やっぱ、初めにコトバありきだよね。


 小説世界では言の葉は世界そのものである。言葉だけでそこに在るすべてを現し、そして表現の仕方次第でその存在意義を揺さぶる。小説の中では言葉使い一つで在るべきものがなくなり、ないはずのものが現れる。世界の根底なんて案外浅いものだ。


 言葉を操るだけで世界の均衡という不確定なバランスさえも保つことができる。言葉を使うことができれば何でも可能だ。できないことなどない。あり得ない、などあり得ないのだ。


 言の葉を使うコトバ使いであるチトセは小説の中を歩いていた。


 硬い。冷たい。そんな意味を持つ文字列が床石となり、文字が視界に入るだけで体感的に薄ら寒くなってしまう。門の要塞内部は装飾文字列だらけだった。


 硬い。固い。堅い。冷たい。凍てつく。寒い。温度を奪う。暗い。黒い。非情なまでに。無視したくても目に飛び込んでくる言葉たち。自己主張の強い文字の上を歩かされる。床材の硬さを読んでしまうせいで靴底の消耗が気になって仕方がない。


「いちいち演出過剰なんだって」


 普通に小説を読む時、魔王の根城に使われている建材なんて気にも留めない。それなのに魔王そのものの冷徹ぶりを表現するためか、やたらとネガティブな装飾描写が前面に押し出されている。VR小説世界では文字を読むだけでその無機質さが伝わってくるのが厄介だ。魔王の居場所に到着するまで膝にダメージが溜まりそうだ。


「それが狙いだったりしてね。歩くとHPが減るダメージ床か」


 独り言と笑い声も文字列の床石に吸い込まれて響かずに消えた。


 チトセがダイブした小説は死後世界の門を司る魔王とそれを開ける鍵を持つ勇者の物語。生と死、消滅と再生をテーマにしたダークファンタジー小説。


 ありきたりな展開と丁寧過ぎてくどい描写がテーマの印象を薄くしているが、チトセはテンポの良い王道ストーリーは気に入っていた。目にうるさい情景描写も慣れてしまえば逆にわかりやすい空気感を演出してくれる。


 砂粒の数ほどある小説に潜り続けているコトバ使いのチトセ。チトセは答えを求めていた。生と死をテーマにしたこの小説ならば、死者の門を制御する魔王ならば、その答えを知っているかもしれない。


 小説世界では時に作者の思惑を越えて、小説の枠を超越して自我を発芽させるキャラクターが出現する。自身の思考を展開させ、小説環境を理解し、物語内を勝手に動き回る登場人物。イレギュラーな非実在存在。


 チトセが求める答えは生と死の真理。死後世界を支配する門の魔王に逢うためにこの小説にダイブしたのだ。魔王が小説世界のイレギュラーな存在であるならば、きっとチトセの求める答えを言葉にしてくれるはずだ。


 要塞内で魔王と遭遇するためには幾つかの門の試練をクリアしなければならない。この小説が大きな山場を迎え、鍵の勇者が門の魔王との確執を苦悩する大事なシーンが続く。文字通りのクライマックス。


 しかしそれもチトセにとっては一度読み終えた小説だ。すでに解き方を知ってしまったパズルのようなもので、そこに新鮮な驚きも新たな興味もなく、いびつなピースを並べるだけの単純作業。ショートカット先の状況も把握しているし、ここはスキップしない理由はない。


「やっぱ、初めにコトバありきだよね」


 チトセは静かな空間に言葉を放った。


「まもなく門は開かれる。望む者の望むままに。そして、それは決して閉ざされることはない」


 まもなく門は開かれる。望む者の望むままに。そして、それは決して閉ざされることはない。


 小説にチトセ自身から生まれた新たな文字列が書き加えられた。すぐさま要塞内に変化が訪れる。


 チトセの目の前にシンプルな組成の門戸が文字列で構築された。それは霊山の頂に建つ小さな寺院の引き戸の門のようで、古びた木の板を組んだだけの軽い板戸だった。


 よく読み込んでみれば、作成者のチトセのアカウントとスキップ先のページアドレスが古びた文字で記されている。チトセの細腕でも、からからと、乾いた音をかすらせる。


 スキップ。いざ、門の魔王の前へ。チトセは木材の敷居を跨ぎ、たった一歩で数十ページ分の物語を踏み越えた。


 シーンが変わる。


 そこは謁見の間。継ぎ目のない大きな石の門が無言のまま閉ざされている。装飾言語がやたら多い小説なのに、文字一つ書き込まれていない。


 門と同じ石で形作られた玉座があり、側頭から山羊のツノを生やした青年が迫り出した肘掛けに頬杖をついて、物憂げにチトセを見つめていた。


「やあ。遅かったな。鍵の勇者」


 ずいぶんと億劫そうにため息を吐き捨てる門の魔王。自分だけのシーンに突如として降って沸いた少女の姿に驚きもせず、ただそこにある存在にあらかじめ決められていた台詞を言うだけだ。


「私が鍵の勇者に見えるって?」


「違うのかい?」


「たしか、門の魔王と顔を合わせることができるのは対をなす鍵の勇者って設定だっけ? 悪いけど、私は鍵の勇者じゃないよ」


「奇妙な格好をしているから、おまえが鍵の勇者だと思ったのさ」


 キャスケット帽から流れ落ちる髪は白髪に近いシルバー。黒シャツに真っ赤なネクタイを緩めて、レザーのスカートから伸びる細い脚はボーダーのタイツ。ブーツの硬い靴底が石床をコツコツと叩く。確かに、ダークファンタジー小説には不似合いなコスチュームだ。チトセはボーダーのタイツをぴんと指で張って、改めて門の魔王の顔を真正面から見据えた。


「いいでしょ、どうでも。さあ、私の質問に答えてちょうだい」


「せっかちな奴だな。お互い知らぬ仲でもないのだし、少しは会話を楽しむのも悪くないだろう?」


 門の魔王はいかにもファンタジーっぽい漆黒のローブを身にまとい、面倒くさそうについた頬杖もそのままでチトセに言って退けた。


「いいって。知ってるし」


 しっかりと読み込んだ小説だ。門の魔王と鍵の勇者との会話も一字一句覚えている。


 通常の小説の登場人物は既定の思考パターンを持ち、ほぼ特定の台詞しか喋らない。下手に深く設定を組まれたキャラクターならなおさらだ。キャラそのものが固定化され、古いゲームのキャラクターみたいに決まった台詞しか喋れない。


「別のお話しない? 最近何か美味しいもの食べた?」


「俺は『死』を具現化させた存在だよ。食事の必要性は理解できないし、したくもないな」


「あら、そう。残念。この小説の中に美味しいのあったら食べてみたかったのに」


 どうやらこの魔王は、作者によってある程度自由に喋れるほどの個性を与えられたようだ。チトセとの会話も成立している。チトセが求めるイレギュラーのように、小説環境外のことまで認知しているとはいかないが。


「それがおまえの質問か? つまらない時間をくれたものだな」


 門の魔王は自嘲気味に微笑んでみせた。


「自分から振っといて、どっちがせっかちなのさ」


 チトセはわかりやすく頬を膨らませてやった。これ以上会話が発展するとも思えない。早々に本題をぶっ込んでおこう。


「その背後にある死者の門から、虚無に流出した者を喚び戻したことある?」


「死と虚無は似ているが非なるもの。それは無意味だな」


 魔王は考える間も置かずに答えた。


「言い方が悪かったかな。言葉はあまりに不確定だもの。死んじゃいないけど、死んだも同然の人を蘇らせたい。あんたならどうする?」


「無意味に意味を見出せるものか」


「意味があるかなんてどうでもいい。私は小説に意識が融けてしまった人間を取り戻したいの。死者をコントロールできるあんたならなんか知ってんじゃないの?」


 門の魔王は頬杖をついたまま。物憂げな微笑みのまま。小説上の設定を崩すことなく小説環境外の存在であるチトセを見つめていた。


「俺の仕事は死の門を開けることだ。門を閉ざすのは鍵の勇者の能力。二人で対となって生と死が完成する。俺一人じゃ、死を完結させることもできないさ。おまえは死を望むのか? それとも死からの解放か?」


 たっぷり数秒間、門の魔王の言葉を噛み締めて、チトセは謁見の間の高い天井を仰いだ。そこには、門は決して閉ざされることはない、とついさっきチトセが書き込んだ言葉が刻まれていた。


「そう。知らないか。この小説はハズレね」


 わざとらしくチトセは肩を落として見せた。やはり、そう簡単にイレギュラーと遭遇できるわけはないか。この様子では鍵の勇者が会話に参加したところでチトセの望む言葉は期待できそうにない。


「ごめん、邪魔したね。私、帰る」


「そうか。短い会話だったが楽しかったよ」


「その前に、あんたに一つ能力を授けてあげるよ。この小説がもっと面白くなるようにね」


 小説からログアウトする前に、また一つ、コトバ使いのタブーを侵しておく。


 小説のストーリーに矛盾を組み込むこと。改変された小説世界は自己完結せずに閉じられたメビウスの輪が展開してしまう。たった一言で小説をがらりと変えてしまうコトバ使い。チトセは悪意あるコトバ使い、トラブラーなのだ。


「一度開いた門を閉じられなくする魔法。鍵の勇者でも閉じられないよ。どう? ストーリーに緊張感が溢れて深みが増すでしょ」


 チトセは魔王の玉座に接近し、そうっと彼のツノに触れた。それは想像していたよりも温かくて、表面は固めたフェルト生地のように柔らかかった。


 言の葉を書き込む。


 門を閉ざす権限は魔王が倒されるまで魔王の手にある。


 門の魔王はようやく頬杖を解いた。


「おまえが何をしたところで世界は変わらないよ」


「変化は後から懐かしむものなの。その時は気付かないし、気付けない」


 小説の登場人物はその世界にいる限り小説環境の変化に気付けない。三次元世界にいる人間が多次元神の仕業を理解できないように。世界の変化を知れるのはイレギュラーキャラクターだけだ。


「あれ? ちょっと待って」


 いや、いる。いた。小説世界が変わってしまったのに気付いたキャラクターがいた。チトセは思い出した。


「ごめん。鍵の勇者とのバトルを見物したいとこだけど、もう行くね」


 魔王が反応するよりも早く、チトセは目次を呼び出し、速攻でスキップした。目的のページはすぐ前だ。そこにイレギュラーがいる。


 チトセの姿が消えた謁見の間にて、門の魔王は何事もなかったかのように再び頬杖をついた。

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