第49話
土曜の夜、母親の民代を入院させている病院から連絡があった。
「お母さんが、かなり悪い状態になっていますので、明日にでも来院していもらえませんか」
看護士が少し命令的な雰囲気の声で言った。かなり悪いというが、どのような状態なのか、具体的な説明をしなかった。くわしく尋ねてもとにかく来てほしいと言うだけだった。
翌日、和美も明美も仕事や幼稚園が休みだったので、一緒に行くことになったが、一道の心臓の機能では、とても電車で母親の病院まで行くことはできなかった。高額になるとは思ったがマンションから病院までタクシーで行った。
病院に着き、母親のベッドの傍まで行ってみて驚いた。眠っている様子だったが、両手首を丈夫なひもでベッドの端にくくりつけられていた。さらに、顏のいたるところに傷ができていて手当てを受けていた。
別室に案内されて、医者の説明を聞くと、一週間ほど前から急に言動がおかしくなったということだった。柱に自分で頭を何度もぶつけたり、わざと廊下でつまずいて倒れたりして、体中に傷をつけるようになった。他人に危害を及ぼすようなことはしないが、自分で自分を傷つけて何かから逃れているような様子が出てきていた。
「この二、三日は、夜中に起き出して、窓から飛び降りるような仕草をしはじめました。それで仕方がなく、おしめをしてベッドに検束をさせてもらっております。そして軽い睡眠剤で眠らせている状態です」
医者は親切に説明を続けてくれる。
「この病院には、入院時に説明させてもらったと思いますが、ほとんどの患者さんが寝たきりの方ということで閉鎖病棟というのはありません。ですから、お母さん自身の身体を守るために手をベッドに固定しているのですが、人権上の問題もありますので、もし、息子さんがひもを解いてくれというのであれば、そうします。でも、それによって何かありました時には病院側としましては責任は負えません」
冷静で少し遠回しな表現ではあったが、医師が言いたいことは、一道にはよくは理解できた。
医者の説明を聞いてから再び民代のベッドの傍に行った。民代は眠るというよりも薬によって意識がもうろうとしている様子だ。体を少し揺さぶって声をかけると目を覚ますが、半分眠っているような状態だった。それでもしばらくして傍に居るのが息子の一道であるのが分かったようだった。
「一道か、よく来てくれたなあ。もう会えないかと思った。ずいぶん痩せたようだが、元気だったか?」
民代は夢見心地な雰囲気でゆっくりとしゃべる。一道の病気のことは母親が心配してはいけないと思っていっさい知らせていなかった。
「ああ、俺は元気そのものだぜ。お袋も元気出して長生きしないといけないぜ」
一道はできるだけ、元気な声を出す。
「いや、この病院は長生きをさせてくれないぞ・・・」
急に母親の声が小さく低くなる。
「ウチが、この病院の不正を見つけてしまったのよ。医者と看護士がぐるになって、患者の金を好きなだけ盗んでいる。その証拠をウチが掴んだ。それからスキさえあればウチを殺そうとしている。今までに何度も殺されかけた。この顏を見てみろ。硬い棒で何度もたたかれた。それに一道が来てくれるちょっと前には、和服のたもとにたくさんの石を詰められて、池の中に沈められようとしたのよ。一道が来て命拾いをした」
母親は周囲に聞こえないように内緒話のように、それでいて夢を見ているような話し方をする。
「アレッ、明美ちゃんも来ていたのかね」
民代の声が急に明るく大きくなる。孫の明美が来ているのに気がついたのだ。笑顔になって明美をを抱こうとして起き上がろうとするが、手首がベッドの金具に結び付けられているので起き上がれない。顔をゆがめて必死になって両手をわなわなと動かしている。一道は呼びボタンを押して看護士を呼んだ。
「何があっても責任はこちらで取るので、お袋のひもをほどいてやってくれ。俺たちが帰った後もそのまま自由にできるようにしておいてやってくれ」
「そうですか。それじゃ、ご家族の方の申し出ですのでほどきますが、危険な状態になる可能性が十分にあると思いますよ」
「それでもいいからほどいてくれ」
一道の了解を何度も確認しながら看護士は民代の手首の紐を解いた。民代はすぐに起き上がり、明美を抱き上げる。幸せそうな笑顔になる。
民代は、明美をひざの上に乗せて腕をさすったり頭をなでたりしていた。
ベッドの枕元には大事そうにふろしきをかぶせて埃をかぶらないようにして置いているものがあった。一道がふろしきをとってみると、そこには田舎の家で使っていた、彼が中学時代に修理をした高一ラジオがあった。一道はそれを見ると、貧しくはあったが、母親も自分も元気で生き生きと暮らしていた故郷での生活が思い出されて無性に悲しくなった。
民代はなかなか明美を離さないので、結局、夕食まで病院にいた。帰りがけには、民代は孫にも会えてうれしかったのか、顔の表情は明るくなって異常な言動もなくなった。一道たちは安心して帰った。
翌日の昼すぎ、一道がいつものように一人で過ごしていると、病院から緊迫した声で電話が掛かってきた。
「お気の毒なことですが、お母さんが病院外で亡くなられているのが発見されました。至急、病院にお越しください」
受話器から看護士の甲高い声が響いた。一道はあまりにも突然だったので何をどう判断していいか分からない。驚きで心臓が動悸を打とうとしたが、機能の大半を失っている心臓にはその衝撃の鼓動が打てずに、脈が飛んだり、空打ちするように動いたり、不整脈が続くようになった。彼は自分で自分の気持ちを必死で落ち着けなければならなかった。
「詳しい状況は来院されてから説明しますので、とりあえずできるだけ早くお越しください」
病院からの電話が終わっても一道の心臓の不規則な鼓動は収まらない。彼は和美の職場に電話してすぐに帰って来るように言った。しばらくして、和美は幼稚園で明美を早引きさせて家に連れて帰って来た。
一道は娘がショックを受けたらいけないと思って和美と明美は家に残しておいて、自分ひとりでタクシーで病院に行った。
病院に着くと、母親はいつもの病室ではなく地下の遺体慰霊室に移されていた。顔にかぶせられていた白布を取ると異様に腫れている母親の顔があった。一道はまた、心臓が激しい動悸をしないように感情を抑えなければならなかった。
看護士が事情を説明してくれた。昼食時になっても民代がベッドに帰ってこないので、病院全体で探していた時、警察から連絡があった。病院の近くの高層団地の最上階の踊り場から飛び降り自殺して亡くなった人が病院の患者さんらしい、ということで確認の依頼だった。行ってみると民代であったということだった。
一道はこの後、極力感情を抑えてさまざまな手続きをした。和美に連絡をしてマンションの近くの葬儀社に、最も狭くて安い式場を頼むように言った。彼は葬儀は家族だけの簡単なものにしようと思った。葬儀社から母親の遺体を迎えに来てくれた車に同乗して一道も病院を後にした。看護士が入院中の民代の荷物をまとめてくれていたが、その中に高一ラジオがあった。彼には母親の唯一の形見と思え、かさばったが一緒に車に載せた。
葬儀には一道夫婦と弟と妹が集まっただけの質素なものだった。弟妹の妻や夫はそれぞれ所用があって来なかった。郷里の叔父や叔母にも連絡したが、皆、距離が遠いので出席はできないが、香典は送るということだった。通夜や葬式には僧侶も呼ばずにただ安置しているだけの葬儀にした。
葬儀が終わった後、弟や妹は死んだ母親よりも生きている自分たちの生活が大事とばかりにすぐにそれぞれ帰って行った。
一道の家には仏壇などというものはなかったので、骨壷はタンスの上に置いた。天井に近い片隅にぽつんと置かれている骨壷を見ると一道は心の中にポカンと大きな空虚な穴が開いてしまったのを感じた。
「嗚呼、これでこの世には、いろいろなことを聞いて喜んでくれる者がだれもいなくなった」
一道は低い声でつぶやいた。
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