最終話 もう一つの幸せの貯金通帳

2019年 10月1▲日(日曜日)  晴れのち曇り

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 今日初めて、幸せの貯金通帳に記帳した。

 私たち夫婦のたった一人の孫である由美が、結婚してから記帳している幸せの貯金通帳を、今日から私たち夫婦も始めることにした。

 貯金通帳の趣旨はひ孫である幹央から説明を聞いた。とても素晴らしことだと思った。日常の細やかな生活の中に、まるで宝石の原石を見つけるような、そんな喜びを見つけて、それを記録に残して行くことは、自分の喜びと共に、それを与えてくださった周りの人たちへの感謝の気持ちでもあるので、こうしたことを考えついた由美のことを誇りにさえ思った。

 でも、私たち夫婦がこの幸せの貯金通帳を始めるきっかけは、とても悲しい知らせと一緒に私たちのもとに運ばれてきた。ハリーポッターならフクロウだけど、私たちにそれを届けに来たのは、最愛のひ孫の幹央だった。

 今日、私たちのたった一人のひ孫である最愛の幹央が、なんの事前連絡もなく突然訪ねて来た。これが気まぐれの訪問なら私たちには、どんな高価なプレゼントよりも嬉しい出来事だが、この突然の訪問には唯ならない大きな理由があることは、玄関に入って来た幹央の表情を見た瞬間に容易に察することができた。それでも、たとえそれが悲しい報せを告げるためものであったとしても、やはりひ孫の訪問は素直に嬉しかった。何しろ、今私たち夫婦が肉親と呼べるのは、孫の由美と、ひ孫の幹央の二人きりなのだから。

 一人娘の由紀子が結婚をして、女の子を一人産んだあとに、若くしてこの世を去り、たった一人残った私たちの血縁を持つ孫の由美が、幹央という名の元気な男の子を産んでくれた。

 そのたった一人のひ孫の幹央がわざわざ訪ねて来てくれたのだ。どんな理由があるにしても嬉しく無いはずがない。

 幹央は少し見ない間に随分と大人びていて、玄関のドアを開けた瞬間には、すぐに誰が立っているのか判らないほどだった。ひ孫がこんなに大きくなっているのだから、自分たちも歳を取るはずだよね。

 幹央は今日の突然の訪問の理由を、お母さんの命を救うためだと説明をした。聞けば由美が脳動脈瘤のために入院をしているという。しかも一刻を争うほどの病状で、一秒でも早く手術をしなければ命に係わるような深刻な状態に陥ってしまう状況だというのに、なんと当の由美本人がこの手術を拒み続けているという。すぐには信じられない話だった。

 さらに詳しく幹央から話を聞いているうちに、私たちは娘の由紀子のことを思い起こしていた。三十五歳の若さで、まだ十歳だった娘の由美を残して、あの世に旅立ってしまったあの娘のことが、由美の今の状況に重なってしまって仕方なかった。

 愛娘の成長を見届けることも許されず、また自身の人生さえも断ち切れてしまった、そんな由紀子の悔しさと虚しさを思うと、今でも昨日のことのようにあの時の悲しみが私たちの心を縛りつけてくる。

「こんな悲しい思いは二度と味わいたくないのだ」と、喉がかき切れるほどの大声で叫びたい。

 娘に先立たれ、由紀子の意思を継いで由美の継母になった、私たちにとっては実の娘にも等しい加奈子さんが、あろうことか不慮の事故で呆気なくこの世を去ってしまった。

 こんなことを考えてはいけないのだけれど、さすがにこんな大きな不幸が続いてしまうと、自分たちは幸せから見放されているのではないか、いやもっと深刻に、不幸を背負ってしまったのではないかと不安に思ってしまって、長い間眠れない夜が続いた時期もあった。

 こんな身を裂くような辛くて苦しい日々からやっと解放されたと思っていたのに、まさか孫の由美までが、私たちの悲痛な願いの向こう側で、自ら死を選ぼうとしているなんて、私たちはなんのために今日まで生きてきたのだろうかと、八十年を過ぎる日々の足跡が、ただの空虚なものになってしまったような思いだった。

 由紀子が亡くなった日、私たちは病院から「危篤状態だ」との連絡を受けて、由起子のもとにすぐに駆けつけた。

 私が病室に到着した時には、虚ろではあったが由紀子の意識はまだ僅かにあった。

 まだ十歳だった由美は覚えていないかもしれないけど、この命が事切れる瞬間まで、由紀子は必死で生きようとした。生きることを諦めてはいなかった。

 私が由紀子の口元に耳を持って行くと、かすかに聞こえるくらいの、文字通り虫の泣くような小さな声で、けれどしっかりとした口調で私にこう言ったのだ。

「もし今、誰かの不幸と引き換えにすることで、自分の命の時間を少しでも引き延ばすことができるなら、私はなんの躊躇(ためら)いもなく、それを望みたい」

 由紀子はそれほど生きることに執着をしていたし、死ぬことを恐れていた。

 それが、人の不幸の上に成り立った一時的な延命だったとしても、生きてさえいれば、与えてもらった延命分の全てをかけて、この代償を支払うことができると考えていたのかもしれない。

 由紀子はなぜ、こんなにも生きることに執着をしていたのだろうか? そりゃあ、誰でも死ぬこと受け入れることはできないし、怖いとも思うが、それでも他人の不幸を代償にしてまで延命を望むだろうか? 由紀子の危篤時のこの命の叫びと呼んでいい訴えは、娘の由美をこの世に残して死んでいくことを、自分自身で許せなかったのだろうと、私たちは思っている。

 たった一人の娘が歩んで行くこれからの未来を、自分の目で見て、時には厳しく、またある時には包み込むような優しさで支えて行くことができなくなることを、由紀子は一番悔しいと感じていたんだと思う。

 由美はまだ十歳。由美の未来は由美自身のものだけれど、その未来を光溢れる方向に導くことの手伝いをするのは母親である自分の役割だと、由紀子は考えていたのだと思う。私自身が由紀子に対してそうであったように、あの子もきっとそう考えていたのだろうと思う。

 でも、そんな由紀子の命の叫びは天には届かず、由紀子は三十五歳の若さで十歳の一人娘を残して、天に召されてしまった。

 あの世という世界も、天国という国も決して存在しないと、私たちは昨日幹央の話を聞いた時からそう思い直している。それまで一年毎に、いや一分、一秒毎に確実に死に近づいている私たちにとって、天国に行くことは心の拠り所だった。死を迎えることは確かに悲しくて怖いことだけれど、天国に行けば由紀子に会える。そのためには地獄ではなく天国行けるように真っ正直に日々を送らなければと、由紀子が亡くなったその日から昨日まで、ずっとそれだけを考えて生きてきた。

 きっと天国から由紀子がみんなのことを見守ってくれている。私のことなどどうでもいいが、最愛の娘の由美のことは四六時中見守っていてくれているだろうと、ごく当然のこととして、なんの疑いもなくそう信じていた。

 けれど、昨日由美の病気のことを聞き、由美が手術を頑なに拒否していることを知って、私たちは天国の存在を否定した。

 もし由紀子が生きていたらなら、今の由美の行動に対して、決して賛成はしないし喜びもしないだろう。その反対に激怒して、由美の頬を打ったかもしれない。

 人の不幸を代償にしてまでも生きたいと願った、由紀子の生に対する執着心が、自ら死を選ぼうとしている由美の考えを決して許さないだろう。

 由美、あなたは今、もしこの先、自分が死ぬことで、その命と引き換えに隆央さんや幹央の幸せな未来の到来を願うとか、天国から二人のことを見守りたいと考えているなら、それは絶対に間違っていると、私たちは思う。

 なぜなら、あれほど、由美、あなたを愛したあなたのお母さんが、もし、もしも天国からあなたを見守っていてくれていたなら、由美をこんな重い病気にさせなかったと思う。そして、例え病気になることが、どうしても避けられない運命だったとしても、実の母親なら、娘がこの病気から逃げて死を選ぶような方向ではなく、病気と正面から向き合い、全身全霊をかけて闘う方向に必ず導いたはずだから。

 由紀子は生きたがっていた。天国から娘を見守ることなど微塵も望んではいなかった。生き続けて、自分の目で、自分の手で、由美の幸せな人生を確認し続けたかったのだ。

 生に執着した由紀子が、最愛の娘を自分と同じように、まだ十代の子供を残してあの世に召されることを望むことは絶対にない。

 由美、あなたは優しい人だし、強い人でもあると思う。十歳にして実の母親を亡くし、そのあと、実の母親のように由美のことを愛してくれた、まだ若かった継母の加奈子さんや、実の父親までも亡くした後も、あなたは強く生きてきた。その強さはどこから湧き上がってきていたのだと思う? それは、隆央さんや幹央の由美に対する強い愛があったからでしょう。

 そして、二人の愛情に対して、由美がそれ以上の愛情を返そうと、毎日二人のことを考えて美味しい食事を作り、身の回りの世話をしてきたからでしょう。

 今あなたのお祖父ちゃんやお祖母ちゃんが言いたいことは、由美、もうあなたには解っているよね。だって、由美は幼い頃から頭の良い子供だったもの。

 そう、愛情は決して一方通行では成り立たないことを、私たちのこの世でたった一人のかけがえのない孫に伝えたい。

 そして、最後にひと言、あなたのお祖父ちゃんとお祖母ちゃんからの切なる願いを伝えたい。

 決して私たちよりも先に死んだりはしないで欲しい。由紀子が亡くなった時の、あの全身を引き裂かれるような悲しみは二度と味わいたくないの。由美がこの世から消えてしまうことなど、私たちには絶対に耐えることができないから。


 曽祖父母が書いてくれた「幸せの貯金通帳」を読み終えて、肉親の愛情と優しさ、そして苦しさを感じていた。

 これを読んで、お母さんはどのように感じるだろうか?

 曽祖父母の切なる願いを、どうか受け止めて欲しい。僕はそう強く願いながら、ノートを閉じた。続いて、美奈子おばさんの「幸せの貯金通帳」の表紙を開いた。


2019年 10月1▲日(日曜日)  晴れのち曇り

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 日々秋が深まって行くのを感じている今日この頃です。

秋の訪れは、それが深まって行けば行くほどに、人恋しさを強く募らせて行くことを、毎年この季節になると感じています。

 まさか、この歳になって、男性に対して胸が痛くなるような人恋しさを判じることは無くなったけど、異性、同性を問わず、人を恋しくなる気持ちは、どうやら年齢には関係はないようです。

 若い頃、特に学生の時や就職したての頃には、憧れの人や好意を抱いた男の人のことを思い浮かべることが多かったけど、今は、離れて暮らす母のことや、母と離婚したあと、二度と会うことのなかった父のことを、「元気にしているだろうか?」とか、切ない気持ちで思う浮かべることが多くなって来ました。

 そして、ここ数年は、亡くなって十五年経った姉のことを、頻繁に思い浮かべるようになっています。

 そんな折、突然由美ちゃんの息子さんの幹央君から電話がかかってきて、お願い事があるので至急会って欲しいと言われました。血の繋がりはないけど、由美ちゃんは私の紛れもない姪だし、幹央君は由美ちゃんの一人息子さんです。

 姉と繋がりのある人に会うのはとても嬉しくて、また、久しぶりに会う幹央君の成長振りを見るのも楽しみだったので、私は二つ返事で了解をしました。

 久しぶりに見る幹央君は、由美ちゃんの良いところと、隆央さんの良いところの両方をバランス良く受け継いでいて、とてもイケメンな青年(今はまだ少年と呼んだ方がよいのかな?)に成長していました。姉が生きていたら、きっと自慢の孫になっていたことでしょうね。

 その幹央君から聞かされた由美ちゃんの病気のことは、とてもショックでした。

私は、由美ちゃんの実のお母さんのことも良く知っているし、継母は私の実の姉です。だから由美ちゃんのことは姪というよりも、妹のように思って接してきました。

実の母親の内藤さん(今でも私はこう呼んでいる)が、あんな若さで亡くなった時、お通夜、告別式の間中、私と姉はお互いの肩を抱き合い泣き続けました。特に姉にとっては肉親のような存在でしたので、その悲しみは心の一部をもぎ取られるように辛かったと思います。傍から見てもはっきり判るくらいに姉は悲しみに打ちひしがれていました。

その姉が、突然、内藤さんが残した一人娘の由美ちゃんの母親になると言い出したのは、内藤さんの四十九日の法要を終えた、その日の夜のことでした。

「私は、由美ちゃんの母親になる」

 母と三人で夕食の卓を囲んでいる時に、なんの脈略もなく突然そう宣言、そうそれはまさに宣言するように、姉は少しの揺るぎも見せずきっぱりそう言ったのです。

 私と母は、あまりにも突然のことに驚いて、申し合わせたわけでもないのに同時にお互いの顔を見合わせたのでした。

 亡くなった人は、四十九日を境に、この世からあの世に昇っていくと言われていますが、もしかしたら内藤さんの霊がまだこの世に未練を持っていて、姉の身体の中に降臨してこの言葉を言わせているのではないかと、一瞬本気で戦慄を覚えたほどでした。

 姉の中では、由美ちゃんを内藤さんの代わりに育てて行くことは、使命というか、すでに神様によって定められた運命のように、当然のことだったのかもしれないと、今になってあの当時のことを思い起こしてみるとそう思えてくるのです。それほどまでに姉は、由美ちゃんの母親になることに微塵も疑いも抱いていませんでした。

 けれど、姉の強い思いは一方的なものなので、予想はしていましたが、はやり現実はそんななま優しいものではなく、血の繋がりのない、しかも最もナイーブな思春期の女の子との心の交流には、かなり苦労をしているようでした。

 戸籍的には由美ちゃんの母親になれた後も、姉は実家に帰って来るたびに、口では「由美ちゃんは可愛くて、本当に良い子なのよ」としきりに褒めていましたが、たまに吐くため息には、心の中に鉛のような重いものが潜んでいることを、私と母にしっかり気づかせていました。

 それでも、姉からは一度として由美ちゃんに関する悪口や愚痴を聞いたことはありませんでした。姉の心の根底には揺るぎのない由美ちゃんへの愛情が、まるで内臓の一部のように不随筋として存在していたのだと思います。

 内藤さんから引き継いで由美ちゃんを無事に育て終え、やがて由美ちゃんが最愛の人と結ばれることを、姉は心から望んでいました。

 自分自身で意識はしていなくても、意識のどこかに、由美ちゃんを幸せにするという使命感のようなものを背負っていたのではないかと思います。由美ちゃんの結婚が決まった後に初めて姉に会った時、姉の表情が大きく変わっていたのを、今でも強い印象を持ってはっきりと思い出すことができます。

 具体的に言うと、すごく柔らかい表情になったというか、とにかく優しくなったという印象でした。表現は古いかもしれませんが、金平糖から角が無くなって、甘くて丸い飴になったような、そんな変わり方でした。

 私も招待をしてもらった由美ちゃんの結婚式の時にそれをいうと、姉は笑いながら「歳を取ったからよ」と言っていたけど、自分でも認識をしているような笑い方だと私は感じました。

 姉が継母となってから、ずっと長い間、姉と由美ちゃんの関係は決して良い状態ではなかったと、傍から見ていた私にさえ判るくらいにお互いの気持ちが、大河の対岸を歩いているように決して交わることがないまま、時間だけが悪戯に過ぎているような感じを受けていました。

 その間、私は姉に何度も忠告まがいのことを言いました。

「お姉ちゃんがこんなに努力をしていても懐かないんだから、もう無理をしてあの子に合わせることないじゃないの。こんなはずじゃなかったと、さっさと離婚を宣言しちゃえば」

 自分が継母のことを蔑ろにしたから、継母と父親が離婚することになったと知れば、あんな生意気な娘でも少しは反省するし、歩み寄ってこようとするんじゃないのとも付け加えました。

 でも姉は、私の忠告(悪口ではなく、あくまでも忠告だと思っている)に対しても、ずっと笑顔を浮かべたまま、ただ黙って聞いているだけでした。

「その余裕はどこからくるのよ?」

 そんな姉の落ち着き払った態度に、私はつい苛立ってそう言ってしまったのです。

「由美ちゃんが私に懐かないのは当然なことなのよ。だって私は由美ちゃんの本当の母親じゃないんだもの。この事実はどんなに長い時間が経っても、どんなに弛まぬ努力を重ねても、絶対に覆すことができないことなの。私は最初から由美ちゃんの母親になろうなんて大それたことは願っていないのよ。そんなこと嘘臭いし、絵に描いたような世界のことでしょ」

 姉はそう言い切ったけど、だったら次の疑問が湧き上がってくるのは当然のことです。

「だったら、どうして結婚をしたのよ? それに、なんであんな子の世話を細かく焼くのよ。お姉ちゃんがどんなに尽くしたって、あの子は決して有り難いとは思わないわよ。それどころか迷惑だと感じているかもそれないわよ」

 私の言葉は、さらに意地悪の度合いを増して行きました。

「きっと美奈ちゃんの言う通りだと思う」

 素直に頷きながらも、姉は笑顔を浮かべたままでいました。

「だったら、決心をしたら」

「私は、今のままで十分満足しているのよ。同じ屋根の下で由美ちゃんの世話ができることが嬉しいの。だって、私がやっていることは、内藤さんが生きていたら、きっと由美ちゃんにしてあげていたことだもの。たとえ由美ちゃんが有難がっていないとしても、私がやっていることは、必ず由美ちゃんのためになっていることだと信じているから。私はそれだけで良いのよ。私は、内藤さんの代わりに由美ちゃんの世話をするために結婚をしたんだもの。だから、面倒を見られるだけで十分に嬉しいの。でも、美奈ちゃんが私のことを心配してくれる気持ちも十分に嬉しいのよ。ありがとうね。持つべきものは、姉思いの優しい妹よね」

 内藤さんとの結婚に対する姉の決意と腹の括り方が、半端なものではないことが解ってから、私はもうこのことについて、一切口にしないと決めました。

 古い言い回しかもしれないけど、春になり雪が溶けて、凍っていた河が流れ出すように、由美ちゃんの結婚がきっかけとなって、姉と由美ちゃんはやっと心が通い始めたようだと私は感じていました。姉の由美ちゃんに対する態度はずっと変わっていなかったから、由美ちゃんの受け取り方が変わってきたんだろうと、私なりにそう理解していました。

 姉は、秋本さんと結婚をしてからも自分の子供は産まず、内藤さんの娘の由美ちゃんを無事に育て上げることだけに自分の一生を捧げることに、結果的になりました。でも、それは姉の人生の目標を果たしたことでもあったのだから、考え方によっては、決して長いとは言えない人生だったけど、幸せな一生だったと言えるかもしれないと、今はそう思っています。

 もし、姉に心残りがあるとしたら、それはきっと由美ちゃんの子供、自分にとっては孫をこの手に抱くことが叶わないまま、この世を去ってしまったことだと思います。

 由美ちゃんとは、由美ちゃんが小学生の時に継母として家族の一員になったわけだから、

赤ちゃんとしての由美ちゃんを抱いた経験がない分、姉は孫をこの手に抱くのを、とても楽しみにしていたことは容易に想像ができます。

 由美ちゃんと相澤さんとの間に生まれた孫は、生まれた瞬間からその子の成長を見守ることができる存在として、姉にとっても初めての経験だし、特別な思いがあったのだと思います。

 だから、由美ちゃんが懐妊することをすごく楽しみにしていたし、願ってもいました。でも、その願いも叶わないまま交通事故に遭って、あっさりとあの世に行ってしまいました。姉は、残念な、無念な思いでいっぱいだったと思います。

 だって、本当にこれからでしょう。姉が由美ちゃんの母親として、孫にとってはお祖母ちゃんとして、やっと家族の一員になって日々を送れるはずだったのですから。

孫の無理なおねだりに応えて、由美ちゃんに、「おばあちゃんは本当にこの子に甘いんだから」と、軽く叱られることも楽しみにしていたんじゃないかなと思います。

 二人だけでは上手くコミュニケーションが取れない場合でも、ここにもう一人加わることで、上手く回り始めることがあります。姉としてはこのことにも期待をしていたのかもしれませんね。

 そんな姉の思いは叶えられませんでした。最後まで姉は由美ちゃんの継母のままで、決して長くない一生を終えてしまいました。

 内藤さんが亡くなった後に、まるで内藤さんの第二の人生と自分の人生を重ね合わせるように生きてきたんだと思います。内藤さんが生きていたら由美ちゃんにこんなことをしてあげただろう、内藤さんだったらこんなアドバイスをしただろうと、そればかりを考えながら日々を送ってきたのでしょう。

妹の私から見ると、ずい分窮屈で面白味のない人生のように感じられますが、幸福感や喜びの尺度は人それぞれに違うので、姉の価値観からすれば、姉は幸せな人生を送ったのだと思います。それが証拠に、結婚をしてからの姉の顔を思い起こす度に、笑顔の姉しか浮かんできません。私の中の幸せの定義は、笑っていることなので、たとえ涙を流していたとしても、口元が笑っていれば、それはうれし涙なのだと感じてしまうのです。

姉があんなに望んでいた、内藤さんの代わりに由美ちゃんのお世話をするということは、由美ちゃんの目から見て、果たせたと思いますか? 実の母親が生きていたらやってくれたであろうこと、やって欲しかったことを、継母である姉は十分にやってくれましたか?

姉のことは好きでしたか?

姉のことを思い出してくれることはありますか?

姉が由美ちゃんに残してくれたものはありますか?

姉はあなたの心の中に今も棲み続けていますか?

由美ちゃんの病気のことを幹央君から聞かされた時、私は改めて由美ちゃんが姉の娘だったことを認識しました。そして、当然だけど私の姪だということも、です。姉はもうこの世に存在しないけど、今、この世界で、しかもこんな近い場所で、由美ちゃんと私はちゃんと生きて、毎日の生活を送っています。だからこそ、もっと叔母と姪の交流をしないといけませんね。

せっかく、姉が長い時間をかけて築いてくれた関係と、繋いでくれた縁だから、二人が疎遠になってしまったら、実のお母さんの内藤さんも、継母である姉も悲しんでしまうよね。

由美ちゃん、私はあなたの叔母です。少し頼りないかもしれないけど、由美ちゃんよりは人生経験だけは長いから、どうぞ頼ってきてください。

世の中に、母方の叔母は私だけだし、私にとっての姪は由美ちゃんだけですから。

たった一人の叔母として、私は由美ちゃんにはっきり宣言します。

「私より先に死んだら絶対に許さない!」

 これから幹央君は難しい年齢になって行くと思います。思春期の男の子のことなら、私は本が書けるくらいに色々と経験してきたから、もし、幹央君のことで悩むことがあったら、その時は迷うことなく私に相談をしてください。きっと役に立つアドバイスができると思います。

 でも、先日会った幹央君を見る限りは、そんなに難しい状態になることもないかなと思いましたけど。

 色々あったけど二人の息子も無事に大学を卒業して、経済的にも独立をしました。それでも私にとっては、二人はいつまで経っても心配な子供のままです。

 でも、絶対に間違ってはいけないことがあります。それは、どんなに頼りなくて心配でも、子供は決して母親の付属でも、所有の存在でもないことを十分に認識すべきだということです。

確かに子供は十か月もの間自分の身体の中で育ち、生まれて来た後も母親の庇護の中で育って行きます。この時期母親の愛情、つまり母性がなければこの子たちは無事に成長して行くことができません。乳児たちの命は母親の愛情によって育まれて行くと言っても過言ではないと思います。

子育ての苦労を一番知っているのも母親だし、だからこそわが子の愛おしさを、苦労の代償として受け取るのも母親ですよね。よく、子供は五歳までのうちに親に対して一生分の恩返しをすると言われます。生まれてからの時間の経過の中で、可愛い目で母親の姿を追うようになり、母親の姿が自分の前から見えなくなると泣き出してしまうようになります。

そして、全てを母親に依存していた時期を経て、笑うようになります。その笑顔はまさしく天使そのものです。無邪気な分だけ強力な癒しの力を持っています。だから、どんなに育児に疲れ果てた時でも、母親はわが子のこの笑顔という特効薬を飲んでしまうと、たちまち全身の疲れがすぅーと消えて明日への力がみなぎってくるのです。この気持ちはもちろん母親である由美ちゃんにも解るよね。

でもね、だからこそ勘違いしてしまうんだと思います。実際に私もそうでした。長男が高校生の時に道を逸れるような行動を取るようになり、この息子の更生に、私なりに色々と手を尽くしてきたのだけど、全く効果を見出すことができないどころかますます酷くなり、悪さをしては警察に補導されて、私が警察署に引取りに行くという繰り返しが続くようになりました。

その頃の私の頭の中は、長男の更生のことでいっぱいでした。あまりにいっぱいすぎて、針で刺したならば破裂してしまうんじゃないかと思えるくらいに、他のことは何も考えられないでいました。

このことを考え出してしまうと、考えがどんどん暗くて深い底の方に沈んで行き、ヘドロのような泥の中に思考の両足を取られてしまい、もがいても、もがいても抜け出せない状態に陥ってしまうのが常でした。

主人に相談をしても、「男の子なんだから、多少手に負えないくらいで良いんだ」と、無責任なことを繰り返すだけで、私の話には取り合ってもくれませんでした。そんな状態でしたから、相談する相手もいなくて、私は自分の考えの呪縛で身動きが取れなくなってしまうところまで追い詰められていたのです。

ある日、私は、息子を殺して自分も死んでしまえばどんなに楽になるだろと考えるようになりました。そう考え始めたら、こうすることが最善の方法だと思えてきて、「このままだったら、あの子はとんでもない事件を引き起こしてしまい、取り返しのつかないことになってしまう」という恐怖感に取り憑かれて行ったのです。

この子には明るい未来なんて望めない。それならいっそのこと、この子を殺して自分も死のう、それがこの子のためにも一番良い方法だと考えたのです。

この子もきっと悪いことをしていると認識をしていながら、自分ではどうすることもできずにもがき苦しんでいるんだと、私は勝手にそう思い込んでいました。

思い詰めて、思い詰めて、ある日私は越えては行けない境界線を越えてしまいました。

その日は、無理やり息子を一泊旅行に誘い出していて、昼間観光をして、宿泊は奮発をして高級な老舗の旅館を選びました。ゆっくり温泉に浸かったあと、食べきれないほど沢山の豪華な料理がテーブルの上に並んだ夕食を二人で食べました。私は久しぶりにお酒も飲みました。

これから決行しようとすることを考えると、素面のままでは居られなかったからお酒の酔いを借りようとしたのです。でも、いくら飲んでも少しも酔えなかった。それよりも、私の恐ろしい企みなど全く知らないで、美味しそうに料理を平らげて行く長男の様子を見ていたら、急に涙が溢れてきて、不覚にも私は号泣をしてしまいました。

そうしたら息子が優しい声で、不意にこう言ってくれたのです。

「おふくろ、もうそれくらいにした方が良いんじゃないか。日頃殆ど飲むこともない酒なんか飲むから、泣き上戸になっちゃうんだよ。それにそんなに飲んだら身体にも良くないだろ」

 家の中では顔を突き合わせれば口喧嘩ばかりしていたから、こんな優しい息子の言葉を聞くのはいったい何年ぶりだろうと思ったら、また新しい涙が溢れてきました。

「珍しくあんたが優しいことを言うから、泣き上戸に拍車がかかってしまったじゃないの」

 口ではそんなふうに言ったけど、本当は長男が心の芯の部分では、まだ幼い頃と変わらぬ優しさを持っていたことがとても嬉しかったのです。

 その夜は、七、八年振りに布団を並べて寝ました。そのあとのことがあるから、私は寝た振りをしたまま息子が完全に眠りにつくまで、じっと待っていました。あの子は小さい頃から寝つきが良くて、それに一度寝てしまうと余程のことがない限り目を覚ますことはないので、こうして適当な理由をつけて息子を一泊の旅行に連れ出したのです。

 息子が寝入るまでにそれほど長い時間は要しませんでした。完全に熟睡したのを確認して、私は計画を実行に移すことにしました。

 私は、音を立てないようにそっと布団から抜け出すと、旅行鞄の中に入れてきた物干し用のロープを取り出しました。巻いていたロープを解く時に、手が震えているのを感じました。いえ、震えていたのは手だけでなく、全身が震えていたのです、でも、これは気の迷いではなく、武者震いだと自分に言い聞かせました。実際に気持ちは固まっていましたので、迷いも揺るぎもありませんでした。

 私は、解いたロープを持って息子が眠っている枕もとに座りました。息子の寝顔を見ていたら、この子が生まれた時から現在に至るまでの情景が、まるでアルバムを見ているように、私の胸に一気に押し寄せてきました。

 生まれてきた時の、あの弱々しくも逞しい産声とくしゃくしゃの真っ赤な顔。ハイハイを始めた頃、初めて歩いた日、七五三のちょっとお済ましをしたブレザー姿の息子。七三に分けた髪型が可笑しくて、親子して笑いました。幼稚園入園、卒園。小学校入学、運動会の徒競走で一等賞を取り、自慢げに両手を上げる息子。学習発表会では、七匹の子ヤギの狼役を上手に演じていたよね。小学校卒業、中学入学。

 親子喧嘩が絶えなかった日々の中で、何百回も憎いと思って睨みつけた同じ顔も、こうして寝顔になるとあどけなさの残る可愛い顔をしていました。「天使の笑顔」と感じていた、あの頃の長男が戻ってきたような、そんな錯覚さえ覚えてしまいました。

 寝顔を見続けていたら、涙が次から次へと溢れてきて、視界がぼやけてしまい、視界だけでなく、この旅行に来た目的さえもぼやけてしまいそうになりそうでした。

「だめだ、だめだ」と、迷いを振り払うように首を激しく振り、息子の憎い部分と、吐き捨てられた汚い言葉と、不貞腐れた態度を思い出し、辛くて苦しかった感情を思い出すように努めました。

 私はロープを両手で持つと、一度大きく息を吸って、それを大きく吐き出し、ロープを長男の首に近づけて行く。

 ここでためらっていては気持ちに迷いという不純物が混ざり込んでしまいます。私はそう考えて、長男の頭をゆっくりと持ち上げると、首の後ろ側にロープを回しました。

 そして、ロープを交差させると、両手に力を溜めてそれを一気に引っ張り上げました。

 その時です。突然息子が起き上がり、凄い力でロープを握っている私の両手を振りほどいたのです。

 突然のことに驚き、私は身体のバランスを失って、布団の上に倒れ込んでしまいました。倒れ込んでしまったけど、私の視線はずっと長男の目を見つめ続けていました。きっと長男に殴られるだろうと身構えもしました、だって私は息子の命を奪おうとしたのですから。

 けれど、長男は殴りかかってこようとはしませんでした。それどころか。長男の目には怒りの炎が全く灯っていなかったのです。逆に、歴史を重ねた仏像のような、そんな優しささえ感じられました。

 長男は、首にロープを巻き付けたまま言いました。

「俺を生んでくれたのは確かにおふくろだ。けれど、生まれてきてからの俺の人生は、俺のものだ。例え、俺を生んでくれたおふくろでも、俺の命を勝手に奪って良いわけはない」

 激しい怒りの言葉ではなく、物語のプロローグを読み聞かせるかのような、心に沁み込んでくる声と話し方でした。

 この子、こんなに優しい声と話し方をしていたんだ。毎日会っていて、何万回も話し声を聞いているのに、この時改めて気がつきました。そういえば、最近は口を開けば罵倒会い合っていて、優しい言葉を使う機会もなかったのですから、仕方のないことかもしれません。

「……」

 息子の静かな抗議に、私はひと言も返すことができませんでした。

 少しの間の沈黙のあと、次に言葉を発したのは息子の方でした。

「俺がおふくろに迷惑をかけていることは、十分に判っている。俺のことでおふくろがすげえ悩んでいることも自分なりにしっかり理解している。だから、今日みたいな行動をおふくろに取らせてしまったのだと責任も感じている。ここまでおふくろのことを追い詰めた責任は全部俺にある。俺が死ぬことでおふくろの悩みが軽くなり、楽になるなら、俺は自分の意志でこのロープで首を絞める。だから、おふくろは絶対に死ぬな。そして、殺人者になるな」

 そう言い終わると、息子は凄い力でロープを引っ張りました。

 私は、咄嗟に息子に飛びかかり、息子の手からロープを奪い取ろうとしました。けれど、息子の力は予想以上に強くて、私の力ではどうすることもできませんでした。

 そうこうしているうちに、息子の顔が真っ赤になって行き、目を大きく見開くようになり、その目も赤く充血し始めました。

「だめだ、このままではこの子が死んでしまう」

 私は、心の中でそう叫びながら、無力だと判っていながらも、それでも必死に息子の手からロードを引き離そうともがきました。

 おかしな話しですよね。ついさっきまで自分が絞め殺そうとしていた息子のことを、今は死なせたくないと、必死で頑張っているのですから。

 けれど、どんなにもがいても、悲しいけど私の力では、息子の決死な力を緩めることはでききません。本当にこのままではこの子が死んでしまうという恐怖が、全身を襲ってきました。

 どうして、このような手段に出たのかは、あとになっても全く分からないけど、もし理由があるとしたら、私の方も死にもの狂いだったということです。

 私は、咄嗟に部屋の中に設置されている冷蔵庫の中から、冷えたミネラルウォーターのボトルを取り出して、意外にも冷静にキャップを取り、中身を息子の頭の上からじゃぶじゃぶとかけました。

 いきなり冷たい水を浴びせられて、一瞬息子の力が緩んだのです。この機を逃さないぞと、私は息子に体当たりをしました。びっくりしたのと、すでに意識を失いかけていたのでしょう、息子はそのままひっくり返りました。その隙に手が完全に緩み、私は息子の手からロープを奪うことに成功をしました。

 ロープの圧迫から解放されて、息子は激しく咳き込み始めました。

「ごめんね、ごめんね」

 私は、咳き込む息子の背中をさすりながら、何度も何度も謝り続けました。

 その日以来、私は考えを変えました。もちろん親として子供たちが成人するまでは、厳しく育てて行くことに責任を持つという考えには変わりはありませんでしたが、子供をまるで自分の一部だと考えていた、その考えを改めたのです。

 子供は一人の個人であり、その人格や行動を尊重しなければならないし、親であってもコントロールはできないことを理解しなければならない。自分の子供なんだから、自分が産んだ子なんだから、この子のことは本人以上に自分が一番分かっているということが、どんなに傲慢な考えなのかということを、身に染みて痛感しました。

 幹央君から、由美ちゃんが手術を拒み続け、どんなに説得しても聞く耳を持ってくれない。このまま、病気を放置しておくと、確実に死んでしまうことは判っているのに、由美ちゃんはそれを覚悟で手術を拒否していることも聞きました。

 私は、由美ちゃんの叔母としての立場ではなく、一人の母親として、そして夫の妻という立場で、言います。

「由美ちゃん、あなたは間違っています」

 由美ちゃん、あなた、自分が味わった淋しさを、今度は幹央君や隆央さんに押し付けようとしているのですよ。

 実の母親を小学生の時に亡くし、その後継母になった私のお姉ちゃんと、実の母娘のように心が通じるまでにいったい何年かかりましたか? 長い間の心の葛藤を乗り越えるために、十年以上の年月が必要だったんですよ。

 そして、やっと実の母娘のようになれたのに、孫の顔を見ることもなく、お姉ちゃんは交通事故でこの世を去ってしまいました。

 お姉ちゃんにも心残りは沢山あったと思うけど、その何倍も、由美ちゃんの後悔の気持ちの方が大きいんじゃないかと思います。

 私はお姉ちゃんの身内だから、由美ちゃんに対して辛辣なことを敢えて言います。

 お姉ちゃんは、由美ちゃんの継母になった時から、不慮の事故で亡くなるその瞬間まで、間違いなく由美ちゃんに対して心を開き続けていました。そして、何にも優先してあなたのことを一番に考えていました。このことは、ずっと近くで見てきたから、私にははっきりと断定できます。

 でも、由美ちゃんは思春期という便利な言葉で固い殻に閉じこもり、長い間、継母のお姉ちゃんにだけでなく実のお父さんに対しても決して心を開こうとしなかったよね。

 あなたはそれで良かったのよね。実の母親を亡くして傷ついている、可哀想な小鹿になりすましていれば、周りの同情を集めることができたのだから。

 でもね、お姉ちゃんは、夫であるあなたのお父さんには、「娘が心を開かないのはお前の接し方が悪いからだと責められ、お父さん方のご両親からは、「このまま由美と仲良くなれないのなら、離婚をして欲しい」と、辛い言葉を何度も投げつけられていたことなんて、知らないくせに。

 正直に言うと、私もお姉ちゃんにずっと離婚することを勧めてきました。そして、ずっと、由美ちゃん、あなたのことを憎んでいました。あなたが高校生になり、大学生に入学したあとも、状況が全く好転することがなくて、それでもお姉ちゃんは、由美ちゃんのことを一番に考えていました。お姉ちゃんの口から由美ちゃんの名前が出る度に私は、「一人で大きくなったと思っているような勘違い娘の、どこがそんなに可愛いのよ?」と、毒づいていました。

 そんな時も、お姉ちゃんはいつも、「由美ちゃんには、美奈子が気づいてない良いところが沢山あるのよ」と、軽くかわされていました。こうした肩すかしを食らうたびに、私の中で由美ちゃんに対する憎しみの気持ちがまた一つ加算されて行きました。

 由美ちゃん、実の母親の内藤さんが亡くなった時、あなたは十歳でした。十歳のあなたが継母のお姉ちゃんに馴染むまでに十年以上の時間がかかっているのよ。今、十四歳の幹央君に新しいお母さんができたと仮定して、幹央君と新しいお母さんの心が通じ合うまでにどれくらいの時間がかかると考えているのですか?

 十四歳の男の子をいえば、自分の意見や将来に対する設計もおぼろげだけど、きちんと構想を持っている歳だよね。由美ちゃんの時よりも更に新しい環境への対応が難しい年頃だと思います。

 その前に、隆央さんが再婚をするかどうかも分からないよね。

 由美ちゃんは十歳の時に病気で亡くなったお母さんのことを、ずっと忘れることができなかった。それはきっと今もそうだと思うけど、長い間、お母さんが心の中に棲み続けていたよね。それは当然だと思います。突然死のような形でいきなりお母さんが亡くなったのだから、その現実を受け入れなさいというのは、十歳の子供には無理だよね。

 確かに由美ちゃん自身も辛かったと思います。寂しい時も、悲しくて涙にくれた夜も数え切れないくらいほどあったことでしょうね。こんな思いを由美ちゃんは幹央君にさせようとしているんですよ。

 手術をすれば治る可能性のある病気に対して立ち向かうこともせずに、みすみす命の炎を自らの息で吹き消そうとしている、そんな由美ちゃんを見て、幹央君や隆央さんはどう感じているでしょうか?

 悲しむ、寂しがる、もちろんそうよね。

 でも、それ以上に自分を強く責めてしまうのではないかと思います。どうして母親のことを、妻のことを説得することができないのだろう。自分たちが見殺しにしてしまうのも同じことだと……。

 由美ちゃんは、このような重みを幹央君や隆央さん背負わせているのですよ。

 あなたが今こうした状況の中で手術を受けないことは、こうした悲しい結末を招いてしまうことになるのですよ。

 良く考えてね。そして、絶対に思い直して欲しいのです。

 私にとって、たった一人の姪である由美ちゃんが、突然私の前から消えたりしないで欲しいのです。天国に行くのは、きちんと順番を守りなさい。まだまだ若すぎるよ。ルール違反は許さないからね。

 頼りないかもしれないけど、私は由美ちゃんの叔母さんなんだから、由美ちゃんのその笑顔を死ぬまで見続けていたいと心から願っています。だから、絶対に私より先に死なないでください。


続いて、僕が開いたのは父が書いてくれた「幸せの貯金通帳」の表紙だった。


2019年 10月1▲日(月曜日)  晴れのち曇り

★幸せポイント  +AI          ★累計ポイント+AI

 幸せの貯金通帳というものが、この世に存在することを初めて知った。といっても辞書を引いても出てくる言葉ではないので、この存在を知っていないとしても無理もないことなのだが。

 幹央の説明によると、なんでも日常生活の中で感じる細やかな喜びを、ポイントに換算して積み立てて行き、もし、辛いことや悲しいことがあった時や、大きな願い事がある時に、積み立てた幸せのポイントを引き出して、辛さや悲しみを帳消しにすることができたり、願い事を叶えてもらうために使うのだという。

 そのために、日々の生活の中で感じる幸せのポイントを、一点、また一点とまめにプールしておくのが、幸せの貯金通帳だという。

 私が幸せの貯金通帳の存在を知ったのは、息子の幹央からの説明で、初めて聞いた時には「こんなものが世の中にあるのか」と少々驚いたが、私が最も驚いたのは、この幸せの貯金通帳を命名し、実際に活用していたのが妻の由美だということだ。

 私が由美と結婚をして十五年が経ったが、私は由美がこの幸せの貯金通帳を付けていたことなど、幹央から聞かされるまでは全く知らなかった。当の幹央自身も、実際に母親から現物を手渡されるまでは、母親がこのような日記をつけていることなど夢にも思っていたとのことだったので、私が知らなかったのも全く無理もないことだ。

 妻は、私との結婚を機に、日記代わりにこの幸せの貯金通帳をつけ始め、幸せのポイントを積み立て、また必要に応じて引き出して遣っていた。

 そして、十五年間こつこつと積み立てた幸せの貯金通帳を、息子の幹央に預けて妻は入院をした。病名は、「解離性脳動脈瘤」という難しい病気だ。担当の医師から、「分かり易く説明をすると、脳の中の一番太い血管である動脈の一部が、風船のように膨らんでしまい、当然膨らんだ箇所は血管の壁が薄くなってしまっているので、いつ破裂しておかしくないくらいの、とても危険な状態です」と、説明を受けた。私は妻の病状の深刻さに身体中が震えるくらいにショックを受け、とにかくその場にいた全員の医師たちに「なんとか妻を助けてください」と懇願をしたのだった。

 もし、動脈瘤が破れてしまったら、どのような症状が出るのか、それでも私は恐る恐る訊いていてみた。すると、医師の中で一番若い先生が、「いままで点いていたテレビが、コンセントから引き抜かれたように、瞬時に命が絶えます」と、分かり易いが、とても怖い例えで説明をされた。この答えを聞いて、私は自分の身体中の血液が、一瞬で冷却されたように冷たくなって行くのを感じた。

 病院に同行する前日、私は妻から初めて病気のことを聞かされた。あれは、やつと九月に入ったばかりの日だった。居間に掛けてある月毎のカレンダーの八月分を破り、「秋は名ばかりだな」と思ったのを覚えている。実際にまだまだ太陽の威力は衰えを知らず、秋の気配は微塵も感じられなかった。

 妻から病気のことを聞かされた時に、私は心臓を強い力で握りつぶされたように激しいショックを受けた。ショックは強い痛みを伴うものだった。この痛みは二つの意味を持っていた。

 一つは、妻の病気がこんなに深刻な状態になってしまっていたことへの驚き。

 そしてもう一つは、病状がこんなに深刻になっているのにもかかわらず、自分が妻の病気に全く気付いてはいなかったことへの大きな後悔。なぜ、もっと妻のことに注意を向けることができなかったのだろうか。きっと日常生活の中で、もっと妻のことを気にかけていたら、病気の兆候に早い時点で気付くことができたはずなのに。

 しかし、これは夢ではなく、今、現実に起きていることなのだ。朝がきて目を覚ますと、全てがリセットをされて振り出しに戻っているということなど絶対にない。でも、聞かされた内容があまりにも現実からかけ離れすぎていて、私は一瞬夢でも見ているのではないかと錯覚をしてしまったほどだ。

 夢ではない以上、置かれている現状の問題をどう打破して行くかを、幹央も入れた家族三人で考えて行くしかないのだと、私の脳はすぐに現実への対応を考えるための思考に切り替っていた。

やることは決まっている。手術をして病気を治すことしかないのだ。

妻と一緒に病院へ行き、医師の説明を聞き、病状を正確に理解した上で、その日のうちに入院の手続きをした。

入院当日は、中学校の定期試験が近いのを承知で、息子の幹央も学校を休ませて家族全員で病院に行った。家族全員でこの病気と闘うことを妻に判ってもらいたかったし、病気を克服することが家族全員の望みであることを、形として妻に見せたかったからだ。

そうだ、やらなければならないことは決まっている。決まっているはずなのに、それができないでいる。

妻が、手術を受けることを頑なに拒み続けているのだ。何度説得を重ねても、妻は、医師にだけでなく、私や幹央の説得にも耳を傾けようとせず、聞こえているという意思表示さえも見せようとしなかった。病気と関係のない話には、「テスト勉強は順調に進んでいるの?」とか、「ワイシャツのクリーニングは溜めないで、長くても一週間毎に出してね」とか、逆に積極的に自ら話をしてくるのに。

それでも無理に、手術の話を切り出そうとすると、妻は、「このまま静かに死なせて欲しい」と、まるで電気仕掛けのオウムでも飼っているかのように、同じ言葉を繰り返すばかりだった。 

このままでは、取る術もないまま、妻が弱って行く姿を目の当たりにしながら、いつ破裂するか判らない妻の頭の中の爆弾に怯えながら日々を送るしかなくなってしまう。なんとかしなければ、私は夫であり父親なのだからと、気持ちだけが焦ってしまう。

それにしても自分が情けない。こんな大事な時に何も手出しができないのだから。

けれど、どんな汚泥の沼にも綺麗な蓮の花が咲くように、妻が入院をしたことで、もたらしてくれた嬉しいことも沢山あった。それは、息子の幹央とこれまで以上に深く気持ちが分かり合えたことだ。

幹央は、私が漠然と思っていた以上に聡明で逞しい中学生になっていた。現状を冷静に理解し、自分がどのように行動をすれば良いかをきちんと判断ができる、大人顔負けのセンスを持ち合わせていることに気づくことができた。

家事もよく手伝ってくれる。母親直伝だというカレーは、まるで妻が作ったように、妻の味そのものでとても美味しい。

妻が手術を拒み続けているこの現状の中で、このことについても幹央とは本当によく話をした。いつも決まって私の話を幹央に聞いてもらうことになってしまうが、幹央の相槌や短いコメントはいつも的確で、「こいつ聞き上手でもあるんだな」と、息子の潜在能力に改めて気づかされてしまうことも多かった。

幹央と話をしていると、いつも、気持ちが落ち着いた。自分の息子と話をしているというよりも、話をしているうちにいつの間にか、対等の大人と話をしているような錯覚にさえ陥ってしまっていた。

だから、幹央の前でも躊躇することなく幾度も涙を流した。これまでの人生の中で、大人になってから人前で泣き顔を見せたのは、家内の両親が事故で亡くなった時以外は一度もなかったが、ここ一ヶ月の間にどれだけ多くの涙を流しただろうか。そして、一度流れた涙を自分の意思で止めることが難しいことも、この一ヶ月の間に知ったことだった。

私自身が妻の手術のことで、新しい説得の策を見出せないまま、ただ悪戯に時間が過ぎて行くことに焦りと狼狽を見せている中で、幹央が打開策を見つけてくれた。それが、私が今書いている幸せの貯金通帳だ。

妻が結婚以来ずっとつけ続けてきた日記だ。ただ日記と違うのは、記述された文章に幸せのポイントの出し入れが記入されていることだ。日常の細やかな喜びを見つけては、これを幸せのポイントに換算して積み立て行く、妻が感じる幸せ感を数値化して、銀行や、郵貯に大切なお金を預けるように、幸福銀行に幸せを積み立てて行く、まさしく妻の幸せの貯金通帳には、日々の幸せのポイントがこつこつと預けられていて、また、辛いことや悲しいこと、例えば私の風邪や、幹央の突然の発熱が早く良くなるように、ポイントが引き出されていた。辛いことも悲しいことも、貯めた幸せポイントを引き出して帳消しにするためだ。

妻が入院をする日、幹央に預かっていて欲しいと手渡した、それが幸せの貯金通帳という名の、妻の十五年間の生きた証だった。

妻の病気は投薬や免疫療法などの治療で完治することは絶対にない。完治するための唯一の方法が外科手術なのだ。入院をしている現在でさえも。病状の深刻さは日増しに高まっている。

でも、妻は執拗に手術を受けることを拒み続けている。なぜ、こんなにも妻が手術を拒否するのか、私は必死になってその理由を考えてみたのだが、正解を見つけ出すことができないままでいた。

最初は単純に手術を受けることに強い恐怖を感じていて、手術が失敗をして死んでしまうのではないかという、ネガティブなイメージに翻弄されているのではないかと考えていた。そうならば、この恐怖心を自分が取り除いてやれるはずだと、結構楽天的にさえ考えていた。

しかし、こうした私の勝手な思い込みが大きく的外れであったことに、すぐに気付くことになる。妻は、手術を受けないということを優先にしている訳でなく、このまま静かに死ぬことを最優先にしていることが分かったからだ。

では、どうして妻は、今になって静かに死ぬことを最優先にしているのか。もう、この世に全く未練が無いと本当に思っているのか。結婚をして十五年、息子の幹央が生まれて十四年。家族で過ごしてきた時間の流れが創り出した歴史や思い出に、全く未練はないというのだろうか。もし、妻の気持ちが本当にそうなら、私たちが共に暮らしてきたこの十五年間は、妻にとっていったいなんだったのだろうか。私は、来る日も来る日もこのことで悩み続けていた。

そんな時に、幹央が、入院する日に妻から預かったという、幸せの貯金通帳いう名の日記帳のことを話してくれた。

「お母さんとの約束で、中は見てはいけないことになっているけど、こんな非常事態なので約束を破ることを神様はきっと許してくださると思う」と幹央は言ったが、その表情から「ああ、こいつ、すでに熟読しているな」と、簡単に見破ることができた。

 早速、ページを開いて読み始めた。時間が過ぎて行くのも忘れて読み続けた。そこには、まるでタイムマシーンに乗って時間を遡って行ったような懐かしが、文字で表現をされていた。そして、妻の私に対する愛情や、幹央に対する母性、家族に対する深い優しさが、実際に妻の口から聞くよりも、日記の中の文字たちが雄弁に語ってくれていた。

 日記を読み進んで行き、妻の病気が見つかってからの記述の内容に、私はいきなりハンマーで頭を殴られたような衝撃を受けた。妻は、私と幹央のために手術を受けることを拒否していることが判ったからだ。

 妻は、幸せの貯金通帳の中で、十五年間積み立てた大切な幸せのポイントを、私と幹央の将来の幸せのためにこそ使って欲しいとはっきりと記述していた。せっかく貯めた幸せのポイントを、自分の手術の成功のために使うことで大きく減ってしまうことを、自分は望んでいないと書いている。

 こうして明確に、まるで遺書のように記述された、幸せの貯金通帳の中身を読んだあとでさえも、私の中にはまだ強く引っかかることが残っていた。

 それは、命の重さと、日記帳の名前にもなっている幸せについてである。妻は、なぜ、このように自分の命を粗末に扱ってしまうのだろうか。妻が描く私と幹央の幸せな未来とは、いったいどういうものなのだろうか。

 昨日、幹央が妻の継母の妹である美奈子叔母さんに会いに行き、妻の病気のことを詳しく説明をした。美奈子叔母さんは、妻の病気の状態を聞き、大きく悲しんだあとに貴重なアドバイスをくれたという。その上で、妻に贈るために、幸せの貯金通帳の美奈子叔母さん編を書いてくれることになったと話をしてくれた。

 一昨日は、病院に見舞いに行ったあとに、私に対しては「友だちとの約束がある」と言って別々に帰宅をしたが、実際には妻の実母の両親である曽祖父母の家に行き、曽祖父母にも幸せの貯金通帳を書いてもらうことの了解を取りつけたとのことだ。

 幹央は、曽祖父母とのやりとりや、美奈子叔母さんが話をしてくれた継母のこと、ご自分の息子さんとの葛藤などを、食事のあとに詳細に話をしてくれた。

 親バカではないが、幹央の話す内容は簡潔で明瞭だった。きっと人の話を聞いて頭の中で整理し、それを人にきちんと伝えるという能力に長けているのだと思う。こうしたことは私には欠けている能力なので、きっと妻から引き継いだ能力なのだと思う。

 幹央の話を聞いているうちに、私は何かに気づき始めていた。それは、最初遥か遠くから照らしてくるか細いほどの弱い光だったが、列車が夜のホームに向けって突き進んで来るように、徐々に光の強さが増して行き、私の疑問に対する答えにスポットライトを当ててくれた。

 絡み合っていた幾つもの疑問の糸が、魔法をかけたようにするすると解けて行く。私は妻がなぜ執拗に手術を拒否し続けているのかの答えを、とうとう見つけ出してしまった。

 僕が見つけ出した答えは、きっと間違ってはいないと思う。眠れない夜を何日も過ごして悩み続け、そして模索を続けてきた結果、導きだした答えである。私はこの答えが、妻が手術を拒否する真実の理由だと確信をしている。

 私の最愛の妻、由美よ。君は自分の運命をなんの抵抗もせずに、そのまま受け入れようとしているのではないか。実の母親を十歳の時に病気で亡くし、継母まで不慮の事故で失ってしまった。この二つの衝撃的な、悲しい出来事が由美の心に暗くて濃い影を落としてしまったのだ。

 そして、その影は君の記憶の中に負の真実としてはっきりと深く刻まれてしまった。自分の周りで母親になった人は、必ず若くして死を迎えてしまうという運命。

 これは、君が幹央を生んで自分自身が母親になったその時点から、すっと恐れ続けていたことだよね。母親になった自分にもきっと早い時期に、この運命が舞い降りてくることを。

 だから君は。結婚をした時から、いやいずれ母親になることに備えて、不幸を帳消しにしてくれる細やかな幸せを集め始めた。運命の恐怖に怯えながら、幸せを探すことでその恐怖を希釈しながら日々を送ってきた。

 それは、どんなにか悲しくて、どんなにか心細い行為だったことだろう。君はそれを誰にも打ち分けることなく、たった一人で実行していた。夫である私にさえ黙ったまま十五年間の年月を小さな幸せ探しに努めた。

 そのことが、私はとても悲しくて悔しくて、申し訳なくて、いやそんな簡単な言葉では言い表せないくらいに、複雑な気持ちでいっぱいだ。

 そして、君がずっと恐れていたことが、ついに現実なものになってしまった。「解離性脳動脈瘤」という、命に係わる重大な病気に罹患してしまったのだ。

 身体の不調を訴え診察を受けた後に、医師からこの病名と病状の深刻さを告げられた時、この現実を君は、支えてくれる人もいない診察室の中で、たった一人でどのように受け止めたのだろうか。

 君が一人で医師と向かい合い、その病名と症状の深刻さの説明を受けている光景を思い浮かべるだけで、私は居たたまれないほどの後悔の念に苛まれてしまう。なんで、こんな重大な結果を、夫である私が一緒に聞いてやることができなかったのだろうか。一人で聞かせるにはあまりにも残酷すぎる現実だ。夫であり家族であり、君の一番近くで見守っていたはずの私は、妻をこんな辛い場面にたった一人で立ち会わせてしまうほど、無意味な存在だったのだろうか。そう考えると、悔やんでも、悔やんでも悔やみきれないよ。

 夫婦は、辛いことや悲しいことをお互いの愛情で希釈し、半減させて行く存在だと私はずっと思っていた。そして、私なりにそうしてきたつもりだった。それが、妻の一番辛い時に、その辛さを分かち合うことができなかった。君は私と分かり合うことよりも、自分一人で背負うことを選択した。私はそれがとても悲しい。

だからといって、私は由美のことを少しも責めているわけではないんだ。私は私自身を責めているのだ。

 もう、二度とこんな辛さを由美一人に背負せるようなことはしたくない。

 自分の運命を由美が信じるなら、それは仕方がない。レールに導かれて時間通りにホームに電車がやって来るように、若くして亡くなってしまう母親の運命が、時刻通りにホームに到着したとしても、君はなぜ、これに素直に乗り込もうとするのか。次の電車を待つことも、今日は諦めて明日の電車に乗ることだってできるはずなのに。

 運命は電車と同じように、レールに乗ってやって来る。それは、宇宙が誕生した時から動き始めた時間の流れと同じく、誰にも止めることはできないことだ。けれど、この運命を受け入れるかどうかは、自分の意思で選択することができると私は考えているし、それをすべきだと強く思っている。

 そう、運命は変えられなくても、自分の運命は自分の意思で選択できるはずだ。

 由美の身体に流れる血の中に、君が思っているように、母親になると若くして事絶えてしまう運命が実際に存在し、その運命のために解離性大動脈瘤という病気になったとしても、みすみす病気に負けて命を失うことなどないのではないか。

 運命いう名の電車を乗り換えれば良いのだと思う。病気を克服して生き延びるという、運命の電車に乗り換えれば良いだけのことだと、私は思う。

 由美、私も幹央も、君が運命の電車を乗り換えることを強く望んでいる。今乗っている電車を次の駅で降りて、私と幹央と一緒に次の電車に乗り換えよう。もう、次の電車のグリーン車の指定席は、由美の分まで予約してあるんだ。四人席に家族三人、向い合わせで座り、新しい運命に切り替えてこれからの人生もずっと一緒に送って行こう。

 由美、私たちは家族であり、人生を一緒に歩んで行く強い絆の運命共同体なのだから。

 そして、最後は私が幸せの貯金通帳に、大量のプラスポイントを記入するのだ。


2019年 10月1▲日(月曜日)  晴れのち曇り

★幸せポイント  -7,000AI          ★累計ポイント 0AI


 僕は昨日夢を見た。夢を見たのはいったいどれくらい振りだろうか。どんなに短く見積もっても中学に入学して部活を始めてからは、練習で疲れ果ててしまい、帰宅して晩ごはんを食べたあとは、満腹になったことも手伝ってすぐに強い睡魔が襲ってきた。そうなると倒れ込むようにベッドに入っていたので、夢を見たのは中学入学以来一年半振りということになる計算だ。

 朝がきて、ベッドの中で目を覚ました瞬間に、これが夢であったことを知って僕はがく然となった。そして同時にこれが正夢であって欲しいと全身全霊をかけて願った。

 夢には二つの種類があると僕は思う。それは、眠りの中で自分の意思とは無関係に受態的に見る夢だ。喩えるならば、これは映画のスクリーンを観ているような、はっきりと鮮明ではないが映像が必ず伴うものだ。自分の意思とは無関係だと断定してしまったが、実際にはこの夢の中には、日常の自分の意思が強く反映していることは明らかで、だからこそ夢占いという類の易者も存在しているわけだ。

 そして、もう一つは、英語で表現するなら「DREAM」の、こうありたい、そうなりたいという、完全に自分の意思の上に成り立つ夢だ。それは、希望と呼んでもいいかもしれない。

 そこには未来に対する前向きな明るさや力強さがあり、決して否定的な部分は含まれてはいない。「諦めなければ、努力は必ず報われる」と、自分自身を鼓舞し続ける、人生という名の航路を照らす水先案内ということだ。

 僕が見た夢は、そのどちらでもあり、また、どちらでもなかった。確かに僕は眠っていて、その夢にははっきりとした映像が存在していた。けれど、その内容は僕が強く望んでいる近い未来の姿だったし、明るく喜びに満ちたものだった。

 僕が見たこの夢のストーリーを、こうして幸せの貯金通帳に残しておこうと思う。記憶が薄れないうちに、そして不変の望みをより強く認識するために。

 僕の見た夢は、大きな建物の全体像の映像から始まっていた。建物の背景には、建物の大きさや存在感を浮き上がらせるような、澄んだ青空が広がっていた。

 まるで、カメラが焦点を絞って行くように、映像は少しずつその視野を狭めて行き、建物の玄関前の車寄せ辺りを大写しにしていた。車寄せの緩やかなカーブの曲線に沿うように植えられたイチョウモミジが、濃い黄色に色づいた葉を揺らしている。

 見覚えのある建物だと思った。詳細な部分まで全く同じというわけではなかったが、これが大学病院の建物だということはすぐに気付いた。空の高さ、イチョウモミジの色づきから、季節が秋の盛りから晩秋に差し掛かった頃だということにも気づいていた。

 築年まだ若い大学病院の玄関ドアは、大きな硝子の自動扉になっていて、小春日和を思わせる秋にしては、強すぎるほどの太陽の光を反射させて眩しくきらめいていた。

 太陽が反射する光の眩しさに目を細めていたら、大きな自動扉が開いて人が出て来た。

テレビで放映されている生命保険会社のCMに出てきそうな光景が、そこにはあった。

 病気が完治して無事に退院をする患者と、迎えに来たその家族。きっとこの病院でも毎日のように繰り広げられている光景が、夢の中でも同様に繰り広げられていた。

 目を凝らして良く見ると、病院から出て来たのは三人の家族で、三人の真ん中にいるのは僕のお母さんだった。そして、その両側にはお父さんと僕本人が優しく付き添っていた。

「あっ、お母さん、無事に退院をしたんだね」

 夢だと判っているのか、映像の中の僕ではなく、この映像を観ているもう一人の僕が、そう言っていた。

 お母さんは大好きな色の、黄色のニット帽を被っていた。きっと手術の時に頭蓋骨を開くので、手術前に頭髪をお坊さんのように剃ってしまったのと、手術後の傷口の消毒のために、髪の毛を伸ばすことができないのとで、髪の毛の無くなった頭を隠すために、柔らかいニットの帽子を被っているのだろうと、状況を詳細に説明する僕がいる。

 思わぬ秋の強い日差しを受けて、お母さんはその眩しさに目を細め、左手でひさしを作った。そして、家にいた時と変わらない声と喋り方で、「やっぱり外はいいよね」と、口元をほころばせながら言った。

 お父さんが僕に、「車を取ってくる」と耳打ちをして、駆け足でその場を離れて行き、そのすぐあとに車を運転して帰って来た。僕が助手席に、お母さんが後部席に乗り込む。

 まだ夏の暑さを引きずりながら、ゆっくりと秋が近づいてきていた九月中旬に、この病院に入院をした時と同じ車中の光景だが、僕は自分の記憶に残っている入院の日の光景と、退院をする今日の光景と比べていた。

 季節は入院の日数分だけ当然違っていて、それに伴い三人の服装も少し厚めの洋服に変わっていたけれど、それにも増して、あの入院の日と圧倒的に違っていたのは、車内の三人の表情だった。特に病気の進行によって、痛みのせいで表情が乏しくなっていたお母さんに、再び笑顔が戻ってきていたのが決定的な違いを強く印象付けていた。もし、入院の日と今日の車中で撮った写真を並べて、間違い探しのクイズを出したら、服装や髪型ではなく、誰もが一番にお母さんの表情の変化を指摘するだろう。それくらい大きな変化だった。

 とにかく、お母さんは無事に退院をした。自宅に向かって走る車の中にも、フロントガラスを透過してたっぷりの秋の光が差し込んでくる。お父さんがサングラスを取り出してかける。目の表情は隠れたが、お母さんが退院した喜びは、頬の筋肉の緩みと口元の表情で十分に読み取ることができる。そんなお父さんの嬉しさ溢れる表情を、僕はまともに見ることができなくて、でも見たくて、バックミラー越しに暫く見ていた。

「二人とも今日の夕飯は何を食べたい?」

 お母さんが後部座席から身を乗り出して僕たちに訊いてくる。

「退院したばかりなんだから、今日くらい家事は休んだ方が良いんじゃないか。これから嫌でも毎日家事をしなきゃならないんだから」

 お父さんはお母さんの身体のことを労わってそう提案したが、その言葉を聞いた瞬間にお母さんの顔が寂しそうに曇ってしまったのを、僕は見逃さなかった。

「ねぇ、だったらこういうのはどうかなぁ?」

 ここは、僕の出番でしょうと、自分なりに気を遣ってみた。

「まだお母さんに食べてもらったことのない、僕が作ったカレーをメインにして、サラダはお母さんに作ってもらうという提案なんですけど」

 こんなに両親に気を遣う孝行息子もそうはいないだろう。

「幹のその提案、いいね」

 お母さんがすぐに賛成と手を挙げてくれた。

「食事のあとは、これまた幹央特性のココアというのもありだな」

 お父さんの提案を聞いて、お母さんが「きゃあ、ステキ!」と、大きく拍手をする。

 これで夕食のメニューと食後の飲み物が決まった。よし、帰ったらすぐに食材の買い出しに行かないと。僕は頭の中で、「玉葱、人参、ジャガイモ、お肉……」と、買い物リストを作成し始めていた。

「幹、そんなに色々と引き受けて大丈夫なの、ちゃんとやれる?」

 お母さんが半分茶化すようにそう言う。

「大丈夫に決まっているでしょう。特に今日はお母さんの退院のお祝いなんだし、僕、腕によりをかけて作るよ」

 僕は腕を九十度にまげて、力こぶを作って見せた。

「頼もしいね、うちの凄腕シェフは。晩ごはん楽しみにしているからね」

 お母さんは、鼻の上に皺を作りながら嬉しそうにそう言った。

 幸せに音色があるとしたら、それは今のお母さんの声の音だろう。

 幸せに色があるとしたら、病気が治って赤みがさしたお母さんの頬の色だと思う。

 そして、幸せな場所に登場人物が居るなら、今の僕たち家族三人しか居ないだろう。

 お母さんが、幸せの貯金通帳を始めた時に、最初の日に書いていた、「幸せは日常の生活の中で、キラリと光る宝石を見つけるようなものだ」という思いは、僕もその通りだと思っている。川や海の砂をさらって、砂金や翡翠の原石を見つけるように、幸せは日常という時間の流れの中に、きっと沢山隠れているはずだ。無関心ですごしていては、隠れている宝石を見つけることはできない。時間の流れという砂を掻き出して、キラリと光る幸せを見つけないと、待っているだけではやってこないのだ。

 自ら強く欲していないと、幸せは絶対に手に入れることができないと僕は思っている。

 今のこの車の中の風景を、もし家族以外の人が見たとしたら、僕たち三人の様子を、きっと「幸せな家族」と捉えるだろう。

 僕も素直にそう思う。幸せな家族だと心から言える。今の幸せな状態に軌道修正をするために、僕たち家族はどれだけ多くの葛藤を繰り返し、どれだけ多くの涙を流したことだろうか。でも、もうそれは問わないことにしよう。しかし、学んだことだけは決して忘れないでいようと思っている。

 それは、「幸せ」はジグソーパズルと同じで、どんなに細かく細分化されていても、たった一つのピースが欠けていてもパズルは完成しない。一万個のピースのパズルでも、十万ピースのパズルでも、その中のたった一つのピース分のすき間が埋まっていなければ、幸せの絵は完成をしない。それがどんなに小さなすき間であっても、幸せはその隙間から必ず崩れ去ってしまう。

「ありがとう」

 なんの脈略もなくお母さんが、陽が落ちたあとに、月下美人の花が開くような突発さで言った。

「えっ?」

 お父さんと僕は、同時にそう声を上げた。ありがとうに掛かる目的語が解らない。

「隆央さんと幹の二人が諦めないで、私のことを説得し続けてくれたから。こうして笑いながらもう一度家に帰ることができました。こんな日はもう二度とこないだろうと覚悟をしていたから、今は素直にとても嬉しいです。だから、二人に私から『ありがとう』を、ずっと伝えたかったの」

 お母さんは、目にいっぱいの涙を溜めていた。

「ありがとう」

 お父さんが言った。ハンドルを握り、真っ直ぐに前を向いたままだったけど、お母さんと同じように、目にいっぱいの涙を溜めていることは、声の湿り具合で手に取るように判った。

「手術を決断してくれてありがとう。その勇気に感謝します」

 お父さんの言葉を聞いている間中、お母さんはずっと泣き続けていた。

「ありがとう」

 そして、僕の「ありがとう」で、家族三人の「ありがとう」がトライアングルになり、永遠に共鳴し続けることになった。

「お母さんの強さと優しさに、お父さんの逞しさと優しさに、僕は心から『ありがとう』と言います」

 積もって氷のように固くなっていた根雪が融けて、その割れ目から春を告げる芽吹きがあるように、大きな波が引いたあとの、砂浜の砂がきめ細かく美しいように、厳しい環境の中で耐え凌ぎ、それを乗り越えたからこそ、「ありがとう」が家族の心に沁み込んでくる。

 最後にお父さんが、「美しい褒め合いだな」と締めくくるまで、三人の「ありがとう」合戦はずっと続いた。

 夢は、そこで終わった。

 目を覚ました僕は、今、自分がどこに居るのかさえも判らないくらいに、意識が夢の中と現実との間を彷徨っていた。

 それほど長い時間を要さずに、先ほどまでの車の中の光景が夢であったことを、僕の脳が認識をした。

 気がついたら知らないうちに、涙が頬を流れていた。この涙が、夢を惜しむものなのか、現実の厳しさを改めて痛感したための涙なのかは、僕自身も解らなかったけれど、ただ一つだけ確実なことは、夢の光景そのままが、僕が今、強く望んでいる未来なのだということだ。

 僕たち家族は、誰一人欠けても、家族としてはもう成り立つことはない。お父さんの代わりも、お母さんの代わりも、もちろん僕の代わりも、他の誰にもできない。

 どんなに美味しいカレーを作ることができても、どんなにアイロン掛けが上手になっても、それはお母さんじゃなくて、他の誰かがやっていることだから、お母さんの代わりにはなれない。料理やアイロン掛けや掃除をしてくれることをお父さんも僕も、お母さんに望んではいない。お母さんが家族でいることを、一緒に生活することをお父さんも僕も望んでいるのだ、それ以外は望んでいない。それが幸せの姿だから。

 お母さんに元気になって帰ってきて欲しい。

 だからね、お母さん。お母さんが十五年間、こつこつと貯めてくれた幸せのポイントを、お母さんの手術が成功するように全部使います。

 それは、絶対にポイントの無駄遣いではなく、お母さんが一番に望んでいた、お父さんと僕の幸せな未来のためだからね。

 残高「0」にして、また一AIから積み立てて行こうよ。これから始まる幸せな未来には、ポイントが沢山貯まる、嬉しいことや楽しいことが、きっといっぱい待ち受けているはずだから。

 ねぇ、お母さん。僕たちの幸せな未来のために手術を受けてくれるよね。夢の中のように、退院の日にはお父さんと僕が迎えに行くからね。そうしたら、家に向かう車の中で、夢の中でやった「ありがとう」合戦をしようよ。「ありがとう」の数だけ幸せのポイントが加算されるから。お母さん、大好きだよ。


 僕は一睡もしないまま朝を迎えた。

 徹夜をしたのは生まれて初めての経験だった。頭の中に靄がかかっているような、少し重たい感覚も初めての経験だった。

 僕は、いつもより一時間以上早く家を出た。お父さんもまだ起きていない時刻だ。

 僕は中学校に登校する前に大学病院に寄って、この幸せの貯金通帳をお母さんに渡したかった。だから、始発に近い大学病院行きのバスに乗ることにしたのだ。こんなに早い時間帯なのに、バスの中は病院に向かう人たちでほぼ満席に近かった。

 僕はシートには座らないで立ったまま、病院までの約三十分間をバスの揺れに身を任せながら吊り革に掴まっていたが、どうやら道中いつの間にか眠ってしまっていたようで、「○○大学病院前」というアナウンスで、運よく目を覚ますことができて、乗りすごさずに済んだ。

 病院の玄関に入ると、待合室は診療の受付を待つ患者さんたちで溢れていた。僕は、そのままエレベーターに乗ってお母さんの病室のフロアーまで移動をした。

 集中治療室に移されている母を直接見舞うことはできないので、僕はナースステーションに行って、「幸せの貯金通帳」の入った包みを、母に渡してもらうように看護師さんに頼むことに決めていた。

 ナースステーションには運良く、見舞いの時に顔なじみになった看護師さんが居て、僕が気づく前に彼女の方から気づいてくれて、「幹央君」と声をかけてくれた。

「学校に行く前にお母さんのお見舞いですか、近年稀にみる孝行息子だね」

 と僕のことを半分からかった。

 僕は彼女に「幸せの貯金通帳」が入った包みを手渡して、「お母さんの大事なものだから、必ず渡してください」とお願いをした。

「そんなことくらいお安い御用よ」と言って、彼女は快く引き受けてくれた。

 僕は病院を出ると、学校の近くまで行くバスが来るのを、バス停のベンチに座って待つことにした。どうやらここでも眠ってしまったようで、「バスが来たよ」と、同じバスに乗るおばさんに肩を叩かれるまで、バスが近づいて来る音にさえも全く気がついていなかった。

 その日は一日中ひたすら眠くて、授業の内容も全く頭の中に入ってこなかった。やっと昼休みになり、昼ごはんも食べずに机の上に伏せて、泥のように眠った。

 やっとの思いでその日の全ての授業を終えると、僕は一目散に家に帰り、着替えるのももどかしくて、靴下さえ脱がないままベッドに滑り込み、瞬時のうちに眠りの中に吸い込まれた。

「ただいま」

 というお父さんの声で、僕は慌てて目を覚ました。部屋の壁掛け時計を見ると午後八時すぎを指していた。やばい、四時間近くも眠っていたことになる。すぐにベッドから下りると一階に急いだ。

「おかえりなさい。ごめん、つい眠ってしまって夕飯の準備、なんにもしていないんだ」

「いいよ、そうじゃないかと思って、駅前のスーパーで適当にお惣菜を買ってきた。ご飯は昨日炊いたのが残っているからレンジでチンしよう」

 そう言いながら、お父さんはスーパーの袋から色々な種類の惣菜を取り出した。

「へぇ、お父さん霊感でもあるの? 僕が寝ていたのが良く判ったね」

「まあな……と言いたいところだけど、駅に着いた時に一度家に電話をしたんだぞ。そうしたら全然出ないし、それにお前昨日遅くまで起きていたようだしな。きっと睡眠不足で寝ているんだろうなと想像するのは、それほど難しいことではなかったよ」

「さすがにお父さん、僕のことはお見通しだね」

 僕たちは、お惣菜をパックのまま出すのだけは止めて、各々皿や鉢に移し、冷蔵庫に保存しているご飯を茶碗に盛ってレンジで温めた。インスタントの味噌汁も作って、少しだけ手作り感も出した、つもり。

 でき合いのおかずの晩ごはんは、それなりに美味しかった。正直に言うと二人で作るおかずよりも数段に味が良かった。

「毎日だと味が濃すぎて飽きてしまうけど、たまにだとスーパーの惣菜も美味しいな」

 お父さんは最後の味噌汁を飲みきると、満足げにそう言った。

「作っているのは料理のプロだからね。そりゃあ僕たちが作るよりもずっと美味しいのは当たり前だと思うよ」

「そこに愛情が注入されているかどうかの差は大きいけどな」

「果たして、僕たちの作る料理に愛情が注入されているかどうかは、大きな疑問だけどね」

 僕は笑いながら、皿に残っていた酢豚の肉を口に入れた。

「何を言っているんだよ、お父さんは『美味しくなれ!』って、ぱっぱと愛情を振りかけながら料理をしているんだぞ」

 お父さんは半分真剣な顔をしてそう反論をした。

「ぱっぱって振るのは塩か胡椒じゃないの。昨日の朝の目玉焼き、半端じゃない量の胡椒がかかっていたよ」

「ああ、あれはちょっと失敗したんだよ。弘法も筆の誤りっていうやつだな」

「弘法さんを比較に出すほどのレベルじゃないと思いますけど」

 僕がそう突っ込んでいる時に、居間の電話が鳴った。

 お父さんがすぐに立ち上がり、受話器を取った。

「もしもし、はい、そうです」

 お父さんは受話器の口を手のひらで覆って、「病院からだよ」と教えてくれた。とても不安そうな顔をしている。おそらく、お母さんの病状の急変を報せる電話だと思っているからだろう。

 僕はフィフティー、フィフティーだと思っていた。今朝ナースステーションに幸せの貯金通帳を届けた。これがお母さんにどう影響を与えたかは半々だと考えていたのだ。ひょっとしたら、あれを読んだお母さんが興奮状態に陥り、病状が急に悪化し危篤状態になってしまうことも十分に考えられる。それも承知の、危険な賭けだということも解っていた。でも、僕はそれに賭けた。自分なりにお母さんの性格を知っているつもりだから、十分に勝算はあると思っている。曽祖父母、美奈子叔母さん、お父さん、そして僕が書いた幸せの貯金通帳を読んだ反応があるとしたら、それがどんな反応であろうとも、おそらく今夜だろうと考えていた。だから、病院からの電話は想定内だった。でも、心臓はこれまでに経験をしたことがないほどに大きく、激しく波打っていた。

「こちらの方こそいつもお世話になっています。……はい、今大丈夫です」

 電話の相手に向かってお父さんが頭を下げている。口の中が乾いているのが、その喋り方で手に取るように判った。

「秋山先生」受話器を押さえて、お父さんが再び教えてくれる。

 主治医の秋山先生からの電話……。「えっ?」、それを聞いた瞬間に、僕の自信は粉々に崩れ落ちて行った。おそらく僕の顔色は真っ青になっていただろう。体温が急激に低下して行くのを全身で感じていた。

「僕はとんでもないことをしてしまったのではないだろうか?」

 後悔と自責の念が、青空だった心の空を、黒い雨雲で覆い尽くして行った。どうしよう。身体が震え始める。どうしよう。

「はい、えっ本当ですか。分かりました、明日必ずお伺いします。どうぞ宜しくお願いいたします。では失礼いたします」

  受話器を置いた瞬間に、お父さんが両手で顔を覆った。そして、大きな声を上げて泣き出した。

 その泣き声は僕の心に無数の矢を打ち込んだ。

「幹央」

 涙でくしゃくしゃになった顔でお父さんは、僕の名前を呼んだ。

「……」

 僕は、無言でお父さんの目を真っ直ぐに見返した。無言だったのは、身体が震えて声を出すことができなかったからだ。

「お母さん、手術を受けることを決めたぞ」

 肩を震わせてしゃくり上げながら、お父さんは必死に声を絞り出して、僕にそう伝えてくれた。

「よかった」

 心の中を覆っていた黒い雨雲は、急速に晴れて行き、きれいな青空が戻ってきた。心は青空になったけど、今度は目が大雨を降らし始めた。

「よかったな、よかったな」

 お父さんが僕の肩を強く抱きながら、永遠に続くのではないかと心配させるほどに、「よかったな」を繰り返した。

 これで全てが上手く収まった訳ではない。ようやく始まったばかりなのだ。それでも、大きく幸せに向かって動き出したことは確かだ。

 これから始まる全ての出来事の中で、多くの小さな幸せを、決して見逃さないために、僕は自分のための「幸せの貯金通帳」を開設することを、たった今決めた。


「幸せの貯金通帳」完了。


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