私の赤い救世主

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私の赤い救世主

 社会人になってちょうど一ヶ月が経ったその日、私は通勤帰りの電車の中でなぜか泣いていた。そう、なぜかなのだ。どうして自分が泣いているのかちっとも分からないのに、涙は後から後から流れてきて、私は大変に弱った。極力静かにしていたけれど、こまめに顔を拭う手や、おそらく充血しているのであろう目が、他の乗客の注目を否が応でも集めてしまう。次の駅で降りようと決めても、乗るのは新快速列車、後十数分は走る檻の中から逃れられない。私はただ俯いて、どうにか時間が経つのを待つしかなかった。


 情けない。食いしばった歯が、ぎりりと音を立てる。泣くのは嫌いだった。泣くなんて、赤ちゃんが親を呼ぶ以外の意義を持ちはしないはずだ。私はそう考えて来た人間だから、人前でこんなにもぽろぽろ泣く自分がみじめで許せなかった。列車に揺られながら頭の中を探って、泣いているのはきっとストレスのせいなのだと分かって来ていた。社会人になって、今までにはなかった責任が生まれ、家族と離れて住むことになって、独りの時間もこなさなければならない家事も増えた。そういうことに疲れてしまって、身体が勝手に助けを求めているのだろう。皆乗り越えてきたことだろうに、こんなことで音を上げようとしている私は、自分が思っていたよりずっともろい人間だったと認めるしかなくて、打ちのめされそうだった。


 列車が緩やかに減速していく。ようやく駅に着くようだ。後はもう何も目に入れないようにまぶたを強く閉じて耐えて、私は列車が止まると同時に足を踏み出した。すぐに駅に降り立って、人目を避けられるトイレを目指し、脇目も振らずにホームの階段を駆け上が——ろうと、したのだが。


「ちょっとおいで」


 身体が後ろに引っ張られたのに驚いて振り返れば、母と同世代ほどのふくよかな女性が、後ろから私の腕を捕まえている。この人には悪いけれど、今はどうしても立ち止まりたくない。振り払ってしまおうと思ったちょうどそのときに、まなじりからまた涙が流れ落ちて、私はすっかり心を折られてしまった。腕を引かれてゆくままにホーム上のベンチまで行って、そこに腰を下ろすことになる。


「どうしたの」


 おばさんの声は、羽織ったカーディガンのように柔らかで温かかった。食いしばっていた歯がちょっと緩んで、続けざまに二粒、私の目から新しい涙が生まれ落ちる。


「大丈夫です。あの、ちょっと、疲れちゃって」


 消え入りそうな声しか出て来なかった。とても、悔しい。私はもっとやれると思っていた。膝の上に投げ出した手に自然と力が籠もる。おばさんはそうしている私を、しばらく黙って見つめていた。


「一人暮らし?」


 突然そんなことを聞いて来るので、私はその瞬間泣いていることも忘れて瞬いた。間抜けな返事をすることになる。


「え、あ、はい」


「夜ご飯は?」


「まだですけど……」


 おばさんはちょっと笑うと、提げていたコンビニの袋と思しきものをがさごそまさぐった。出て来たのは、見慣れた赤いふたの即席めん——赤いきつねだ。


「疲れたときは、楽しちゃっていいのよ。お湯を沸かしてこれを食べて、もう寝ちゃいなさい」


 赤いきつねがぐいぐい押しつけられるので、思わず受け取ってしまった。ちらりと見えた袋の中には、もう三つは同じものが入っていて、少し面白くなってきてしまう。おばさんは私が受け取ったことに満足したらしく——もしかしたら私はちょっと笑っていたかもしれないから、そっちを見て満足したのかもしれないけれど——にこにこ顔のまま立ち上がる。すぐにきびすを返してしまったので、私も腰を浮かせながら慌ててその背を呼び止めた。


「あの!」


 出て来たのはいつもの声で、とても勇気づけられた。手にあるものをぎゅっと握り締めて、私は言う。


「ありがとうございました」


 ちらりと振り返ったおばさんは、「どういたしまして」という言葉と一緒に手を振る挨拶をくれると、颯爽と階段を上って行った。電車が行ってしばらく経ったホームは既に閑散としていて、そこにぽつねんと残された私は、黙って今しがたもらったものを見下ろす。パッケージを見つめていると、もっちりした麵の感触と、食べ応えのある大きな揚げの姿、そして旨味の利いた出汁の味が思い出されて、途端に恋しくなった。そういえば最近食べていなかったけれど、母と喧嘩をしたときはよく夕食に赤いきつねを出されたことを思い出して、つい小さく笑い声をこぼす。娘にやたらと反抗されたときは、母も『楽しちゃって』しまいたくなっていたのかもしれない。でも母は、数ある即席めんの中で私が一番好きなこれを選んで買い置きしてくれていたのを、私は知っている。


 今晩は、おばさんの言う通り、これを食べよう。ありがたく持って帰ろうとして通勤バッグを開いたが、容器が意外と大きく、格闘の結果敗北した私は、両手で赤いきつねを持ったまま電車に乗って帰ることになる。黒づくめのスーツ姿に、赤いきつねの紅一点。きっととても目立つだろうなと思うとおかしくて、気づけばすっかり元気になっていた。


 それ以来、疲れたときは赤い救世主に楽をさせてもらうようになったのは、言うまでもない。

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