scene 4

「お母さんの彼氏と会ったんだ。優しそうな人だった。二人共私の事も大事にするって」

「それじゃ、お父さんとは」

「うん、離婚することになった」

夕凪は大きな目をキラキラと輝かせた。

「お母さんに付いてくの。もう、叩かれなくて済む!一応謝ってくれたけどね」

凛音をうっとりとして見つめた。


「これまでの家族の嫌だった事、お母さんにも話したんだ。泣かれたけどスッキリした。心が本当に軽くなっちゃった」


凛音はそれを聞いて、いきなりバンバン、と響くぐらい両手で机を叩いた。


「凛音ったらびっくりしたじゃない。そんな大きな音出して!」


「僕に全部話してくれたんじゃないの?」


夕凪は意味が分からず慌てた。

「凛音にもこれまでの事は話したよ、全部。ダメなの?」


「そうか、駄目なのか、これじゃ、駄目なんだ」

ああ、と苦悶の声を出した。


「全部話しても、君の人生は終わってないから、終わりじゃなかったんだ」

「凛音、何の事?」


凛音は震える手でうず高く積もった紙を指差した。

「これ全部、君を含めたここに来た人の言った事を書いた紙だよ。どれだけ、書いたと思う?何人来たと思う?」

机の上にあった万年筆をつかむと投げ捨てた。それは消えずに畳の上へ転がった。

「いつまで、僕は人の話を聞いて書き続けていけばいい?紙とペンは消えないんだ。他のと違って!」

凛音は両手で自分の頭を掴んで髪をグシャッと乱した。

「今までの人間は死んでからここへ来てたんだ。だから、自分の事全部話そうと思えばできたんだ。

誰もが途中で去ったから、全てを知る事ができなかった。その人にはなれなかった。もう僕の頭の中は半端な他人の記憶でいっぱいさ!」


ぎりり、と歯軋りの音がした。

「今度こそ、今度こそ完成すると思ったのに。入れ替われると思ったのに」


「凛音、もしかして、私をここに残して自分は現実の世界に戻ろうとしてたの?」

恐ろしい考えに夕凪はパニックを起こし、息が溜まりそうだった。

「その通りさ!」

その後彼はああ、と叫んだ。

「正確には、君の精神と僕を入れ替えるんだ。君の全てを手に入れたなら、僕が君の世界で上手く成り代わってやっていける、はずだった」


凛音は夕凪に近付いた。

彼の目は狂気に囚われたように瞳孔が開き、虚だった。


両手を彼女の首にかける。

「だから、ここで、君が、死ねば」


「凛音、嘘でしょ?私の事嫌いだったの?」

呆然として、抵抗できなかった。


ゆっくり夕凪の首が絞められていく。


「ああ、そうだね、大嫌いだったよ。自分だけ、自由に行き来できて、都合のいい時だけ、僕を呼んで、つまらない話を延々と聞かされてさ」


夕凪の目から涙が溢れた。

「いつも、話をしろって言うから」


絞められて苦しくて、心が絶望に陥り、言葉が続かない。


「こんな私でよかったら、使って!」それが凛音へ私が言えた最後の言葉。

目の前が真っ暗になり、ついに意識が無くなった。


凛音はグッタリとなった夕凪をそのまま、畳の上に寝かせた。


首を掴んだままの手をようやく外した。

「夕凪?」

耳元で小さく囁いた。

「夕凪!」

身体を揺さぶった。

彼女は目を閉じたまま全く動かなかった。

首に赤く、彼の指の跡が残っていた。

「これで、いいのか?」震える両手を眺めた。


「何も、何も起こらないじゃないか」

暫くして、立ち上がってオロオロと夕凪の周りを歩き回った。


「まさか、このまま?夕凪の死体とここに?」


襖に手をかけたがびくともしなかった。

「嫌だ、嘘だろ、こんな筈じゃ、夕凪起きて、目を覚まして!」

もう一度揺さぶった。

赤かった彼女の顔が白くなっていた。


恐ろしい。

「僕は、此処に来たんじゃなかったのか」

身体全部がぶるぶる震えだした。


「僕は此処に居たんだ、元から」

そうだ、思い出した。


凛音は紙の束を掴んで闇雲に散らばした。

「僕の役割だったんだ、これが」

この部屋で、ずっと凛音がしなければならない事。


未練の残る人が死んでここに来て、自分のことを凛音に話して、納得して、軽くなった魂が輪廻のある世界に戻っていく。

その為に凛音は存在していたのだ。


「そうか」

凛音は俯いて夕凪を見た。

「夕凪こそが、忘れてしまっていた僕に僕の役割を思い出させる為に呼ばれた」


がっくりと夕凪の前に座り込んだ。

やり方は分かっていた。

夕凪がこれまで語った自身のことを無くせばいい。

それは、彼が、夕凪の全てを忘れてしまうことを意味していた。


「帰すよ、夕凪を」


夕凪の右手を持ち上げ、甲にそっと唇を寄せたした。


「本当は、夕凪の事好きになってた。嘘ついた。夕凪が来るの、いつも楽しみだったんだ」


凛音は散らかした紙の束の中から無造作に紙束を取り出して、まとめて片手で持った。

紙の最初の行には全て“夕凪”と書かれている。


袂からライターを出した。

持っていた紙の束に火をつけた。


几帳面に書かれたゆうなに関する紙は炙られてジリジリと燃え落ちていく。

次第に灰になっていき、最後はライターと共に消えてしまった。

それと共に、夕凪の身体が透明になっていく。

ついには消えた。

「さよなら」



夕凪は目を覚ました。

あたりを見渡そうとして、首の痛みを覚えた。

『そうだ、私、凛音に首を絞められて、死んだ?』


戸惑う夕凪の上から顔が覗いた。

「夕凪!気が付いたのね!?お母さんよ、分かる?」

目を瞬いた。

「お母さん、此処どこ?」

夕凪の母は、泣きながら夕凪の頬に手を触れた。

「此処は病院よ!あなた、玄関で誰かに首を絞められて気を失って倒れてたのよ!」

「えっ。誰に?」


母は首を横に振った。

「分からないの、すぐ逃げたみたいで。目撃者もいなくて。心当たりはある?」

彼女は確認するように尋ねた。

「知らない人、だよ」


夕凪は包帯の巻かれた首をさすろうとした。

「触っちゃダメよ」

嗜められて、手を下ろした。


「知らない、誰か」

最後に見た凛音の顔は悲壮に満ちていた。


言ったら自然と涙が溢れてきた。

「怖かったでしょう?ごめんね、守ってあげられなくて」

母に抱きしめられた。


知らない誰かなんかじゃない。


凛音、凛音。

心の中で何度も名前を呼んだ。


物静かで、訪ねるといつも何処からか紅茶を出してくれた。

綺麗な字を書く人だった。

真剣に話を聞いてくれた。

悲しい話で泣いてしまったら、慰めてくれた。

楽しい話では微笑んでくれた。


凛音の名を呼ぶときは、いつもドキドキして彼を思った。

大切な人になっていた。


大好きな人になっていた。


彼への気持ちを打ち明ける事は無かった。

今だから分かる。

だから彼は夕凪の全てを手に入れる事ができなかったのだ!



あの部屋で孤独で寂しかっただろうに、そんな素振りはちっとも見せなかった。


私が彼の心を聞いてあげるべきだった!

今まで会った人、聞いた話。

そうすれば彼の心は軽くなったかもしれない。

輪廻に行けたかもしれない。


でも、全てが終わってしまった。


彼はどうしているだろうか?

病室に1人になった時、夕凪は囁いた。


「凛音、いる?」

静まり返った部屋に響く。


景色は変わらなかった。白い天井が映る。


「凛音、私を返してくれたんだね」

今日何回目かの涙が溢れた。

夕凪が帰ってきたと言う事は、夕凪に関する事は、彼方には何も残っていないだろう。


「凛音が私のことを忘れてしまったとしても、私はずっと覚えているよ。

これからも凛音と一緒にいると思って、頑張るよ。あなたの名前を呼ぶから!」


「凛音、大好き」

堪えきれなくなって大声で泣いた。


看護師さんが慌ててやって来て、ひどく心配された。


「大丈夫です」


凛音にも届いて。

「大丈夫」

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狭間の世界にて君を待つ Koyura @koyura-mukana

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