執心のおもかげ
(一)
朝から松之助は高い熱を出してうなされていた。
悪い風邪をひいたにちがいないと館の者たちが手厚く看病したが、その甲斐も無く、数日後にこの世を去った。
年が明けて、知らせを聞いた
黒の
「まさか、こんな形で
すまぬ、都では羽を伸ばして遊んでしまった。帰りが遅くなったわしを、さぞや恨んでいるのだろう」
墓参りを終えると己の居室に一人座り込み、松之助の漆黒に光る遺髪を胸に抱き、一筋の涙をこぼした。
「ここに来た時から背筋がぞくぞくするな。頭が痛くなってきた。もしや松之助は成仏できずに、この館に居るのか」
背後に目をやると、部屋の隅に置かれている
「松之助様は秋から毎晩のように、こちらの部屋で
「松之助よ、そこに居るのか」
砧に向かって話しかけたが、もろん返事は無い。
「おい、ここに死者の霊を呼び寄せることができる
(二)
手に
まだ年若い女だが、腰まである長い髪には白髪が目立つ。
霊を呼び出す巫女という職の厳しさを物語る。
梓弓の弦をびんと
しばらくすると背が揺れて、頭から糸で
目はどんよりとした半開きで妖しい光を放つ。
神妙な顔をして座っている秋重を見つけると、口をへの字に
「兄上、ようやくお帰りになりましたか」
「おっ、おまえは松之助だな。昨夜、帰ったぞ」
松之助の霊が
「この大嘘つきの浮気者」
巫女の目がつり上がり、白髪が逆立つ。
「いきなり何を言う。嘘つきではないぞ。ただ帰りが遅くなっただけではないか」
恐怖のあまり、秋重はまばたきも出来ず、
「我が兄上は草木、虫、魚、鳥獣にも劣る生き物じゃ。これらの生き物は皆約束を必ず守る。帰るべき家を知っている。それなのに兄上は、すぐ帰るといったくせに帰らなかった。わしの花の若衆盛りを踏みにじった。許せぬ。なのに、わしときたら兄上のことが好きで好きでたまらぬ。兄上への執着が強すぎて、
地獄では裸にされて
巫女が大声で泣き出した。
「すまぬ、すまぬ。愛しいおまえがそのような酷い目に合っているとは思わなんだ。今助けてやる、淫欲地獄から救い出してやる。ほれ、この白湯を飲め。今、水と茶も持ってこさせるからな」
巫女は白湯を喉を鳴らして飲む。
「どのようにして、我が身を救うつもりだ。この大嘘つきめが。わしの打った砧の音が聞こえていながら、帰るどころか文もよこさぬ薄情者」
巫女の目は大き見開かれ、今にも眼球が飛び出しそうだ。
「おまえが打った砧の音など、聞こえなかったが」
震えながら秋重が言う。
「何ということだ。毎夜、秋風に乗せて兄上の夢の中で響かせようと、ひたすら砧を打っていたのに。白い涙の仙術も効き目が無かったか」
「白い涙だと、わけのわからないことを言う。とにかくわしが悪かった。この通りあやまる」
床に額がつくほどに深く
松之助を憑依させた巫女は、怖ろしい形相で腕を長く伸ばして秋重の頭を掴む。
「ぐう、痛い、首が抜ける。助けてくれ」
駆けつけた側近たち十数人が、巫女を取り押さえ柱に縛りつけるが、白髪を振り乱して激しく暴れ、館は地震のようにぐらぐら揺れる。
秋重は「ほーっ」と大きく息を吐くと、神妙な顔で
「
その力強い読経が館に響き渡ると、縛り付けられていた巫女は動かなくなり、くの字に体を折れ曲げ深い眠りに落ちた。
「松之助、成仏してくれたか。わしを思いながら、夜な夜な砧を打っていたのだな。そんなにも
黙祷する秋重の顔に滝のような汗と涙が流れた。
(三)
「松之助様、お
風の音を聞けば気づくだろう。
様々な音が混じり合っていると。
海の音、山の音、川のせせらぎ、草木のざわめき、虫の声、鳥獣の声だけではない。
愛しい誰かを故郷に待たせているのなら、風に乗ったもう一つの音、
優しい砧の音が聞こえるはず。
もし、聞こえないというのなら、それは不実の
松之助様が成仏されて一安心した。
どうなることかと心配したが、秋重はあれでも一応、領主だけあって聞き惚れるような見事な読経だった。
秋重の真心を感じることができた。
松之助様の魂も慰められたことだろう。
謝らなければいけないことが一つある。
白い涙の仙術のことだ。
陽に干した松葉を燃やす時には、丁字の油を数滴垂らさねばならなかったのだが、あの夜、松之助様の菊座にたっぷり塗り込んでしまったから、残っていなかった。
だから、仙術の効き目が無かったのかもしれない。
でも、ようやくお会いできる。
おれは松之助様が亡くなった翌日に
館の松の古木の下で、松之助様の名を呼びながら切腹して果てたのだ。
一足先に、ここ極楽に来ている。
そして、今か今かと松之助様を待ちわびている。
(了)
秋の夜長の風の音 オボロツキーヨ @riwa
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