言の葉に木漏れて
鳥辺野九
安っぽい台詞ね。嫌いじゃないけどさ。
まず、降りしきる言の葉を払わないと。
しんしんと舞い降る言の葉はやたら自己主張が強く、いちいち意味を求めて目線がさまよってしまう。光景が目にうるさい。
小説の情景描写に意味なんて求めるものじゃない。単なる飾り言葉だ。それは単一の意味しか纏えない記号に等しい。チトセは肩に薄く降り積もった文字を鬱陶しそうに掌で払った。
はらはらと、木の葉が舞うように裏表に回転しながら落ちる言の葉の群れを目で追う。『赤々とした群雲』と読める文字列がひらり裏返り、音もなく地に落ちて持ち合わせてた意味を失った。
過剰に装飾された言の葉たちは己の意味を主張し、呼び合い、ざわめき合う。言の葉のざわざわと蠢く様子は見ているだけで鬱陶しい。文字通り目に余る。チトセは忌々しく思った。
相変わらずチトセの頭に降り注ぐ文字列群。赤々とした群雲。赤い空。紅い雲。朱い風。赫い空気。緋い大地。煌々と瞬く眩しいほどの赤は黒々とした影を纏って、時に神々しく、そして時に凶々しく、チトセの華奢な身体を包み込む。
「ああ、もう、うっざい」
舞い散るすべての文字列にいちいち目を通してなんていられない。飾り付けが過ぎるクリスマスツリーみたいに人を不穏にざわつかせる。何事もシンプルが一番。チトセはコトバ使いの第二のタブーを早々に破ることにした。
「赤々とした群雲はついえて」
ここは夕刻の谷。静かな滅びが待つだけの禍々しい世界。斜めに雲を穿つ太陽光が赤く峡谷を染め尽くす常に夕闇の地。魔王が住まう峡谷は甚だしく赤いという小説のワンシーン。
「青々と」
小説の世界観を根こそぎ書き換える。それもシーンの連続性が崩壊するレベルで。コトバ使いにとって最も重いタブーの一つだ。
小説の世界観はいわばワールドの土台。その根底に作者以外の思考を書き加えることは、文字通りワールドをひっくり返しかねない無謀な行為だ。それでもコトバ使いはタブーを侵す。居心地のいい世界観を身勝手に創り出すために。
チトセがダイブした小説は揺らぎ始めた。赤々とした群雲が波打つように震える。もうすぐ夕刻の時間は過ぎ去るだろう。
「覆い尽くそうと、それでも緑色は芽吹く」
チトセはオーケストラの指揮者のように細腕を振るって、遠慮なく容赦なくワールドに文章を書き加えた。
赤々とした群雲はついえて。青々と。覆い尽くそうと、それでも緑色は芽吹く。
書き終えた瞬間にはすでにチトセを取り巻くシーンはがらりと様相を変えていた。赤く染まった世界を覆う幕を乱暴にめくり上げるように、チトセの描写通りに青く茂る草原がどこまでも広がっている。
夕刻の谷と呼ばれた滅びゆく赤い世界観は生命の息吹が眩しく感じられる青い平原に変化した。
「やっぱりラストステージは爽やかに限るわ」
門の魔王が根城にする要塞は未だ健在だ。チトセは門要塞のその造形は気に入っていた。だからあえて残しておく。
夕闇がどろどろと流れ込む峡谷。その聳え立つ両岸に人工建造物が突き刺さり、魔王の要塞はまさしく巨大で堅牢な門戸と化していた。門のあちら側は夕刻のまま、赤々として禍々しい群雲が渦巻いている。しかしこちら側は爽快そのものだった。
まるっきりシーンが変わる。小説としてもはやストーリー上の連続性なんて見つけられない。青く柔らかい草原は涼しげな風を運び、ふかふかな太陽光の暖かさを含んでいる。先程までの陰鬱な夜を間近に迎えた夕刻の雰囲気など吹き飛んでいた。
そんな夕暮れを振り払う爽やかなシーンに、キャスケット帽から銀髪をストレートに流したコトバ使いの少女が、夕刻の谷に一人立ちはだかる。
そんな改変されたワンシーンに小説本来の登場人物がようやく現れた。
「女、いったい何をした?」
予定通りのシーンに既定通りに登場し、そして変わってしまった背景に戸惑いつつ大音声を張り上げる。
「つまんない台詞吐かないで」
華奢な背中を向けたままチトセが返す。
「何者だ? ここを夕刻の谷と知って立ち入ったか」
鮮やかな緑色に埋もれながら峡谷の門番が刺々しい鎧兜の姿を見せつけて、チトセの背中に真っ黒く巨大なハンマーを向ける。
「峡谷の要塞に行くと言うのなら、この俺を倒してからにするんだな。この重力の門番を!」
「安っぽい台詞ね。嫌いじゃないけどさ」
チトセはくすりと笑って見せて、レザーのスカートから伸びるボーダーのタイツに包まれた細い脚で一歩踏み込んだ。
「俺こそが、この世界で最も重い金属を操る重力の門番、スレッジ・ウォーダン!」
世界で一番重い金属とやらを操るスレッジ・ウォーダンが巨大ハンマーを大上段に振り上げて、そのハンマーよりも小さくて軽そうなチトセに渾身の一撃を落とした。
余裕の笑みを浮かべて、チトセはさらにもう一歩。
夕刻の谷。峡谷の要塞。重力の門番。門の魔王。それっぽい名称をそれっぽく並べ立てた世界が舞台のダークファンタジー小説。文字列が鬱陶しいほど演出過剰なくせに、薄っぺらいハリボテのような世界観のウェブ小説。コトバ使いのチトセにとってこれはもう大好物だ。
その小説の世界に潜り込んで自由に物語を体験する。それが小説専門のハッカー、コトバ使いだ。
コトバ使いには二種類のタイプがいる。
一つは旅人、トラベラー。電脳空間に構築された小説世界に没入し、純粋に物語を堪能する。少しは表現や描写を自分好みの言葉に書き換えたりもするが、基本的に作者の主張はリスペクトし、物語を追体験する。
もう一つのタイプは問題児、トラブラー。
時にその内容を自在に編集し、時にその結末を奔放に改竄する。小説の作者にのみ許された物語をいじる特権を奪い取る悪意あるコトバ使い。
トラブラーであるチトセは言わば物語の天敵だ。小説の重要なシーンにおいて、構成要素の一つである重力の門番を物語の意に沿わず、力でねじ伏せてしまう。
振り落とされる世界で最も重量のある巨大ハンマー。大質量で空間を押し潰してチトセのキャスケット帽に迫る。
「そもそもさ」
コトバ使いは言葉を書き加えた。小説のスピーディーな展開を越える速度で。
それはまるで、か弱い羽毛のようで。
「世界で一番重い金属ってなんか曖昧過ぎ」
最重量巨大ハンマーは一枚の鳥の羽根のごとくに空気のような軽さに置き換わった。途端に轟音の勢いを失い、ぴたり、チトセは細腕でいともたやすく受け止めた。
「最も密度が高い金属はイリジウムだよ」
スレッジが馬の胴回りもありそうな剛腕を振おうともがくが、キーボードを叩くのがお似合いのチトセの白く細い指に絡め取られてぴくとも動けない。
「でもレアメタル鉱のハンマーだなんてダークファンタジーには不向きな単語ね」
「もう一度言おう。女、いったい何をした?」
重力の門番は刺々しい鎧兜をガチガチと震わせて言った。チトセはくいと小首を傾げて、スレッジを見上げ、コトバ使いとして彼にかけてやる最後の台詞を吐き捨てた。
「言葉使いに気を付けなさい」
コトバ使いの第一のタブーは小説の登場キャラクターを消滅させること。チトセはたった一言でコトバ使い最大のタブーを侵す。
「あんたのキャラ、なんかうざい」
チトセの声が合図となり、ハンマーの大質量が逆流したかのようにスレッジの両腕に最重量の負荷がかかった。枯れ枝がへし折れるような軽い音を弾けさせて、あり得ない方向にねじ曲がる重力の門番の両腕。
「王道な展開も悪くはないけど」
へし折れたのは両腕だけではなかった。スレッジの巨体がそのまま折り畳まれるように小さく崩れ落ち、重力の門番は声を上げる間もなく真っ二つに畳まれてしまった。もう既定の台詞を喋ることすらできない。
「用があるのは次の章で登場する魔王様なの」
あっさりとコトバ使いの第一のタブーを侵したチトセ。緑あふれる地面にめり込んだ重力の門番の無残な姿を尻目に、次章へと進んだ。
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