月の色風


(一)

 

 まだ、丁字の香りが体中にまとわりついている。

それにしても、歳若い者にいいようにされて気を失ってしまうとは、我ながら情けない。

やつは都で房中術ぼうちゅうじゅつの修行をしていたに違いない。

体中がばらばらになりそうじゃ。

おや、廊下の向こうから、やつが手に<かわらけ>を大事そうに捧げ持って駆け寄って来るぞ。


「松之介様、お体は痛みますか。お取りした白い涙に一晩浸した松葉ですが、これから陽光に当てます。今宵はこれを燃やしながら、お庭へ砧を運んで打ちましょう」

すれ違いざまに甘い声で耳打ちしてくるから、わしは身を固くする。


「痛まないわけないであろう。今宵はござを敷いた上に砧を置いて、松葉を燃やす用意をしてくれればそれでよい。砧は一人で打つことにする」

顔を背けて言う。


「はい、承知しました。でも、一人でお寂しくはないですか。秋風がお寒いのではないですか。今宵もよろしかったら、お体を温めさせてください」

そっと手を握ってくる。


「もうよい、これからは以前のように一人で砧を打つ。夜更よふけにおまえと砧打ちなど、もう決してしない。おまえのことは大切な又従兄弟で、幼馴染みの友だと思っておる。昨夜のあれは、一夜限りのたわむれじゃ」

けわしい顔で、その手を強く振りほどいた。


昨夜は三年ぶりに人と熱い肌を合わせ、身も心も生き返るようだった。

本当は今宵も肌を合わせたいくらいだが、もうじき待ちに待った兄が帰ってくる。

深い仲にはなれぬ。


「そうですか。承知いたしました。わたしでは秋重様の代わりにはなれませぬか」

しおれた野の花のように、頭を垂れた夕霧丸は立ち去って行った。


 その夜、わしは一人庭で砧を打った。

白い煙が昇り龍のように夜の闇に吸い込まれて行く。

その先には我が友、月が微笑む。

わしの白い涙が砧の音と共に天へ昇り、そしてわしの思いも遠く離れた兄の元へ届いているのか。




(二)


 数日後、都の兄からふみが届いた。

喜々として文を開く。


「今年の暮れも多忙ゆえに帰郷できない 秋重」

そう一行だけ書かれた文だった。


やはり兄は心がわりしたのだ。

わしに飽きたのだ。

だから、帰って来ない。

信じていたのに。


 

 文を手にしたわしが居室でふさぎこんでいると、夕霧丸が慰めにやって来た。


「申し上げにくいことですが、都で秋重様は見目みめうるわしい少女や少年を夜な夜な屋敷に連れ込んで、お戯れになっています。故郷のことなど、とっくにお忘れになっているご様子。公家の姫君とのご縁談のお話もあります。もう二度と、ここには帰ってこなければ良いのです。松之介様こそが領主にふさわしいお方。微力ながら、わたしもお仕えさせてください」


「何を申すか。さては、おまえはわしをたぶらかすつもりだな。ここの領地が目当てか。許せん」

「申し訳ありません。言い過ぎました。どうかお許しを。でも、これは松之介様のことを思ってのこと。領地などいりません。わたしは、ただ松之助様が欲しいだけ」


「黙れ」

松之助は、傍らに置いてあった太刀を手にして立ち上がると素早く抜き、夕霧丸の右肩に斬りつける。


「あっ、何をなさいます」

後ろにさがり、ぎりぎりで太刀をかわしたが、切先が触れたのか夕霧丸の白桃のような頬から血がにじむ。


「松之助様、ご乱心なされたか。斬りつけるとは、あまりに酷い仕打ち。こんなにお慕いしているのに。あの一夜をお忘れか」


「もう許さぬ。その美しい顔をなますに切り刻んでやる。わしをもてあそまどわせる悪鬼あっきめ」


松之介の目の奥の白い光を、夕霧丸は目を細めて睨みつける。

二太刀目を己の脇差しで受け流すと、庭へ飛び去った。

松の木の下で振り向いた夕霧丸は頬を血で真っ赤に染めながら微笑んだ。


「松之介様、心よりお慕いしております。いずれまた、落ち着かれたらお会いしましょう」


松之介はその後ろ姿を追う。




(三)


こーん、こーん、こーん、こーん、こーん、こーん、こーん、


夜更けにとなりの部屋から闇を震わせる音がする。

それは、むせび泣く人の声のようでもある。

となりは兄の部屋。

誰もいないはずだが。

何者かが勝手に入り込んでいるのか。

低く響く音だ。



 翌朝、松之助は庭掃除をしている下男に声をかけた。


「夕霧丸は何処どこにいるのか」


「夕霧丸様は数日前に松之介様に斬り殺されそうになって、館から逃げ去りました。まさか、お忘れですか。夕霧丸様は顔や背に深い傷を負って、まだ寝込んでおられるそうです」


「そうか、わしを怖がって実家に戻ったのだな。言っておくが、深手など負わせていないぞ。生意気な事ばかり言うから、少し脅かしてやっただけのこと。昨夜、兄の部屋から砧の音が聞こえた。一体誰が打っているのだ。夕霧丸の仕業だとばかり思っていたのだが」


「幽霊が砧を打っているやもしれません」

「妙なことを言うな」



 今宵も兄の部屋から、こーん、こーん、こーんと砧で衣を打つ音が響いてくる。

聞き慣れた温かく心地よい音。

やはり、夕霧丸の悪戯いたずらだ。

わしの眠りを妨げようとして、こんな夜遅くに砧を打っているに違いない。

兄のことを悪く言われて、かっとなって太刀を抜いてしまった。

怒っているのだろうな。

傷がまだ痛むのか。

可哀想なことをした。

あの時、兄の婚姻の話しを初めて聞かされて、気狂いのようになった。

だが、領主としては子をなさなければ家が途絶えるのだから、仕方がないこと。

もう兄は二十五、わしは二十。

わしだって、兄が好色なことぐらい知っている。

わかっているが、悔しい悲しい寂しい。

この気持ちをどうすれば良いのか。

衆道の契りで結ばれた弟のわしは、兄にとって特別な存在だと勝手に思い込んでいた。

衆道とは一体何だ。

両手を重ねて額を覆う。



 仰向に寝ていた松之助は、ふすまで隔てられただけの兄の部屋を覗こうと、やっとの思いで褥から起き上がる。


「夕霧丸よ、もう悪戯はやめろ」


静かに襖を開けると、背を丸めて一心不乱に砧を打つ人影が見えた。

やがて、月明りが髪の長い若衆の姿を映し出す。


「あっ、おまえは」


そう叫び、慌てて襖を閉めて褥へもどると夜着を頭から被る。

がたがたと体の芯の震えが、いつまでも止まらない。

松之介が見た者は、砧を打つおのれ自身の姿。























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