旅立ちの船

葛西 秋

旅立ちの船

 三月半ばの雨は、出航前の船の甲板をすでに濡らしていた。


 島の小さな港にはたくさんの人が集まっていて、口々に別れの言葉、励ましの言葉を叫んでいる。

 家族だけでなく親族総出らしく、老若男女という言葉がまさに相応しい。


 学生服の一団が、雨に重く湿る校旗を力いっぱい振り回し、横断幕を掲げてそれぞれが誰かの名を呼んでいる。


 私は出航を待っている中型の旅客船のデッキからその様子を見ていた。

 私がいるもう一つ下のデッキから、桟橋の声に応える大声が聞こえてくる。

 坊主頭に黒い詰襟の制服は今どき珍しい。女の子は白いセーラー服だ。


 同じ制服の学生が桟橋で掲げる横断幕には「A高等学校卒業生の健闘を祈る!」と、これもなかなか古風な言い回しで激励の言葉が書かれていた。


 私の足の下からは感極まった少女の泣き声や、時々声をひっくり返しながら桟橋からの声に応えている若者の声が途切れることなく聞こえてくる。

 皆、十八歳の若者なのだ。もしかしたら、まだ十七歳の者もいるかもしれない。


 彼らは四月から島の外の大学に進学し、あるいは就職し、島に住む人間が"内地"と呼ぶところで生活を始める高校三年生だ。

 叫ぶ頬にも、セーラー襟が翻る肩にも、まだ青年に至らない幼さが残る。


 けれど彼らの背には、十八年間、自分たちが育った土地を離れて新たな場所で生きることを選んだ強い自負が見え隠れする。

 都会に対する幼い憧れもあるだろう。島に残る者達への優越感もあるかもしれない。

 全て混沌とした感情は十八歳の手に負いきれるものではなく、ただ咆哮や涙として表出するしかないのかもしれない。


 船の汽笛が鳴らされた。いよいよ出航の時間である。

 桟橋からもデッキからも、悲鳴のような歓声が湧きあがった。

 思わず船に走り寄る女性がいた。誰かの母親だろうか。桟橋を守る港員も強いて止めようとはしない。

 急いで軽トラに乗り込んで堤防へ走り出す若い男性は、誰かの兄だろうか。


 鉄製のタラップが船から外された。

 汽笛が再び鳴る。船のエンジンは回転数を急速に増大させていき、船体が桟橋から離れ始める。


 その時、下のデッキから桟橋に向け、鮮やかに黄色い物が投げられた。長く黄色い尾を引いて、桟橋に立つある一人の手の中に吸い込まれていくそれは、別れを惜しむ紙のテープだった。


 船が桟橋から離れるにつれて、テープは長く、長く、波の上に伸ばされる。


 最初の一つが切っ掛けで、次々に紙テープがデッキから投げられた。

 赤、緑、青、白、桃色


 灰色の雨は、紙テープの色を鮮やかに浮き立たせた。

 長く、長く。


 無情な雨粒がテープを途中で千切ってしまうと、強肩の持ち主が再びテープをデッキに投げ返す。


 もう一度。


 既に桟橋から離れた船から懸命にテープが投げられる。何度も。

 最初に投げたのが誰か、誰が受け取って、誰が投げ返したのか。


 それはどうでもいいことのようだった。

 ただ白い一隻の中型の客船は、色彩の帯を引いて港の出口へ向かって行く。


 身を乗り出そうとして船の高く頑丈な柵に阻まれ、鉄棒の合間から腕を伸ばす者がいる。

 手に残された紙テープの切れ端を握り締めて泣き出す数人の少女達がいて、そっと切れ端を詰襟の制服のポケットに仕舞う少年もいる。


 島の山陰から出て、雨足は一段と強くなってきていた。

 制服を雨に濡らしながら名残惜しげに桟橋を見つめていた集団に、その時、歓声が浴びせられた。


 港の出口の堤防の上、軽トラに乗った若者たちが最後の見送りに来ていた。

 鳴らされるクラクション。デッキからは懸命に振られる腕がいくつも、いくつも、まるで波をかくかいのように突き出された。


 自分たちを見送ってくれる島の住民の気持ちを、明日に進む力へと変えて行く。

 それはそんな光景のように見えた。


 やがて私のいるデッキにも、雨は強く打ち付けるようになった。

 雨に霞む島の輪郭を一度振り返ってから、私は船内へ戻った。


 船内は乾いて温かく、そして陽気に賑やかだった。


 さっき友人同士で抱き合って泣いていた少女たちが、大きく口を開けて笑いながらお喋りをしている。

 自販機のジュースやビール、菓子を珍しそうに眺める一団。

 三等船室では、持ち込んだゲームやスマホで遊び始める学生の姿があった。


 そう、彼等はすごく若い。

 島で育まれた、少しも損なわれたことのない健康な生命力に満ち溢れている。彼等は新しい生活をその柔軟な心で乗り切って行くのだろう。


「ね、お腹すいた。何か食べよう」

「食堂は高かったし」

 船の食堂で出される一杯五百円のラーメンも、島の外に出たばかりの少女達にはまだ敷居が高いのだろう。自分にもそう云う時が在ったことを、微かに遠い記憶として思い出す。


「これなあに? 給水器? お茶は出ないでお湯だけなの?」


 興味津々に船のあちこちの探検を始めるセーラー服の少女達。

 生命力だけでなく、生活力も高そうだ。


「分かった!」

 一人の少女が手を叩いて、ポケットから財布を取り出し、おもむろに自動販売機に小銭を入れた。


 ちゃりん、ちゃりん、……がたん

 取り出したのはカップの即席うどんだった。


「あ、そうか! じゃあ、私はこっちにする!」

 他の少女が真似て隣のカップ麺を買う。

 そして限りなく慎重に、給湯器からお湯を白いカップの中に注いだ。


「一つは食べきれないから、半分ずつ食べない?」


 数分後、自販機の側のテーブル席は、カップ麺二つを四人で食べるセーラー服の女子学生で占拠された。

 しょっぱくて美味しい、とか、あったかい、とか、汁が跳ねた!とか、騒ぎながら食べる彼女達を見ていると私も久しぶりに食べてみたくなった。


 邪魔をしないようそっと、自販機に近付いてカップ麺を一つ買う。お湯を入れて辺りを見回し、座って食べることができる場所を探した。


 外は雨。デッキに出ることはできない。

 さて。


 少し歩いて、学生のいる辺りから離れた階段の脇に静かな場所があった。

 がたつく椅子と床に固定された小さなテーブル。腰掛けて伸びないうちに食べようと割りばしの袋を破って気づいた。


 先客がいた。階段の影。詰襟の学生服。肩が震えている。

 船酔いでもしているのなら可哀そうだな、と思ったのだが違うようだった。


 その少年は泣いていた。皆から離れて。階段の影に隠れて。


 私はそっとカップ麺の蓋を閉めて、椅子から立った。


 気丈にしてても、仲間がいても、やっぱり十八歳の心はまだ柔らかい。

 それでも、仲間には泣いているところはカッコ悪くて見せられないから。


 彼の矜持プライドは守られるべきだろう。

 次第に汁が麺に沁み込まれていく気配を発泡スチロールの器越し、手の平に感じながら、私は少年のいる階段の隅から離れるように歩き始めた。


 さっき来た廊下を戻って行くと、その向こうからこちらに向かって歩いてくる人影があった。

 船の廊下は狭い。壁に張り付いて相手をやり過ごそうとして、それが詰襟の制服を着た学生であることに気がついた。しかも手にはお湯を入れたばかりと思しきカップ麺を持っている。


 彼も食べる場所を探しているのだろうか。

 互いに汁がこぼれないよう、慎重に行き違う。だが。


 非常に気まずい。

 この先には。


 掛ける言葉が見つからず、ただ私が去った場所に、その学生が向かって行くのを見送るしかなかった。


 気になって、何か揉め事になるようなら今度こそ声を掛けようと、私は廊下の途中で足を止めた。

 その私の耳に、話し声が聞こえてきた。


「やっぱこんなとこにいた。ほら、これ食えよ」

「・・・・・・いいよ」

「のびるから。ほら」

 麺をすする音。カップ麺を運んできた学生が食べているのだろう。

「うん、旨い。な、食うだろ?」

 少しの沈黙の後。

「・・・・・・一口、もらうわ」


 船のデッキに続く扉は閉じられて、嵌め込みガラスの丸い窓からは灰色の海と空が見えた。

 出航前に確かめた"内地"の天気は、晴れの予報だった。


 この船が着いた先、彼等を待つ未来は。


 この先彼等はきっと、今日この日に食べたカップ麺の味を何回も思い出すだろう。専門店や名店と言われる凝ったラーメンとは程遠いインスタントのこの味を。

 楽しいことがあっても。苦しいことがあっても。


 そんな味がいつも身近にあることは、実はすごく幸せな事なんじゃないだろうか。

 私は伸びてしまった自分のカップ麺を食べながら、そんなことを思った。

 

 私も、この味をいつかまた、思い出すだろう。

 三月半ばの雨に濡れる船の甲板で見た、旅立ちの光景と共に。

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旅立ちの船 葛西 秋 @gonnozui0123

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