清盛入道の最期
天神大河
清盛入道の最期
身を焦がすような熱さに悶えながら、男は暗い闇を彷徨っていた。
これは夢か、現か。男が考える間もなく、何処からか低い呻き声が耳朶に響く。
次第に大きくなるその声は、男──
「殿、気が付かれましたか」
長年仕えてきた盛国の声に耳を傾けながら、清盛は細かい木目が入った天井に目を向ける。
再び視界が闇に覆われる。刹那、清盛の鼻腔に潮の香りが届いた。これは──不審に思った清盛は、苦しみを紛らわすかのように、おそるおそる瞼を開ける。
そこで、清盛は思わず目を
「ここは……
どうにか声を振り絞り、清盛は仰向けの体勢のまま部屋をきょろきょろと眺める。福原は、かつて
その拠点であり、随分見慣れたこの別荘に、何故自分は居るのだろうか。顔を横に向けた状態で、清盛がぼんやり考えていると、彼の耳に先刻の低い呻き声が響いた。
呻き声ははっきりと、天井の方向から聞こえてくる。清盛がちらと天井を見上げると、そこにあったのは巨大な白い顔であった。
「こ、これはっ」
清盛は思わず短い悲鳴を上げた。驚きを隠せない清盛を前に、男とも女とも、老人とも若人とも区別のつかないその顔は、くつくつと甲高い笑い声を漏らす。やがて、笑みを崩すことなく煙のようにかき消えていった。
これは、よもや
そのことに気付くよりも先に、清盛は無意識に半身を起こした。そして、精一杯声を張り上げる。
「
しかし、清盛が幾度声を上げても、一門の者はおろか、家人でさえも誰ひとりとして現れなかった。これは、どうしたことか。清盛は困惑しながらも、その場にひとり立ち上がった。
その時、外からみしみしと音が鳴ったかと思うと、これまで経験したこともない程の大きな地響きが上がった。
清盛は大きく目を開き、外の庭を見やる。だが、庭へと通じる廊下は障子で隙間なく閉ざされており、外の様子を
「今のは、大木が倒れた音か。しかし、この辺りに大木など無かった。ならば、まこと、物の怪の
清盛は、庭に通じる障子へと、少しずつ近寄る。黄昏時であるのか、白い障子紙はほんのりと赤く染まり、うっすらと影が揺らめく様子が見て取れた。
庭は、大量の
百、千、或いはそれ以上あるだろうか。大小様々な髑髏が隙間なく地面を覆い、中には石塔の如く立ち並ぶものもあった。視界に映る空や海は血のように赤く、山肌には浅黒い岩石ばかりが広がり、青さは微塵も見当たらない。
まるで地獄のような光景を前に、清盛は驚くでも、嘆くでもなく、ただその場に立ち尽くしていた。目線を左右に動かし、ぐるりと髑髏を眺める。
清盛自身も理由は分からなかったが、数ある髑髏のうち、幾つかの顔には見覚えがあった。保元の戦で敵対した
彼らは皆、自分と関わり、敵対し、果ては非業の死を遂げた者たちだ。清盛がそれに気づくと同時に、眼前の髑髏が皆一斉に呵呵大笑する。
「何が可笑しい」
清盛は、険しい面持ちで髑髏を見下ろす。その間に、庭を埋める髑髏は数を増やし、忽ち山を築いていった。ある者は顔が上下逆さに、またある者はぐるりと後ろを向きながらも、髑髏の山はあっという間に清盛の別荘の屋根に到達する。やがて、髑髏は口々に清盛へと言葉を投げた。
「清盛入道、お前はもうじき死ぬ。死んだ後に堕ちるは無間地獄じゃ。地獄の底で、永久に苦しむのじゃ」
「儂は昨年、南都の焼き討ちに遭い、生きたまま焼け死んだ。そなたら平家の手で殺された。そなたはその報いを受けて、儂と同じように死ぬのだ」
「思えば、
髑髏の山から響き渡る怨嗟の数々を、清盛は黙って聞いていた。しばし彼らを睨み付けた後、清盛は臆する様子もなく唇を動かす。
「そなたらの言い分はよく分かった。確かに、わしは武士として幾度も戦い、多くの者を殺した。そして、その者らの屍の上に立ち、何年にもわたり政を進めた。しかし、それによる罪業は全て、平家の棟梁たるこの清盛ひとりが背負うべきもの。一門の皆まで背負う道理は無い」
清盛はよく通る声で、髑髏の山へと声を張り上げた。眼前に立つ黒い山は、しばし沈黙する。しかし、程なくして骨と歯を擦り合わせ、大笑するかの如く音を鳴らした。
あまりの轟音に、清盛は怯んだ。そんな彼の足元へ、一つの髑髏が転がった。土で汚れたそれは、静かに清盛の顔を見上げる。清盛もまた、足元の髑髏を前に、半ば呆気に取られたかのように唇を動かした。
「そなたは……そうか。
「如何にも。こうして相見えるは、平治の戦以来じゃ」
かつて平治の戦で雌雄を決した源氏の総大将、義朝。その頭を前にして、清盛の脳裏に一人の若武者の顔が浮かんだ。義朝の嫡男であり、親子共々敗れた後、命を助けて伊豆へ流した男。そして長い時を経て挙兵し、再び平家一門に刃を向ける男──源
清盛の様子を察したかのように、義朝の髑髏は歯を上下に揺らしながら口にする。
「忘れてはいまい。昨年わが子頼朝が挙兵し、富士川でそなたら平家と相対した時、そなたらは水鳥の羽音に驚いて逃げ帰ったではないか。これ即ち、平家は武士の誇りを失った証。我ら武士の敵に
そう言うと、義朝の髑髏は清盛の前からすうっとかき消えた。庭を埋め尽くしていた髑髏の山もまた、その姿をうっすらと揺らし、跡形もなく消え去ろうとしていた。
「待て、義朝。まだじゃ。まだ、わが平家の世は終わらぬ。此処からなのじゃ。此処より先、このわしが死した後も、平家は続く。武士の世は続く。誰にも邪魔はさせん。きっと邪魔はさせんぞっ」
清盛がそこまで言いかけたところで、彼の全身を高熱が襲った。意識が混濁し、視界がぼやける。苦しげに二度、三度強く瞬きを重ねた後、そこに見えたものは時子や盛国の顔であった。
仰向けのまま、清盛は天を見上げた。細かい木目が幾つも走る盛国の邸の天井のみが、彼の瞳に映る。
どうやら、自分は今まで夢を見ていたようだ。そう悟った清盛は、熱い息を何度も吐きながら、ゆっくりと手を伸ばす。その手を、妻の時子が固く握った。
「殿。何か、伝えたいことがございますか」
時子が、目に涙を浮かべたまま尋ねる。清盛は、霞みゆく視界の中、長年苦楽を共にした妻の顔を真っ直ぐ見つめた。そして、息を荒げながらも、ゆっくりと言葉を吐く。
「これより後、わしが死んだ後。供養は要らぬ。仏塔も、建てずとも良い。しかし、わが子、
清盛は、精一杯の力を込めて、時子の手を握る。
「頼朝の首を、供えよ……!」
渾身の力を込めて、清盛は口走った。
そして、血走った目を大きく見開き、鬼のような形相を浮かべたまま、清盛は動じない。
「殿。如何されましたか、殿」
「殿っ」
時子と盛国が清盛に呼び掛けるも、返事はない。やがて、清盛の手が力なく時子の手を離れる。この瞬間、二人は清盛が事切れたことを悟った。
治承五年閏二月四日。この日、平清盛は数え六十四歳であった。
平家一門が壇ノ浦に沈んだのは、清盛の死から四年後のことである。
清盛入道の最期 天神大河 @tenjin_taiga
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