足し合わせの多幸せ
鈴ノ木 鈴ノ子
たしあわせのたしあわせ
有給で連休を取った私は久しぶりに生家に帰省した。
それは寛ぐためでもなんでもない。片付けをする為である。
馬籠坂を少し登ったところにある一軒の古びた旅籠の裏口の扉に鍵を差し込んで回すと、鍵は寂しい音を、扉は軋む音を立てて、数年放置されていた身を動かした。
「ただいま」
思わず口をついてでる。中には誰もいないというのに。
埃っぽい空気であったけど、その匂いには懐かしさが漂っていた。室内は荒れておらず、ネズミなども出てはいない。それもこれも近くに住む親戚の新田のお婆ちゃんが定期的に清掃に来てくれているからだ。おばあちゃんは旅籠の表玄関から出入りをするので裏扉は使うことはない。私が裏口から入ったのは表玄関はお客様のためという両親の長年の教えの賜物であった。
全ての窓を開けて空気を入れ替えていく。宿泊部屋はもちろん、父と母の部屋、そして、妹の部屋、さらには私の部屋と、部屋の扉を開くたび、そして窓を開ける度に、走馬灯のように思い出が走り抜けていった。
表玄関を開けて、全ての室内を箒で掃き回って掃除機をかけ終わった頃にはとうに昼は過ぎていた。
「もう、業者を入れないとダメかな」
片付けようにも物が多すぎる。
妹は必要なものは新田のお婆ちゃんと取りにきたようで、メッセンジャーに「あとはお姉ちゃんに任せた!」と書いてきた。片付けをするために帰ってきたのは、少し前に新田のお婆ちゃんが腰を痛めてしまい、家の管理が難しくなってきたためであった。
表玄関から初夏の風が入ってきて締められている白いカーテンを揺らす。
その光景に誘われるように玄関に立つとふと帳場の壁に視線が向いた。そこには宿に泊まった方々の白黒やカラーの写真が飾られている。中には懐かしの芸能人の姿もあった。
「宿の記憶だからなぁ」
ありし日の父がそう言って写真を変えるのを戸惑っていたことを思い出す。
母と父は交通事故で私が25歳の時にあっけなく亡くなった。私は東京で会社勤めをしていて経営などにも関わっておらず、親戚とも話をして旅籠は役目を終えたのだった。
ふと、一陣の風が表玄関を潜って通り過ぎていく。と、写真の1番上にあった一枚を飛ばして私の足元へと落としていった。
両手で拾い上げその写真を見た途端に雫がポタリポタリと床に落ちた。
若い頃の父と母、そして満遍の笑みの幼い私がそこにいた。
「この旅籠は私が守る!」
この写真を撮った際に2人言った約束が思い出されて、そのまま蹲って声を押し殺して泣いた。
あの時の約束は果たされず、そして、旅籠の灯火は途絶えて久しい。旅籠は気にしないでいいからと言っていた2人に甘えた結果がこれだ。
親不孝も甚だしい。
事故の数ヶ月前に婚約者の彼を連れて挨拶にきた時に、2人の笑顔の合間から寂しそうな表情を垣間見たことを思い出して、それがさらに私を落ち込ませた。
結局、事故もあり彼とは結婚に踏み切れず、そのままの関係で今に至っている。周囲からは年下の彼氏に捨てられるよと小言を言われて反省はするのだけれど、でも踏み切れない。
「透子、いる?」
表玄関から彼の声が聞こえてきて、驚いて泣き腫らしたみっともない顔でそちらに向いた。
「冬馬・・・」
愛しい彼がそこに立っていた。今日ここに来るなんて言ってなかったのに。
「どうしたの?なにかあったの?」
私の姿を見て慌てて駆け寄った彼に思いっきり抱きつき、彼もまた抱きしめてくれる。そして私が手に持っていた写真を見て何かを納得したように頷き、そして私が落ち着く少しの間を温かい抱擁で包んでくれた。
「そういえば、透子は昼ごはん食べた?」
気持ちを落ち着かせて離れたところで、彼はそう言って手に持っていたコンビニ袋を見せてきた。
「まだだけど」
「お湯くらいになら沸くよね」
そう言って彼は袋から緑のたぬきを取り出して見せてきた。
「これ覚えてる?挨拶に来た時に遅くまで話し込んで夜食で食べたの」
「うん、覚えてる」
話に花が咲いて夜遅くまで話し込んでしまい、私たち2人は小腹が空いたので、ちょうど買い置きされていた緑のたぬきを2人で分け合って食べたのだった。二杯では多いけど、一杯なら2人で十分だった。2人で仲良く分け合って気持ちも温かくなって幸せと思えた。
「お湯沸かすね」
「うん、あ、透子」
「なに?」
「こんな素敵な笑顔を、もう一度見たいって言ったら、どうする?」
そう言って彼はあの写真をこちらへと見せる。
「どうって・・・そんなの無理に決まってるじゃない」
もう取り戻すことはできない。時間が戻ることはないのだからとその時は諦めていた。
でも、彼は違っていた。
緑のたぬきを用意して食べ始めると、突然、計画書を机の上に置いて熱烈なプレゼンを始めた。私は熱を帯びたそのプレゼンに聞き入って絆されてしまい。その結果として、この小さな旅籠は再びその灯火を灯したのだった。
「いってらっしゃい、また、お待ちしてます」
「透子ちゃんも体大事にね、またくるよ」
父の代から来てくれていたお客様も戻ってきて下さって、再び旅籠に賑わいが戻ってきた。あの、全ての窓を開け回った日が嘘であるかのように目まぐるしく毎日が過ぎていく。
「透子、身重なんだから気をつけてよ」
彼が心配そうな声をして帳場に立つ私に言った。
帳場の壁にはあの写真達がそのままで飾られている。その1番上には、若い頃の父と母、そして満遍の笑みの幼い私の写真、その隣には私と彼が花嫁衣装と紋付袴で同じように満遍の笑みを讃える写真が飾ってある。
そう、私は結婚もして、そして、もうしばらくすると親にもなる。
「大丈夫よ、でも、少しお腹が減ったかな」
大きくなったお腹を愛おしく摩りながら、帳場横の土産物売り場にある緑のたぬきを手にとった。父母の味を見事に再現した彼の作ってくれる思い出の味も嬉しい、けれども私のもう一つの思い出の味はこれだ。
「お湯沸かしてくるよ、半分こしよう」
「うん、そうしましょ」
帳場裏の調理場へ彼は戻っていき、私も緑のたぬきを持ってその姿を追って調理場へと入って行く。
私達の思い出の味は、どこにでもあるようで、ここだけしかない。
緑色のカップに入った蕎麦と天ぷら、そして私達の思い出が合わさって。
世界にたった一つの、私達の思い出の 緑のたぬき に化けている。
足し合わせの多幸せ 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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