清盛入道の最期

天神大河

清盛入道の最期

 身を焦がすような熱さに悶えながら、男は暗い闇を彷徨っていた。

 これは夢か、現か。男が考える間もなく、何処からか低い呻き声が耳朶に響く。

 次第に大きくなるその声は、男──たいらのきよもりにえも言われぬ不快感を与えた。全身を走る高熱や、耳に入る呻き声に抗わんとばかりに、清盛は微かに目を開ける。布団に横たわる自身の周りには、妻のときや、側近のもりくにが固唾を呑んで見守っていた。

「殿、気が付かれましたか」

 長年仕えてきた盛国の声に耳を傾けながら、清盛は細かい木目が入った天井に目を向ける。ろくに程近い、盛国のやしきのそれだ。

 にわかに安堵の気持ちを覚えたのも束の間、清盛は再び熱さにうなされる。長く鋭い悲鳴を上げると、彼は盛国へ返事をすることなく、そのまま瞼をきつく閉ざした。

 再び視界が闇に覆われる。刹那、清盛の鼻腔に潮の香りが届いた。これは──不審に思った清盛は、苦しみを紛らわすかのように、おそるおそる瞼を開ける。

 そこで、清盛は思わず目をみはった。天井は、先ほど目にした盛国の邸のそれではない。両隣へ顔を向けるも、そこには誰もおらず、部屋の外にも人の気配はない。

「ここは……ふくはらの、わが別荘か」

 どうにか声を振り絞り、清盛は仰向けの体勢のまま部屋をきょろきょろと眺める。福原は、かつておおだのとまりを造り、遠くそうとの交易を推し進めた、清盛の夢の都だ。

 その拠点であり、随分見慣れたこの別荘に、何故自分は居るのだろうか。顔を横に向けた状態で、清盛がぼんやり考えていると、彼の耳に先刻の低い呻き声が響いた。

 呻き声ははっきりと、天井の方向から聞こえてくる。清盛がちらと天井を見上げると、そこにあったのは巨大な白い顔であった。

「こ、これはっ」

 清盛は思わず短い悲鳴を上げた。驚きを隠せない清盛を前に、男とも女とも、老人とも若人とも区別のつかないその顔は、くつくつと甲高い笑い声を漏らす。やがて、笑みを崩すことなく煙のようにかき消えていった。

 これは、よもやものか。

 ていはつした額から冷や汗を大量に流しながら、清盛は思案する。今しがたの出来事は、つい先程まで彼を苦しめていた全身の熱を冷まさせるのに十分であった。

 そのことに気付くよりも先に、清盛は無意識に半身を起こした。そして、精一杯声を張り上げる。

たれぞ。誰ぞあるかっ」

 しかし、清盛が幾度声を上げても、一門の者はおろか、家人でさえも誰ひとりとして現れなかった。これは、どうしたことか。清盛は困惑しながらも、その場にひとり立ち上がった。

 その時、外からみしみしと音が鳴ったかと思うと、これまで経験したこともない程の大きな地響きが上がった。

 清盛は大きく目を開き、外の庭を見やる。だが、庭へと通じる廊下は障子で隙間なく閉ざされており、外の様子をうかがい知ることはできない。

「今のは、大木が倒れた音か。しかし、この辺りに大木など無かった。ならば、まこと、物の怪のたぐいか」

 清盛は、庭に通じる障子へと、少しずつ近寄る。黄昏時であるのか、白い障子紙はほんのりと赤く染まり、うっすらと影が揺らめく様子が見て取れた。

 しわだらけの両手が、障子の桟に触れる。清盛は、唾を一度ごくりと呑み込むと、障子を左右に勢いよく開けた。

 庭は、大量のどくで埋め尽くされていた。

 百、千、或いはそれ以上あるだろうか。大小様々な髑髏が隙間なく地面を覆い、中には石塔の如く立ち並ぶものもあった。視界に映る空や海は血のように赤く、山肌には浅黒い岩石ばかりが広がり、青さは微塵も見当たらない。

 まるで地獄のような光景を前に、清盛は驚くでも、嘆くでもなく、ただその場に立ち尽くしていた。目線を左右に動かし、ぐるりと髑髏を眺める。

 清盛自身も理由は分からなかったが、数ある髑髏のうち、幾つかの顔には見覚えがあった。保元の戦で敵対したふじわらのよりながや、平治の戦を引き起こした藤原のぶより。鹿ヶ谷の陰謀に加担した西さいこうしゅんかん、藤原なりちか。そして昨年挙兵するも、追い詰められ自害したみなもとのよりまさ

 彼らは皆、自分と関わり、敵対し、果ては非業の死を遂げた者たちだ。清盛がそれに気づくと同時に、眼前の髑髏が皆一斉に呵呵大笑する。

「何が可笑しい」

 清盛は、険しい面持ちで髑髏を見下ろす。その間に、庭を埋める髑髏は数を増やし、忽ち山を築いていった。ある者は顔が上下逆さに、またある者はぐるりと後ろを向きながらも、髑髏の山はあっという間に清盛の別荘の屋根に到達する。やがて、髑髏は口々に清盛へと言葉を投げた。

「清盛入道、お前はもうじき死ぬ。死んだ後に堕ちるは無間地獄じゃ。地獄の底で、永久に苦しむのじゃ」

「儂は昨年、南都の焼き討ちに遭い、生きたまま焼け死んだ。そなたら平家の手で殺された。そなたはその報いを受けて、儂と同じように死ぬのだ」

「思えば、しん輿に矢を向け、果てはしゃぶつをも焼き払うなど、神仏をも恐れぬ平家一門の業は深いもの。きっと罰が下ろうぞ」

 髑髏の山から響き渡る怨嗟の数々を、清盛は黙って聞いていた。しばし彼らを睨み付けた後、清盛は臆する様子もなく唇を動かす。

「そなたらの言い分はよく分かった。確かに、わしは武士として幾度も戦い、多くの者を殺した。そして、その者らの屍の上に立ち、何年にもわたり政を進めた。しかし、それによる罪業は全て、平家の棟梁たるこの清盛ひとりが背負うべきもの。一門の皆まで背負う道理は無い」

 清盛はよく通る声で、髑髏の山へと声を張り上げた。眼前に立つ黒い山は、しばし沈黙する。しかし、程なくして骨と歯を擦り合わせ、大笑するかの如く音を鳴らした。

 あまりの轟音に、清盛は怯んだ。そんな彼の足元へ、一つの髑髏が転がった。土で汚れたそれは、静かに清盛の顔を見上げる。清盛もまた、足元の髑髏を前に、半ば呆気に取られたかのように唇を動かした。

「そなたは……そうか。よしともか」

「如何にも。こうして相見えるは、平治の戦以来じゃ」

 かつて平治の戦で雌雄を決した源氏の総大将、義朝。その頭を前にして、清盛の脳裏に一人の若武者の顔が浮かんだ。義朝の嫡男であり、親子共々敗れた後、命を助けて伊豆へ流した男。そして長い時を経て挙兵し、再び平家一門に刃を向ける男──源よりともの顔だ。

 清盛の様子を察したかのように、義朝の髑髏は歯を上下に揺らしながら口にする。

「忘れてはいまい。昨年わが子頼朝が挙兵し、富士川でそなたら平家と相対した時、そなたらは水鳥の羽音に驚いて逃げ帰ったではないか。これ即ち、平家は武士の誇りを失った証。我ら武士の敵にあらず。武士として振る舞い、栄華を誇ったそなたら平家一門は、わが子頼朝によってことごとほろびるさだめにあるのじゃ。その後に武士の頂に立つは、我ら源氏ぞ」

 そう言うと、義朝の髑髏は清盛の前からすうっとかき消えた。庭を埋め尽くしていた髑髏の山もまた、その姿をうっすらと揺らし、跡形もなく消え去ろうとしていた。

「待て、義朝。まだじゃ。まだ、わが平家の世は終わらぬ。此処からなのじゃ。此処より先、このわしが死した後も、平家は続く。武士の世は続く。誰にも邪魔はさせん。きっと邪魔はさせんぞっ」

 清盛がそこまで言いかけたところで、彼の全身を高熱が襲った。意識が混濁し、視界がぼやける。苦しげに二度、三度強く瞬きを重ねた後、そこに見えたものは時子や盛国の顔であった。

 仰向けのまま、清盛は天を見上げた。細かい木目が幾つも走る盛国の邸の天井のみが、彼の瞳に映る。

 どうやら、自分は今まで夢を見ていたようだ。そう悟った清盛は、熱い息を何度も吐きながら、ゆっくりと手を伸ばす。その手を、妻の時子が固く握った。

「殿。何か、伝えたいことがございますか」

 時子が、目に涙を浮かべたまま尋ねる。清盛は、霞みゆく視界の中、長年苦楽を共にした妻の顔を真っ直ぐ見つめた。そして、息を荒げながらも、ゆっくりと言葉を吐く。

「これより後、わしが死んだ後。供養は要らぬ。仏塔も、建てずとも良い。しかし、わが子、むねもりらにきっと伝えよ。わが、墓前には」

 清盛は、精一杯の力を込めて、時子の手を握る。

「頼朝の首を、供えよ……!」

 渾身の力を込めて、清盛は口走った。

 そして、血走った目を大きく見開き、鬼のような形相を浮かべたまま、清盛は動じない。

「殿。如何されましたか、殿」

「殿っ」

 時子と盛国が清盛に呼び掛けるも、返事はない。やがて、清盛の手が力なく時子の手を離れる。この瞬間、二人は清盛が事切れたことを悟った。

 治承五年閏二月四日。この日、平清盛は数え六十四歳であった。

 平家一門が壇ノ浦に沈んだのは、清盛の死から四年後のことである。

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