第5話  お母さんの本音

 部屋に引き上げてベッドに入っても僕はずっと眠れないでいた。この状況はきっとお父さんも同じだろうと思う。窓の外で鳴く秋の虫の声耳に届くほどの静かな夜が時を刻んで行く。

 明日は日曜日だけど、もう少しすると二学期の中間テストが始まるというのに、今日もまったく勉強に手をつけられないでいた。明日は今日の分まで挽回をしなければ、テストが散々な結果になってしまいそうだ。だから、一分でも早く寝る方が良いに決まっている。けれど、このまま眠気が訪れるのを待つには、あまりにも気持ちが波立ち過ぎていて、僕の頭の中が荒海に浮かぶ小舟のように、激しく左右に揺れてしまっていて、眠気の訪れを妨げていた。

 今夜初めて知ったお母さんの過去、そしてお母さんの実母、継母のこと。お母さんが手術を受けることを頑なに拒む理由が、こうした過去の出来事に起因しているのではないかと、眠れない時間の中で、ずっとそのことばかりを考えていた。

 お母さんが生きてきたこれまでの年月の中で、実母と継母の突然の死は、かなり衝撃的な出来事であっただろうし、このことがお母さんの心に与えた影響は、計り知れないくらいに大きいものだと思う。

 このまま暗い部屋の中で、もやもやと考えていてもどうせ眠れないのだから、僕は入院に至るまでの、最近の貯金通帳に書かれたお母さんの記述を読むことにして、ベッドから出て部屋の照明を点けた。一度暗闇を経てしまうと、照明の光が眩しいくらいに明るいと感じる。この光を見ながら、自分たちも一日も早く明るくて眩しい時を迎えたいと心から思った。

 赤いハードカバーのお母さんが名づけた「幸せの貯金通帳」を、机の引き出しから取り出し、手に取った。これを読み始めると、さらに眠れなくなり、場合によっては徹夜をしてしまうことになるのは覚悟の上だ。このノートの中に、きっと僕たち家族を幸せに導いてくれるヒントが隠されている。だって、これは我が家の幸せを貯めている通帳なのだから。

 そう信じて、僕は心なし優しく幸せの貯金通帳のページを開いた。


2019年 7月2△日(□曜日) 晴れ

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 今年の梅雨は例年よりも短く、なんと昨年に比べると12日も早く明けた。鬱陶しい梅雨が明けるのは大歓迎だが、まるで舞台が暗転するかのように、いきなり猛暑という次のステージがすぐに用意をされていた。季節の移り変わりは毎年寸分の狂いもなく、梅雨のあとに猛暑がやってくる。朝起きるのが楽になったのは助かるが、この暑さはやはり頂けない。

 昨日から幹央も夏休みに入った。といっても土日以外の午前中は毎日部活の練習があるので、起きる時間はいつもと変わらない。

 それでも、あの小学生の頃のように、早朝のラジオ体操に付き添わなくて良い分だけ、夏の朝は楽になった。でも、今になってあの頃のことを思い返してみると、懐かしいような、決して取り戻せない貴重な月日のような気がして、言葉では上手く表現できない不思議な気持ちになってしまう。

 まだ幼くて、「お母さん、あのね……」と、なんでも私に話をしてくれていた母親べったりだった幹央が、確かに、あの時、あの場所に存在していた。

 子供の成長は、何にも勝る歓びだが、それと引き換えに子供との距離が少しずつ離れて行ってしまうような、一抹の寂しさがある。引き返せないから、取り戻せないから、きっととても愛おしいのだ。

 昨日、三日前に検査をした3DのMRIの結果が出た。先月に検査したCTの結果と同じく、脳動脈に幾つかの瘤ができていて、すぐに入院して手術が必要だという医師の見解も、前回のCTの結果が出た時と同じだった。

 このことだけなら、すぐに入院をして手術を受けるのだが、瘤ができている場所が、脳神経が複雑に集中している箇所に密接していて、手術の時にこの神経を傷つけてしまうリスクがあり、もしそうなれば、障害が残ることになるとの説明も同時にあった。しかも、このリスクは決して低くないと、駄目押しまでされてしまったのだ。

 春がやってきて、桜が咲き始めた頃から、時々激しい頭痛に襲われるようになった。最初は季節の変わり目に風邪でもひいたかな、くらいに軽く考えていたが、明らかに頭痛の種類が風邪の時のそれと違っていたので、近所の近藤クリニックに診てもらい、すぐに今通っている大学病院の脳外科を紹介されたのだ。

 頭痛の原因が判明したのは良かったが、こんなことになるなんて夢にも思っていなかった。医師から検査結果を聞いた瞬間に、隆央さんと幹央の顔が浮かんだ。

 そして、若くしてこの世を去った実母の顔が、不気味な鮮明さを持って浮かんできたのだ。これは何かのメッセージ? いえ、そうじゃないよね、ママ。

 さらに医師からは、この動脈瘤をこのまま放置しておけば、この半年以内に九十九パーセント以上の確率で瘤が破れ、その瞬間にまるでテレビのコンセントをいきなり引き抜いたような呆気なさで、あなたの命がこと切れることになると宣告をされた。

 とにかく、このまま日常生活を続けていたら、ちょっとした血圧の変化で、いつ動脈瘤が破裂するか、いや、いつ破裂してもおかしくない。それほど危険な状態にあることをしっかりと認識して、まずはすぐに入院をすることを考えてください。本来なら、強制的にこのまま入院ですよと忠告をされた。最後の方は、忠告というよりも懇願されているような気持ちになった。

 手術の危険率は低くないと曖昧な言い方をしているくせに、命の終わりを半年以内に九十九パーセント以上の確率だと明言するのは、全然フェアではないと思ったけど、こんなことにクレームをつけるような雰囲気ではなかったし、そういう状況でもないので、何も言わずに頷いた。だって、こんなどうでも良いことでも考えていないと、悲しさや不安で胸が押し潰されそうになってしまいそうだったから。

 命の炎が燃え尽きてしまうのをそのまま待つか、それとも障害が残るリスクを背負って気丈夫に手術を受けるか? ため息と一緒にもう何度この言葉を吐いたことだろう。考えても、言葉にしても仕方がないことなのに、でもやっぱり考えてしまう。なんでこんなことになってしまったのだろうと……。

 私を生んでくれた実母は、三十歳代の若さでこの世を去った。私がまだ十歳の時だった。そして、その後、私を大事に育ててくれた継母も交通事故で、四十四歳の若さで亡くなってしまった。

 私の家系は母親が長生きできない運命を背負っているのだろうか。これを神様が与えた試練だというなら、なんと厳しく、残酷な試練なのだろうか。

 とにかく、いつまでも家族に隠し通せることではない。機会を見つけて隆央さんに話をしよう。でも、今だけは現実から逃避させて欲しい。精密検査の結果も、命の期限も、今は何もかもなかったことにさせて欲しい。

 夕食の時に幹央が言った「お母さんのごはんはいつも最高だね」の言葉が、私の胸を深くえぐって行く。育ち盛りで食べ盛り、何を作っても美味しそうに食べて、「お母さんのごはんは最高だね」と言ってくれる。

「部活のあとだからお腹が空いていて、何を食べても美味しく感じられるのよ」

と、本当は嬉しいくせに照れ隠しで私がそう言うと、幹央は真剣な顔をして、

「そんなことないって、どんな時に食べてもお母さんの料理は本当に美味しいよ。どこのファミレスよりも、我が家のごはんの方が絶対に美味しいって」

 と本気モードでそう言ってくれる。

 今日の夕食の時も同じようなやり取りがあった。「ありがとう」と、何度も何度も心の中でお礼を言ったら、急に涙がこみ上げてきた。

 これからも、毎日、百回も何千回も作ってあげたいのに、いったいこれからどうしたらよいのだろうか。

 今日はとにかく眠ろう。明日目を覚ましたら、すべてが夢の中の出来事だったという非現実的なことはないにしても、きっと今の気持ちよりは冷静で現実的な考え方ができるはずだから。


2019年 8月2□日(◇曜日) 晴れ

 ★幸せポイント +5AI               累計 7251AI


幹央の夏休みも終盤に入った。

 毎日部活に行っているので、肌が露出している部分は、もう真っ黒に日焼けしている。元々痩せているが、黒くなったことで余計にスリムさが際立っている。あんなに食べているのにこのスレンダーな体型は、羨ましい限りだ。

 その幹央が、何を思ったか部活の帰りに、「花屋の前を通ったらきれいだったから」と、向日葵の花を買ってきてくれた。たった一輪の姫ひまわりの花だったけど、とても嬉しい。

「えっ、何、なんで。今日、何かの記念日だったっけ?」

 まさか幹央が花なんて買ってきてくれるとは考えてもみたこともなかったので、その理由を真剣に考えてしまった。

「記念日でもなんでもないよ。だからさあ、さっき言ったじゃん、部活の帰りに花屋さんの前を通ったら、この花がきれいだったからって。ただ、それだけの理由だよ」

 少し照れながら唇を尖らせてそう言う幹央は、やっぱり可愛いな。

「へぇ、幹でもお花なんて買うことあるんだ」

 からかい半分にそう言ってみた。すごく嬉しいのに、全く素直じゃなくて可愛げのない母親だ。

 ひまわりは大好きな花の一つなので、特に嬉しかった。

 すぐに透明なグラスに水を入れて、ひまわりを差して台所に置いた。夕方近くになってもまだ衰えない夏の光が、レースのカーテンの透き間から射し込んで来て、ひまわりを活けたグラスに反射する。そんな些細なことなのに、とても幸せな気持ちになる。

 幹央は優しい少年に育った。幹央もやがて少年から青年になり、大人になって行く。ずっとこの優しい気持ちを持ち続けて欲しいと願う。あなたのお父さんの隆央さんがそうであるように、やがてあなたのお嫁さんになる女性のことを、その優しさで包んであげて欲しい。

 幸せな未来。私は、この幸せな未来を幹央と隆央さんに託したい。



2019年 8月2△日(□曜日) 晴れ

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 朝から体調が悪かった。頭全体が重くて、ふと気づくとぼんやりしていて、思考が完全に停止してしまっている。ぴったり張り付く被(かぶ)りもの、例えるならスイムキャップを常に被っている感じ。そんな締め付けられているような圧迫感とそれに伴う不快感とで、時おり吐き気も襲ってくる。

 それでも、朝はいつも通りに起きた。というよりも夜中に激しい頭痛に襲われて、それからずっと眠れずにいたので、朝が来るのが待ち遠しかったというのが正直な気持ちだ。

 睡眠が足りていないので身体がだるい。でも、体調の悪さを家族に気づかれたくはないので、隆央さんの朝食はきちんと用意をして、会社にも送り出した。続いて、幹央を起こして朝食の支度を終える頃には、頭の痛みが耐え切れないくらいに酷くなった。

 幹央に、「お母さん洗濯するから、悪いけど一人で朝ごはん食べてね」と声をかけて、洗濯機の置いてある浴室の脱衣所の床にバスタオルを敷いて、少し横になる。

 二十分くらい横になっていると、痛みはピークを過ぎ、徐々に薄らいで行った。お蔭でなんとか幹央を笑顔で部活に送り出すことができた。

 これはもう限界が近くなっているなと、自分自身で感じてしまうほどの激しい頭の痛みだった。もうこれ以上家族に黙っているわけにはいかないので、今夜、隆央さんに全てを話すことにしようと決める。

 幹央を送り出した後、二時間ほどまるで意識が無くなるほど深く眠った。

 眠りから覚めると、やっと自分の身体という感覚が返ってきた。心と身体が乖離したような感覚のままで過ごした、起きてからの二時間あまりのあの頼りなさともどかしさ、それに、このままどうにかなってしまうのではないかという大きな恐怖感がごっちゃ混ぜとなった複雑な気持ちは、もう決して味わいたくないと、二時間の眠りで取り戻した正常な感覚の中でそう思った。

 眠ったあとは、いつもの通り洗濯などの家事をして、買い物に行き昼食を作って食べた。

 病院で処方された薬を飲んだお蔭か、有り難いことに夜まで頭の痛みは襲ってこなかった。

 十七時頃に、部活のあと友だちと遊んできた幹央が、「あー、腹減った」と大声で叫びながら帰って来る。近頃では、この言葉が、「ただいま」の代わりの挨拶になっている。スポーツバッグをリビングのソファーの上に乱暴に投げると、早速冷蔵庫を開けた。これもいつもの行動のパターンだ。

「ねぇ、ラーメン作ってよ」

 冷凍庫からアイスバーを取り出して、もどかしそうに袋を破りながら、ごく当たり前のように言う。

「何を言っているの。すぐに晩ごはんなんだから、それを食べたらシャワーを浴びてきなさい。すごく汗臭いよ」

 私は、スポーツバッグの中から汗まみれになったウエア―を取り出しながら、その汗臭さに一瞬息を止めた。

「きらきら光る青春の汗なんだから、ちっとも臭くないはずだよ」

 幹央は生意気なことを言いながら、やっとのことでアイスバーの袋を剥ぎ取り、アイスにかぶり付く。小さい頃からそうだけど、お菓子類の袋を破るのは下手だよね。変わってないなとつまらないことを思ってしまう。

「じゃあ、自分で嗅いでみなさい、きらきら光る青春の汗の本当の臭いを。ほら」

 手にしたウエア―を幹央の顔に近づけると、「よせよ!」と俊敏な動作で逃げて行く。

「シャワー浴びて来るからさ、早くごはんにしてよ。ガッツリ系のやつね」

 約束通り、幹央がシャワーを浴びて出てきたら、すぐに食べることができるように夕食を準備した。幹央の食欲は凄い。例えは悪いが、廃墟で腐りかけた柱を食らい尽くすシロアリのような食べ振りだと、いつも感心をしてしまう。感心の仕方がちょっとおかしいかな。

 育ち盛り、食べ盛り。子供を、しかも男の子を育てるのはもちろん初めてなので、経験的な見識はないから何とも言えないが、他の同世代の男の子もこんなに食べているのだろうかと、次から次へと食べ物を口に運び、咀嚼し、飲み込んで行く、その淀みのない一連の動作を見ていたら、「今度の父母会で他のお母さんに聞いてみよう」と思う。でも、今度の父母会に、私は出席できるだろうか。急に不安がよぎる。この不安を打ち消すために、無心に食べている幹央の顔を見直したら、今度は涙が溢れて来てしまった。

 この涙を幹央に気づかれたくなかったので、お代わりの惣菜を取りに行くふりをして席を立った。

 隆央さんは、二十一時過ぎに帰って来た。

 いつも食事の前にお風呂に入るので、帰って来る前に、着替えとバスタオルを脱衣所にいつも置いておく。

 良くない話を告げるのは、食事が終わったあとでいいと思い、隆央さんが食事をしている間は、病気のことは一切口にしなかった。

「ごめんね、我慢できなくて幹と一緒に先に食べちゃった」

 どうしても食欲が出なくて、夕食を食べる気にはなれず、そんな嘘をついてしまった。

「そんなことは全く気にしなくていいんだけど、実はちょっと心配をしていたんだ」

 わかめと胡瓜の酢の物を口に運びながら、隆央さんが少し顔をしかめる。

「心配……、していたの。何を?」

 鼓動が激しくなる。まさか病気のことがバレてしまったのではないよね。

「由美のことだよ。最近、なんだか疲れているようだし、食欲もあまりないみたいだしな。それに少し痩せたよな」

 今ではお互い空気のような存在になっていると思っていたのに、やっぱりこの人は優しいんだ。ちょっとした変化をちゃんと見逃したりしないのだ。でも本当のことを言うのは、この食事が終わるまで待ってねと、心の中で手を合わせる。

「へぇ、私のこと気にかけてくれていたんだ」

 そうおどけた返事をする。実はどう返していいのか解らない。隆央さんが優し過ぎて。

「当たり前だろ、家族なんだから。昨日幹央も心配していたぞ、お母さん疲れているみたいだけど夏バテかなって。自分で直接お母さんに確かめてみろよと言ったんだけど、晩めしの時にあいつ何か言っていたか?」

 幹央まで気にかけてくれていたんだ。ああ、そうだったのか、だから一昨日、わざわざひまわりの花を買ってきてくれたんだ。あれは、幹央のお見舞いだったのだ。

 家族二人が心配してくれていることが、ズバリ的中していて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「ううん、なんにも言ってなかったよ。そんなこともう忘れちゃたんじゃないの?」

「忘れるようなことはないよ。ああ見えてもあいつ母親のことは結構気にかけているもの。お母さんのことが大好きなんだよ。完全にマザコンだな。まあ、大なり小なり男はみんなマザコンだけどな」

 そう言うと、隆央さんはビールを一気に飲み干した。隆央さんに言われなくても幹央の優しさは十分に解っている。一昨日だって私の好きなひまわりの花を買ってきてくれたんだよ。小遣いそんなにあげてないのに。

 家族が優しすぎるから、その家族を大好きすぎるから、また今夜も病気のことを告げることができなかった。


2019年 9月2△日(□曜日) 晴れ

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 入院の日が決まった。

 三日前の夕食のあとに、隆央さんに病気のことを打ち明けた。

 こんなに病状が進むまで黙っていたことを、きっと怒られるだろと覚悟をしていたが、隆央さんの反応は全く別のものだった。

「ごめんな、ずっと言えなかったんだよな。辛かっただろうに、僕や幹央に心配をかけたくなくて、ずっと我慢してきたんだろ。本当にごめん」

 隆央さんは、雨に濡れた子犬を見るような目で、私の目を見ながらそう言った。

「明日、一緒に病院に行こう。一日でも早く入院をして、由美の辛さを軽くしないと」

 隆央さんは、席を立つと携帯で会社の上司に、明日会社を休むことの連絡をした。

 私は、病院に電話をした。ちょうど担当医の溝口先生が宿直の順番に当たっていて、急な申し入れに対して、外来が終わってから特別に時間を取ってくれることになった。

 次の日、私と隆央さんの二人で、溝口先生と片山准教授にお会いした。この席で、最短で入院できるよう、すぐに調整をすることを溝口先生が約束をしてくださった。

「やっと、入院をする気持ちになったんですね。ということは手術も決断をされたということですよね」

 溝口先生にはそう問われたが、これには答えないことに決めて、曖昧に目を伏せた。

「もちろんです。家内をよろしくお願いします」

 代わりに隆央さんが答えを返してくれた。でも、私、手術は受けないと思うよ。

 そして、今日病院から連絡があり、明後日入院することが決まった。

 二日前に隆央さんと一緒に病院を訪れた時、担当の溝口先生は、私の病状につき、分かり易い言葉を選んで、とても丁寧に隆央さんに説明をしてくれた。

 先生の説明が進んで行くにしたがって、隆央さんの顔から表情が消えて行くのが、すぐ横にいる私にも手に取るように判った。表情の硬直に伴い、ひっきりなしに唾を飲み込む音が、昨夜はあんなふうに言ってくれたけど、現実を知ってしまった今、私に対して、「どうしてこんなになるまで黙っていたんだ」と責めているように感じられて、少し辛かった。というよりも申し訳ない気持ちでいっぱいになった。だって責められて当然だもの。

 病院からの帰り、「タクシーで帰ろう」と私の身体を気遣ってくれる隆央さんの提案を断って、私はいつも通り、バスで帰りたいと我儘(わがまま)を言わせてもらった。

 病院に来る時も、車で行こうという隆央さんの提案を断って、バスにしてもらったのだ。

 気がつけば、幹央が生まれてからは自家用車で行動することが殆どだったので、こうしてバスに乗ることは一度もなかった。生活の中心にはいつも幹央が居て、私はそれが嬉しくて、とても幸せだと感じていた。今もその気持ちには変わりはないが、入院をしたら、もう二人きりで歩くことも、バスや電車に乗ることも二度となくなる。

 だから、こうして我儘を言って、家までの二人だけの道のりを少しでも長いものにしたかったのだ。

 帰りの道中、バスの中で、隆央さんはしつこいくらい「大丈夫か?」を連発した。問われる度に「大丈夫よ」と答えていたが、あまりにも頻繁なので、途中からは笑顔を返すだけにした。

 二人きりの時間の中で、私たちは他愛のない話を沢山した。出会った頃のこと、結婚式のこと、それから幹央が生まれた時のことも。

 話をしながら、じっと隆央さんの顔をしていたら、私はやっぱりこの人のことが心から好きなんだなと改めて感じた。心の美しさや性格の良さが創り出す表情の優しさを、隆央さんは一点の濁りもなく持っていて、私の話に答える時の、どの表情も好きだし、その声も好きなんだな。

「幹は、日増しに隆央さんに似てくるね。身長も近づいてきているから、休日の朝に台所にのそっと入って来る姿を見て、一瞬どっちなんだろうって錯覚しそうになることがあるわ」

「僕は、のそっとは台所には入らないだろう」

 隆央さんが笑いながら反論をする。

「残念ながら、そこが一番似ているのよね。やっぱり親子なんだと思っちゃう」

 笑うと少し頭が痛くなり、なぜか急に不安になってしまっていた。

「そうかな? 自分では全く意識していなかったよ。僕は逆に幹央は由美に似ていると思っているよ。あいつ、一見ガサツなように見えても、結構優しいところあるだろ。気持ちが優しいというか、心が綺麗というか、そこが由美と似ているんだよな」

 えっ、そんなこと本気で言っているのと思いながら横を見たら、真面目な顔をして真剣に言っていたので、嬉しいような、照れくさいような、でも嬉しい方が断然勝っていたかな。反論するようで悪いけど、幹央が優しいのは紛れもなくあなたの遺伝子だよ、隆央さん。

「何よ、そんな嬉しいこと言って。もう一度、私を口説こうとでも思っているの?」

 やっぱり照れくさくて、そう茶化してみるしかなかった。でも今となっては、素直にありがとうと言えば良かったと後悔している。

「時間を遡(さかのぼ)って、まだお互いが出会う前の頃に戻ったとしても、僕はきっと由美を見つけ出してプロポーズをすると思うよ。これ僕の真面目な気持ち。だって、僕、由美に出会えたこと、結婚できたこと、大きな宝くじに当たった以上の幸運だと思っているもの」

 照れることもなく、そう言い切ってくれる、その言葉に私の胸は熱くなり、呼吸をするのさえ困難なほどに鼓動が激しくなっていた。だから言えなかった。言いたかったのに……。

「私も同じ気持ちです」

 と素直な気持ちを隆央さんに。

 大切な家族。逞しくて、ちょっと不器用だけど優しくて、いつも包み込んでくれる夫。素直で心の綺麗な、私の宝物の幹央。

 私が望んでいるのは、そして守ってやりたいのは、二人の幸せな未来。それ以外のことも、その以上のことも決して望んではいない。二人の幸せな未来のためなら、私は引換のものをなんでも差し出すだろう。


2019年 9月2★日(○曜日) 晴れ

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 いよいよ明日入院をする。なぜか実感がない。

 朝一番に飲んだ薬が効いているのか、入院の前に済ませておきたい用事をこなすために、自らを奮い立たせているせいなのか、頭の痛みは全く襲ってこなかった。

「ひょっとして、奇跡的に完治したのかも?」と、都合の良いことを考えてしまいそうになる。でも悲しいけど、そんなこと絶対に有り得ないよね。

 隆央さんと幹央を送り出したあと、家中のカーテンを洗濯した。脱水をしたあと、乾燥はせず、濡れたままの状態で元の場所に掛けた。自然乾燥をさせるとカーテンの自重でシワにもならない。それにこの厳しい残暑なので、二時間もすれば乾いてしまう。

 カーテンを洗ったあと、浴室を徹底的に掃除した。シャワーヘッドの蛇口も、床の目地もスポンジで丁寧に磨いた。年末の大掃除の時よりも綺麗になったかもしれない。

 体調が良い時には正常にお腹も空くもので、久しぶりに空腹感を覚えた。朝はまだ食欲がなかったので、朝食の時に食べ残してしまったハムエッグとレタスを食パンに挟んでサンドイッチにして、温かい珈琲を淹れてランチにした。

 テーブルの上にひまわりを差したグラスを飾ったら、おしゃれなカフェでランチをしているような贅沢な気持ちになった。お花一つあるだけで、幸福感がずい分と違うものだ。

 昼食を済ませて、すぐに夕食の下ごしらえを済ませた。このあと、冷凍庫に保存しておくハンバーグや春巻の惣菜と、ほうれん草と小松菜を茹でて食べやすい大きさにカットしたものを保存容器に詰めた。それに、幹央の大好物のコロッケもパン粉までつけた状態で一緒に冷凍庫に入れた。この時に、あれ、隆央さんはコロッケを揚げることができたかなと考えて、揚げてから冷凍にした方が良かったかなと迷ったが、結局揚げない状態のままで冷凍をしておくことにした。

 五時半になって、幹央が帰って来た。今日も「ただいま」の代わりの「超、腹減ったあー」と、元気な声が玄関に響く。

「お母さん、今日の晩ごはん何?」

 まったく幹央の頭の中には食べることへの興味しかないようだ。

「幹の好きなコロッケだよ」

 大喜びするのを期待してそう告げると、期待を裏切らないで、幹央は飛び上がらんばかりに喜んだ。

「すぐに食べる?」と聞いたら、先にシャワーを浴びるから、その間にコロッケを揚げておいてよと、生意気にも指示をする。でも、そこがまだまだ子供らしくて可愛いところなんだけど。

「いいよ、何個揚げておこうか?」

 四つかな? それとも五個かなと勝手に数えていたら、「七つお願いしまーす」と、とんでもない個数を告げて浴室に消えて行った。

 リクエスト通り、七つのコロッケを揚げ終えた絶妙なタイミングで、髪の毛をバスタオルで拭きながら幹央が台所に入って来た。

「幹、グッドタイミング!」

「コロッケを揚げる良い匂いが風呂場まで漂ってきたから、急いで出て来たんだよ。そそるよな、この匂い」

 そう言うと、幹央はすぐにテーブルについた。千切りキャベツと、揚げたてのコロッケ二個を同じ皿に盛って、残り五つのコロッケは別の大皿に盛ってテーブルに並べた。

 ごはんと味噌汁。それにエノキ茸と山芋の和え物。手羽先の柔らか煮も添えた。

「やっぱお母さんのコロッケは最高!」

 コロッケを一口齧るなり、間髪も入れずに幹央は、ガッツポーズを作った。ここでガッツポーズなんて要るかなと思いながら、その見事な食べ振りにしばし見とれてしまう。

 和え物を食べても、手羽先の煮物を食べても、幹央はその度に、「最高!」を連発した。こいつ母親の喜ばせ方を知っているなと、心の中で毒づきながら、それでもかなり嬉しかった。 

 ご飯も二杯お替わりしたので、さすがに七つ全部のコロッケを食べ切るのは無理だろうと思っていたら、あっと言う間にきれいに平らげてしまった。

 その上、「デザート、デザート」と言いながら、冷凍庫のドアを開けている。

「何、これ? ハンバーグとかコロッケとかいっぱい入っているけど」

 あっ、幹央に見つかってしまった。でももう明日のことだから、私の口から幹央に事情を話しておかないといけないだろう。 

「幹、テーブルに戻って来てくれるかな。お母さん、幹に大事な話があるんだけどな」

「大事な話しなの?」

「そう」

 私の表情を読み取ったのか。幹央はアイスキャンディーも持たず素直にテーブル戻って来た。

「大事な話って、何?」

 幹央にはただならないことだという察しがついているのだろうか、いつもになく神妙な顔をしている。

「お母さん、明日大学病院に入院することになったの」

と幹央の目を真っ直ぐに見ながら言った。

「えっ、入院?」

 幹央はぽかんとした顔をしていた。自分が予想していた大事な話とは全く違っていたのだろう。

「そう、入院。幹には少し不便をかけることになるけど」

「入院って、お母さんどこか悪いの?」

 幹央には、私が病気だという実感が持てていないのだろう。それも無理はない。病気のことは幹央にはずっと隠してきたし、最近は病院から強い薬を処方されていたので、症状も軽減していたし。

「検査で悪いところが見つかっちゃったの。元気なだけが取り柄だったお母さんとしては、まったく不本意なんだけどね」

 深刻にならないように、私は軽い感じで言った。

「そういうのって、鬼のカクランって言うんでしょ。漢字は書けないけど」

 幹央が私の意図を汲み取るかのように、軽い感じでそう返してきた。敏感なのだ。そして優しいのだ。今は、この優しさに甘えさせてもらおう。

「幹、難しい言葉知っているのね! 国語の授業で習ったの?」

 と私も本題から外れたところでしきりに感心する振りをした。

「前に担任の新山先生が風邪で休んだ時に、クラスの誰かがそう言っていたから」

幹央は褒められたことに少し照れながらそう言った

「でも、すぐに退院して帰って来るんでしょ?」

 この問いには、私の方が素直に頷くことができなかった。

 夜、お風呂に入ったあと、いつもより丁寧に心を込めて浴槽と浴室の掃除をした。

 全ての家事を終えた後に、たっぷりのお湯を張って全身を浸すだけで、心も身体もほぐれて行き、疲れがすーと引いていく感覚はそのまま幸福感とも重なった。

 五年前に家をリフォームした時に、お風呂好きな私のために、隆央さんが浴室を大きくし、一回り大きな浴槽を入れてくれたのだ。毎日私に幸福感を与えてくれたこの浴槽に感謝をしながら、いつもよりも丁寧に磨き上げた。

「ありがとう」と口にしてしまうと、もうこのお風呂に入れないような気がして、口をついて出そうになる、「ありがとう」の言葉を飲みこんだ。

 隆央さんと幹央が部屋に引き上げたあと、洗濯をした。明日の朝ではアイロンをかける時間がないので、幹央の制服の白いシャツも、洗濯をしてアイロンをかけておこうと思った。

 乾燥機から出した時に確認したら、シャツのボタンが一つ取れていたので、アイロンをかける前にボタン付けをした。

 隆央さんのワイシャツとスーツ、それにハンカチにアイロンをかけ、幹央の制服とハンカチにアイロンをかけた。

 部活のウエア―を畳んでいたら、激しく寂しさが込み上げてきて、声を出して泣いてしまった。

 取れてしまったボタンを。シワになった制服やハンカチを、これから誰が付け直したり、アイロンをかけたりしてくれるのだろうか。

「ごめんね」

 この言葉を口に出すのが怖かった。

 予定していたすべてのアイロンを掛け終えて、畳んでおいた洗濯物と一緒にいつものクローゼットに収める。

 そのまま寝室に行っても、ベッドの中で眠れない夜を過ごすのも辛いなと考えて、台所のテーブルでアルバムを開くことにした。最近、頻繁にアルバムを開いている。それは、もう取り戻すことのできない、過ぎ去った時間をなぞるような、玄冬に差しかかった初老の人間が行う作業と同じだろうか。

 それとも、すでに記憶の中に残っている思い出を、さらに強固なものにするために、例えば塗り替えた壁の塗装の上にさらに保護加工を施して、風雨による浸食を防ぐような、思い出のプロテクト作業なのだろうか。

 でも、アルバムを開くのは無条件で楽しい。一枚一枚の写真の中には、その時々の確かに存在した時間が閉じ込められている。

 幹央の宮参りの時の写真も、幼稚園の入園式の写真、運動会で隆央さんと手を繋いで走っている写真など、瞬時に時を遡って、あの日あの時に戻れるだけの記憶を、私はまだ持っている。

 写真に写し取られた家族の笑顔は、そのまま家族の幸せの印(しるし)だ。

 この笑顔が、これからの家族の幸せとなって永遠に続くように、この幸せの貯金通帳に貯めた幸せのポイントは、隆央さんと幹央のために使って欲しい。

 結婚して十五年、幹央が生まれて十四年。この間に少しずつ貯めた幸せのポイント。

 幹央、あなたが生まれて来てくれたお蔭で、幸せのポイントの加算はどんどんスピードアップしました。寝返りを打ったと言えば歓び、笑ったといえば狂喜して、あなたの一挙主一等速が、私に大きな幸せを与えてくれました。

 だから、この幸せのポイントは、隆央さんと幹央のものです。

 隆央さん、この広い地球の中で私を見つけ出し、結婚をしてくれてありがとう。あなたのお蔭で豊かで安らいだ気持ちで毎日を過ごせる幸せを、この全身で感じることができました。ずっと頼ってばかりでごめんなさい。知り合ってから今日までずっと、隆央さん、あなたのことが大好きでした。

 幹央、私たちの子供として生まれて来てくれてありがとう。幹は神様が私たち夫婦に贈ってくださった宝物だと思います。だって、こんなに私たちに沢山の喜びと幸せをくれたのだから。

 ……沢山のありがとうの気持ちを書き残しておきたいけど、いざ書こうとすると、思い出が洪水のように溢れてきて、胸が詰まってしまい、涙が次から次へと流れ出してしまう。

 いつも肝心な時に私は駄目だね。でも、ただただ、私は二人の幸せな未来を願っています。そのために、この幸せのポイントを大事に使ってください。

 大好きな二人のことは、どんなことがあっても決して忘れないよ。


 僕は、幸せの貯金通帳を読み終えてからも、心の震えがなかなか止まらなかった。

 入院の前日に書かれたコメントは、幸せの貯金というよりも悲しみに溢れたお母さんの思い出でいっぱいになっていた。

 最後の方は文字も乱れ、あきらかに落ちた涙が乾いたあとを示すように、ノートが海藻のように波打っていた。

 お母さんはどんな気持ちでこのコメントを書いたのだろうか。まるで遺書のようなこのコメントを僕たちに託したのは、どんな覚悟の上のことなのだろうか?

 お母さん、きちんとお別れを告げたかったの? それとも十六年間少しずつ積み立ててきた幸せのポイントを、お父さんと僕の幸せの未来のために使って欲しいことを伝えたかったの?

 そのどちらにしても、お母さんの気持ちを包み隠さず綴ったこのコメントが、お母さんの病気が簡単に治るものではないことをはっきりと物語っている。そして、入院をする前に、すでにお母さんが、手術を放棄することを決めていたことを僕に教えてくれている。

 自分の病気を治すことで、せっかく貯めた幸せのポイントを使ってしまうことを、お母さんは『よし』としなかったのだ。

 お母さん、もしもそうなら、それは絶対間違っているよ。

 幸せのポイントで幸せな未来が買うことができるなら、幸せは、僕とお父さんの二人だけでは決して掴むことができないのだから。なぜなら僕たちの幸せは、「相澤」という家族の中でしか、絶対に育まれはしないものだから。

 お母さん、あなたが居ない未来に、決して僕とお父さんの幸せを見つけることができないのです。そこには、悲しさと寂しさが渦巻く未来しか存在しないと思うから。

 お母さん、あなたの存在は、僕とお父さんにとって、例えるならば光合成をする植物と太陽のような、回遊する魚の群れと暖流のような、そんな離れてしまうと生命の危機をもたらすような、決して離れては生きてはいけない命と命でつながった存在です。

 幸せの未来のためには、家族全員が、絶対に不可欠な存在なのです。

 相澤家の幸せのパズルは、三つが全部揃わないと、永遠に完成しないのです。


 次の日、遅く起きた僕は、昼過ぎにお父さんと病院に行ったが、お母さんは頑なに僕たちを会おうとはしなかった。

 担当の医師は、「今はそっとしていた方が、本人も冷静になって手術のことを考えられると思いますし、それに興奮をさせてしまうことが最も危険ですので、辛いでしょうけど本日はそのままお帰りになった方が良いと思います」と言って、僕とお父さんを慰めてくれたが、お父さんの悲しさと寂しさとやるせなさが入り混じった顔を見ることの方が、お母さんに会えないことよりも、僕にはもっと辛かった。

昨夜、お母さんが書いた幸せの貯金通帳を読み終えた時に、僕がお母さんのためにできることがあるとしたら、これしかないと閃(ひらめ)いたことがあった。この閃きは短時間のうちに僕の中で確信へと変わり、決心へと固まって行った。

 残された時間は少ししかない。僕はこの決意をすぐに行動に移すことにした。

 病院からの帰りに、「友だちの買い物に付き合う約束をしているから」と、ショッピングモールの前で車を停めてもらった。

 お父さんに嘘をつくことに後ろめたさはあったけど、僕の決意をまだお父さんに知らせたくなかったので、僕は嘘をつくことを選んだ。

 車を降りると、ショッピングモールに併設してあるバスターミナルに急いだ、気持ちが急いているのか、気がつけばまるで誰かと競っているように必死で走っていた。

 目的のバスは運よくすぐにあった。このバスターミナルは全ての路線の始発になっているので、目的のバスも待機したまま出発時間を待っていたのだ。

 車内にはまだ空席が残っていたので、僕は二人席の窓側に座った。

 バスはショッピングモールを中心とする商業施設が集まる繁華街を抜けると、新しい家並みが続く新興の住宅街へと進んで行った。それをさらに進むと、今度は昔ながらの築年の長い家屋が建ち並ぶ住宅地に着いた。ここに到着するまでに三十分かかった。

 僕は、この古い住宅地の入り口の停留所でバスを降りた。そして、おぼろげな記憶を頼りに目的の家を捜して歩いた。僕の記憶力が凄いのか、それとも頼りない記憶でも辿って行けるほどに街並みの変化が少ないのか、意外にもスムーズに目的の家を見つけることができた。

「こんにちは」

 インターフォンのボタンを押して、そう挨拶をする。

「はい、どなた?」

「幹央です。相澤幹央です」

「まあ、幹央君なの? すぐにドアを開けるわね」

 そう言うと、おそらく玄関まで小走りでやって来てくれたのだろう、ドアが開いて、軽く肩で息をする内藤の曽祖母が顔を出した。

「まあ、珍しいお客様がいらしたわね。少し見ない間にすっかり大きくなっちゃって、さあ、お入りなさい。お母さんは元気なの?」

 曾祖母は、矢継ぎ早に自分の言いたいことだけを言うと、僕の答えを待たずにどんどん居間に導いて行く。

 勧められるままソファーに腰かけると、すぐに曽祖父も顔を出した。

「おー、ぴちぴちの若者が来たな」

 そう言うと、曽祖父は僕の向かいのソファーに座った。

「久しぶりに訪ねて来たひ孫のことを、まるでとれ立てのまぐろのように言わないでよ」

 そうクレームをつけると、「まぐろのような高級魚ではなくて、せいぜいイワシかアジくらいだろ」と返された。

「幹央は何歳になったんだっけ?」

「十四歳、中学二年生です」

「ずい分背が伸びたようだけど、身長はどれくらいあるんだ?」

「百六十九センチあります。あと三センチでお父さんの身長を追い抜くんです。もう時間の問題かな」

「あらら、それは頼もしいこと。あの娘が幹央君の今の姿を見たら、どんなに喜ぶことでしょう。本当にこんなに大きくなって……」

 曾祖母はティシュで目頭を押さえている。

「おいおい。いきなり泣いたりして、幹央も戸惑っているじゃないか。済まんな、最近とみに涙もろくなってしまってなあ。歳は取りたくないもんだよ。身体の自由もきかなくなってしまうし」

 曽祖父は大きい声で笑った。

「お二人ともお元気ですよ。今日、久しぶりに顔を見て、お元気そうなんで安心しました」

 僕は素直な気持ちを口にした。とても八十を超えているようには見えない。

「まあ、嬉しいことを言ってくれるのね。久しぶりって言わないで、これからは頻繁に顔を出してくれると嬉しいんだけどな」

 ちらっと本音を吐いた後、曾祖母は「紅茶を淹れてくるわね」と席を立った。

 曾祖母が席を外している間、曽祖父は、僕の中学校での生活などの話しを興味深く聞いていた。

 曾祖母の自慢の生のフルーツを入れた紅茶を一口飲んで、「やっぱりお祖母ちゃんの淹れてくれるフルーツティーは、いつ飲んでも美味しいね」というと、「幹央君は、これが小さい頃から好きだったものね」と、嬉しそうな顔をした。

 一杯目を飲み干し、お代わりの紅茶が注がれた時に、僕は今日訪ねて来た目的の話を切り出した。

 本当は、僕の話の途中で、何度も口を挟みたいところがあったとは思うが、二人は僕の話を最後まで、時には頷き、時には悲しそうな表情を浮かべながら、真剣に聞いてくれた。

「ああ、由美はそんな大変なことになっていたのか。知らせてくれてありがとう」

 曽祖父は蒼ざめた顔をして、やっと口を開いたというように、小さな声でそう言った。僕が話しているうちに泣き出してしまうのではないかと心配でならなかったが、曾祖母は表情を強張らせながらも、最後まで気丈夫に話を聞いてくれた。

「それで、手術をすれば確実に治ると医師は言っているんだな」

 曽祖父は冷静に質問を返してきた。

 この質問に対して、完治を考えるなら、記憶を司る脳神経を傷つけてしまうリスクも同時に背負うことになることを、僕は包み隠さず話した。

「由美は、そのリスクを恐れているのか?」

 曽祖父の声が大きくなった。そんなこと恐れてどうするんだと、叱咤する気持ちが、曽祖父の声の大きさに表れていた。

「違うと思います」

 僕は黙っておこうと思っていたが、母の名誉のために、幸せの貯金通帳の話をすることにした。

 僕が幸せの貯金通帳の話をしている間、曾祖母は何度もティシュで涙を拭い、鼻をすすった。

「生みの親、育ての親を続けて亡くした深い悲しみを知っているから、家族の幸せを一番に考えてしまうんだろうな」

 曽祖父は静かな声に戻ってそう言った。その言葉が僕の心の中に、まるで水たまりに小さな石を投げた時の波紋のように、ゆっくりと広がって行った。

「私たちは何をしたらいいの? 何をしてあげることができるの? 明日にでも病院に駆けつけて、由美に手術を受けるように説得をしようか?」

 曾祖母は何かにすがるような目をして、七十歳近く年下の僕の目を見た。

「隆央君や幹央が説得をしても駄目なのだ、わしらが何を言ったって、由美の気持ちが変わることはないだろう」

 曽祖父は冷静だった。僕も曽祖父と同じ考えだ。

「じゃあ、このまま由美が息絶えて行くのを、ただ何もしないで待っているしかないということなの? そんなの悲しすぎるし、辛すぎるわ」

 曾祖母は、両手で顔を覆った。

「由美が自分で決めたことだ。どうしてもそうしなければならない、あるいは、自身がそうしたいと考える、抜き差しならない事情があったのだろう。由美だって隆央君や幹央を残したまま自ら死を選ぶことを、心の底からは願ってはいないだろう。でも由美なりに色々と考えた末に、そうすることが最良の選択だと結論付けたのだろう」

「だから、幸せの貯金通帳に貯めたポイントを、自分が手術を受けることで全て使い切ってしまうことが嫌だったということでしょう。この幸せのポイントは、隆央さんと幹央の幸せ分として残しておきたいと考えたのよ。そのために自分の命を犠牲にすることは少しもいとわなかったということなのね。でも、死んでしまったら、なんにもならないのに。あの子、何にも解っていない……」

 曾祖母は両手で顔を覆ったまま、頭を大きく横に振った。

「これじゃあ、自分の母親と同じことをしようとしているじゃないか。愛する家族を残して、若くしてあの世に行ってしまった母親と同じだよ。でも、由紀子は決して自ら死にたいとは思っていなかった。まだ、十歳になったばかりの娘を残して命が絶えることを望む母親が何処にいるだろうか。由紀子は無念だったと思う。家族と一緒に歩んで行く未来を自分ながらに描いていたんだろうに、それを実現できなかった心残りは、絶対に娘の由美にも伝わっているはずだ。幸せは個人一人ひとりにあるものじゃなく、一人ひとりが小さな幸せを持ち寄って、これを合わせることで大きな幸せに育て上げて行くものなのだ。そんなことは、由美だって骨身に沁みて解っているだろうに」

 曽祖父の目には、いっぱいの涙が今にもこぼれそうなほどに溜まっていた。

 自らの死を覚悟した孫の心情を思っての涙なのか? それとも若くして亡くなった娘の無念さを思い出しての涙なのか? いや僕はその両方だと思った。

「あなたのその思いを由美に直接お伝えになった方が良いんじゃないですか。そうすればきっと由美だって手術のことを考え直すと思いますよ」

 曾祖母はすがるような目をして、曽祖父の横顔をじっと見つめている。

「いや、きっとわしの意見でも由美の気持ちは変わることはないだろう。……とても悲しいことだけど、それが現実だ」

 曽祖父の言葉は、終わり間際の線香花火のように頼りなかった。

「じゃあ、私たちには、由美のために何もしてやることがないということなの?」

「さっきも言ったが、残念だがこれが現実だ」

 曽祖父の線香花火は、ここでポトリと落ちた。

「代われるものなら、私の命と引き換えに由美の命を守ってやりたい。娘の由紀子を失って、孫の由美まで失うなんて、いったい私たちがどんな悪いことをしたというのよ。この世には神様はいないの? こんなの酷すぎる」

 曾祖母が取り乱しそうになったので、僕は今日ここに来た目的を二人に説明をすることにした。

 僕は早口にならないように注意しながら、僕の思いを丁寧に二人に説明をして行った。

 そして、あるお願いをした。

 曽祖父も曾祖母も僕の思いを理解してくれた。そして、お願いしたことについてもその場で実行をしてくれた。

 曽祖父母の家を出たのは、秋になり早くなった夜の訪れが、その帳(とばり)を下そうとしていた五時すぎだった。結局、僕は曽祖父母の家に二時間以上居たことになる。

 僕は、曽祖父母の家を出る前に、「知っているなら教えて欲しい」と、ある人の連絡先を訊ねてみた。正直あまり期待はしていなかったが、運よく曾祖母がその人に連絡が取れるように電話番号も教えてくれた。


次の日、月曜日の朝。

お父さんが作ってくれたハムエッグとレタスサラダを、自分で食パンを焼いて牛乳と一緒に食べた。朝食を終えると、先に家を出たお父さんの分まで食器を洗ってから、スマホはまだ持たせてもらえてないので、固定電話の受話器を手に取った。

昨日曾祖母に教えてもらった電話番号をプッシュした。市外局番からすると、それほど遠くではなさそうだ。

もし働きに出ているなら、すでに家を出ているかもしれないなと思いながら電話をしたのだが、幸い目的の相手が直接電話を取ってくれた。

「もしもし、初めてお電話をさせていただきました。相澤幹央と申します。あのお、僕の名前を聞いたことはありませんか?」

 相手は、「もしもし……」と言ったきり、しばらく沈黙したままだった。自ら電話するのは初めてなので、僕の名前を頭の中で復唱して、記憶の糸を手繰り寄せているのだろうと考えて、僕はじっと待った。

「えっ、幹央君、由美ちゃん家(ち)の?」

 相手は、なんとか思い出してくれたようだ。

「そうです。ご無沙汰しています。内藤のお祖母ちゃんに連絡先を教えてもらって、こんな朝の忙しい時間に失礼だと思ったんですけど、厚かましくお電話をしました。迷惑も考えないでごめんなさい」

「幹央君は、たしかまだ中学生だよね」

「はい、中学二年生です」

「それなのに、きちんと敬語を使うことができるんだね。由美ちゃん、しっかり躾をしてきたんだね、きっと」

「そうですか。ありがとうございます。自分としては失礼がないように、見様見真似で一生懸命に話をしたので、そう言ってもらえると嬉しいですし、安心をしました」

「そうか、もう中学二年生になるんだね。前に会ったのは、お祖母ちゃんとお祖父ちゃんの法事の時だったから、幹央君はまだ小学生だったものね」

「あらからもう、ずい分経ってしまいましたね。改めてご無沙汰をしています」

 僕は受話器を耳に当てたまま頭を下げた。

「ご無沙汰なのはお互い様だもの。由美ちゃんは元気にしているよね?」

 電話の相手は、お母さんの育ての母親、つまり僕の祖母にあたる人の妹、美奈子おばさんだった。

「それが、実は母は今入院をしていて、そのことで、どうしても美奈子おばさんに連絡をしたくて……」

 僕は思い切って、いきなり本題に入った。

「えっ、まさか危篤とか、最悪な状態なんかじゃないよね。だって由美ちゃんまだ三十代でしょう。ひょっとしてお姉ちゃんと同じように事故とかに遭ったんじゃないよね?」

「いえ、事故ではなくて、病気で入院をしています。危ない病状ではないですが、目は離せない状態ではあります」

「それどういうこと。目が離せないって、悪い病気が見つかったとかなの? それってもう治らない病気なの。私、そんなこと嫌だよ。お姉ちゃんの時だって、どんなに辛くて悲しかったか」

 美奈子おばさんは、悲しそうな声を上げた。

「安心をしてください。ちゃんと治る病気です。母の病気を治すために美奈子おばさんに是非お願いしたいことがあって電話をしました。突然ですが、今日、学校が終わってからお家にお邪魔してもいいですか? 今日のご都合はどうですか? 都合のよい時間帯はありますか?」

 僕は強引に今日の約束を取り付けるつもりでいた、とにかく時間の余裕がない。

「私は、いま専業主婦でずっと家に居るから、いつ来てもらっても大丈夫だよ。良かったら晩ごはんをうちで食べて行かない。ゆっくり話も聞きたいし」

 美奈子おばさんは、母が入院をして食事にも困っているだろうと気を遣ってくれた。

「そうしたい気持ちでいっぱいなんですけど、そうすると父が一人で晩ご飯を食べることになるし、それはちょっと寂しすぎるかなと思うので、せっかく誘ってもらったけど、今日は諦めます。母の病気が治ったら、今度は母と一緒にそちらに遊びに行きます。その時はゆっくり晩ごはんをご一緒させてください」

「分かった。とにかく今日の夕方に来るのを待っている。念のために来る前に一度電話くれるかな」

「はい、わかりました。僕のわがままなのに、快く引き受けてくださってありがとうございます」

「何を他人行儀なこと言っているのよ。血は繋がっていなくても、私は幹央君のお母さんの叔母さんなんだからね。遠慮なんか必要ないのよ」

「はい。分かりました。嬉しいです」

 僕は、涙がこぼれそうになるのを我慢しながら受話器を置いた。

 この日、学校が終わると、僕はすぐに美奈子おばさんの家に向かった。すでに二学期の中間テストの十日前になっていたので、部活は休みになっていて、わざわざこのために部活を休む連絡をしなくても良かった。

 最寄り駅で電車に乗る前に、公衆電話(公衆電話がなかなか見つからなくて少し時間をロスしてしまった)から美奈子おばさんに連絡を入れた。

 美奈子おばさんが教えてくれた駅までは、電車に乗って二十五分くらいで着いた。改札口を出たところで美奈子おばさんが待っていてくれた。しばらく会っていなかったので、美奈子おばさんの顔が判るかなと不安だったけど、お母さんが居間に飾っているお祖母ちゃんの写真を毎日見ていて、その面影があるので、すぐに美奈子おばさんを見つけ出すことができた。

 郊外の自宅まではバスでさらに20分くらいかかってしまうので、駅前のファミリーレストランの方がいいかなと思ってと、美奈子おばさんは僕からの連絡を待って、すぐに家を出て来たのよと言った。

「わあ、すごく大きくなったね。これじゃあ、人ごみの中だったら見つけ出せないかもしれないね。前に会った時はまだこんなに小さかったんだもの」

 僕の姿を見つけるなり、美奈子おばさんは嬉しそうにそう言った。

 駅のすぐ前にあるチェーン展開しているファミリーレストランに入り、美奈子おばさんはアイスコーヒーを、僕は、「お腹空いているでしょ、遠慮しないでおやつを注文しなさい」と美奈子おばさんが言ってくれて、苺のパンケーキとアイスティーのセットを注文した。

 注文したものが届くまでの間に、母の病状について簡単に説明をした。

「それは深刻だね。でも、どうして由美ちゃんはそんなに頑なに手術を拒んだりするんだろう?」

 幸せの貯金通帳のことはまだ説明をしていなかったので、当然の疑問だと思う。

「その理由はね……」

 そう言いかけた時に注文した飲み物とパンケーキが届いたので、美奈子おばさんが、「まずは腹ごしらえだね」と言ってくれて、僕はお預けを食らうことなく苺のパンケーキにありつくことができた。

 パンケーキをきれいに平らげて、アイスティーを半分ほど飲んだところで、僕は本題に戻すことにした。

「さすがに育ち盛りの男の子の食べ振りは気持ちいいね」

 美奈子おばさんは、眩しいものでも見るように、目を細めて僕を見た。そして、じゃあ、話の続きを聞かせてと、僕が話を切り出すきっかけを作ってくれた。

 僕は、幸せの貯金通帳の話を詳しく美奈子おばさんにした。加えて、昨日の曽祖父母とのやり取りについても話をした。

 かなり詳細に話をしたので、話し終わった時には、大きく取られた窓の、レースのカーテンを夕陽がオレンジ色に染めていた。

「子を持つ母親としては、由美ちゃんの気持ちは痛いほど解るわ。自分の命と引き換えにしても子供の幸せを願う気持ちは、どの母親でも同じだと思う」

 ここで言葉を切ると、美奈子おばさんは一度窓の外の方に視線を逸らした。視線が再び僕の前に戻ってきた時に、静かだけどしっかりとした口調で言った。

「でも、由美ちゃんの考えは完全に間違っていると、私は思う」

 美奈子おばさんは、アイスコーヒーを一口飲むと、話を続けた。

「今、由美ちゃんがやろうとしていることは大方の母親が陥ってしまう過ちなんだよね。子供のために自分を犠牲にしてしまうことは全くの自己満足で、本人はそれで満足かもしれないけど、子供にとっては全くのありがた迷惑な話で、ましてやこれに命の存続まで関わってきたら、迷惑を通り越して一種の犯罪だよね。幹央君は、そう思わない?」

 美奈子おばさんにそう問われたが、僕はすぐには答えを出すことができなかった。だって、あまりにも美奈子おばさんの話が辛辣(しんらつ)で、しかも衝撃的だったので、それに圧倒されて思考回路が急停止してしまったのだ。

 僕の驚きと戸惑いの様子を察知して、美奈子おばさんは、「違う、違う」と手のひらを横にひらひらと振った。

「別に由美ちゃんを非難しているわけではないの。実はね、うちでも長男の雅之が高校生の時に色々とあってね、その時の経験から言っているの。その頃、雅之は反抗期というか、完全に道を外していて、警察に補導されるなんてしょっちゅうだったのよ。まともに学校には行かないし、タチの悪い連中とつるんで悪事は働くはで、学校や警察には頻繁に呼び出されるし、被害者の家に謝りに行くたびに、『あんな馬鹿息子は、このまま生かしていても、世の中のために役に立つことはないだろし、それどころか逆に社会の悪だろ、ダニだろ。親であるお前がなんとかしろ』と、土下座をさせられた上に、そんな辛い言葉まで浴びせられて、「私は、なんでこんな子を産んでしまったんだろう」と、自分を責める毎日だったの。その頃は、寝ても覚めても頭の中は雅之のことでいっぱいだった。

 旦那に相談をしても埒があかなくて、児童相談所に何十回も通った。それでも、対応すべき手段を全く見つけることができずに、殆どノイローゼ状態になっていた。周りが全く見えていなかったもの」

 ちょっと話が重たくなったけど大丈夫? と美奈子おばさんが話を中断したので、「大変興味深いです」と言って、話の続きを促した。

「もっと、色々な人に相談するなり、このことばかりに考えが行かないように、気分転換を図るなりの施策を取ればよかったと今なら分かるけど、その時は、自分の力でなんとかしなければと、そればかり考えていたの。だって、自分はこの子の母親なのだから、この子のことは私が一番分かっているし、この子の幸せを一番に望んでいるのも自分だと、身勝手な判断をしていたのよ。

 結局、考えが煮詰まって、いよいよ焦げ付きそうになってしまい、私はとんでもないことを考えるようなってしまったの」

 美奈子おばさんは、これ以上は話すべきではないのではないかと考えたようだ。だからこう言った。

「これからの話は、中学生の幹央君には刺激が強すぎるかな」

 だけど、僕は話の続きが聞きたかった。どんなに辛い話でも、そこにお母さんを助けるヒントが隠されているなら、僕は聞きたいと思った。それに、お母さんが書き続けた「幸せの貯金通帳」や、お母さんの継母が書いた手記を読んだ後の今となっては、多少のことでは動揺はしない自信もあった。

「お話の続きを聞かせてください。聞いていて辛いなと僕が感じたら、中止のお願いをしますから」

 真っ直ぐに美奈子おばさんの目を見て、僕はお願いをした。うん、わかったと美奈子おばさんは言った。美奈子おばさんの話はこうだった。

 私は、自分の考えを実行に移すことにした。しぶる雅之を、「たまには気分転換したいし、あんたとゆっくり話もしたい」と、それらしい言い訳で説き伏せて旅行に誘った。旅行といってもローカル線で二時間足らずの温泉地だったけど。なんとか雅之を旅行に連れ出すことには成功をした。

 温泉地の駅に降り立って、昼間は二人で通り一遍の観光をし、他の観光客に頼んでツーショットの記念写真を撮ったりした。雅之は、「なんで好き好んでおふくろなんかと一緒に写真撮らなきゃいけないんだよ」と、一応不貞腐れては見せていたけど、親子での旅行を満更でもないと思っているのが、その様子からも窺えた。

 冷静に考えられる今になって思い返せば、本当に滑稽だよね。雅之とはしゃぎながらも、心の中では、二人で楽しい思い出を作って、夜、温泉に入り美味しい物に舌鼓を打ったあとに、寝入った雅之の首を絞めて殺し、自分もあとを追うことばかりを考えていたのだから。

 いざその段になって、震える手で雅之の首にロープを巻きつけて、交差させたロープの両端を引っ張り上げようとした時に、雅之がいきなり「ぱっ」と目を覚ました。想定外のことに私はびっくりして腰を抜かしそうになったけど、敏捷な動作から察すれば、雅之は気配に気づいて目を覚ましたのではなく、最初から寝た振りをしていただけだということが判った。

 雅之は、私の行為を咎めるような行動は取らなかった。それどころか巻き付いたロープをそのままにして、私の目を見ながらこう言った。

「おふくろ、たとえ腹を痛めて生んだ母親でも、息子の命を自分の自由にしていいわけないだろう。生んでくれたのは確かにおふくろだけど、この世に生を受けてからの人生は、誰のものでもなく俺自身のものなんだ」

 それは、私を非難する言葉だったけど、雅之の目には全く怒りは含まれていなくて、「情けないなおふくろ」と言わんばかりの憐(あわれ)みの色が滲んでいた。日頃雅之が決して見せたことのない優しい目の表情をしていた。

 そう言ったすぐあと、雅之は自らロープの両端を掴むと力いっぱいにそれを縛り上げた。そして、苦しそうな声で、「俺のことを殺すことでおふくろが楽になるなら、俺は自分の意志で死ぬことを選ぶ。おふくろを殺人犯なんかにはさせたくない」と言うと、さらにロープを引っ張る手に力を込めた。

 私は、この雅之のひと言で、一瞬のうちに目が覚めたような思いだった。雅之のためだと自分勝手に悩んで、良かれと思ってやったことが、実は逆に雅之を苦しめ、追い詰めることになっていたんだと気付いた。実際に自分のことばかり考えていて、雅之のことなんてこれっぽっちも考えていなかったのだ。

 私は、今度は死にもの狂いで、雅之の手を振りほどき、ロープを首から抜いた。

 でも、同時に思った。愚かな過ちを犯す前に、雅之のお蔭で大きな間違いに気付くことができて、まだ間に合って本当に良かったと。そう思ったら、涙が溢れてきて、あとはもう涙を止めることができなかった。

たとえ、それが最愛の家族や肉親であったとしても、その人の人生はその人のものだという本当に当たり前のことに、私は全く気付いていなかった。母親という立場に甘えていて視野を狭くしていたんだと思う。

だから、由美ちゃんが幹央君や隆央さんの幸せを願うために、自分の命を犠牲にしようとしている考え方は、傲慢だし、絶対に間違っていると思う。だって、そんなこと幹央君も隆央さんも全く望んではいないでしょう。

 当時の生々しい現場にリンクしてしまったのだろう、美奈子おばさんは目を真っ赤にしていた。

「美奈子おばさんの言う通りだと思います。僕もお父さんも、お母さんの命と引き換えに幸せをもらっても少しも嬉しくないし、大体、お母さんのいない僕たちの家庭に幸せなんて絶対に訪れてはくれないと思います。それに、未来の保証なんて神様でさえもできないし、第一、幸せな未来なんて誰かに約束してもらうものじゃなくて、自分で見つけて、それに向かって努力や行動をしていくものだと、僕は思っているから」

 僕は素直に自分の気持ちを口にした。

「おばちゃん安心した。幹央君がまっとうな考えを持つ中学生に成長していて、本当に嬉しい。さすがに由美ちゃんと隆央さんの息子だね。良い育て方をしているよ」

 美奈子おばさんは、真っ赤な目を笑顔で細くしながら、何度も嬉しそうに頷いた。

「まっとうかどうかは自分では判らないけど、美奈子おばさんの言うことがきちんと理解できるくらいには成長しているかな」

「それがまっとうということなのよ。あれ、これってかなり上から目線だよね。私の言うことは何でも正しいのよって説教しているみたいだもんね。でも、誤解しないでよ、おばさん、全然そんなつもりで話した訳じゃないんだからね」

「そのことも理解ができるくらいの中学生にもなっています」

 二人はお互いの顔を見ながら笑った。

「由美ちゃんがやろうとしていることを知ったら、内藤さんもお姉ちゃんも、絶対に悲しむと思う。あっ、内藤さんって由美ちゃんの実のお母さんのこと。このことは幹央君も知っているよね」

「はい、内藤の曽祖父母とは昨日も会いましたから」

「そうだったね。じゃあ、お姉ちゃんが由美ちゃんの母親になった経緯も?」

「はい、お祖母ちゃんが書いたノートを父が読ませてくれました」

 僕は、土曜日の夜に読んだ祖母の話を頭の中で反復した。

「幹央君のところは、良い家庭だね。こんな複雑な話をお父さんが息子にきちんと伝えることは、なかなか、どこの家庭でもすることじゃないからね。それに、お父さんがそうしてくれたということは、由美ちゃんが隆央さんに詳細を話しているということだからね。夫婦間の関係もかなり良好なのね」

「良い家庭かな?」

 僕は、今回の母の行動を顧みて、少し首を傾げた。

「良い家庭だよ。仲の良い家庭だから、由美ちゃんが家族のことを一番に考えてしまうのよ。自分のことよりも、まず家族の幸せや喜びを優先してしまうの。家族が喜ぶ顔を見るのが一番で、家族が傷ついている姿や、悲しんでいる姿は絶対に見たくないと考えるの。だから、お父さんは仕事を頑張れるし、お母さんは家族のお世話に精を出すんじゃない。幹央君だってそうでしょう、テストで良い成績を取ることで、部活で活躍することで、お父さんとお母さんが喜んでくれることが、大きな励みにもなっているでしょう?」

「ねっ」て、確認するように美奈子おばさんは、僕の目を見た。

「そう言われれば、確かにそうした部分もあります」

 僕はこくりと頷いた。

「だって、幹央君は、幸せな家庭ですくすくと育っていますオーラを全身から出しているもの。誰が見たって幸せ者振りが丸分かりだよ」

「そんなオーラなんて聞いたことがないですけど」

 いいの、いいの。即興でおばさんが作った言葉なんだからと、美奈子おばさんは笑った。

「それで、今日、わざわざ訪ねて来てくれたのには、何か別の用件があるからなんでしょ」

 さすがに大人だ。最初から僕の訪問の本当の目的が他にあることを見抜いている。

「実は……」

 僕は、正直に僕の考えを話し、美奈子おばさんへの個人的なお願いごとを説明した。

「解った。それならおばさんにも力になれると思う。いや、絶対に力になるように頑張る。お姉ちゃんの分まで、おばさん頑張るからね」

 僕の話を聞き終わると、美奈子おばさんは、協力を惜しまないことを約束してくれた。実際には血縁もないし、たまにしか会うこともないのに、親戚ってこんなに優しんだと思ったら、急に胸が熱くなった。

 店を出る時に、美奈子おばさんが、手作りの惣菜が入った大きな容器三個を大きなビニール袋に入れて手渡してくれた。

「今日の晩ごはんの足しにしてね。口に合うかどうか判らないけど」

 容器の中には、レンコンのきんぴら、オクラの胡麻和え、鶏の竜田揚げが各々入っていた。

「わあ、今日の夕飯は大ご馳走になります。ありがとうございます。それに、我が家の味は、亡くなったお祖母ちゃんから習ったものなのよって、お母さんが良く言っているから、きっと、お父さんと僕の口にも、美奈子おばさんの料理の味はばっちり合うと思います」

 僕は深々と頭を下げた。

「何、幹央君はおばさんを喜ばせる術も心得ているの、末恐ろしいね。おばさん、今の言葉でぐっと心を掴まれてしまったわ。だから、お礼なんて言わなくていいから、これからは困った時だけじゃなく、どんどん顔を見せるんだよ。こう見えても、私は幹央君の身内なんだからね。約束だよ」

「身内なんだから」

 この言葉が、胸に染みた。

「はい。どう見ても美奈子おばさんは身内ですから」

 返す言葉が涙で湿ってしまった。


 その日の夜、お父さんが帰って来た時、食卓に並ぶ惣菜を見て驚きの声を上げた。

「このおかず、幹央が作ったのか?」

「まさか、そんなこと有り得ないでしょう。僕が作ったのは味噌汁と、ご飯を炊いただけだよ。この惣菜は美奈子おばさんからの差し入れ」

「美奈子おばさん?」

 どうして美奈子おばさんがいきなり出てくるんだと、お父さんは怪訝な顔をした。

「その説明は、ご飯を食べながらするよ。とにかく僕はお腹が空き過ぎているから」

 僕は、二人分のご飯と味噌汁をよそった。

 久しぶりに家庭の味を堪能しながらの夕食だった。僕は、今日の美奈子おばさんとのやり取りをお父さんに説明をし、合わせて僕の考えも話をした。

 僕の話を聞き終えて、お父さんが大きく頷き返してくれた。

「気づかないうちにお父さんたちは、お母さんに間違った対応をしていたのかもしれないな」

 お父さんは、強い光を放つ目で僕を真っ直ぐに見ながらそう言った。

「もっと強く、お母さんに訴えるべきだった。家族の幸せは、その家族の中で、たった一人の犠牲があっても成り立たないことを、全身全霊をかけて訴えるべきだったんだ」

 お父さんは強く後悔しているのだと思った。お母さんに対して優しく接してきたことを、そして、その優しさの背景が、お母さんの病気に気付いてあげられなかった不甲斐なさと、そんな自分に対する後ろめたさからきていることを、心が痛むくらいに解っているから。お母さんが手術を受けないと言い出した時も、この後ろめたさが邪魔をして強く説得ができなかったのだ。このことを、今日の僕の話を聞いて強く後悔をしているのだ。

 お父さんは泣いていた。お母さんが入院をしてから、僕はお父さんが涙を流す姿を何度か見てきた。その涙が、優しさや逞しさや、力強く行動しようとする決意からくるものだということは、まだ中学生の僕にも理解ができた。

 でも、今夜のお父さんの後悔の涙は、間違っていると僕は思う。さっき、お父さんが言った言葉の中にあるように、「家族の幸せは、その家族の中で、たった一人の犠牲があっても成り立たない」のだから、お父さんは、その家族の一員として、自分を責める必要はないと僕は思う。でも、そのことはお父さんには言わなかった。なぜなら、それは、お父さんの涙が僕の言葉を押し止めてしまうほど、悲しい色をしていたからだった。

「明日、お父さんがお母さんを説得するよ。たとえお母さんが泣き叫んで手術を拒んだとしても、絶対にお父さんが説得をしてみせる」

 お父さんの気持ちは痛いほど分かるけど、きっと、それは無理だ。これまで何十回となく説得を試みたが、お母さんは頑として首を縦に振らなかったのだ。お父さんが強行をすれば、お母さんとの信頼関係さえ失ってしまう恐れさえある。

「お父さん、僕から提案があるんだけど、聞いてもらえるかな?」

 僕はお父さんにそう切り出した。

 同じお願いを、内藤の曽祖父母にも、美奈子おばさんにしたことも付け加えた。

 僕の提案に、お父さんは大きく頷いて賛成をしてくれた。

「幹央、小さい頃、寝る前にお母さんが、よく枕もとでお前に読んで聞かせていた『太陽と北風』の話を、ずっと忘れていなかったんだな」

 お父さんはふと昔を懐かしむような目をした。この頃、お父さんは時々こんな目をする。過去に戻ることで、かつて存在していた幸せな風景を思い起こそうとしているように。でも、辛辣かもしれないけいど、過去の幸せは、すでに通り過ぎてしまった歴史でしかない。

「今夜のうちに完成をさせて、このテーブルの上に置いておくよ。今日の美奈子おばさんとの話を聞いて、お父さんもずっと気になっていることがあるから、このこともはっきりさせたいと思っているんだ」

 お父さんはそう約束してくれた。今日、僕が美奈子おばさんとやり取りをした話の中で、お父さんは何かを感じ取ったようだった。これが、お母さんの心の鍵を解くパスワードになれば良いのにと、僕は強く心で念じていた。

「だから、明日病院に行っても、お母さんを興奮させるようなことは絶対に言わないでね。きっとお父さんの顔を見ることが、今のお母さんの楽しみの一つだと思うから。約束だよ」

 僕が偉そうにそう言うと、お父さんは目を細くして言った。

「幹央、お前、いつの間にか大人になったな」

 部屋に引き上げた時、僕はお父さんが言っていた、『太陽と北風』の物語について、自分の記憶を引き寄せてみた。物語はおぼろげにしか覚えていない。確か、旅人が身に着けている分厚いコートを脱がせるために、太陽と北風が競争をする話しだった。最初北風が強い風を吹かせて、強引にコートを剥ぎ取ろうしたが、旅人は逆に風に吹き飛ばされないように、全身の力を振り絞ってコートが身体から脱げないように頑張ったのだ。

 だが、その逆に太陽は、さんさんと街中を照らし、暖かい空気を充満させて、旅人が自らの意志でコートを脱ぐようにしたのだった。

 強い力や、流れに逆行するような強引さではなく、包み込むような優しさや、季節や流れに逆らわない対応が、実は大きな成果を生み出すことを教えてくれる内容だった。

 おそらく、幼い頃に聞いていた時には、そんな深い意味など考えてもみなかっただろうが、きっとお母さんは、そうした深い意味を伝えたくて、何度も物語を読み聞かせていたのだろう。

 お父さんは、自分も『太陽』になろうとしているのだ。

 次の朝、台所に下りるとお父さんはすでに出勤をしていて、作ってくれた朝ごはんの横に昨日頼んでいた物が置かれていた。

「やっぱり、お父さんは、約束をきちんと守る人なんだな」

 僕は、そう独り言をつぶやいた。

 お父さんが作っておいてくれた、目玉焼きとウインナーの炒めた物だけを別の皿に移して、ラップをして電子レンジで温め、ちぎったレタスとミニトマトが添えてある元の皿に戻した。オーブントースターで焼いていた六枚切りの食パンもこんがりと焼けたので、マーマレードを塗って、冷蔵庫から取り出した牛乳をグラスに注いで、十分足らずで朝食を終えた。

 授業が終わると、僕は、真っ直ぐに美奈子おばさんの家に向かった、駅前のファミリーレストランではなく、今日は自宅にお邪魔をした。

 美奈子おばさんは、僕が来るのを待っていてくれて、昨日頼んでいた物を最初に手渡してくれた。

「よう、幹央、久しぶりだな」

 なんの前触れもなく顔を出したのは、昨日美奈子おばさんが話してくれた、長男の雅之兄さん。血は繋がっていないけど、お母さんの従弟で、僕の叔父になる人。

「あっ、雅之兄さん」

 頻繁に会うことはないけど、雅之兄さんと呼ぶくらいの関係ではある。

「由美ちゃん、大変なんだってなあ。うちのおふくろから話を聞いたよ。でもきっと良い方向に行くからな、それを信じて諦めないでしっかり頑張れよ。俺にできることがあったら、遠慮せずになんでも言えよ、頭で考えることは無理でも、力仕事は頼りになるからな。それに、考えが煮詰まった時には俺みたいな単純な人間と話をした方が、良い考えが浮かんでくることもあるんだよ。とにかく、周りの家族が強い考えを持っていないと、ガタガタになってしまうからな。今は辛いかもしれないけど、幹央がしっかりしないと駄目だからな」

 詳しい事情まで美奈子おばさんから聞いているのだろう。雅之兄さんは、なんの飾りもない言葉だけど、心に直球で届いてくる励ましの言葉をくれた。それだけで、雅之兄さんの言葉の中に隠れている濃厚な優しさが心の中に染みだしてきた。

「うん、分かっている……」

 涙がこぼれそうで、これ以上は、ただ頷くしか雅之兄さんに応える術がなかった。

 ひょっとしたら、わざわざ僕を励ますために、美奈子おばさんが雅之兄さんを呼んでくれたのかもしれないと気付いたのは、今日も手作りの惣菜を持たせてくれて、駅に向かっているバスの中だった。美奈子おばさんと、雅之兄さんの二人してバス停まで送ってくれた。

「幹央、俺たち身内だからな、頼ってこいよ」

 そう言って大きな手で背中をポンポンと二回優しく叩いてくれた、雅之兄さんの手の温かさが、バスのシートの背もたれよりも、何倍も暖かく僕を勇気づけてくれていた。

「雨降って地固まる、だからね。きっと上手く行くよ」

 バスに乗り込む時に、美奈子おばさんは、そう魔法の言葉をかけてくれた。

「雨降って地固まる」

 僕はバスの中で幾度となくこの言葉を繰り返した。  

 最寄り駅に着くと、僕はその足で曽祖父母の家に向かい、昨日頼んでいたものを約束通りに受け取った。少し話をして行きなさいという曾祖母の誘いを、申し訳ないと思いながらも断った。帰ってやらなければならないことがあるのだ。

 曽祖母もまた、「晩ごはんの足しにしなさい」と言って、野菜の煮物や豆ごはんを沢山詰め込んだ容器を紙袋に入れて手渡してくれた。

 美奈子おばさんと曾祖母からもらった荷物の重さに、「ああ身内なんだ」と、しみじみ感じながら、僕は夜の訪れと共に肌寒さを増して行く風の冷たさに逆行するように、少しずつ少しずつ、胸を熱くして行っていた。

 そして、最後は僕の番だ。

 僕も、曽祖父母や美奈子おばさん、それからお父さんと同じように、やるべきことをやる。

 美奈子おばさんと曾祖母から差し入れてもらった、惣菜や豆ごはんを皿や鉢や茶碗に盛りつけて、これにインスタントのお吸い物を付けると、とても豪華な夕食になった。

 お父さんとの夕食は、黙々とご馳走を平らげていくことに専念をしたので、かなり短い時間で終わった。お母さんが入院して暫くの間、お父さんも僕も、家の中を沈黙が覆ってしまうのが怖くて、必要以上に無理に話題を見つけ出しては会話を紡ぎ出してきた。

 でも、今は安心して沈黙を心地良く感じられるくらいに、二人の気持ちも落ち着いてきている。言葉ではなく、家族だから無言でも通じ合える心の共通言語を見つけたような気がする。

 いつものようにお父さんが後片付けをしてくれて、「先に風呂に入るぞ」と言って浴室に向かうお父さんの言葉を合図に、僕は自分の部屋に引き上げた。

 部屋の照明を点け、机のLEDのスタンドをONにした。LEDの青白い光が、これから僕が開こうとしている「幸せの貯金通帳」の赤い表紙を、スポット的に照らしている。

 僕は引き出しを開けて、一番書きやすいペンを取り出した。

 そして、「幸せの貯金通帳」を開くと、まだ真っ白いページにペンを走らせ始めた。

「おーい、風呂から上がったぞ、お湯が冷めないうちに続いて入れよ」

 階下からのお父さんの声が聞こえてくるまで、僕は無心でペンを走らせていた。

「うん、もう少しだから、それが終わったらお風呂に入るよ」

 僕は、視線をペン先から離さないまま、お父さんにそう返答をした。

「テスト勉強か?」

「そう、テストも近いし」

「おう、それは結構、結構」

 きっとお父さんは、これから風呂上がりのビールを飲むことだろうと想像をしながら、僕は手を休めないで書き続けた。

 僕が、お母さん宛ての「幸せの貯金通帳」を書き終えた時には、時計はすでに日付が変わっていた。

 僕は、足音を立てないように階段を下りると、お風呂に入り、多少冷めてしまったお湯を追い炊きしながら、明日のことを考えた。 

 僕は明日、学校が終わったら、内藤の曽祖父母と美奈子おばさん、それにお父さんが各々書いてくれた、お母さん宛ての「幸せの貯金通帳」と一緒に、お母さんの「幸せの貯金通帳」の続きのページに僕が書いた、幸せの貯金通帳を、お母さんに届けに行く。

 お母さんが今、大切に思っている人たちが、お母さんが自分の命を犠牲にしてまで幸せになって欲しいと願っている人たちが、お母さんの幸せをどれだけ願っているかを、この「幸せの貯金通帳」を読んでお母さんにも、しっかりと解って欲しいと思う。

 お母さんが、自らの意志で手術を望むように、気持ちに羽織った重たいコートを脱がせるのは、強い北風ではなく、街中を暖かく照らす太陽なんだということを、僕は思い出した。「幸せの貯金通帳」は僕たち身内の太陽になって、お母さんの心に暖かい風を送ってくれると信じている。

 曽祖父母が書いたライトグレーの表紙の貯金通帳。美奈子おばさんが書いたサーモンピンクの表紙の貯金通帳。お父さんはシックに黒い表紙の高級感のあるノートを使って貯金通帳にしていた。

 そして、お母さんから預かっている赤い表紙の「幸せの貯金通帳」の、お母さんが書き続けられなかった白紙のページに、僕が続きを書いた。 

 お風呂から上がって部屋に戻ると、僕は、四冊のノートを机の上に並べた。

 僕は、内藤の曽祖父母にも、美奈子おばさんにも、そしてお父さんにも説明をした。

 これから書いてもらう「幸せの貯金通帳」は、身内名義だと。身内とは何? それはごくありふれた普通の家族が寄り添い、お互いを愛おしいと思うこと。それが身内。この通帳の中には細やかな日常の営みの中で、小さな幸せを見つけては、それを嬉しいと思い、喜びと感じて、大切に、大切に、少しずつ積み立てた幸せが沢山詰まっている。

 この幸せの残高は、誰か一人のものではない。身内と呼ばれる家族全員のものなのだ。

 僕の説明を理解して、幸せの貯金通帳に賛同をしてくれた温かくて優しい人たち。大切な身内、そして家族。

 時刻は、午前一時を回ろうとしていた。僕はまず、ライトグレーの表紙を開いた。

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