第50話
経済的に一道一家が現在のマンションで生活できるのは今月末が限界になる。好景気の時に貯めた金はほとんど使い果たした。カミツ工業の倒産後、和美がパートで働いて入ってくる金額では、ローンを支払って生活するのはまったく無理だった。
マンションを売却したとしても、不動産の値段が急速に下落していて、ローン残高よりもはるかに低い金額にしかならなかった。家を失う上に残った多額の借金を背負うことになる。残される方法はマンションも放棄する代わりにローンも払わない、いわゆる銀行にとって不良債権にするしかなかった。銀行も、いくら払えと言っても払う能力も資産も無い者には、どうすることもできなかった。
今まで支払った月々のローンは賃貸住宅で生活した場合の二倍近くの金額だったので、多くの金を無駄にしたことになった。
「中学を卒業して、まじめにコツコツと働いて、年を取って残ったのは、借金と病気か・・・」
一道は何度もこんな事をつぶやくようになっていた。
以前住んでいたような安い木造のアパートにでも引っ越せば、和美の給料で、生活費を極端に切り詰めれば親子三人の生活がなんとかできそうだった。ただ、階段の上り下りは一道の心臓に負担がかかるので一階の部屋を探さなければならなかった。
「来週の日曜日は、仕事が休みなのでアパートを探してくるわ」
和美の声には生活の苦しさがあまり出ない。感情が表に出ないこともあるが、どんな状況になってもその中で生きる努力をするしかないという悟りのようなものが感じられる。
母親の葬式を終えた頃から一道は右耳に異常を感じ始めていた。自然に治るかと思って放っておいたが、徐々に悪くなってきた。周波数の低い音を聞くと、ちょうど上向きのスピーカーのコーンに小さな豆が何個か転がっているように、鼓膜が振動するたびにゴロゴロと雑音がするような状態になっていた。音が大きくなればなるほど雑音も大きくなった。話をしていても、街中の騒音を聞いても左右の耳で違う聞こえ方をするので不快感が募ってくる。右耳をふさいで聞こえないようにした方がまだ楽にさえ思える。
こういう症状が日を追うごとにひどくなる。医者に診てもらおうかとも思ったが、それでなくても、心筋梗塞の治療と薬代に毎月、かなりの金額が必要だったので、行かずに我慢をしていた。
しかしやがて、音に接するのが非常な苦痛になってきた。音のしない所に居るか、耳を塞いでいなければ絶えられない状態になった。どうにも我慢ができなくなって病院へ行った。
「基本的な検査をしましたが、鼓膜などには異常は見つかりませんでした。内耳部の方の伝達関係のところに異常があるかもしれませんが、今のところ原因はよくわかりませんね。もしはっきりさせるのであれば精密検査を受けてください」
医者は機械的な話し方だった。一道は費用のことを考えると精密検査を受ける気にはなれない。この耳鼻科の病院代で家族の三日分の食費が消えた。
一道は首を横に振りながらマンションに帰ってきた。
「俺はもう一生涯、音を楽しむということができなくなるのだろうか。あれほど好きだったアンプやラジオの製作も、二度と再び楽しむことができないのだろうか」
彼は自分の人生が大きく変わったのを感じた。それは再び取り返しのつくようなものではないと思えた。
この数日、晩秋の寒暖の差が激しかったためか、明美が高熱を発して寝込んでしまった。夜になると熱が高くなり、明日は治療費がかかっても病院に連れていこうと思う。しかし朝になると体温が少し下がるので、病院に行かないままになっていた。
三日間、幼稚園を休ませて寝かせていたが、熱が下がらなかった。一道は、自分は早々と耳の医者に行ったのに娘を病院に連れて行かないことが、心にしこりのようになり始めていた。自分のためにはすぐに病院に行くくせに、かわいいい娘には治療費をケチって医者に連れていかないのは親として情けないではないか、と自分で自分を責めていた。
四日目の夜、明美はますます体温が上がってきた。そして熱に浮かされるように口を動かした。
「スーパーマンっていいなあ。どこへでも好きな時に飛んでいけるものね。アケミは今は熱が出てしんどくてどこにも行けないけれど、スーパーマンになって空を飛びたいなあ」
今度は声を出して泣き出した。明美は以前、スパーマンの映画をテレビで見てから熱烈なフアンになっていた。
一道は明美の熱で赤みを帯びた顔をしばらく見つめていた。
「明美ッ!ほんとうはお父ちゃんは、スーパーマンの親戚なんだぞ。自由に大空を飛べるぞ」
一道は急に甲高い声で言った。明美の泣きべそをかいていた顔がパッと晴れた。
「お父ちゃん、本当に飛べるの?」
「ああ飛べるとも。今までにお父ちゃんが嘘を言ったことはなかっただろう」
「そうだけれど・・・空を飛ぶのだけは難しいのじゃないかなあ」
明美は不思議そうな顔をして一道の顔を見上げた。スーパーマンのことになると発熱のことも忘れたように目を輝かせる。
「お父ちゃんは、明美が知らない間に、夜になったら屋上から飛び出し、自由に大空を飛び回っているいるんだ。月まで行ったこともあるぞ」
「へえ、すごいなあ。でも本当かなあ。本当に月までいけるのかなあ」
「いつでもお父ちゃんが飛ぶ時には、明美はぐっすりと寝ている時だ」
「残念だなあ。今度、飛ぶ時には絶対に起こしてよ・・・でも本当かなあ」
明美は半分不審そうに、半分期待したいような、そんな目で見ていた。
「でも、いつでも飛べるのなら、今でも飛べるでしょう。そうだ、お父ちゃん、これから飛んでよ」
明美の顔がさらに輝いた。
「お父ちゃんが飛べるのはよく晴れた夜に、満月がこうこうと照っている時だけだ。その時に、じっと、月の方を見ていると、お父ちゃんの体に、目に見えない大きな強い羽が生えてくるのだぞ。そして、大空へ飛び出せば月であろうが、どへでも自由に飛んで行ける」
一道は手を伸ばし、両腕をゆっくりと高く上げた。明美は布団から起き上がると窓のところへ行き、ガラス戸を開け、首を突き出して夜空を見上げた。
「やったね、お父ちゃん。今夜は満月で晴れているわ」
明美が元気な声を出した。一道も窓に行き顔を出すと、大阪には珍しく澄んだ夜空に輪郭のはっきりしたほぼ真円に近い月がこうこうと浮かんでいた。
「さあ、お父ちゃん、行こうよ、屋上に」
明美は風邪を引いていることを忘れたように動きが活発になった。
「熱が高くなったらいけないから、しっかり着込みなさいよ」
和美は止めもせずに明美に何枚も重ね着させて身長と横幅が同じくらいにした。
「あんた、階段は大丈夫なの?」
「ゆっくり上れば大丈夫だ」
一道は明美と手をつないで玄関を出た。最上階の十階までエレベーターで行く。そこから屋上への出口までは階段を使わなければならない。一道は一段いちだん、ゆっくりと上がった。
屋上へ出ると脱落防止用の腰ほどの高さの手すりにもたれるようにして月を見た。
「きれいねえ、お月様がこんなにはっきり見えるの、初めてよ」
明美は夢を見るように月を見上げている。
一道は両手を月の方へ大きく伸ばした。
「お父ちゃんの背中に乗って一緒に飛ぶと、落っこちてしまいそうだわ」
明美が一道のズボンを引っ張りながら言った。
「大丈夫だ、しっかりと背中に乗って首に手を回しておけば、落ちることはない。さあ、それじゃ、乗れよ」
一道は、しゃがんで背中を低くした。明美はうれしそうに背中に乗るとしっかりと首に両手を回した。
「さあいいか、立つぞ」
一道は心臓の負担が限界に近いのを感じながらゆっくりと立ち上がった。
「ワァーイ、お父ちゃんにおんぶしてもらったの、だいぶ前だったよね。なんか、本当に飛べそうだわ」
「ああ、飛べるとも、必ず、月まで行けるぞ」
一道は手すりをまたいで乗り越えて、そのまま手すりの上に腰を下ろした。眼下には月光に照らされた地面がはるか下方に見える。腰を上げて一歩踏み出せば飛び降りることが出来る。明美の両腕に大きな力が入るのが感じられた。
「お父ちゃん、怖い。本当に飛べるの?」
「本当に飛べるぞ。だけど、恐いのなら止めておこうか」
「いやいや、飛ぼうよ。お父ちゃんは嘘を言ったことはないものね」
明美の声にはいつにもない緊張感がみなぎっていた。
彼は大きく両腕を満月の方へ向けた。身体中に虚空を自由に飛び回ることができる強い羽が今にも生えてくることを心より願った。一道は腰をゆっくりと上げた。
「しっかりと捕まっているんだぞ。それじゃ、飛ぶぞ!」
「いいよ、お父ちゃん!」
いよいよ飛び降りようと体を乗り出した時だった。
「アッ、お父ちゃん、ちょっと待って!月のウサギさんが持っているのは餅をつく棒ではなくて、お父ちゃんの好きな真空管だわ」
「エッ?」
一道は明美の意外な言葉に驚いた。そして乗り出した体を戻して改めて月を眺めた。言われてみると確かにそうだ。ウサギがST管を両手で持ってうれしそうにしているような姿だ。そう思って見ると心が静まり、動悸が治まるような気がした。そして懐かしい桜井の言葉を思い出した。
・・・星々や巨大な島宇宙を生々滅々させるエネルギーと法則性を包含している真空は宇宙の根源であると言えます。真空管はその宇宙の根源のエネルギーと法則性を働かせたものです
桜井の純粋な優しい顔が瞼に浮かんできた。
・・・俺も宇宙の中の一つだ。真空管のように、根源のエネルギーが残っている限り、それを働かせるのがあるべき姿だ。まだ使えるのに割るなんてとんでもない。まして、娘を道連れにするなんて・・・
一道の目から大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。それが分かったのか、明美は父親の背中を上るようにして四角い大きな頭を後ろから抱き締めた。そして、両手でこぼれる涙をぬぐった。一道は明美が落ちないように手を後ろに回してお尻をしっかりと支えた。
涙はとめどなく流れた。明美は目隠しをするような手つきで一生懸命になって次から次にあふれてくる涙をぬぐっていた。
「あんた、何しているの?寒いと心臓にも悪いし、明美の熱がまた高くなるといけないわよ。早く部屋の中に入って」
ようやく涙が止まりかけた時、屋上への出入り口から和美の声がした。
部屋に帰るとテーブルの上に卵焼きと〝カタクリコ〟が出されていた。一道は何度か和美に、自分の幼い頃、病気した時に母の民代が作ってくれた食べ物のことを話していた。
「ワッ、おいしそう、早く食べよう、お父ちゃん」
明美は体は冷えたが、気分が良くなったのか、明るい声を出した。
「お父ちゃん、うさぎさんの真空管が聞きたいわ」
明美は卵焼きをほおばりながら言った。
「それ、何のこと?」
和美は不思議そうにしている。
「真空管ラジオのことだ。そうだ久しぶりに高一ラジオを聴こう」
一道は母親の病院から持ち帰ったラジオの電源コードをソケットにつないだ。そしてスイッチ入れた。しばらくしてから、中学生のころの幸せな音が時の経過を超えて流れてきた。不思議と高一ラジオの音は一道の右の耳にも快く響いた。
その音を聞きながら卵焼きや〝カタクリコ〟を食べていると、屋上で感じていたものとは違った、暖かい感情が胸いっぱいに満ちた。また、涙がこぼれそうになった。
その時、明美の顔を見ると、人さし指を少し曲げたままで唇に当ててにっこりと笑った。その笑顔を見たとき、一道の出そうになっていた涙が止まった。そして唇を左右に大きく引き締めて、頑張るぞ、という表情をした。
和美は二人には背中を向けて炊事場で食器の片付けをしていた。
(了)
真空の灯火(ともしび) 大和田光也 @minami5
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