あんたの負けはストーリー上では決定事項なのさ


「ねえ、そこのあんた!」


 世界で最も重い金属を操る重力の門番、スレッジ・ウォーダンは甲高い声で呼び止められた。


 少しだけ跳ね上がるように重金属の鎧兜をがちゃりと鳴らして振り返る。


 いつからそこにいたのか、すぐ背後に、キャスケット帽を目深に被った銀髪の少女が立っていた。


「また貴様か。重力の門番に何用だ?」


 芝居じみた台詞を吐き捨てる。銀色の髪の少女は大きく空を仰ぎ見た。


「そう、それ。またって言ったよね。小説内では私とあんたはまだ出会っていないよ」


 夕闇に染まりつつある峡谷の空は狭い。赤々とした群雲がさざなみのように押し寄せ、この地がもう夜の闇に沈むまで猶予がないことを教えてくれる。


 はらはらとチトセの細い肩に舞い落ちる言葉たち。赤い。紅い。朱い。赫い。空気も、風も、雰囲気も、黒々とした赤、重々しくて、禍々しい。うるさいほどに言葉が降り積もる。


「さっきは、何をしたって言った。夕闇の中、空が晴れ渡り草が青々と茂る変化に気付いたでしょ」


「いかにも。それがどうした?」


「通常の登場人物は小説環境に強く影響されるものなの。だけどあんたは違う。次元の違う環境の変化に気付き、小説の時系列からも外れてる」


「……何を言おうとこの門を通すわけにはいかない。今ここで沈めてくれる。この世界で最も重いハンマーでな」


 スレッジはチトセと会話を合わせなかった。小説内の既定通りの台詞でバトルを展開させようとする。それがスレッジの存在する理由だからだ。コトバ使いの少女が歌うように言葉を使っているのも構わずに、世界最重量の金属で作られた巨大ハンマーを振り上げた。


「あんたがこの小説のイレギュラーね。私が探し求めていた特別な非実在存在」


「問答は無用」


 空間を割るような勢いで振り下ろされる最重量ハンマー。チトセの頭部より何倍も大きなハンマーが空を見上げる彼女の顔面を叩き潰すその瞬間、コトバ使いによって小説に新たな言葉群が書き加えられた。


 赤々とした群雲はついえて。青々と。覆い尽くそうと、それでも緑色は芽吹く。


 それはまるで、か弱い羽毛のようで。


「もうこの小説はすでに書き換え済み。あんたの負けはストーリー上では決定事項なのさ」


 キャスケット帽から銀髪をまっすぐにこぼす少女はそれだけ言うと、髪の毛一本も揺らさずに重力の門番が放つ巨大ハンマーを顔面で受け止めた。


 その瞬間に世界は一変する。


 強引に文字を書き殴る音が弾けて、赤々とした群雲は跡形もなく空の彼方へと吹き飛んだ。赤く染まった夕刻の谷は赤色を力づくで引き剥がされ、遠くまで澄み切った本来の空色へと一気に染められた。


 チトセの小さな鼻先で鈍色した巨大ハンマーは真っ白い羽毛を撒き散らした。誰にも触れられたことのない白い羽毛は音も立てずに風に舞い、青々とした草花が咲き乱れる草原に、ふわりと、舞い降りる。


「小説のキャラクターであるあんたに非はないよ」


 重力の門番は舞い散る羽毛の向こうに少女の微笑みを見る。可憐さなど微塵も感じられない赤々とした群雲のような笑顔がそこにあった。


「悪いのはこの小説の作者さん」


 チトセの白んだ指がスレッジのハンマーに触れる。


「世界で最も重い金属が世界で最も硬いわけではないし、ましてや世界で最も強いとも限らない」


 言葉を書き加える。


 それは何物よりも重いのではなかった。それにかかる重力が何物よりも強く大きいのだ。


「重さを返すよ」


 白い羽毛が風化したように鈍色に変わり地面に落下した。スレッジのハンマーも不意に色艶を失い、重力の門番の剛腕をもってしても支えきれずに地に落ちた。


「な、何をした?」


 地に落ちた、だけでは済まなかった。強大な重力に囚われたハンマーは草を押し潰し、地面を割り、石を砕き、地面深くめり込み始めた。


「お、重い!」


「当たり前よ。ご自慢の世界で最も重いハンマーなんでしょ?」


 もう少し言葉を書き足してやる。


 重力の門番が纏う鎧兜は、ハンマーのそれと同じ色をしている。とても深みがあり、美しく灰色がかっている。


 チトセが両腕を軋ませて踏ん張っているスレッジの背中をぽんと押した。軽く手を添える程度の接触だが、スレッジの鎧兜がバランスを崩して転倒するには十分過ぎた。


 不意に地面が柔らかなゼリーになったかのようにスレッジの身体を沈ませて飲み込もうとする。


「どう? 重たいでしょ」


 チトセの指先から細い蜘蛛の糸が伸び、スレッジの兜に絡み付いた。蜘蛛の糸には小さな文字が刻まれている。


 人々を救う最後の蜘蛛の糸。


「さあ、地獄まで沈みたくなかったら私の質問に答えてちょうだい」


 チトセはぴんと蜘蛛の糸を張り、それに吊られてかろうじて地面から顔を出しているギリギリの状態のスレッジに問いかけた。


「私と同じ銀色の髪の女の子がこの小説に来なかった? 髪をショートにした執事みたいなコスのコトバ使い。名前はマーヤ」


 チトセが探し求めているコトバ使い。チトセにとって世界で一番大事な存在。沢良木麻耶。彼女は、もういない。


「あの子、我が強過ぎちゃって、小説の中から帰れなくなったの。融けて消えちゃった」


 重たい金属が擦れる音をくぐもらせてスレッジは顔を上げた。重力に耐える震えた目でチトセを見上げる。チトセは哀しげな瞳の色でスレッジを冷たく見下ろした。


「どこにいるの、マーヤ」


 スレッジは答えられなかった。


「小説環境外を認知できるイレギュラーなら、コトバ使いの帰還方法を知ってるんじゃない?」


 イレギュラーであるスレッジでもチトセの求める答えは持っていなかった。地面に完全に沈む寸前に、かすかに首を振り、たった一言だけ振り絞る。


「非実在こそ、インシデントだ。物語はいずれ崩壊する」


 ぴたり、スレッジが沈むのが止まる。ぴんと張った言葉の蜘蛛の糸を指で絡め取り、チトセはスレッジを地面から引き上げてやった。目線の高さまで土塗れの鎧兜を吊り上げて、弱々しく項垂れるスレッジを睨む。


「それがコトバ使いが存在する理由よ」


 小説を壊す。登場人物を破壊し、ストーリーの統合性を失わせる。小説に潜り込み物語を改竄するコトバ使いの最大のタブーだ。悪意あるコトバ使いであるチトセでも知っている。どんな小説にも読者はいるものだ。その読者のためにも、コトバ使いならば壊した小説は修復しておくべきだ。


 重力の門番はイレギュラーであるが、この小説の展開にとってはインシデントであると理解している重要なキャラクターだ。消してしまうのは、やめておこう。


「どの小説にいるの、マーヤ」


 突き抜けた大空を映す青々とした草原に、蒼穹の峡谷に埋まる門の要塞を背にして、コトバ使いの銀髪の少女は歩き出した。


 この小説は、もう読み終えた。

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言の葉に木漏れて 鳥辺野九 @toribeno9

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