第4話
内藤さんは無表情で、真っ直ぐに前を向いたままだった。まるで、私の言ったことなど聞こえなかったように、全く表情を変えていなかった。
「ごめんなさい」
私はすぐに謝った。
「何が?」
「生意気なことを言ってしまって」
「お姉ちゃんは何ひとつとして生意気なことなんて言ってないよ。さっき言ったことはお姉ちゃんの本音だし、誰が聞いても正論だよ」
ここで内藤さんは、再び私の方に向き直った。
「お姉ちゃんは、もっと自分の気持ちを正直に出した方がいいなと思って、ちょっと意地悪なことを言ってみたの。私、根が意地悪な性格だから」
内藤さんは、悪戯が見つかった子供のように、笑いながらそう言った。
「意地悪であんなことを言ったんですか?」
さっき後悔したことを、私は一瞬で白紙に戻した。
「今、怒っているでしょう」
人の感情を逆なでにするような、軽い調子でそう言ってくる。まるで私の怒りを煽るように。
「怒るのは当たり前です。私が年下だと思って、からかって面白がつているんですか。それとも昨日お金をあげたから、これくらいのことは当然だとでも思っているんですか? それなら、すぐにお金は返しますから、二度と私たちの前に顔を出さないでください。人を馬鹿にするのもいい加減にしてください」
きっと私の身体は怒りで震えていたと思う。頭に血が上るという言葉は聞いたことがあったが、自ら体感したのはこの時が初めてだった。
「そうそうその調子。お姉ちゃんは、そんなふうにどんどん感情を外に出した方がいいよ」
怒りを込めて睨みつけている私の視線を逸らすことなく、真っ直ぐに見つめ返してくる内藤さんの潔さに、なぜかあれほど湧き上がってきていた怒りの感情が、収まって行く不思議な感覚を、私はまたこの時初めて体感をした。
この人、いったい何を考えているんだろうか。私を怒らせたり、鎮めさせたり。
「お姉ちゃんは、きっと自分の気持ちを後回しにして、周りに波風が立たないように、これまでずっと物わかりが良くて、聞き分けの良い子で通してきたのね。そうすることが、家族との生活の中では一番大切なことだったし、上手く毎日をすごすためには他に選択肢がなかった」
「なんですか、いきなり」
「私もね、看護師になって四年になるからね。これまでに多くの患者さんとその家族の方たちと接してきたから直感で判るの。昨日の夜、二人と話をしてみて、このままだとかなり危ないのは、お母さんでもお父さんでもなく、お姉ちゃんだってことが」
「危ない……、 私が……?」
思いもしなかったことを言われて、私は急に混乱をしてしまった。この人はどれだけ人の感情を引っ掻き回すのだろうか。
「そう、このままだと、この家族には悲しい結末が待っているなと思ったの。どう、そう指摘されて、改めて今の自分と家族との関係を思い浮かべてみて、私の推測が外れているように思う?」
「……」
「大きく外れてはいないでしょう」
「でも私は絶対に痩せ我慢なんかはしていないし、家族のために自分を殺したりもしていない。ただ、余計なことは言わないようには努めているけど」
「お姉ちゃん、目を閉じてみて。そして自分の気持ちに素直になって考えてみて。ほら、しっかり目を閉じて」
言われるままに私は目を閉じた。閉じた瞼を透して朝の太陽が強い光を送り込んでくる。まるでレントゲンで胸の中を透かされているように、この光は私の心の中まで透かそうとしている。
「いい、質問を始めるよ。あなたは、お母さんのことが好きですか?」
「はい、好きです」
紛れもなく真実の答えだ。嘘も偽りも、強がりもない。
「じゃあ、お父さんのことはどうですか?」
「…… 好きです」
答えを出すのに少し時間がかかってしまった。
「お父さんのことを、今も小学生の頃と同じくらい好きですか? 好きのレベルは変わっていませんか?」
「変わっています」
「どれくらい。これは大きさではなく、小学生の頃と今とで、どう変わっているかを答えてください」
「小学生の時のように、今はお父さんのことを愛してはいません」
「愛せないということは、好きではないということですか?」
「そういう選択なら、好きではないと思います。たぶん」
愛せないということは、そのまま好きではないという結論に直結することなのだろうか。私は、本当にお父さんのことが好きではないのだろうか。
「好きじゃないということは、今はお父さんのことが嫌いだという気持ちが心を占領してきていますか?」
「占領しています」
もう迷いはなかった。心の声が答えを導き出している。
「嫌いなだけでなく、憎いですか?」
「はい、憎いです」
「どれくらい憎いですか? それは殺したいほど、殴り倒したいほど、居なくなれば良いほど。この中に思い当たる感情はありますか?」
時間をおいては別の感情が混ざり込んでしまうので、私は間髪を入れずに答えた。
「居なくなってくれれば、どんなに良いだろうと思うほどです」
「それが、お姉ちゃんがずっと心の奥に抑え込んできた、本当の気持ちよ」
本当にそうなのだろうか。内藤さんの誘導尋問に易々と引っかかったような気がしないではないが。でも、このすっきりとした気持ちはなんだろう。何かこう喉のところにつかえていたものが、いきなり溶けて流れて行った感じがする。
「もう、目を開けてもいいですか?」
「もう少しだから、そのままで質問を続けさせて。もう一度、お母さんに関する質問に戻すわね」
「母のこと……」
内藤さんの質問に誘導されて、引き出される私の母に関する本当の気持ちとは、いったいどんな内容なのだろうか? 怖くもあり、ここまでくると、強い興味が湧いてもきていた。
「お母さんのことは信頼をしていますか?」
「信頼をしています」
「今、一番困っていることを相談するとしたら、相手はやはりお母さんですか?」
「……」
答えに困ってしまった。
「別の人ですか? それとも該当する人物が思い当たりませんか?」
「思い当たりません」
「お母さんは頼りないですか?」
「今は、頼りないです」
「それはどうしてですか?」
「弱い人になってしまったからです」
「以前は、弱い人ではなかったのですか?」
「はい、強くて優しい人でした」
「どうして、弱い人になってしまったと思いますか?」
「父のせいです」
そうだ母がこんなに弱くて脆い人間になってしまったのは、父が酒浸りになり、家
族に暴力を振うようになったからだ。
「お父さんが何かしたのですか?」
「父はろくに仕事にも行かず、昼間からお酒を飲むようになり、飲むと母に暴力を振うよ
になったからです」
「そのお父さんが、実際に暴力を振う現場を、お姉ちゃんは見たことがありますか?」
「私は実際に見たことはありませんが、妹は何度も目撃をしたと言っています。実際に母が今病院にいるのも、父に暴力を受けたからです」
「お姉ちゃんは、お父さんから暴力を受けたことがありますか?」
「私はありません」
「それでは、妹さんはどうですか?」
「美奈子もないと思います。本人に確認をしたわけではないですが、もし暴力にあっていれば、絶対に様子や態度に出す性格なので、私が気づいていると思います。だから、なかったと思います」
「それはなぜだと思いますか? お父さんは、なぜ、あなたたち姉妹には暴力を振わなかったのだと、お姉ちゃんは思いますか?」
閉じた瞼を透して入ってくる太陽の光が、少しずつ、でも確実に強くなっているのが、瞼に感じる熱の高さで判る。これは決して感情が高ぶってきているからではない。
「母に暴力を振うことで、父の気持ちが落ち着いたからだと思います」
「そのお父さんは、どのような感情を落ち着かせたかったのだと思いますか?」
「うーん?」
「言葉にするのが難しいのなら、近い意味の単語でもいいよ」
「やるせなさ、自己嫌悪、情けなさ、無気力、……それと不安」
こうして改めて考えてみると、今までに一度だって父の立場になって物事を考えたことがなかったことに気づく。いったい父はどんな気持ちで毎日を送っているのかなんて、全く考えようともしていなかった。
さっき私が思い浮かべた、やるせなさ、自己嫌悪、情けなさ、無気力、それと不安。父はずっとこんな気持ちに苛まれながら、毎日を送っていたのだろうか。
「そのような気持ちを振り払うために、お父さんはお母さんに暴力を振っていたと、お姉ちゃんは思うわけね」
「はい。今、こうして父の立場に立って考えてみると、父も辛かったのだろうなと思い直しています」
「でも、自分が辛いからといって、家族に暴力を振って良いという理由にはならないわよね。どんな理由があるにしても、暴力は最悪、最低の手段だからね」
「はい、そうですね。父が取った行動は、どんな理由があっても正当化されることではないと、私も思います」
「じゃあ、どうしてお父さんはお母さんに暴力を振い続けて、お母さんは、その暴力にじっと耐えてきていたのだろう。もし、お姉ちゃんがお母さんの立場だったとしたら、旦那さんの暴力に耐えられるかな?」
どうなのだろう。想像の範囲を遥かに超えていて、母の立場で考えることができない。母はなんのために黙って、父の暴力に耐え続けていたのだろうか。
「いきなり、こんな難しい質問をされても、すぐには答えられないよね。でも、だからこそ、よく考えてみて。この答えの中に、お姉ちゃんがやらなければならないことが、隠れているかもしれないと思うから」
「はい、私も母の気持ちを知りたいと思うので、しっかり考えてみます」
「やっぱりお姉ちゃんは頭の良い人だね。しかも私が思っていたよりもすっと賢い人だった」
「そんな、私ちっとも頭なんか良くないですよ」
「人の頭の良し悪しは、ケースバイケースで周りの人が判断をしてくれることなの。自分では気がつかないものなのよ。さあ、その聡明な頭脳で、お母さんの気持ちを考えてみて」
私は、考えることに集中をするために、さらにきつく目を閉じた。
「あのー、私たち、私と妹を守るために、母は父の暴力に耐えていたのではないかと思います」
私は一つの答えを導き出した。
「お父さんの暴力が、お姉ちゃんや美奈ちゃんに及ばないように、お母さんが防波堤になっていたんじゃないかと思うわけね」
「はい、そうです。昨日も父から暴力を受けている間、美奈子は自分の部屋に逃げていたみたいだし、それに私も美奈子も全く暴力は受けていないから」
「そうね、子供を守りたいと思う気持ちは母親としては当然強いわね。でも、その気持ちだけでお父さんの暴力に耐え続けることは、普通の人なら難しいと思うよ。だって、お父さんが暴力を振うようになってからもう随分経つのでしょう?」
「私が小学校五年の時からだから、もう七年以上になります」
「えっ、七年間……。よく家族が離散しないでここまできたわね」
「母が偉かったのだと思います」
「お母さんのどういうところが偉かったんだと、お姉ちゃんは思うの?」
「父の辛さや苦しさを、きっと母は解っていたじゃないかと思います」
「ということは、お母さんは暴力を振うお父さんの、真の気持ちを理解していたということかな」
「えっ、あっそうだ。きっとそうなんだ。母は父が暴力を振うその本当の気持ちが解っていたから、じっと、その暴力に耐えていたんだ」
私は、居たたまれない気持ちになってしまっていた。なんで気づいてあげることができなかったんだろう。もっと早くに母の本当の気持ちに気がつくべきだった。
「自分に暴力を振うことで、父の気持ちが少しでも楽になるなら、私はそれだけでこの痛みに耐えることができると思いながら、母は自ら納得をして、父からの暴力を甘んじて受けていたんだ」
私は咄嗟にぱっと目を開いてしまった。そして、内藤さんの顔を見た。
「真実はお母さんしか知らないことだけど、お姉ちゃんの想像は、真実を付いているかもしれないね」
内藤さんは小さく頷きながらそう言った。
「私からの質問の最初の時に、お母さんのことを頼りないですか? と訊いた時に、お姉ちゃんは、今は頼りないです。弱い人になってしまったからと答えたよね。では、同じ質問を今もう一度するけど、答えはどう、変わった?」
「はい。変わりました。今は、母は強い人だと思っています」
私は、なんの迷いもなく、母を「強い人」だと言えた。
「そうね。母親は子供を守るためには幾らでも強くなれるし、その身を投げ出すこともいとわない。お姉ちゃんたちのお母さんは、お父さんに対しては聖母にさえなれたのかもしれないわね」
本当に内藤さんの言う通りだと思う。昔の人が良く言っていた、「柳に雪折れなし」の言葉のように、一見華奢で弱々しそうな母のようなタイプは、実は柔軟性があって、強い風にも、激しい雨にも、重たい雪にも決して折れたりしないのだ。
「内藤さんが言っていた、大人の力を舐めない方が良いよという言葉、最初聞いた時は、すごくショックで辛かったけど、今こうして色々なことがクリアになったあとでは、あの言葉がすんなりと納得できます。自分の力を過信しない方が良いと言われた言葉も同じです」
私は心の中で何度も頷きながら、自分が今、とても素直になれていると感じていた。
「えっ、私そんな生意気なこと言っていた?」
「自分の言ったこと覚えてないんですか?」
「その場限りの女だと良く言われる」
二人は声を出して笑った。
もし母の入院がなくて、こうして内藤さんに会うことがなかったら、私はいったいこの先どうなっていたことだろうか。自分勝手に空回りをして、家の中を掻き回していたのは、父ではなく自分だったかもしれないと思った。
ほんの少しだが色々なことが、まるで春になって雪が解け、地面が顔を見せるように、真実の姿を見たような気がした。だからこそ、余計に怖いとも感じていた。
「じゃあ、そろそろ私は帰るね。もし、何かあって、お姉ちゃんが私のことを必要とすることがあったら、ここに連絡をして。自宅は病院の女子寮だから、管理人さんに呼び出してもらうことになるけど、管理人さんはとても好い人だから、遠慮しなくていいからね。仕事の時は、病院の方に連絡ちょうだい」
内藤さんは電話番号をメモした紙切れを手渡してくれた。
「ありがとうございました。なんとか頑張ってみます」
私は深々と頭を下げた。それが内藤さんに対してできる、私の精一杯の気持ちの表し方だった。
「しつこいと思うかもしれないけど、頑張るのはお姉ちゃんじゃないからね。解っているよね」
内藤さんは、念を押すようにそう言った。
「解っていますって」
「やっぱりお姉ちゃんは賢い子だね」
「そのことは、今でも素直には頷けないですけど」
「素直じゃないなあ、まったく。じゃあバイバイ。お母さんのことお大事にね」
「はい。夜勤お疲れ様でした」
私は、屋上の出口に向かう内藤さんのうしろ姿を、ずっと見送っていた。
その日の土曜日も、私と妹は病院に泊まって、自宅に帰ったのは翌日の日曜日の夕方だった。
夕食は病院の食堂で早めに済ませて帰宅をした。
帰宅すると家には父はいなかった。日曜日なので当然仕事に行っているわけはないので、父はどこかに出かけていることになる。
家の中にはまったく人の気配とか、生活のリアルな感触がなかった。この部屋の中についさっきまで人がいたという感触がないのだ。空気の淀み具合とか、生活臭とか、僅かに残る暖かさとか、そんな気配がまったく漂っていなかった。無味無臭の中に居るような、そんな寂しさと同時に怖さを感じていた。
翌日の月曜日にも、翌々日にも父は帰って来なかった。父の行方が分からいまま、水曜日に母が退院をした。
入院中は余計な心配をかけてはいけないと思って、母には父の行方が分からなくなっていることは、報告をしていなかった。
「お父さんは仕事に行っているの?」
ドアを開けるなり、開口一番、母はそう訊いた。仕方なく私は事実を話した。
「そうなの」
私の返事を聞いても、母は関心がないような、気のない返事をし、それ以上は何も訊いてこなかった。
「捜査願いを出した方が良かったかな?」
今さらだが、急に不安になって母にそう訊いた。
「子供じゃあるまいし、自分の意志で出て行ったんだから、そんな必要はないわよ」
「事故に巻き込まれているかもしれないし」
「それなら逆に警察の方から連絡がくるでしょう」
母はさらりとそう言った。
「まさかと思うけど、自殺という可能性もあるでしょう」
実は私が一番恐れていたのは、父の自殺だった。父が置かれている状況から考えると、有り得ないことではない。
「その心配はないと思うよ」
だが、母はそれをきっぱりと否定をした。
「自信たっぷりなんだね」
「そりゃそうでしょ。お父さんとは長い付き合いなんだもの。自殺をするような人間なら、ずっと前にしているわよ」
母の言うことも一理あるなと思った。
「じゃあ、どこに行ってしまったんだろう。私と美奈子が帰ってからだって、今日でもう四日以上だよ」
「そんなのお母さんにも分からないわよ。犬ならマーキングだってするでしょうけど」
母はそう言うと、クスっと笑った。なんだか久しぶりに見る母の笑顔だった。この笑顔が、今日までの色々な困難を一発逆転で、好転させるきっかけになればいいなと、どこかに光を見つけたいと切望する気持ちが、母の笑顔の眩しさを敏感にキャッチしていた。
私たちが止めるのも聞かずに、母は自分が夕飯を作ると言ってきかなかった。六日間もゆっくりさせてもらったんだから、身体もすっかり元気になったわよと、「今日くらいは娘たちに甘えてよ」と言う、私と美奈子の言葉には全く耳を傾けようとしなかった。
その日の夕飯は、三人で食べた。
食卓に父がいないことには随分前から慣れていたし、母が入院している間は、妹と二人きりで、私が作る簡単なおかずと味噌汁というワンパターンなメニューを、会話もないまま黙々と食べるという、客観的に見れば、それはとても寂しくて暗い夕食の光景だった。
やはり母の作る料理は美味しかった。特別贅沢な材料を使っているわけでもないのに、まるで魔法の調味料でも使っているのでないかと思わせるほどに、シンプルな煮物や味噌汁や、炊き立ての白米さえも、私が炊くよりも格段に美味しかった。
また、美味しい夕食は、笑顔と潤沢な話題も提供をしてくれた。妹と二人の時には食卓に上らなかった数々の話題が、次から次へと出てきて、もう永遠に終わらないのではないかと思えるほどに、話の花はいつまでも咲き続けた。
それは決して、母が一人加わったからだけでなく、母が作る美味しい料理がもたらす大きな効果だと思う。それが証拠に、母は笑っているだけで、常に話題を提供し、盛り上げていたのは二人の娘たちだったからだ。
その夜も父は帰宅してこなかった。
昨夜までは父が帰って来ない不安と、帰って来るかもしれないという恐怖の、完全に異なる背中合わせの感情を抱いたまま、何日も眠れない夜を過ごしてきた。
けれど、今夜から母がいる。そのことがどれほど自分に安心感を与えてくれているのかを、その夜の眠りの深さで、翌朝、私は実感をした。
深い眠りは、まるで天使の羽根に包まれて眠るようなものだと、翌朝、目が覚めた時に私は思った。身体も目も、首筋も、その全てが、羽根が生えたように軽くなっていたからだ。
自分では気づいていなかったが、この一週間の出来事(母の入院や父の家出、それに伴う諸々の対応)で、どうやら私はとても疲れていたようだ。気が張っていたせいなのか、その疲れの実感は私にはなかったが、今朝目を覚まして、身体がこんなに軽くなっているのを感じて、「私、疲れていたんだ」と、まるで他人事のようにそう思った。
父の不在は続いたが、母娘三人の生活は穏やかに過ぎて行った。実の父親のことをこう呼ぶのはあまりにも常識外れだと思うが、天敵がいなくなった草原で、草を食む小動物のように、あまりにも穏やかに流れて行く時間の中で、父との生活の中で常に緊張を強いられていた私たちの神経は、少しずつ、少しずつ、緩んでいった。
母が退院をしてから一週間が過ぎた。草原の穏やかな日々は変わらず続いていた。三人だけの楽しい夕食の話題に、父の不在についての話は全く出てこなかった。誰もが意識的にこの話題を避けていた。いや、既に父の存在自体を意識の中から抹消してしまおうと思っていたのかもしれない。だから、こんな話が母の口から出てきたのだろう。
「お母さん、働きに出ようかと思っているの」
母の声は、明るい未来を語っているように溌剌としていた。
「身体の方はもう大丈夫なの?」
日頃の様子から察して、大丈夫だろうなと思いながらも、私はそう訊いてみた。
「もうすっかり大丈夫よ。二人が学校に行っている時間が勿体ないから、まずはパートタイムから始めようかと思っているの」
「スーパーのレジ打ちとか? いいなあ」
妹は小さい頃から、なぜかスーパーマーケットのレジ打ちに憧れていて、ままごと遊びでは、必ずスーパーマーケットの店員の役をしていた。
「うん、雇ってもらえるなら、どんな仕事でもやるつもりよ」
母の表情の奥には、父の不在を覚悟し、それを受け入れた潔さが伺えた。私がもの心ついた時から専業主婦だった母の、外で働く姿なんて全然想像できなかった。
「実は、学校を卒業してすぐにお見合いでお父さんと結婚をしたから、お母さん、一度も働いたことがないのよ。だから、正直に言うと働くことにちょっと不安もあるんだけど、でも、その何倍も楽しみの方が大きいの」
ここに居る三人の誰もが思っていた。最初の一歩を踏み出さなければ、何も始まらないことを。楽し気にごはんを口に運び、味噌汁をすすり、野菜の煮物を咀嚼しながら、最初のその一歩を、何時、何をきっかけに踏み出すかを、ずっと探し続けてきたのだ。
母の生まれて初めての就職を機に、自分たちの環境は一気に好転するのだと、私は全く根拠のない期待を抱いていたのかもしれない。地獄に垂らされた天国に続く「蜘蛛の糸」のように、神様が差しのべてくれた幸せへの糸だと、私は思い込もうとしていたのかもしれない。
でも、その期待は、父の帰宅で風船が弾けるように、瞬間に消滅をしてしまった。
父が帰って来たのは、母が退院をしてからちょうど十日が過ぎた、しかも母がスーパーマーケットにパートタイムに出た初日だった。
その日、朝早く起きて、母は赤飯を炊いた。これは、お祝いというよりも、自分を鼓舞する意味もあったんだと思う。
「お母さん、あんまり頑張り過ぎちゃあ駄目だよ」
母にそう言って、その朝、私は家を出て学校に向かった。
父が帰って来たのは、三人で食卓を囲んで、母の初めてのパートタイムの様子を聞きながら、夕食を食べている時だった。
呼び鈴が鳴るでもなく、突然ドアが開いて、父が家の中に入って来た。というよりも倒れ込んで来たというのが正しい描写だろう。
しかも父は一人ではなかった。後ろに三人の男が控えていた。あきらかにまともな職に就いているようには見えない男たちだった。
妹の美奈子が、「キャー」と悲鳴を上げた。
私は、突然の出来事に、声さえ出せず、すでに身体が震え出してしまっていた。
そんな中、動揺を見せず、気丈夫に対応をしたのは、母だった。
「どちら様でしょうか。どうぞお入り下さいと言う前に、土足で人様の家に入って来るような非常識な人たちに、今さら様を付ける必要もないでしょうけど」
「お母さん……」
そう弱々しく言って、駄目だよと言うように父は首を横に振り続けていた。
「どの面さげて、そんなふざけたことを言っているんだ、このあま」
三人のうちで一番若い、眉毛を剃り上げた男が、いきなりドスの効いた声で怒鳴った。
その声に父は一瞬にして身体を硬直させ、顔面が蒼白になった。
「どの面も、この面も、私には顔は一つしかありませんので、この顔で言わせてもらっていますが」
聞いている私の方がハラハラするくらい、母は肝が据わった対応をした。
「なんだと!」
さらに怒鳴り声を上げようとする若い男を、一番年長の、おそらくこの中ではボス的な立場にあるのだろう、サングラスの男が制止させた。
その後、サングラスの男が母の前に一枚の紙切れを差し出した。A-4版の紙には、タイプで印刷された文字や数字がぎっしりと並んでいた。
母はそれを手に取ると、真剣な目をして紙面の文書を追っていた。読み進むに連れて母の表情が硬くなって行くのが、まるでコマ送りの映像を見ているようにはっきりと判った。それに伴い蒼ざめて行く顔色の変化も。
何か良くないことが書いてある。私にもすぐに察しがついた。それは、この家族の存続を根底から覆すほどの危険な内容が、あの一枚の紙切れの中に溢れていることを、私ははっきりと理解した。
「こんなもの」
母は、咄嗟に手に持ったその紙切れを破り捨てようとしたが、おそらくこうなることは想定内だったのだろう、俊敏な速さで眉毛を剃り上げた男が母の手を押さえ、瞬時に紙切れを奪い取った。
そして、そのすぐ後に、母の頬にその男の平手が飛んだ。
「きゃあー」
私は思わず声を上げてしまった。そして、悟った。この男たちは、女、子供に関わらず、自分たちの邪魔をする者には決して容赦をしない、人間の姿を被った悪魔だということを。
けれど、母は、この男たちに一歩も怯まなかった。平手を受けて、かえって肝が据わったのか、母の顔は挑む表情に変わっていた。
「娘には絶対に手は出させないからね。この子はまだ高校生で未成年者ですからね、この子にちょっとでも手を出すようなことがあったら、警察がきちんと動いてくれますから」
母の目には揺るぎがなかった。私は、あの紙切れの中に、私自身に関係することが書かれていることを母の言葉でこの時知った。と同時に父を見た。嵐のあとの浜辺に打ち上げられた流木のように。父は無用な対物となって居間の床に横たわったままだった。いや、転がっていると言った方が適切な表現だろう。
「おー怖」
サングラスの男が大げさに身振いの真似をして、母の方に手をやった。
「まあまあ、そんなにカリカリしないで下さいよ、奥さん。何も娘さんをいかがわしい店に売ろうなんて言っているわけじゃあないんですから。ただ、お宅のご主人が、私たちにお借りになったお金を返済していただくために、私たちが紹介する真面目な仕事をやっていただきたいと申し上げているだけなんですから。娘さんが未成年であることくらい私たちも十分に承知していますので、決して法律に触れるようなことは致しませんので、それはご安心をください」
サングラスの男は、妙に生やさしい声で、母を諭すようにそう説明をした。
「ふざけるのもいい加減にしな」
母は、肩に置かれたリーダー格の男の手を、乱暴な動作で払いのけた。
「誰が、そんな子供騙しの話を信じると思っているんだ」
母の声はドスが効いていて、私はこんな声で話す母を生れて初めて見た。病院の屋上で看護婦の内藤さんが言っていた大人の領分というのは、まさにこのことなのだろうと私は思った。急に母の存在が大きく逞しいものに見えてきた。
「ふざけているのは、奥さん、そちらの方ですよ」
男はあくまでも優しい声を貫こうとしている。被った仮面はそう易々とは脱がないと言わんばかりに。
「この借用証書にも書かれているように、このことは奥さん、あんたのご主人が決めた内容ですからね。いや、むしろご主人の方から進んでお嬢さんを差し出して借金を申し込んできたわけですからね。私たちは、それにきちんとお応えさせていただいただけですよ。金融業社として、お客様のご要望に迅速に対応しただけですからね。変な言いがかりをつけられるのは大いに心外ですし、迷惑ですよ。良いですか奥さん、どんなに甘い金平糖にも角はあるんですよ。奥さんの対応によっては、こんな優しい対応はいつまでも続けることはできなくなりますよ」
そう言い終わると、男はサングラスを外した。そこにはまるで不気味な底なし沼のような、生きているのか、死んでいるのかさえも識別ができない、鈍く淀んだ眼があった。
この眼を見た途端に私の身体は金縛りにあったように、硬直をしまっていた。立っている地面からコンクリートでも流し込まれているように、身体が身動きできない状態になってしまった。
「上等じゃないですか、そんな証書が無効なことくらい、出るところに出ればすぐに判ることでしょう。借金をしたのはこの男ですから、この男のことは煮て食おうが、焼いて食おうがどうぞ好きにして下さって結構です。でも、娘には指一本さえ触れさせませんから」
母は、男の不気味な目にも怯むことなく、堂々と言い返した。
「残念ながら、奥さん、あんたの旦那には一円の値打も無いんだよ。連れて帰ったってお荷物になるだけだってことくらい、あんただって十分に判っているだろ。俺たちは借金のカタが欲しいだけなんだよ。こんな簡単なことが解らないのか。この馬鹿女!」
男は、サングラスと一緒に理性まで脱ぎ捨てたようだ。どうせ薄っぺらな理性だったのだろうが。
一番若い男が、突然母の手首を掴んで自分の方に引き寄せようとした。
「加奈子、警察に電話をしなさい。さっき受けた暴力に対して被害届を出すから、現行犯逮捕できるように、すぐに警察に来てもらいなさい」
そう言うと、母は掴まれている手首とは反対の手の指の爪で、若い男の手の甲を引っ掻いた。
「痛いな!このあま」
男は咄嗟に母の手首から手を放した。
「ちゃんと、この男の手を引っ掻いて、爪の間に皮膚を残したからね。口の中も切れているし、乱暴も受けそうになったと訴えたら、完全に暴行の実行犯だからね」
母は着ているカーディガンのボタンを自ら引きちぎった。
「なんなんだ、このあま」
若い男が母に殴りかかろうとした。
「止せ!」
サングラスを外したリーダーの男が、若い男の手首を掴んで制した。
「加奈子、早く電話して!」
母が叫ぶ。
「美奈子、110番、急いで」
私は、奥の部屋に逃げ込んだ妹に大声でそう言った。
「わかった」
妹から大きな声がすぐに返ってきた。
男たちは、まるでさっと波が引くように、部屋から出て行った。この場はなんとか切り抜けることができたが、これで終わったわけではなく、むしろこれであの男たちとの戦いが、始まってしまったのだと、ここにいる誰もが判っていた。
「お母さん」
男たちが出て行ったあと、妹が泣きながら出て来た。妹が逃げ込んだ部屋には電話機はなかった。
「怖かった。美奈子、すごく怖かった」
妹は母の身体に抱きついたまま。まるで木の幹に抱きつくコアラのように離れようとはしなかった。
「ごめん、ごめん、美奈ちゃんにこんな怖い思いをさせて。お母さんがきちんとしていなかったから、加奈ちゃんにも、怖い思いをさせてしまったね」
先ほどのドスの効いた声とは打って変わって、母の声はいつもにも増して優しいものに戻っていた。
「それより、私たちこれからどうなるの?」
私は、自分の不安をそのまま母にぶつけた。
「加奈ちゃん、どうなるかじゃなくて、どうするかを考えないといけないの。しかも今すぐにね」
母と押し問答をするつもりはもちろんない。どうするかが解らないから不安なのだ。父が身勝手に作った借金。これにより、まるで家庭崩壊の呪文でも書かれたような、得体の知れない危険な借用証書が、ここに存在をしている。
「じゃあ、どうするの? 今すぐって言われたって、何も思いつかないよ」
私は半分投げやりになっていた。
そんな私の質問には答えようとせず、母は台所の食器棚の引き出しから四つに折り畳んだ一枚の紙を取り出してきた。
「これは、離婚届」
母はわざと感情が入らないように意識をしているのか、事務的な声でそう言った。いつの間にこんな物をもらってきていたのだろう。私はそっと離婚届を開いた。
「明日朝一番で、お父さんとお母さんは離婚します。生活能力のないお父さんには親権をあげることはできないので、あなたたち二人はお母さんと一緒にこの家を出ることになるけど、その方がここに居るよりも何倍も安全だから、それでいいよね」
絶対に有無を言わせない雰囲気を醸し出して、母は私たちの顔を見た。
「うん」
妹も私も、大きく頷くしかなかった。
「それから明日司法書士の先生に来てもらって、お父さんに自己破産宣言をしてもらう書類を作るから。これでお父さんの作った借金は返済する必要が無くなるからね」
自己破産宣言については、私もその噂を聞いたことがあった。借金を作って、厳しい取り立てに追われ、行場を失った人が自殺等の悲しい結末にならないために、この救済措置があると理解していた。でも、こんなことは、自分たちには一生無縁だろうと勝手に決めていた。
でも、父はこの自己破産宣告を選択しなければならないほどに、行場を失っている。
それにしても、母はすごい。こんな短い時間のうちに、これからどうすべきかの方法を淀みなく話し、実行に移そうとしている。このことはいつから考えていたのだろうか。すでに離婚届には、父の字で署名、捺印がされていた。
「子供の分際で大人の領域にまで首を突っ込まなくてもいい」
そう言った看護師の内藤さんの言葉が頭をよぎった。まるで、今の状況を察知していたかのような言葉だと、今になって思う。
「私たち、この家から出て行くの? 学校は転校するの?」
妹が涙を溜めた目のままで、不安そうな声を出す。
「大丈夫だからね、美奈ちゃんは何にも心配しなくていいからね。引っ越しはするけど、学校は変わらなくてもいいんだよ」
母はそう言って、妹の頭を愛おしそうに、何度も撫でた。
「それよりも明日には引っ越すことになるから、持って行く荷物をまとめて行きましょう。当面の着替えと、学校の教材だけは忘れないで荷造りをしなさい。大きな家具なんかは、あとで取りにくるか、業者に頼んで処理をしてもらうから、とにかく必要最小限の物だけ選びなさい」
そう言う端から、母は台所用品を古い新聞紙で包み始めた。
「お母さん?」
聞いて良いのか迷いながら、でも一番心配なことだったので、思い切って質問をした。
「お父さんはどうなるの?」
「さあ、どうなるんだろうね。もう他人になるんだし、どうなるかはあの人次第だからね。それに加奈ちゃんが心配することではないよ。あの人も大人だから、自分の面倒くらい自分でみることはできるでしょ」
まるで、別人のようなことを母は言った。あの病院に入院した日、父のことを最後まで庇い続けた、あの母と同じ人の言葉とは思えなかった。
「お父さんとお母さんは、離婚してしまったら他人同士だけど、私たち姉妹にとってお父さんは、一生お父さんだから」
私は、母の豹変した言葉が悲しくて、そう反論を返した。
「加奈ちゃん、悪いことは言わないから、そんな考えは今すぐ捨てなさい。そんな甘い考えのままだったら、あとでとんでもないことに巻き込まれてしまうからね。もう今日からお父さんはいないと思いなさい。最初から家族は三人だけだったんだと、無理やりでも、思い込むようにしなさい」
母は私たちに苦渋の選択を迫った。いきなりそう言われても、父をないものにすることなんて、私には絶対にできない。
「そんなこと絶対にできないよ。だって、私たちのお父さんだよ」
「できないなんて甘いことを言っている状況じゃないの。するの。できないなんて許さないからね」
母はいったいどうなってしまったのだろうか? まるで悪霊に取りつかれたかのように、まるで迷いのない目をしてそう言った。
横を見ると、父は変わらず浜辺に打ち上げられた流木のように、床に横たわったままだった。
そんな、父の悲しい現実の姿を横目で見ながら、とにかく今は流れの中に飲み込まれるしかないと私は思った。看護師の内藤さんが言っていたように、大人である母の決断と力を信じよう。
次の日、私たち姉妹は学校を休み、昨夜から殆ど寝ないで荷造りをした身の回りの物を持って、午前中には家を出た。
荷物は、母の古くからの友人のご主人が、軽トラックを出してくれて、新しい引っ越し先まで運んでくれた。人の優しさが深く濃く身に染みたし、母の逞しさと社交性にも驚かされた。
引っ越し先は、モルタル造りの二階建てのアパートだった。短期間によく見つけてきたなと感心させられるほどに、上品なモスグリーンの外装と、清潔感溢れる2DKの間取りの、二階の角部屋だった。
あまりの段取りの良さに驚かされるばかりの私だったが、ここまでされるとさすがに気付いてしまう。
母はこうなることを大分前から想定していて、すでに事前に準備を進めていたのではないか。離婚届にしても然りだし、父の自己破産宣告にしても手筈が整いすぎている。
アパートに到着後、母が役所に離婚届を出しに行っている間、荷物をほどきながら、ふと作業の手を止めた時に、私はそう思った。と同時におそらくこの推測は外れていないだろうと確信も持った。
学校の方も、二駅程度は遠くなるが、通学には全く支障はなかった。妹は今までは徒歩での通学だったが、これからは途中までバスを使うことになる。
「高校になれば電車やバスで通うことになるし、中学校の残り期間も少ないんだから、今から転校するより良いよね?」
母の問いに妹は嬉しそうに「うん」と答えた。転校だけが妹の最大の心配ごとだったのだ。
引っ越しをしてから、瞬く間に三週間が過ぎた。母はパートの勤務時間をフルタイムに延長した。私は、学校の帰りに図書館に立ち寄ることはせず、真っ直ぐに帰宅すると、母が帰って来るまでの間に、干していた洗濯物を畳み、夕飯の買い物をして、下ごしらえまでを済ませた。
妹も良く手伝ってくれた。父がいない寂しさが全くないかと言えばそれは嘘になるが、最近では酒に酔っぱらって泥酔している父の姿しか見てこなかったので、引っ越しの前日に母が厳しい声で言った、「お父さんは最初からいなかったと思う」ことは、そう難しいことではないように思えて、それが少し悲しかった。
私も将来の目標をおぼろげながら、見つけ始めていた。家の経済状態を知るまでは、ばく然と大学に進学し、その後の進路については、大学在学中にじっくり考えれば良いくらいに気楽に考えていたが、家庭がこうなった以上、大学進学は諦めざるを得ないだろう。残念だと思う気持ち、悔しいと思う気持ちは「ゼロ」ではないが、現実を受け入れている今となっては、進学を断念する悔しさよりも、新しい進路を見つけるわくわく感の方が強くなっていた。
私は、看護師になりたいと考えるようになっていた。それは、きっと内藤さんの影響が大きいと思う。あの日、父の暴力を受けて母が入院をするまで、私はこれまでに一度だって将来看護師になりたいと思ったことがなかった。自分の中での看護師に対する興味自体が希薄だったのだ。
しかし、母の入院がきっかけで内藤さんに出会うことができ、それまで、看護師の仕事は医者のサポートをするだけだと、幼稚なイメージを抱いていたが、このイメージが内藤さんに出会ったことで、粉々に砕け散るほどに変貌をした。
患者の治療に向き合うことはもちろんのこと、病気になり病院に訪れるのは患者本人だけでなく、家族や親族も含めて多くの身内が、この決して軽くない現状に向かい合わなければないないことを、母の入院で知った私は、看護師である内藤さんが、私たち家族を優しくサポートしてくれたことに深く感動をした。そして、これも看護師の重要な仕事であることも知ることができた。
あの時、内藤さんの言葉や行動がなかったら、今、この状況を私はすんなりと受け入れることができなかっただろうと思う。
私が知っている看護師の仕事振りは、内藤さんに代表されるので、これを見て看護師としての仕事の全てを理解したわけじゃないくらいは、十分に解っている。けれど、内藤さんのような看護師になりたいという思いは、今の自分の将来の目標としては成り立つものだと思っている。
そのつもりで探してみると、高校を卒業して、病院に勤めながら夜間の看護学校に通うことができることも判ってきた。これなら給料ももらえるので、家計も助けることができて一石二鳥である。
将来の目標がおぼろげながらでも定まり始めると、毎日の充実感が明らかに違ってきた。大学進学を諦めたからといっても、決して学業の手を緩めたりはしなかったし、これまであまり手伝わなかった家事にも、積極的に携わるようになった。母に教わって作れる料理の種類も多くなった。
学校での勉強も、家事も、自分がやっていることが、将来の自分に必ず役に立つことなのだと思うと、野菜を切っている時でも、洗濯物を畳んでいる時でさえも、知らないうちについ笑みがこぼれていたりもした。
けれど、そんな穏やかな日々を送ることを、あの男たちは易々と許してはくれなかった。
その日は、二学期の期末テストの最終日で、午前中で学校が終わると、私は急いで家に向かっていた。
ここ五日間はテスト勉強のために、夕飯の惣菜も出来合いの物や、野菜炒めなどの簡単なもので手抜きをさせてもらっていた。これに対しても、母も妹も何一つとして文句は言わなかったが、私の中では申し訳ないという気持ちでいっぱいだったのだ。
だから、期末テストが終わった今日は、少し手をかけた料理を作って、母や妹に「美味しい」と言ってもらいたかったのだ。そのために、学校の帰りに少し遠回りをして、食材の種類が多い、隣町の大型スーパーで買い物をしたいと考えていた。
学校を出て最初の大通りの交差点で信号を待っている時に、横断歩道のすぐ近くで、一台のいかにも高級そうな乗用車が停まるのが、私の目に入った。でも、自分とは関係ないと思っていたので、特に気に留めることはしなかつた。けれど、気に留めておくべきだったと、そのすぐあとに後悔をすることになる。
停車した高級車から若い男が降りて、私に近づいてきた。この時でさえ、私は、自分の前を通り抜けて行くんだろうくらいにしか考えていなかった。しかし、男はいきなり私の腕を掴むと、素早い動作で耳元に囁いた。
「声を出すな、車の中にあんたの親父さんがいる」
先制攻撃を受けて、私は声さえ出せないまま、男に腕を引っ張られて車の中に連れ込まれた。
男の言葉通り、後部座席に父が座っていた。あきらかにこの男たちに激しく暴力をうけたことが判るほどに、顔が蒼黒く腫れ上がっていた。
車の運転席には、以前家に押しかけて来て、母の頬を平手打ちした眉毛を剃り上げた男がいた。
あの時の男たちは諦めていなかったのだ。両親が離婚をし、父が自己破産宣告の申請をした後も、法律など完全に無視して、借金の回収のために行動をしていたのだ。
「何をするの、警察に通報するわよ」
私は全身から勇気を振り絞って、そう抵抗をした。すぐに車から飛び出ようとした。けれど、車のドアは中から開けることができなかった。この高級車はオートロックになっているようだと気付くまでに、そう長い時間は要さなかった。
車から逃げ出すことが難しいことを、自分自身に納得をさせて、無駄な抵抗は男たちの反感を買うだけだと、この時私は、とても冷静な判断ができるほどに落ち着きを取り戻していた。
「どこへ連れて行くの?」
それでも、私はそう訊いた。
「着けば判るさ」
さっき私を捕えた男がそう答えた。まったく答えにはなっていなかったが。
「私が家に帰らなかったら、家の者が警察に通報することになるわよ。家族で話し合って、そういうルールを作ったから」
そんなルールは作っていなかったが、私は精一杯の防衛策を張った。
「口の減らねえ姉ちゃんだなあ。そんな心配はちゃんとそこにいるお父様がやって下さるよ。何しろ血を分けた、たった一人の父親なんだから」
男は顎で父の方を指した。
「お父さん」
私はウィンドガラスを透して射し込む光で、余計に腫れ上がった痣がくっきり目立っている父の横顔を見た。
「加奈、済まない」
父は私の顔を見ようとはしなかった。肉食動物に捉えられた小さな草食動物のように、目が小刻みに泳いでいる。
それでも、父は父である。私は父を信じたいと思った。娘のために、最後の最後は、父は自分の命を懸けてでも、私のことを守ってくれるだろうと期待を持とうとした。
「加奈、お願いだ、お父さんを助けてくれ。助けると思って、この人たちの言う通りにしてくれ。少しの辛抱だから。借金を返すまでの少しの辛抱だから。なあ、お父さんを助けると思って、辛抱してくれ、お願いだ」
父は、この時初めて私の方を向いて弱々しい声でそう言った。
この時点で、私の期待は見事に裏切られた。そして、父への蜘蛛の糸も切れた。
私は、この時点から父に対してなんの感情も抱かないことを決めた。もう父親でも娘ではない。怒りも情けなさも失望も。ただ思ったのは。自分の力でこの場から逃げ出さなければということだけだった。
車は大通りを左折すると、どんどんと繁華街を入って行った。
小さなスナックや飲食店が軒を並べる、車がやっと一台通れるような道を抜けると、まるでひっそりと咲く野菊のように、何軒かの風俗店が、安っぽい色の花びらを開いたように姿を現した。
まるでテッパン。ありふれた展開に私は失笑さえ浮かべていた。
私たちを乗せた高級車は、その類の店が立ち並ぶ中でも、大きな店構えの建物の前で停まった。眉毛を剃り上げた男が、大きくクラクションを鳴らした。
それが合図と決めていたのか、いつもそうなのかは判らないが、間髪も入れずに店の中から二人の男が出て来た。これも見るからに風采の上がらない男たちで、テレビや映画で描かれている、そうした世界も満更現実とかけ離れていないことを知って、再び笑ってしまった。
なぜ、こんなに落ち着いていられるのだろうか、自分でも不思議だった。自分に課せられているこれからのことを考えると、通常なら怖くて身体が震えていても可笑しくないのに、まるで他人事のように、私は冷静に周りの景色を見ることができていた。
店から出て来た男たちは、まず、運転席の男に深々と頭を下げた。ウィンドウを下げた男が顎先で合図をすると、その男たちは車の後ろに回って、私のドアの横までやって来た。
そして、一度ウィンドウのガラスを軽く叩くと、「降りな」と、大して威圧感も与えない声でそう命令をした。
オートロックが解除され、外からドアが開けられたと同時に、私はこのドアを内側から力いっぱいに蹴り上げた。強くはね返ってきたドアにぶち当たって、外の二人の男が転倒をした。これもまた、よくある展開だと笑っている場合ではないが、つい笑ってしまうほど、この男たちは隙だらけだった。
私は、素早い動作で車の外に出ると、今来た道の反対方向に駈け出した。
「この、あま」
助手席の男の声が背中から追いかけてきたが、今は振り帰っている余裕などない。とにかく懸命に走った。これでも小さい頃からかけっこは得意だった。今は逃げるしか助かる手段はないのだ。
後ろを追いかけて来る男たちの足音と、車の音が段々と大きくなってくるのが手に取るように判る。車が通れるような広い道路に出ると、必ず追いつかれてしまう。私は咄嗟に左手の狭い路地に逃げ込んだ。
路地には小さな飲み屋が、まるで精巧な寄木細工のように立ち並んでいた。
男たちの足音が、まるで悪魔が唱える呪文のように近づいてくる。そして、この呪文によって、逃げる足に鉛が架せられたように、重くなって行く。
「このままでは男たちに捕まってしまう」
焦る気持ちと、思いのままに動かない足を引きずりながら、私は逃げ込む場所を必死になって探した。その時、偶然にドアが開いている店を見つけて、無我夢中でその店に飛び込んだ。
開店前の店は、まるで瀕死の病人のように薄暗く静かに沈んでいた。人の気配は全く感じなかった。ただ、昨夜の余韻なのだろう、安っぽい煮物と酒が入り混じった不快な匂いだけが立ち込めていた。
私は店に入ると、この店の大部分を占領しているカウンターの中の一番奥まった場所に身を沈めた。そして、息を潜めた。
私を追う男たちの足音と声がいよいよ寸前まで迫ってきた。私は存在を消すために息を殺した。
男たちの足音が店の前でピタリと止まった。
「しまった、ドアを閉めておくべきだった」
今さら後悔しても遅いが、ドアが開いている店だと怪しまれるのは当然だ。
やはり男たちが店の中に入って来た。そして、店の中で動き始める。当然、カウンターの中にも入ってくるだろう。これで一貫の終わりなのか、私は身を固くした。その時だった。
「なんなんだい、人様の店になんの断りもなくつかつかと入り込んできて、この礼儀知らずが」
誰も居ないと思っていた店の人間が、ドスの効いた声で男たちを怒鳴りつけた。女の人の声だ。
「悪いな、娘を探しているんだ。女子高生がこの店に逃げ込んでこなかったか?」
「そんな娘は知らないね。あたしはずっと店の中で用事をしていたから、そんな娘が飛び込んできたら、すぐに追い返しただろうけど、生憎、この不景気じゃあ、猫の子一匹として入ってはきてないよ。なんなら、あんたらちょっと早いけど、一杯飲んで行ってくれるかい。この辺りも客足がめっきり減っちまったし、どうだい飛びっきり美味い肴を作るよ」
「悪いが、そんな暇はないんだよ。それより、女子高生を見かけたら、ここに連絡をくれねえか、もちろんお礼はするからよ」
男が店の名刺でも渡したのだろう。
「ああ、『ラウンジ夜間飛行』の人たちかい。いったいどんな、いかがわしい飛行をしているんだか」
女は皮肉っぽく言った。
「夢心地の飛行をお客様にお届けすることを、店のモットーにしていますので」
男はしゃあしゃあとそう言ってのけた。
「おたくの店で女子高生なんか働かせると、手が後ろに回ってしまうんじゃないかい。例えいかがわしい店でも、犯罪に手を染めるのは良くないねぇ。犯罪防止っていうモットーは夜間飛行にはないのかい?」
この女の人はすぐに挙げ足を取る性格らしい。敵に回すと手強そうだ。
「店には関係ねえことなんだよ。うちは健全な経営をしているからな。ただ、この人の娘さんが家出をして、この辺りに潜伏しているという情報が入ったもんだからな、人助けのつもりで一緒に探しているってわけさ。なあ、あんた、そうだよな」
「は、はい、よろしくお願いいたします」
父が男に促されて、情けないほど小さな声でそう言った。
「そうですか、娘さんが家出をされたんでしたら、それはとてもご心配なことですね。もし、娘さんらしい女子高校生を見かけたら保護をして、ちゃんと警察に連絡しますので、どうぞ安心をしてください」
やはり敵に回すと手強い相手だ。
「警察なんてとんでもない。お父さんとしては娘さんのことを考えて、警察には捜索願を出してないんだから、そんなことをされたら、お父さんの折角の気遣いが水の泡になってしまうだろ。うちの店に連絡をしてくれればいいから。な、頼んだぜ」
そう言うと、父を含めた男たちは店から出て行った。
それから、一、二分が過ぎただろうか。
「もう、出てきても大丈夫だよ」
「えっ?」
女の人は、私が店に入ってきたことに、ちゃんと気づいていたのだ。
私は、覚悟を決めてカウンターの中で立ち上がった。男たちのやり取りの様子から、きつそうなイメージを勝手に抱いていたが、実際に自分の目が捉えた女の人の顔は、穏やかな印象を持っていた。
「すみみません、勝手に入り込んでしまって」
私はまず頭を下げた、そして、女の人が悪い人ではなさそうなことに胸を撫で下した。
「そんなことはいいさ。こんなことはこの界隈では珍しいことではないからね」
女の人は、「飲みなさい」と言って、瓶入りのコーラの栓を抜いた。
「あの、私、家出なんかじゃあ……」
「いちいち事情なんか聞くほど、私はお節介焼きじゃないからね。ここで暮らす人間は、背負え切れないほどの事情を抱えた者ばかりだからね。いちいち聞いていたらきりがないのさ」
穏やかな表情とは裏腹に、女の人の言葉遣いは荒削りで乱暴だった。でも、私には優しく感じられた。
「それを飲み終えたら、さっさと逃げるんだね。あいつらに捕まらないで逃げ通せる道を教えてあげるからさ」
「ありがとうございます」
私は急いでコーラを飲み切ろうとして、反対に咽てしまった。
「そんなに焦らなくたっていいよ。それよりも、あの男たちがまだそこいらを探し回っているから、十分に気を付けるんだよ」
そう言うと、女の人は、逃げ道を新聞の広告の裏に鉛筆で描き始めた。
「この店の裏のドアから出て、すぐに左に曲がると、そこにトタン板を張り合わせた塀があるからね、その塀の右から三番目を強い力で押すと開くから、開いたら中に入ってすぐに閉めなさい。中はがらんとした空き地になっているから、そのまま真っ直ぐに行くと、すぐに堤防に突き当たる。この堤防の端に梯子が掛かっているから、これを上って堤防の向こう側に降りなさい。向こう側には川との間に人が一人通れるくらいの幅の狭い道があるから、これを通ってできるだけ遠くまで逃げるんだよ。そして、もう二度とこんな所にくるんじゃないよ」
「はい、色々と親切にしていただき、ありがとうございました」
私は、再び深く頭を下げた。
「ところで、あのお父さんっていうのは、本当にあんたの父親なのかい?」
「はい、私の父です。両親は離婚をしていますが」
「そうかい、それは辛い現実だね。根は悪い人じゃなさそうだけど、今は身体の中から魂が抜けてしまっているという感じだね。この界隈じゃあ、あの手の顔をした男たちをよく見るよ。人生の道を踏み外した者に特有の顔だね」
そこで女の人は一度言葉を切った。
「魂が抜けた人間は、何をしでかすか分かったもんじゃないからね、たとえ実の父親でも信用をしちゃあいけないよ。今は、もう父親の気持ちなんてちっとも持ち合わせちゃあいないよ。父親の仮面をかぶった悪魔だと思いなさい」
女の人は、「さあ、お行き」と、私の肩を優しく叩いた。
私は女の人が教えてくれた道順を頭の中で反芻しながら、従順に逃げ道を辿って行った。トタン板でできた塀の、秘密のドアを開けて、忠告通りにすぐに閉めた。男たちに見つかるんじゃないかと冷や冷やしながら、全身にハリネズミのようにアンテナを張り巡らせて、やっとここまで来た。
それでも、まだまだ安心はできないと気を引き締めなおして、堤防に掛かっている梯子を目指して走った。
その時だった。秘密のはずのトタン板のドアが開く「バタン」という音が、突然聞こえてきて、私の心臓が瞬間に縮こまった。怖かったが、そんなことを気にしてはいられない。私はすぐに振り返った。
そこには、父だけが一人で立っていた。
「加奈、よく逃げることができたな」
父は、私の逃避の成功を喜んでくれているかのように、嬉しそうに微笑んでいる。
「加奈子、しっかり逃げるんだぞ。あとのことと、お父さんのことは心配しないで、あいつらの手の届かないところまで早く逃げないさい」
父は私を急かすように、手で「急げ!」の合図を送ってきた。
やはり父親なのだ。あんな風に男たちの手下になったように装いながらも、やっぱり私のことを一番に考えてくれていたんだ。そう思ったら胸が熱くなって涙が溢れてきた。
「お父さんも一緒に逃げようよ」
私は父に向って大きな声でそう叫んだ。両親は離婚しているけど、血を分けた父親であることには変わりはないのだ。
「お父さんは良い、だから早く逃げなさい。お母さんと美奈子のことを頼んだぞ」
「駄目だよ、お父さんも一緒じゃないと、私たちは家族なんだから」
私は今来た道を引き返し始めた。父の手を引っ張ってでも、無理やり一緒に逃げたかった。
その時、再びトタン板のドアが開いて、男たちが空き地に入って来た。
私は瞬時に身体を翻して、再び梯子を目指した。父も男たちから逃げるために走りだしたようで、足音が迫ってくる。
「お父さんも上手く逃げて」
心の中でそう叫びながら、私は懸命に走った。
やっとのことで梯子まで辿り着いた。すぐに錆びだらけの梯子を上り始めた。
一段、二段、三段と梯子を上がっていた時、
「あっ!」
突然足首を掴まれた。
またも、心臓がきゅっと痛くなった。
「捕まってしまった」
終焉の鐘が鳴ったような気がした。
「加奈、逃がさないからな。お前たちだけが幸せな生活を送るような、勝手な真似なんか絶対にさせないからな」
私の足首を掴んでいるのは、あの男たちでなく、私の父だった。先ほど、早く逃げろと言ってくれたあの父親だった。
私は咄嗟にあの女の人が言った言葉を思い出した。
「魂が抜けた人間は、何をしでかすか分かったもんじゃないからね、たとえ実の父親でも信用をしちゃあいけないよ」
女の人の言う通りだった。父は父であって、もう父ではないのだ。厭らしい目をして、悪魔に魂を売り渡した、恐ろしい人間に成り下がっていた。さっきの言葉も私を捕まえるための甘い罠だったのだ。
「加奈」
父が地の底から呻き上げるような声で、私の名前を呼ぶ。男たちがもうすぐ後ろにまで追いついてきていた。
私は、父の甘い言葉に騙されて、来た道を引き返したことを後悔したと同時に、父を見限る決心をした。私は、全身の力を振り絞って、掴まれてない方の足で、父の顔面を蹴り下ろした。制服なので履いていたローファーの硬い踵が、父の頬のあたりを捕えた。踵に強い衝撃があったから、恐らくかなりのダメージがあっただろう。
思った通り、「うぅー」と呻き声を上げて、父の手が私の足首から離れた。
私は必死で梯子を駆け上がり、堤防の頂点に辿り着いた。
でも、男たちもすでに梯子に手を伸ばし始めていた。このままではすぐに捕まってしまう。と思った瞬間には、私の身体は宙を浮いていた。
晩秋の川の水温は、さすがに冷たかった。飛び込んだ時に両足の靴は脱げていた。私は向こう岸を目指して懸命に泳いだ。着服での水泳は初めてだったが、そんなことなどどうでもいい。とにかく前に泳ぎ進むしかないのだ。息継ぎなど完全に無視をして、私はなんとか対岸の堤防の所まで泳ぎ着いた。
上に上がって恐る恐る振り返ると、男たちは向こう岸の堤防の頂上に立ったまま、まるで人工的に作られた石膏像のように、微動だしないでこちらを見ていた。まさか、私が川に飛び込むとは考えてもみなかったのだろう。
私はこれで、男たちから、いや父から逃れることができたと思った。そして、そのことがとても悲しかった。もうこれで父とは完全に切れたのだと、自分自身が納得したことが悲しかったのだ。
その後、ずぶ濡れになったまま、どこをどう歩いたかは全く覚えていなかった。気がついたら、前に母が緊急入院をした病院の屋上に立っていた。裸足のまま、鞄も持っていなかった。
母が入院をした次の日、看護師の内藤さんが、「大人の力を信じなさい」と言ってくれた、それと同じ屋上で、私は今、その大人の力に裏切られて、ずたずたに傷ついた心を抱えたまま、かつて家族四人で住んでいた家の方向を見つめていた。
お人好しの父がいて、優しくて家の中でまめに働き続ける母がいて、甘えん坊だが家の中を明るく照らす太陽のような妹の美奈子がいた。あの家の方向を見つめ続けていたら、止めどもなく涙が流れてきた。
あの男たちは、必ずまた私たちに危害を加えてくるだろう。今度はもっと周到な準備をして巧妙な罠を巡らして、気づかないうちに綺麗な蜘蛛の巣を張って、獲物を誘き出すだろう。次は妹かもしれない、いや母なのだろうか。
いっそのこと、私が捕まっていた方が良かったのだろうか。
……もう私たち家族は、この先、慎ましく暮らすことはできないのだろうか。
秋も終わりに近づいた、冷たい夜の風が吹き抜けて行く。濡れた制服は、風が吹くたびに私の身体から熱を奪って行く。幸せの温もりや、希望の光も、そして生きて行くことの熱意さえも。
空が、夜の衣を身に纏い始め、街の家々に灯りがともり始める。空には星も瞬き出した。幸せな家族の住む家が灯す光の数と、夜空に瞬く星の数と、いったいどちらの方が多いだろうと、ぼんやり考えていたら、無意識のうちに屋上のフェンスをよじ登っていた。
夜の風が、体温と一緒に生きる炎まで消し去ろうとしている。背負っている荷物を、もうここで下してもいいよね。
フェンスの向こうに行けば楽になれるよ。どこかで誰かが私の耳元でそっと囁く。
「きゃあ!」
私は思わず叫び声を上げた。瞬間に身体が凍りついた。また、足首を掴まれたのだ。
「まさか」、咄嗟に父の顔が浮かんだ。
「加奈、逃がさないからな」と。魂の抜けた目で叫び続けた、あの父の顔だ。
「お姉ちゃん、馬鹿なことはしないよね」
でも、違っていた。父の声ではなかった。私はゆっくりと振り返って、足首を掴んでいる主の姿を見た。
看護師の内藤さんだった。でも、どうして内藤さんがこんなところにいるの?
私は、内藤さんの手を振りほどこうと、足を激しく振り、掴まれていない方の足で、内藤さんの手を蹴り続けた。
でも、内藤さんの手は私の足首を掴んだまま、決して離そうとはしなかった。
「お姉ちゃん、この屋上から飛び降りたら、そこにお姉ちゃんの未来が待っているとでも思っているの? それは、どんな明るい未来なの?」
「未来?」
私は、はっと我に返って、自分にそう問うてみた。この先に私の未来は待っているのだろうか。未来が見えないから、私はフェンスの向こうに行こうとしているのではないか。
何も見えない明日。父親に裏切られ、その現場からやっと逃げ出してきたけれど、これからもあの男たちからの脅威に怯えながら日々を送らなければならない。そんな暗く沈んだ日々のことを思うと、未来は黙っていても勝手にやってくる、ただの時間の経過に過ぎない無意味なものにしか思えなかった。
「……」
私は、内藤さんの問いに答えることができなかった。答えの代わりに涙が止めどなく溢れてきた。
「私の生きて来たこの十七年間は、いったいなんだったんだろうか」
砂を噛むような虚しい問いかけを私は自分にしていた。
「お姉ちゃん、どんなに苦しい時にも花は咲くんだよ。どんなに辛い日々の中でも、その中に必ず宝石のようにキラリと光る瞬間はある。人が命を繋ぎながら毎日生きて行くのは、そんな細やかな喜びを見つけるためなんじゃないかな。看護師をしているとね、もう余命の少なくなった患者さんたちと接する機会も多いの。その人たちは皆、どんな人でも例外なく生きることを諦めたりはしてないよ。先生に余命三ヶ月と宣言されたら。三ヶ月よりも一日でも長く生きてやろうと、命の炎を燃やし続けているんだよ。辛い治療にも必死で耐えながら、辛くて不安な日々の中でも、花を咲かそうとして頑張っているよ。宝石のような一瞬を見つけようと真剣に生きている。
どんな人にも未来はあるよ。明日の命を保証されていない患者さんにも、明日もまだ生
きてやるんだと、そう思うことで未来を紡ぎ出そうと必死に頑張っているんだよ。
健康な身体を持つお姉ちゃんが、自らの手で命を絶つようなことをしたら、私は絶対に許さないよ。たとえ、お姉ちゃんは楽になれたとしても。お母さんや美奈子ちゃんは、お姉ちゃんをここまで追い込んでしまったっという罪悪感を一生背負ってこの先、何十年も生きて行くことになるんだからね。
どんなに辛い出来事にだって、必ずゴールはある。それがどんな形であろうと、必ず終わりはやってくるんだから、その途中で逃げ出したりしたら駄目だよ。ちゃんと自分の手でゴールのテープを切らないと。ねぇ、お姉ちゃんは賢い人なんだから、本当はちゃんと解っているよね。解りすぎているから辛いんだよね。だったら分けっこしよう。みんなでその辛さや悲しさを分け合おうよ。お姉ちゃんは一人なんかじゃない。沢山の味方がいることを、ちゃんと忘れてはいけないよ」
私の身体から力が抜けて行く。フェンスの金網を掴んでいた手が、ずるずると離れて行く。フェンスを滑り落ちるように身体が下に雪崩落ちて行く。そして、最後に内藤さんに抱き止められた。内藤さんは私の身体を強い力で、でも優しく、温かく抱きしめてくれた。
「びしょ濡れじゃないの」
それだけ言うと、内藤さんは涙で声を詰まらせて、「辛かったね」と、さらに強く抱きしめてくれた。
私は、声を上げて泣いた。明日朝、太陽に向かって咲く花のような、そんな未来を期待してもいいのだろうか? もう一度未来の存在を信じても良いのだろうか?
いつまでも、いつまでも涙が止まらなかった。
内藤さんに身体を支えられながら、私は病院の控室に入った。内藤さんが、すぐにバスタオルを渡してくれた。
その後、内藤さんから連絡を受けた母が、着替えと靴を持って迎えに来てくれた。内藤さんが母に事情を話してくれている間、私は内藤さんが暮らしている女子寮のお風呂に入れてもらい、内藤さんの部屋を借りて着替えた。
そして、内藤さんが手配をしてくれたのだろう、お風呂から上がると、女子寮の管理人のおばさんが、熱い牛乳をカップに入れて持ってきてくれた。
「少し、砂糖を入れたから身体がうんと温まるよ」
そう言ってほほ笑むおばさんの顔が、なんだかとても眩しかった。
母は私の顔を見るなり、駆け寄ってきてただ強く抱きしめた。
「ごめん、ごめん。こんなことになってしまって。愛しい娘をこんな目に遭わせてしまって、本当にごめんなさい」
母は、オウムのように何度も同じ言葉を繰り返しながら、周りを憚らず泣き続けた。
母と私と、内藤さんの三人に、病院の院長が入ってくれて、今後のことを相談した。
父を含めた男たちに対して、正式に訴えることにした。そのための診断書を院長が準備をしてくれた。
被害届はその日のうちに受理され、二日後には、私を連れ去った男たち、それを手伝った店の男たち、そして父が警察に逮捕された。逮捕の報告をくれた刑事さんが、逮捕には男たちの店の近くの、スナックのママが積極的に協力してくれたことを教えてくれた。
犯人逮捕の報告を受けた一週間後、私たち家族三人は、二度目の引っ越しをした。
その後、私は自分の決めた通り高校を卒業すると、付属の看護学校が併設された総合病院に看護婦見習いとして就職し、付属の看護学校の夜間部に入学をした。勤労学生にはなったが、同級生の殆どが職場の同僚なので、終夜問わず一緒に行動をすることになり、入学して一ヶ月も経たないうちに、すっかり家族のような雰囲気になっていた。
看護学校に入学をしてからも、私は時々内藤さんに電話をした。それは近況の報告をすることが大半だったが、病院の業務や、看護学校で解らないことがあった時には、職場の先輩よりも、なぜか内藤さんの方が訊き易かったので、すぐに連絡を入れた。
連絡を入れると、どんな時でも内藤さんは嬉しそうに電話口に出てくれた。そして必ず「電話ありがとう」と最初に言ってくれる。本当はこのひと言が聞きたくて、内藤さんに電話をしていたのかもしれない。
長女の私にとっては、内藤さんはお姉さんのような存在だった。だから、最初のお給料では、母や妹にだけではなく、内藤さんにも贈り物をした。
高校を卒業した次の日、内藤さんが、お祝いにと、小さなイタリア料理の店に招待をしてくれた。 その店で、内藤さんが勧めてくれた、ピザやパスタをお腹いっぱいになるまで食べた。料理はどれも確かに美味しかったけど、私にとっては、内藤さんとの会話が、どんな美味しい料理にも勝るご馳走だった。
この時に料金を払っている時に見た内藤さんの財布が、表面の革が剥がれかけ、色もくすんでいたので、差し出がましいことかもしれないと思ったが、最初のお給料で、財布をプレゼントした。サーモンピンク色の春らしい財布にした。
「わあ、嬉しい。なんだかお金がいっぱい貯まりそうな財布だね。色もデザインも私好みで、早速すぐに使い始めるわ」
プレゼンとした財布を私が期待した何倍もの大きさで喜んでくれた。
こうした内藤さんとの関係は、内藤さんが結婚して病院を退職するまで続いた。
それから十年以上が経った。この間に私は正式に看護師の資格を取得し、目標とする内藤さんのような看護師になれたかどうかは疑問だが、看護師という仕事に生きがいと誇りを感じながら、日々忙しく過ごした。
この十年の間に、妹の美奈子は、就職をした職場の人と結婚をし、母は、パートタイムで勤めていたスーパーマーケットの正式社員に昇格をした。
妹が家を出て、母との二人暮らしの中で、大人同士の良い意味での無関心さの心地良さに、私はずっとこんな毎日が続いて行くものだと、ばく然と思っていた。
私には、結婚願望というものが全くといっていいほど希薄だった。というよりも結婚を恐れていたのかもしれない。父の裏切りを目の当たりに見てしまい、家族の在り方に疑問を感じていたのも確かだった。自分の中では、このまま独身を通し、看護師としてより高みを目指すことを、人生の目標にしようとさえ考えていたほどだ。
そんな時である。私の耳に、信じられない悲しい報せが届いたのは。
内藤さんが、三十五歳の若さでこの世を去ったという報せは、これが現実であっても、心がこの悲しい報せを全く受け付けなくて、私は報せを聞いた途端に半狂乱になり、そのあと暫くの間廃人のような放心状態が続いた。
母と妹に支えられながら、かろうじて自分の足で立って、内藤さんのお通夜と告別式には出席をすることができた。
この耐えられないような悲しい席で、私は初めて内藤さんのご主人と、十歳になる内藤さんの面影を色濃く残す、娘さんに会った。年恰好も全く違うのに、私は内藤さんに再会をしたような錯覚にさえ陥ったほど、由美ちゃんいうその娘さんは、内藤さんに似ていた。
娘さんの姿を目で追いながら、私は泣き崩れそうになる自分を必死でこらえた。
出棺の時がきて、いよいよ最後のお別れの時、由美ちゃんが、肩を大きく震わせながら、「ママが、一番大切にしていたものだから、天国に持って行ってね」と、棺の中に入れた物は、私が、初めての給料でプレゼントしたサーモンピンク色の財布だった。
決してブランド物でも高価な物でもないのに、内藤さんはずっと大切に使ってくれていたのだ。そう思っただけで、私はもう泣き崩れていく自分をどうすることもできなかった。
私はこの悲しみの渦巻く中で、一筋の光を見つけた。そして、決心をした。この時に新しい人生の目標を見つけ出したのだ。
三十五歳の若さでこの世を去った内藤さんの悲しさや無念さを、私が背負って、内藤さんの代わりに娘の由美ちゃんを育てよう。それが、私の命を救ってくれた内藤さんへの恩返しだしと考えたが、本当の気持ちは、本能的にこの娘さんの母親になりたいと思ったからだ。
私は、内藤さんとの関係には一切触れないで、自分から積極的に内藤さんのご主人に接触を図って行った。そして、結婚をした。こう言うと、かなり打算的な結婚のように取られるかもしれないが、ご主人との交際期間の中で、私は彼を心から好きになったし、もし、何も知らないで知り合ったとしても、きっとこの人を好きになり、結婚をしていただろうと思えるほどに、愛情を注ぎこめる相手だと確信もした。
そして、現在に至っている。
父から渡された二冊のノートを読み終えた時は、僕が今まで起きていたことのないくらいの、深夜と呼ばれる時刻になっていた。
「すっかり夜更かしをさせてしまったな。お母さんに知れたらお父さん怒られちゃうよ」
父は笑いながら言ったが、その笑顔の中に優しさがいっぱい詰まっていることを、僕ははっきり気づいていた。
これまで、父と母の胸の中にだけ収められていたこの事実を、今夜父が僕に知る機会を与えてくれたことは、僕がもう子供ではなく、この事実を分かち合うに値する、理解力と判断力、心構えを持てるようになったことを示唆していると、僕は僕なりに受け止めたかった。
「もう、寝ようか」
父は美味しかったよと言って、僕のマグカップまで洗ってくれた。
お父さん、「もう寝ようか」と言われても、きっと僕は今夜、眠れないと思うよ。
<幸せの貯金通帳―5に続く>
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