第3話 声かけ事案



ある雨の日の、ある街。



たくさんの人が行き交っている。



Yは歩いている。



休日の今日、特に用事があるわけではなく、



天気がいいので散歩をしているだけだ。




Yは歩く時、いつもちらちらと女性を見ていた。



傘を差しながら前から歩いてくるスタイルのいい女性、傘を忘れてずぶ濡れで走る女性。



足が長いな、ブラが透けているな、という具合だ。



この日もいつものようにこっそり見ている。




Yは前方に小さな子どもがいる事に気がついた。



幼稚園にも入っていないような、小さい子だ。



かっぱと長靴の色がピンクなので、きっと女の子だろう。



その小さな女の子がひとりで道端に座っている。



道路と車道を隔てる白いガードレールの柱のひとつに背中をあてて


しゃがみこんで地面をみつめている。



周りに親や保護者の姿が見えない。




"雨の中、こんなところで子どもをひとりにするなんてなんて親だ"



Yはそう思った。




車通りもそこそこ多い。



ガードレールは下に隙間があって


子どもなら容易に車道へ出ることができる。



だんだん心配になってくるY。



と同時に女の子との距離もだんだん近くなってくる。



どうしたものか。



おっさんがちいさな子どもに声をかけて


いいことなんか何もない。



下手したら誘拐と思われて通報されてしまうかもしれない。



きっと、自分が声をかけなくても


誰かやさしい女性が声をかけてくれるだろう。



その前にあの子の親が戻ってくる可能性もある。



そこにパン屋があるし、パンを買ってすぐ戻ってくるのかもしれない。



そうだ、そうに決まっている。



こんな雨の日に、あんな小さい子を


こんな危ない場所に放置したりする親がいるもんか。



Yは自分にそう言い聞かせた。



今のところ誰も声をかけない。



行き交う人はみな、女の子の横を素通りする。



Yは横目で気にしながらも、女の子の前を通り過ぎた。



そのまま進むY。




"うーん、気になる"




少し進んでから振り返るY。



女の子はまだ座っている。



もしこのまま家に帰って、あの子が車に轢かれたなどというニュースを


後で見る事になったらどうしよう。



助けることができたのに、自分の勇気のなさで


子どもを死なせてしまうかもしれない。



やはり声をかけた方がいいかもしれない。



だが、なかなか踏ん切りがつかない。



そうだ、とりあえずあの子の親が戻ってくるか、


もしくは誰か、通りすがりの女性が声をかけるまで


ここで見守ってみよう。



あの子がすぐに保護されたらそのまま行けばいいし、


十分か二十分かくらいここで待ってみて、


それでもだめなら警察に電話しよう。



そうだ、それがいい。



Yはその場で女の子を見守ることにした。



その時、Yは声をかけられた。




「ちょっとあなた」




なんだか聞き覚えのある、嫌な声だ。




振り返ると、そこに大きな傘を差したおばさんが立っていた。




「はい?」




Yはおばさんに返事をする。




「何をされていますか?」




おばさんはYに問いかけた。




言葉に含まれるニュアンスが少し不穏だった。




「あ、いえ大丈夫です」




Yはとっさにそういった。



そう言ってしまった、と言っていい。




ちいさな女の子を見ているY。



日頃から女性を見るYは、見ることに罪悪感とは言わないまでも


うしろめたさを持っていた。



しかもこの時は子どもを見ていた。




こないだのおばさんとの件もある。




見ていることを咎められないために


自分は見ていない、という無意識の防御応答が出たのだった。



もっといい答え方はいくらでもあった。



相手がどう思うかなんて考えず


そのまますべて正直に話せばよかった。



むしろせっかく女性が声をかけてくれたのだから


このおばさんに頼んで、あの子に声をかけてもらえばよかった。



しかし、その時のYにはそれが思いつかなかった。



「大丈夫とかじゃなくて、何をされてますか?とお聞きしています」



問い詰めるようにおばさんはYに言う。



そこでYは気がついた。




"あ、この人先週のあのおばさんだ"




Yは背中がぞぞっとするのを感じた。




これはいけない。



なんとかしないと、女性のお尻を見たり小さな女の子を見つめたりするような


完全に不審者として認識されてしまう。



いや現状もうされているに違いない。



Yはたじろいだ。



しかし実はその時までそのおばさんは


Yに気がついていなかった。



おばさんが道を歩いていた時


道端に小さな子どもを見つけた。



ひとりでしゃがみこんでいる。



小さい子をあんなところにひとりにするなんて


なんて親かしら、とおばさんは憤った。



声をかけようと思いそのまま進んでいくと


ひとりの男性がその子どもをじっと見ている事に気がついた。



最初は彼が父親なのかと思った。



しかし、だとするとこどもとの距離が遠い。



男性が、しかも中年の、ちいさな子どもをじっと見るなんて



これは危ない、先週のような事もある。



おかしな人が増えている時代、これは放ってはおけない。



そうしておばさんはその男に声をかけたのだった。



Yの顔を見ても、おばさんはすぐにはわからなかった。



しかしYの声を聞いて、そしてYのたじろぐそぶりを見て


先週の男だと気がついた。




「あなた!先週の!」




おばさんは確信した。



この男は変質者だ。



成人女性のお尻に飽き足らず


こんな子どもまでいやらしい目で見るなんて。



許せない人間だ。



おばさんの台詞とその表情の変化で


Yはおばさんの思っていることがよくわかった。



また変質者として糾弾される。



今度こそ通報されて、警察に詳しく話しをする事になる。



用事がなく散歩をしていて、女の子が心配だから


見守っていましたなんて、どう説明すればいいのだ。



Yは動揺しながらおばさんに弁解を試みた。



「あ、いや違うんです。あの子が心配だったので


ちょっと見守ろうかなと思って見ていたんです」



おばさんはYの目をじっと見た。



もしこの男の言っていることが本当なら


なぜこんなに動揺しながら弁解するのか。



もっと堂々といえばいいことだ。



この男はうそをついているのだ。



きっとあの子を誘拐して、性的暴行を働こうとしたに違いない。



「だったらすぐに声をかけるとか、親を探すとか、警察に電話するとか


いろいろあるでしょう。どうしてあなたが見守る必要があるんですか。


あなた、先週もわけのわからない言い訳をされてましたよね。


ちょっとおかしいんじゃないですか。


とりあえず警察を呼びますからそこを動かないでください!」



そう矢継ぎ早に言うとおばさんはスマホを取り出すために


紺色の革のハンドバッグをごそごそし始めた。



「いや、ほんとに違いますから。誤解です。勘弁してください」



Yはそういうと雨の中走り出した。



「あ!痴漢!だれか捕まえて!」



おばさんが叫ぶ。



もうこうなったら何を言ってもしょうがない。



走って逃げるしかない。



誰か追ってきたらどうしよう。



おばさんはきっとそんなに速くないから大丈夫、



だけど他の人が追いかけてくるかもしれない。



しかし雨が降っている。



傘を少し前に下ろせば顔は見られない。



全力で走ったら犯人感が出てしまうし


そもそも中年なので全力で走る体力もない。



できるだけ足早に、しかしあまり逃げている風でもない感じを装いながら


Yはおばさんからどんどん離れた。



なるべく早くおばさんの視界から消えたかったYは


すぐ近くの角を曲がり、そしてその次の角もすぐに曲がった。



そうしてさらにいくつかの角を曲がって細い路地に出たところで


Yは止まってしゃがみ込み、はあはあと息を整えた。




"ああサイアクだ、なんでこんなことになるんだ"




やっぱりあの時立ち止まらずに家に帰ればよかった。



こどもに同情なんて、するんじゃなかった。



あの子はきっと、親か、あのおばさんか誰かが保護しただろう。



むしろ警察は今俺を捜しているに違いない。



俺の人生はこのままおかしくなってしまうのか。



なんにも悪いことはしていないのに。



そもそもあのおばさんは何なんだ。



なぜいつもおれの前に現れる。



おれがいつも女性を見ているのを知っていて


それが気に食わなくて俺を捕まえようと付け回しているのか。



俺が女性を見る事はそんなに悪いことなのか。



確かにお尻の件は謝るよ。



近すぎた。悪かったよ。



しかしあれは故意じゃない。



いつもは大股で十歩以上距離を取っているじゃないか。



それがだめだって言うなら十二歩にしたっていい、いや二十歩だっていい。



だからもう許してくれ。



非正規の雇用に文句も言わず、安月給で毎日ちゃんと仕事をして


それも別に好きでもない仕事なのに、だ、


有給だってそんなには使ってないぞ、


四十五歳まで一度も結婚せずに、犯罪だって犯さずに


酒もタバコもギャンブルもせず風俗だって行かずに


真面目に生きてきたんだ。



なのになぜおれがこんな目に合うんだ。



もっと他に悪いやつは山ほどいる。



女性を犯したり、人を殺したり、銃や爆弾をバンバン使ったりするやつだっている。



おれはそんな事はしない。



一度もしていないし、これからもしない。



別に他人の事にとやかく言ったりもしない。



不倫のニュースだって、おれは別に当事者じゃないから何も言わない。



なのになぜ、おれだけがこんなに責められるんだ。



ただ、見ているだけだ。



おかしいじゃないか。



Yはだんだん腹が立ってきた。



なんなんだあのおばさんは。



おばさんはああいうものなのか。



いや、そんな事はない。



ご近所の村井さんはおばさんだけどいいおばさんだ。



会社の経理の吉井さんだっていいおばさんだ。



あのおばさんがおかしいんだ。



もう二度と会いたくない。



あのモニターのある大通りと、今回の通りはすぐ近くだ。



あのおばさんはこの辺に生息しているのかもしれない。



住んでいるのか職場なのかわからないが



もうこの辺りに近づくのはやめよう。



ここを通る必要があった用事は今後すべて迂回しよう。



東京は人がたくさんいる。



そうすればさすがにもう合わなくて済むに違いない。



息が整ったYは再び立ち上がり、家路についた。

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