老いたる象の歌
藤光
老いたる象の歌
雨が降っていた。粒子の細かい霧のような雨がその島全体を覆っていた。空港に着陸した飛行機が滑走路の端にある「グレイランド」ターミナルの前で留まると、乗客たちは荷物からレインコートを取り出して袖を通し始める。この島ではレインコートが普段着だ。霧となってあらゆる場所に忍び込むこの島の雨から逃れられる人間はいない。
――雨にはコロナウイルスを不活発にする成分が含まれています。ここグレイランドでは室内であってもレインコート脱ぐ必要はございません。
空港のアナウンスを聞いて、買ったばかりのレインコートに身を包んだ園長が、入国手続きを終えてターミナルビルを出ると、真前に大きなリムジンが停まって彼を待っていた。ボディに小さく、しかしはっきりとサイクロプスのエンブレムが輝いている。園長が乗り込むとリムジンは水煙をあげて、それでも滑るように走りはじめた。
リムジンの車内でひと息ついた園長は、ハンドルを握っている年取った運転手に話しかけた。
「どのくらいかかりますか」
「ものの15分程度でございます」
「議長閣下の御用はなんでしょう」
「さあ……わたくしは存じません」
そうだろう。そんなことは直接本人から確かめないといけない。高速道路を疾走するリムジンの中は、外の雨を感じさせないほど静かで、園長はそっと目を閉じた。よく考えよう――。
コロナウイルス感染症のパンデミックは、2020年の発生から50年の歳月を経てもなお、収束の兆しを見せていなかった。この半世紀というもの、コロナウイルスは変異に変異を重ね、ワクチンや治療薬を開発する人類とのいたちごっこがいまも続いていた。この間、のべ1000億人もの人がコロナウイルス感染症に罹患して30億人の命が失われ、世界の人口は半減した。
この21世紀末の世界を支配しているのは、国民国家からその座を奪おうとしている
「サイクロプス」は、こうしたセブンピークスの中でもっとも多くの従業員と、桁外れの売り上げを誇るメガコープの盟主であり、「グレイランド」はその本社機能が置かれた島である。
高速道路を取り巻く防音壁の向こう側に、雨に煙る巨大な建造物が見えてきた。それは、先端がねずみ色の雨雲に消えて見えなくなっているサイクロプスの本社ビルだ。園長は、このサイクロプスの最高経営評議会「議長」の要請を受けてグレイランドへやってきたのだ。園長を乗せたリムジンは、大きくカーブ描く高速道路から分岐する道を辿ると、吸い込まれるように本社ビルへ入っていった。
いくつかのエレベーターを乗り継いで指定されたフロアに案内された園長は、ひとり最上階近くの大きな部屋に残された。シンプルだが極めて豪華な調度品が配されたこの部屋は応接室なのだろうか。園内の施設でいうとゾウ舎とキリン舎とホッキョクグマ舎を合わせたよりも広くて天井の高い部屋だった。床から天井まで続く大きな窓からは、グレイランドの全景が見渡せる。もっとも、雨に煙るこの島の風景は遠ざかるほどに境界があいまいになり、やがて灰色の雲に溶け入ってしまっているのだが。
――わたしの動物園とはずいぶん違うな。
グレイランドはもちろん、セブンピークスが支配する地域のどこにも動物園はない。動物は人類にコロナウイルスを媒体する可能性があるからだ。園長の動物園は日本のトーキョー・ウエノにある。彼は雨が嫌いだったな。
――いまごろシンベエはなにをしているだろうか。
「待たせてしまったようだな」
声を掛けられて、園長はサイクロプス本社にいることを思い出した。部屋に人がやってきたことには気づかなかった。絨毯の上を、音もなくすべるようにやってきたのは高齢者介助用の自律型車いすに乗った老人だった。後ろには園長をここまで送ってくれたあの運転手が従っている。
「これは、気づかずに失礼いたしました。議長閣下」
あわててひざまずこうとした園長を、サイクロプスの最高権力者は手で制した。
「そんなことをする必要はない。きみとわたしは、ビジネスパートナーだ。主人と従者の関係ではない。グレイランドへの旅はどうだった。快適だったかね」
「それはもう素晴らしいものでした」
「それはよかった。さあ掛けたまえ。座って話そう」
ソファに座ると老人の顔がよく見えた。真っ白な髪の毛、黒ずんで垂れ下がった皮膚、生気のない目の光、まるで生きていながら死んでいるような人だと園長は思った。
「単刀直入に言う。きみにここまで来てもらったのはほかでもない。わたしが動物園を買収した理由の説明と、今後の協力を依頼するためだ」
「議長閣下のご助力には感謝したします。動物園経営が非常に厳しい折、サイクロプスの傘下となることで、わが動物園の経営も安定します」
「きみがそのことを理解しているのは、わたしにとってもきみの動物園にとっても非常に有意義なことだ」
「ありがとうございます」
「次に、すでに伝えてあるわたしの希望だが、あれは叶いそうかね」
問題はそこだ。議長の希望は簡潔であれの意味は取り違えようがなかったが、その真意を理解することはできなかった。
「ゾウを譲ってほしいというご要望と伺いましたが、いったいなぜ、どういうことなのか……」
「それを説明するために来てもらったのだ。それを実行するためには、きみときみの動物園の協力が欠かせないからな。きたまえ」
議長がくるりと車いすを回転させて、絨毯の上をすべるように進み始めたので、園長はあわてて彼を追った。
応接室のずっと奥には、出入口やソファの位置からは見えない一角があった。柱と壁で隠されているのである。議長の車いすはその狭い壁と柱の間を縫うように進んでゆく。だんだん部屋の照度が落ちてゆき、部屋は夕暮れ時のような明るさになってしまった。
「これが理由だ。そしてわたしの秘密だよ」
10メートル四方程度の空間に高さ2メートルほどのガラスのカプセルが6つ並んでいた。薄暗いのでよく見えないが、中にはなにが収められている。
「近づいて見るといい」
園長が近づいて、カプセルの中に目を凝らすと、分かった――中に、若い女性が安置されている。中にいる全裸の女性は微動だにしない。死んでいるようだ。
「こ、これは?」
「極低温で人体を保存する容器だ。容器内は氷点下150度に保たれていて人体の組織を腐敗から守っている。さしずめ現代のミイラといったところかな」
氷点下150度? ミイラ? しかし、ガラスケースのなかの女性はまるで眠ってでもいるかのように生き生きとしている。いま彼女が、ゆるく閉じられたまぶたや薄桃色の唇を開いて起き上がったとしても驚かないだろう。そして、残りのガラスのカプセルのなかにも、彼女とは別の人影が見える。
「彼女は、20歳の頃のわたしだ」
「え」
車いすのなかの議長と、カプセルの人物を見比べる。まったく違う。議長は高齢の男性だが、ガラスケースの中の人物は――胸のふくらみと外性器、どうみても若い女性だ。
「むかしから身体は魂の容器だといわれてきた。サイクロプスの技術は、人の魂をその身体から引き離すことができるんだよ。彼女――マーガレット・チャンは、まだパンデミックが始まったばかりで、売れないシンガーをしてたころのわたしだ。サイクロプス創業者の娘だったわたしは、20歳の時に「処置」を受けて、魂の交換をした。それがとなりの彼女だ」
議長の指さす二番目のカプセルの中にも人が安置されていた。背の高い金髪の女性だ。均整のとれた身体、ほりの深い顔立ちが非常に美しい……まてよ、彼女のことは知っている。園長はどこかで彼女に会ったことがあるように思えた。いつだったか、どこだったか。
「シャーリー・ブラック。30歳の頃のわたしだ」
シャーリー・ブラック! 新宿の映画館だ。彼女と出会ったのは。園長がまだ子どもだった頃のことだ。アカデミー賞主演女優賞に輝いたこともある世界的なスターだった。20代で女優を引退し、映画界から姿を消した伝説的女優だ。
「若いころから、わたしはコンプレックスの塊でね。地味で内気な性格をどうにかしたかった。エンターテイメントの世界に憧れていた。人に認められて、ちやちやほやされたかったんだ。だから当時、世界でもっとも美しい女性といわれていたシャーリーと魂を交換した」
園長は、マーガレット・チャンとシャーリー・ブラックを見比べた。
たしかにマーガレットは、背が低くスタイルもよくない。シャーリーの方が美しいのかもしれない。しかし、それだけが人の価値か? ミイラとなってしまったふたりを見ていると、園長はそう考えざるを得ない。
「シャーリーとなった当初は楽しかった。みんなわたしを称賛してくれるんだ。美しいよ、素晴らしい歌声だねって。男性にもモテたしね、わたしはシャーリーになって初めて恋をしたんだ。わかるかい? 恋したことのない女の子がはじめて恋するってことがどういうことだか」
議長の口調に熱がこもってきた。たるんだ皺の向こうに見える目が潤んでいる。
「でも、30歳のときふたたび魂を交換した。一緒に映画を作っていた男たちにレイプされたんだ。わたしは仲間だと思ってけど、あいつらそうじゃなかったんだね。二度とこんな思いはしたくないと思った。弱い女性でいることが嫌になったんだ。そして選んだ三番目のわたしが、彼だ――」
三つ目のカプセルの人物が何者か、園長にもすぐわかった。マイケル・ライアン。「クロヒョウ」と呼ばれたメジャーリーグ屈指の強打者で、史上最高のショート・ストッパーと言われた選手だ。下町のリトルリーグでキャッチャーをやっていた園長にとっては、あこがれのヒーローだった。
「マイケルは最高の選手だった。10年間で首位打者4回、ゴールドグラブ賞9回、そしてMVPが3回だ。男性としても魅力的で、とても女性からモテた。結婚を3回、離婚も3回したな」
そう言って議長は笑った。そうだ。あの頃のメジャーリーグはマイケル・ライアンを中心に回っていた。しかし――
「でも、それもいつまでも続かなかった。年齢と共に成績は落ちて、ワールドシリーズ進出を賭けたプレーオフて敗退が決まった日、怒り狂ったファンに刺されてしまったんだ。40歳だった。直ちに魂の交換をしなければならなくなった」
議長と園長は、次のカプセルに歩み寄った。中には半ば頭髪が白くなりかけた男性が横たわっていた。これ以上驚くことはないと思っていた園長も、中の人物には驚いた。名はハリー・ヒルズ。アメリカ合衆国、最後の大統領だった。
「当時、わたしにはもっと大きな力が必要になっていた。有名なメジャーリーガーであるよりもっと大きな力がね。コロナウイルス感染症による世界死者が30億人に迫っていた。このままでは人類はウイルスとの戦いに敗れてしまう。しかし、無能な
わたしはアメリカ大統領の有力な候補だったハリーと魂を交換した。サイクロプスの資金――国家予算を上回る金額だ――を注ぎ込んだ選挙戦でわたしは勝利し、ハリーはアメリカ大統領に選ばれた。製薬企業サイクロプスのCEO兼アメリカ合衆国大統領が誕生したというわけだ。
大統領となったハリーは、国民に対するワクチンの強制的接種、対コロナウイルス新薬の開発を国家プロジェクトとして立ち上げた。もちろんこのプロジェクトの実行を担当するのは製薬会社であるサイクロプスだ。アメリカでは政策も国家予算も、すべてサイクロプスが主導して策定されるようになった。サイクロプスの意思が、すなわちアメリカの意思となったのだ。
アメリカ国内での感染症流行を抑え込むことに成功すると、ハリーはその国民的人気を背に議会機能を停止、解散させ国内に専制体制を敷いた。それは、いまだにコロナウイルス感染症の流行が収まらず、パンデミックの震源地であり続けるアジアの国々を武力制圧し、感染症の流行をサイクロプスのコントロール下におくための決断だった」
その後のことは園長もよく知っている。核兵器による先制攻撃を受けた中国をはじめ、ロシア、インドといった国々がアメリカの武力により制圧され、政府は解体された。その後、支配領域に私企業であるサイクロプスが進出し、領域住民を「従業員」として取り込んでいったのだ。サイクロプスをはじめとするセブンピークスが台頭するきっかけとなった「百日戦争」である。
「すべてハリーの意思だ。以後、セブンピークスはコロナウイルス感染症の流行を管理し、コントロールすることを通じて世界を支配するようになっていった。なにもかも、わたしの思い通りになるはずだった――」
サイクロプスをはじめとする
「ジョーの裏切りはショックだった。なにもかもうまくいっていると思っていたから。コロナウイルスは抑え込めていた。人々は死の恐怖から解放され、幸福を感じているはずだった。でも、実際には一番身近にいた友人からも、わたしは憎まれていたんだ」
議長の声は消えてしまうかと思うほどに、小さくか細くなっていった。
「魂の交換が行われたが、わたしはもう表舞台に立つことは望まなかった。地位も名誉もわたしは手に入れて必要なかったからね。わたしの自由にならないのは人々の心だけだ。手に入れるべきものはそれなんだ――。イワン・ザギトフというのが今のわたしの名だ。知っているかね?」
議長は自分の胸を指さしてみせた。ザギトフは、コロナウイルス感染症のパンデミックがはじまって以来40年間にわたり、その著作によってウイルスと戦い続けてきた人々を励まし勇気づけてきた世界的ベストセラー作家である。何十億という人々が、このザキトフの小説によって、あるときは叱咤され、あるときは慰められながら、共にパンデミックを生き抜いてきたのである。
「人類の精神的支柱といって良い人物です。しかし、この10年。ザギトフは新しい著作を発表していません――」
「そうだ」
議長はつぶやいて、その枯れ枝のような腕で頭を抱えた。
「わたしはなんという愚か者だったのだ。作家の手を得れば、ザギトフになれば彼のように人の心を動かす著作をものにできると思っていたんだ。シャーリーの美貌、マイケルの肉体、ハリーの権力が、わたしの望みを叶えてくれたように! しかし、これは借り物の力に頼ってきたぼくに対する神の報いなんだろうな。人々の心を動かすどころか、一冊の本すら書きあぐねているというのだから。
やっとわかったよ。人の心を――魂を動かすのは、やはり人の魂の働きでしかないのだとね。70年も生きてきてわたしの魂は中身が空っぽなんだ。わたし自身の人生から目を逸らし続けてきたがために!」
園長は、目の前で話している議長を見た。自律型車いすに身体をすっぽりと包み込まれ、機械の中に閉じ込められているかのようだ。生きてはいるが、生きる目的を失い、まるでミイラのようにひからびてゆくだけの老人だった。
「自由になりたい。わたしをここに閉じ込めているすべてのものから。サイクロプスから、ウイルスとの戦いから、呪われた人生から。園長、きみの動物園には脳腫瘍を患い、あとは死を待つばかりとなっているゾウが一頭いると聞いた。お願いだ、彼とわたしの魂を交換してほしい」
パンデミックが拡大した当初は、動物園でもコロナウイルス感染症に罹患する動物が続出し、その多くが死亡するという悲劇が起こった。しかしいま、動物園に暮らしている動物たちの多くは、人の感染するコロナウイルス感染症には感染しないことが分かっている。上野動物園で暮らすゾウのシンベエもそのうちの一頭だ。
アフリカゾウのシンベエがゾウ舎から出た。彼がゾウ舎を出たのは、動物園にやってきて以来はじめてのことだった。やってきた頃はまだ、コロナウイルス感染症の流行ははじまっておらず、来園者でいっぱいになることがあった動物園もいまは閑散としていて、彼が動物園から連れ出されることにはだれも気づかなかった。
トレーラーで運ばれた東京港で乗せ換えられた巨大な貨物船では、サイクロプスの議長が待っていた。議長は怖がる風もなく、身体の大きなシンベエに近づくと黙ってその長い鼻を撫でた。されるがままのシンベエに「ゾウの目は優しいんだな」議長はそう言ってほほ笑んだ。その夜、ふたりはそろって船上の
ひと月の船旅の後、シンベエを載せた貨物船は、東アフリカ・コンゴの港に着いた。そこから五時間、トラックで揺られた先に広がるサバンナでシンベエは解放された。高齢のうえ、脳腫瘍の影響もあって彼はまっすぐに歩けない。それでも、ゆっくりゆっくりと地面を踏みしめながらシンベエは歩いていった。そして、広いサバンナに日が落ちる頃には、けし粒のように小さくなり、やがて見えなくなってしまった。その後、彼がどうなったのか、だれも知らない。
シンベエが解放された夜、サイクロプスの本社に「ゾウを解放した」と園長から連絡を入った。電話でその報告を聞いたのは、園長を本社ビルまで案内してくれたあの運転手だった。議長執務室の外ではその日も霧のような雨が降っていた。
「ありがとうございます。議長も満足されているとおもいます」
「あの……議長はいま?」
運転手が視線を執務室の奥へ向けると、窓際に車いすを寄せ、雨に濡れる街を眺めている議長がいた。車いすに身体を預けてなにかを小さく口ずさんでいるようだ。その表情は母親の腕に抱かれた幼子のように穏やかだった。
「遠くの空を見ながら、歌を歌っておいでです」
「歌を?」
「ええ、アフリカの歌――です」
老いたる象の歌 藤光 @gigan_280614
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