極限状態で食うものが一番美味い

尾八原ジュージ

エイリアンの頭

 瞬く間に距離を詰めた化け物に、とうとうナラハシが首を食い破られた。痙攣するナラハシの手から拳銃が滑り落ち、俺は彼の死を悟った。

 元々この国際研究機関の南極基地には、各国から集まった十二人の研究者と、二人のガードマンが生活していた。だが、今は俺ひとりしかいない。他は皆死んでしまったのだ。突如空の彼方から現れた、たった一体の異様な生物が、人間を手当たりしだいに食い荒らしたのである。

 俺とその化け物とは今、基地内の無人の食堂で対峙していた。

 化け物はナラハシの喉を食い破ると、こちらを向いた。おれはサブマシンガンを構えた。恐怖と緊張で頭がガンガン痛んだ。かつてこれほど怖ろしいと思ったことは一度もない。

 そいつの表皮は干からび、まるで木乃伊のようなどす黒い体色をしていた。のっぺりとした顔に、退化してほとんど皮膚に埋もれた目。なのに一体どうやって対象を認識しているのか、長い首を正確にこちらに向けて、蛇のように鎌首をもたげている。大きな口にずらりと並んだ細かい牙が閉じた唇の上下にはみ出しており、そこからナラハシの血液がぽたぽたと垂れて床を汚した。グロテスクな顔がこちらを向き、あざ笑うように口をゆっくりと開いた。

 このような生物はかつて一度も発見されたことがない。ボストンの本部にも問い合わせたが、一致するデータは存在しないとのことだった。研究者たちは、やはり本物のエイリアンかと色めき立った。あのとき欲をかかずに殺していれば……俺は無謀な作戦を止められなかったことを後悔していた。研究員たちは、この奇妙な生き物を生け捕りにしようとしたのである。

 その結果がこれだ。

 おれはサブマシンガンを発射した。化け物は俊敏な動作で弾をかいくぐり、こちらに向かってくる。

 おれは研究者ではない。ガードマンとして雇われていた元傭兵であり、無論戦闘行為もこれが初めてではない。斃してきたのは人間ばかりでなく、時には野生のグリズリーを殺したこともある。しかし、このような化け物と戦ったことはない。

 こいつの武器はなんといってもその鋭い牙と長い首だ。一見すると全長は人間とさほど変わらないが、首がろくろ首のように伸縮するのである。蛇のようにしなやかに、それ自体が独立した生き物であるかのように動いて獲物を襲う。

 このような動きをする生物とは、かつて一度も戦ったことがなかった。それに加えて、こいつには知性がある。その行動からは、一定水準を超えた狡賢さを持っていることが伺える。そうでなければ、この基地が壊滅することはなかっただろう。

 しかし、俺は勝たねばならない。親友だったナラハシの遺体を、何としても故郷に持ち帰りたい。それに、もしもこの化け物がもっと人の多い場所に移動したら……恐ろしいことが起こるのは目に見えている。さらなる惨劇は防がねばなるまい。

 怪物の首がうねる。その木乃伊のような見た目からは想像がつかないくらい柔軟で、素早い動きだ。俺は辛うじて避けながら、そいつの胴体に銃弾を撃ち込んだ。手応えがあった。弾丸がそいつの脇腹をえぐったのだ。化け物は恐ろしい叫び声を上げた。

 俺はテーブルの影に隠れながら、素早くマガジンを交換した。これが最後のマガジンだ。これが尽きたら――俺は胸ポケットの中の感触を確かめる。潰れた煙草の箱とライター、そしてダイナマイトが入っている。採掘用のものだが、俺とナラハシはこいつを各々持ち出していた。

 いざとなればこのダイナマイトに火を点け、怪物に組み付いて自分ごと爆破させるつもりだ。その場合、ナラハシの遺体を持ち帰るのは諦めなければならない。

 耳を澄ませ、奴の気配を探る。命の危機に瀕した俺の五感は、かつてないほど研ぎ澄まされていた。だが。

 突然の衝撃と共に、サブマシンガンの先端がちぎり取られた。

 俺のすぐ目の前で、化け物の顔が笑っていた。鋭い牙の間から引き千切られた金属片が見えた。そいつは俺を小馬鹿にするかのように、咥えていた銃口を足元に吹き捨てた。硬質な音が辺りに鳴り響いた。

 これでおしまいだ。俺は覚悟を決め、胸ポケットに手を突っ込んだ。そのときである。床に倒れていたナラハシが、ばっと起き上がったのだ。

 俺は目を疑った。ナラハシは喉を食い破られ、夥しい出血がその足元までを朱に染めていた。だが両目は爛々と輝いている。ナラハシはまだ彼の動きを悟っていない怪物に、やにわに武者振りついた。

「ナラハシ!」

「ハセガワ、来るな」

 まるで空気が漏れるような声だったが、ナラハシは確かにそう言った。俺はナラハシが何をするつもりか理解していた。それでも彼の方に駆け寄って行きたいと思った。だがこちらをもう一度振り返ったナラハシは、恐ろしい剣幕で俺を睨みつけた。片手にライターを握っているのが見えた。

 俺は走った。ナラハシとは反対の方向に向かって全力で走った。彼と化け物から一歩でも距離をとろうとした。

 背後で地面が震え、轟音が俺の耳を襲った。


 気がつくとおれは食堂の隅に倒れていた。幸い、大きな怪我はないようだ。

 ナラハシは、そして化け物はどうなったのだろう? 俺は這うようにして元いた場所に戻った。

 焦げた床の中心に肉片のようなものが凝っている。駆け寄ろうとすると、足元に黒いものが転がっていることに気づいた。

 ちぎれ飛んだ怪物の首だった。ぎょっとしたが、それはぴくりとも動かなかった。さすがに死んだらしい。

「ナラハシ……」

 俺は友を悼んだ。

 ナラハシが化け物と共に自爆した際、基地のセーフティシステムはここでテロが発生したと認識したらしい。食堂のドアはロックされ、開けることができなくなっていた。厨房に続く扉も固く閉ざされている。食堂に食品はなく、ウォーターサーバーに水が残っているが、それもタンクの半分以下の量だ。

 食料のないこの場所で、果たしてどれくらい生きることができるだろうか。食堂の壁に寄りかかり、冷たくなっていく床に座り込んで、俺は考えた。本部から救援が来るまで何時間、ことによっては何日もかかかる可能性がある。いや、そもそも救援が来なかったら……そんなことを考えているうちに、重苦しい疲労感が押し寄せてきた。おれは床に座ったまま眠ってしまった。

 目が覚めると、およそ六時間が経過していた。ひどく腹が減っていた。空腹感で吐き気がする。俺はウォーターサーバーから水を汲んで飲み干した。信じられないほど美味い。だが、空腹を満たすには至らなかった。水はこれだけしかないのだ。ガブガブ飲むわけにはいかない。

 ふと、鼻腔を得も言われぬ芳香がくすぐった。

 俺は必死で辺りを見渡した。ここに何か食料があるのだろうか、食えるものなら何でも食ってやる、と思った。そのとき俺の目が、黒く丸い物体をとらえた。

 化け物の頭部だった。

 おそるおそる近づいた俺は、先ほど感じた芳香が間違いなくその悍ましいものから立ち上っていることを認めざるを得なかった。爆発によって焼けた得体の知れない肉片が、うっとりするような匂いを発していた。

 こんなものを食いたくない。理性は拒否していたが、それとは反対に俺の体はその場にしゃがみこんでいた。木乃伊のような肌、細かな牙の並んだ大きな口――それはこの基地内にいた人間を食い荒らしてきたはずのものだ。それがどうしてこんなに甘やかな匂いを発しているのか。

 どうして俺は、それを両手に持っているのだろうか。

 考える間もなく、俺は化け物の頭部にかぶりついていた。干物のような触感の肉は硬いが、噛むごとに甘味と旨味が口の中に充満した。俺は夢中で食った。

 ナラハシが、死んだ職員たちが、俺の背後にずらりと立ち並んで、俺をじっと見つめているような気がした。それでもやめることができなかった。俺は怪物の頭を貪り続けた。


〜・〜・〜・〜・〜


「――みたいな妄想をしながら食うと、めちゃくちゃ美味いわけよ」

 目の前に座っている楢橋は、死んだ魚のような目をしながら、それでも一応俺の話を聞いてくれている。

 ここは南極ではない。おれが勤めている会社の独身寮の一室である。テーブルの上には缶ビールと、故郷の親戚が送ってくれた「わらすぼ」が並んでいる。

「有明海のエイリアン」とも称されるわらすぼは、ハゼの仲間である。全長はおよそ30〜50センチ。有明海にしかいない珍しい生き物で、内臓をとった上で丸ごと干物にして食べることが多い。

 その姿を一目見れば、なるほどエイリアンと称されるのも納得がいく。大きな口に尖った牙が並んでおり、ウナギのように細長い胴体も不気味だ。

 だが美味い。普通の干物をあぶって食うのもいいが、袋から出してそのまま食べられる商品の方が手軽で、俺は気に入っている。醤油やみりん、砂糖などを使った甘めの味付けも好みに合う。

「何でそんなハードな妄想が必要なんだよ」

「極限状態で食う飯が一番美味いんだよ!」

「わからん……ていうか長谷川さぁ、妄想の中でおれのこと殺したよね?」

「まぁまぁ。いいじゃん、美味しいとこ持ってったんだし」

 楢橋は苦い顔でわらすぼを一匹手に取り、まじまじと顔を眺めた。

「話に出てきたエイリアンにしては小さいしよ……ていうか見た目が結構恐いんだけどこれ、本当に美味いの?」

 などと言う。

「それは美味いよ」

「本当だろうなぁ……」

 ぶつくさ言いながらも楢橋はようやく意を決して口を開け、頭からかぶりついた。途端、怪訝だった表情が一変する。「わりと甘めだな」と呟いた口から、パリッと小気味よい音が漏れる。

「美味い。確かに美味いよ。見た目はグロテスクだけど、香ばしくって、魚の旨味もあって。でもさ長谷川……」

 楢橋は口の中のものを飲み込み、ビールを一口飲んだ。

「何だよ?」

「食堂に閉じ込められたとき、何でダイナマイトでドアを爆破しなかったんだ? お前が持ってたやつ、結局使わなかっただろ」

「あ」

 忘れていた。


 なんであれ、わらすぼを美味しく食べられればいい話なのだ。俺はテーブルから有明海のエイリアンを取り上げ、強面の顔をまじまじと眺めた後で、頭からかぶりついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

極限状態で食うものが一番美味い 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ