊さも、その背に感じで、結局あたしは黙って見送った。

 あたしと翔哉の、それが、始まりだった。


 そんな回想をしながら、空けっぱなしの窓から部屋の中に入る。

 殺風景。それがぴたりと嵌まる部屋。

 12畳のワンルームに、シンプルなベッドと安物のローテーブルがあるだけ。

 足りないのは、翔哉の姿だ。

 もう1週間、ここに姿を見せない。いままでそんなこと、なかった。

 あたしがようやく決心して、翔哉に告げようとしていることを告げられない。

 それが、もどかしい。

 と、思ってる矢先、ドアががチャリと開いた。

 翔哉かと思った。が、違った。

 何かから逃げるように身体を滑り込ませてきたのは、見覚えのない男だった。

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