北の国のおんな

@umiyama3kawa

第1話

北の国のおんな 


登場人物

ニールス 漁師 マリオンの夫 炭鉱夫になるためイングランドへ行く

マリオン ニールスの妻 四十歳 男勝り、食欲、性欲ともに旺盛で自己主張が強い女

ペター  漁師 ニールスと共にイングランドへ行く

クルト  漁師 ペターの長男 イングランドへ同行

ユノラフ 漁師 ぺターの次男 イングランドへ同行

キルステン ペターの妻 五十一歳

アルフ  漁師 イングランドへ同行

シセル  アルフの妻 長身の美人、三十八歳、知性的だが、性には貪欲

ロアール 村の長老格 五十八歳

フルダ  未亡人 四十五歳 ロアールの世話を受ける

レネ   未婚 三十一歳 ロアールの世話を受ける

マグヌス 漁師 ヤスヒロという日本人を弟子にする

ヤスヒロ マグヌスの息子の友達、二十六歳 マグヌスに弟子入りする


「なあ、マリオン、俺、来月からイングランドへ行く事にしたからな」

「えっ、また何で?」

「ペターのやつがイングランドの炭鉱へ行けばいい金になると言ってたから、俺も二~三年、一緒に付き合うことにしたんだ」

「そんなに長く?」

「じゃぁその間あたしはどうしたらいいんだよ。三年も男無しで暮らせって言うのかね」

「そうか?なら俺と一緒に来るか」

「やだよ。みんなと別れたくはないよ」

 ・・・・・・・・・・・

ニールスと妻マリオンの住む村は北ヨーロッパA国の最北端からほど近い、二十八所帯五十人ほどが住むスカーシヴァグという小さな漁村だ。漁業の他にこれと言って産業は無い。冬には海が凍結するので漁の出来るのも四月から十一月までの七~八か月間だけだ。冬の間、若い者はオスロやロンドン辺りまで職を求めて出稼ぎに行くが、仕事にありつけるかどうか行って見ないと分からない。四十歳過ぎる頃になると誰もそんなところへは行かず、冬の間は村に閉じこもってポーカーなどして退屈をしのいでいた。

「なら、村の男のうち誰かに抱いてもらえよ。俺はかまわんから」

「誰に頼めっていうのよ。誰も自分の旦那をあたしんとこへなんか、回してくれないわよ」

「ロアール爺さんはどうだ」

「やだよ、あんな爺さん、もう六十んなるわよ。だいいち、火曜日にはフルダのとこへ行ってるし、金曜日はレネのところだよ」

ロアールは五十八歳、村では長老格の男だ、十年ほど前に女房を亡くし、一人暮らしをしていた。フルダというのは四十五歳だが、二年前に旦那と一人息子を海で亡くして以来ロアールが面倒を見ていた。そしてレネは痩せてギスギスしていたので三十歳を過ぎても男が出来ず、これもロアールが世話をしていた。小さな村で、白夜のため夏は夜も明るいので誰と誰の仲がよいのか村の人全員が知っていた。

「そうか、わかった。俺がだれかいいやつ見つけてきてやるから待ってろ」

男たちは毎週土曜日の夜には集まってポーカーをする。村の決め事も大体そういう場で決まることが多い。

イングランドへ行くのはニールスとペターのほかクルト、ユノラフ、アルフであった。クルトとユノラフはペターの息子、アルフはニールスと同じく妻シセルを置いて行くので彼女のことも考えてやらねばならない。

 二

二十八所帯のうち漁に出るのは十九所帯、あとはロアールのように年老いて働けなくなった男や、旦那を亡くした女所帯だった。漁の成果は船に乗れなくなった家にも一定の分け前が貰える。

漁で傷んだ網の手入れは女たちの仕事だ。網に入った獲物を狙ってサメが食い破るので網の手入れはしょっちゅうしなければならない。網の手入れが女たちの仕事場であり、集会の場でもあった。そのほか、年老いて寝たきりになった老人の世話もまた、交代で女たちがしていた。

十九所帯のうち三所帯、五人の働き手の男たちがイングランドへ行ってしまうので、女たちはその後の心配をしていた。

マリオンが言った。

「ねえ、あんたたち、旦那が行っちまったら魚は少なくなるし、夜はひとりで寝ないと駄目だし、あたいらはどうなるんだよ」

と言っても誰も自分の旦那を貸そうとは言ってくれない。みんな

「こまったねえ」というばかりだ。気休めかも知れないが、

「土曜日の夜には男たちが集まるし、なんか考えてくれるんでねえかの」

というペターの妻キルステンの話で、その場を収めるしかなかった。

一方、土曜日の夜集まった男たちの席でも、ポーカーには手が付かず、五人の男たちが去った後の女たち、とくにマリオンやアルフの妻シセルなどは女ざかりでもあり、誰か男を当てがってやらねばならないのではないかという話になったが、イングランドへ行かない男たちも、本人を前にしては、自分がその男の妻の相手をしてやろうなどとは言えなかった。だいいち、そんなことをすれば、自分が女房からとっちめられることになる。

女房のいないロアールが

「俺はいいが、すでに二人の面倒を見てるし、こんな爺さんではマリオンもシセルも嫌がるだろうしな」

と言ったが誰も否定も肯定も出来ない。しかし、そのときクルトが、

「マリオンにはマグヌスのところにいるヤスヒロはどうかね」

というと、みんなはハッとなった。ヤスヒロというのはマグヌス宅にいる日本人だ。彼は、マグヌスの息子がロンドンの大学に行っていた時に友達になった学生だが、卒業後息子がロンドンで就職してしまった後に入れ違いにやって来て、漁を手伝わせてくれと言って、住み込んで働いているのであった。

「ヤスヒロ? アッ、あの中国人か?」

「いや、やつは日本人だ。そうか、彼がどういうか分からないが、俺が話してみるか」「ニールス、お前はどう思う?」

「うん、マリオンさえよければ俺はかまわない」

という事になって、マグヌスが聞いてみる事になった。しかしまだキルステンとシセルの相手がいない。キルステンはクルトとユノラフの母である。年も五十を回ったところなので、もう男無しではいられないという歳でもなかろう、だが、シセルについては本人の希望を聞いてから対応することになった。

マグヌスからの突然の話にヤスヒロはびっくりした。

性にはおおらかな村だとは聞いていたが、こんな形で女を世話してくれることになるとは思ってもいなかった。マリオンは四十歳という、彼より十四歳も年上だが、色白の豊満な女で、自分がその女を抱くことになろうとは夢にも思わなかった。しかも旦那のニールスも承知だという。

スカーシヴァグという村は確かに性には開放的だが、道徳的に乱れているという訳ではない。夫に黙って妻が他の男と寝たり、妻の了解を得ずに夫が他の女、特に人妻と寝たりする事は無い。だが、何年も家を空ける男が、留守中の妻の世話を誰かに頼むことは、むしろその男の責任のようなものであった。

翌週、ニールスがイングランドへ向かう前の最後の土曜日、ポーカーへ出かけた後の九時ごろ、ヤスヒロはそっとニールスの家のドアをノックした。鍵はかかっていない。スカーシヴァグの村には鍵の取り付けられた家は一軒もない。百年ほど前に、村に人が住み始めた時から、泥棒に入られたという話は聞いたことがないそうだ。

ドアを開けて「こんばんは」と、そっと声をかけた。

「いらっしゃい。こっちよ」と。奥の灯りの付いた部屋から返事があった。

部屋に入ると、女はすでにベッドに入っている。

「そこで服を脱いで、ソファーにかけてこっちへいらっしゃいな」

ヤスヒロには女の経験が無いわけではない。日本にも、ロンドンにも彼女はいた。だが、こんな豊満な肉体を持った、しかも十四歳も年上の女は初めてだ。

服を脱いだ。来る前にシャワーを浴びて下着も着替えてきた。

「早くパンツも脱いで、こっちへいらっしゃい」

もじもじ、どきどきしながらパンツを脱ぐと、もう彼女に見られているというだけで、前がいきり立ってきた。すぐに布団をまくると、一糸まとわぬ白い豊満な肉体がこれ見よとばかりに横たわっていた。

電気を消しても外は白夜だ。カーテンは閉まっているが部屋の中は明るい。外から覗かれはしないかと心配したが、彼女は全く気にした様子はない。

《そうか、この村には人の部屋を覗くような趣味の悪い者はいないのか》

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

余りにもあけっぴろげなマリオンにヤスヒロは驚いていた。

《そうか、こんなにおおらかな、堂々とセックスをする女がいるとは、これもバイキングの子孫だからなのか・・・・・》

マリオンはすっかり満足した。日本人か中国人か知らないが男と女のすることはみんな一緒だ。十分に自分を満足させてくれた。ニールスも若いときは元気だったのに、今はいつも一回戦で終わりだ。ヤッスヒラ?いや、ヤッスヒレだったか、どっちでもいいが、何度でもオッケイだった。いろいろと体位も変え、久しぶりに、二人とも汗だくになって堪能した。ヤッスの帰った後シャワーを浴びて火照った体を洗い流したらさっぱりした。

マリオンは食欲も性欲も旺盛な自己主張の強い女だ。ニールスが漁に行ったあと、自分が留守を守って子育てをし、台所仕事もして、漁網の修理もしてきた。夫よりも自分の方がよく働いてきたつもりだ。

ニールスが長い間留守にするなら、その間、少なくとも男だけは不自由のないようにしてくれるのは当然だ≫

だから、ヤッスを手配してくれて満足だった。さすがニールスは、ちゃんと自分のことを分かってくれている。

明後日はイングランドに向けて出発する日だ。

《明日の晩は寝かせるものか。朝まで攻めて攻めて、攻めまくってやるから覚悟しろ》≫

その夜十二時を過ぎて帰って来たニールスはマリオンがぐっすり眠っているのを見て安心した。ちょっぴり、やきもちの気持ちもあるが、マリオンが喜んでいるならそれで良い。どうやらこれで安心して旅に出られる。自分は自分で、イングランドで女に出会えるだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・

家に帰ってから、ヤスヒロは改めて今日あった事を思い返していた。

事が終わった後、マリオンは言った。

「来週から、週二回は必ず来るのよ。メシは用意しておくから準備運動をして七時には家に入るように。十一時までには返してやるから」

「何曜日にするかは身体の都合もあるのでその週によって変わるけど、来週は金曜日でいいな」

まるでスポーツの練習の日でも決めるように約束させられた。

《《なんという女だ。自分が女を征服したと思っていたのに、ただ、性処理の道具として利用されただけだ。女の主導で何度も体位を変え、これでもか、これでもかと、貪りつくされた。日本から流れてきたニュースでは、オリンピックの森会長が性差別発言で会長を辞退させられたとか、ここでは性差別どころでなく、逆差別といってもいいくらいだ。こんな女もいることを知ったらどう思うだろうか》≫

枕元にはコンドームの大箱が鎮座していた。

ここはヨーロッパ最北端の僻地の村だ。こんな村に、こんな野獣のような女がいたとは。

翌々日の月曜日、ヤスヒロが港で出港の準備をしているとポンと肩を叩かれた。ニールスだった。

「よぉ、マリオンをよろしくな」

とだけ言って離れていった。何があったのか誰もが承知していた筈だが誰も何も言わない。いつもと同じの慌ただしい出漁風景だった。まもなく漁のシーズンも終わりになる。

・・・・・・・・・・・・・・

スカーシヴァグの村にはいつも二百キロほど離れたソルタという町から仲買業者が魚の買い付けに来ていた。ソルタは人口一万七千人ほどで、この付近では一番大きな町だ。オスロと結ぶ空港もあり、警察や病院やスーパーマーケットもあり、中学と高校もある、ひととおりの都市機能を備えた町だ。中学生になるマリオンの息子もこの町で寄宿舎生活をしている。

ヤスヒロはソルタからの買い付け業者が来るたびに思っていた。業者の来るのを待つだけの商売では相手に言い値で叩かれるばかりでさっぱりうま味が無い。こちらから出向いて行って商売をする方が利益も大きく膨らむ筈ではないだろうか?

そこでマグヌスに提案した。

「おやじさん。一度、ソルタまで売りに行ってはどうだろうか」

ソルタまで車で三時間、雪の積もった今ならトナカイの橇で四~五時間かかるかもしれないが、朝早く出れば日帰りで帰って来られる距離だ。

マグヌスはウーンと言ってその時は即答を避けたが、その週のポーカーの席で仲間に提案していた。

「そうだな、若いもんの意見も聞いた方がいいかも知れんな」

という意見もあって、今年最後の漁の終わった後に橇三台に積めるだけ積んで行って見る事になった。雪の積もった今なら冷蔵設備も必要無い。

今日が最後だとすると明日がソルタへ行く日である。

昼過ぎに風が出てきた。沖合には黒い雲が見えるので一斉に網を上げて引き返してきた。その日の夜から時化の予想となり、船が出せないと分かったので、港についてすぐ、翌日のソルタ行きが決まった。

その日漁に出た九隻の船の荷を三台の橇に積んで翌朝五時に出発することになった。積み込めなかった残りは女たちが各戸に分配する。その指揮をとるのはマリオンとキルステンだ。

ヤスヒロはこの村での自分の役割が次第に大きくなってきたことを感じていた。明日のソルタ行きにはもちろん、ヤスヒロも同行する。日本の実家は八百屋をやっていたので商売の経験も少しはある。漁師よりは駆け引きにも慣れている。

スカーシヴァグと比べるとソルタは大都会だった。男たちがこの町へ来るのは年に一~二回、中には五年ぶりという者もいた。しばらく見ないうちにマックやスタバの店も出来ていた。

初めてなので、どこへ売り込みに行ったらいいのか分からなかった。市場ではもう、競りは終わっている時間だ。だいいち、よそ者の自分たちがいきなり行っても競りに参加出来るかどうか分からない。とりあえずヤスヒロの提案でレストランやスーパーマーケットなど手当たり次第に当たってみることにした。値段は今まで買い付けに来ていた業者の付け値の二、五倍ぐらいと思っていたのだが、レストランへ行ったら

「えっ、そんなに安いのか?それはありがたい。ではこの鯖を十匹とこの鰤を五匹、それから・・・・」

男たちは拍子抜けしていた。鯖だけでも五百匹はある。十匹や二十匹ずつ売っていたのではいつまで経っても捌ききれない。

 それはそうだ。一軒のレストランでそんなに捌けるわけはない≫

と、だんだん状況が分かって来た。量は少ないが値段はもう少し高くてもいいのではないか、そして多くの店へ回るため、昼からは地域別に分けて三台別々に行こうかと、昼食に入ったマックの店で決めた。ヤスヒロとマグヌスはスーパーマーケットへ売り込みに行く事にした。値段は少し安くしてでも量を捌かなければならない。

そうして入った最初のスーパーでは、これまで行ったレストランでの売り上げの十倍ぐらいの注文があった。鯖だけでも百匹。夕方にこれを店頭の特設台に並べて売るそうだ。あと、まだ少し売れ残っていたが、

≪確か少し小さいスーパーが帰り道にあったはずだ。そして八百屋さんでも扱ってくれるかもしれない≫

と思って数軒回って三時にはほぼ売り切れたので、待ち合わせ場所に決めたスタバの店に入った。

四時には全部の橇が集結した。総売り上げは十五万クローネあまりとなった。日本円で約二百万円、上々の売上げだった。いままでの買い付けに来た業者だったら五万クローネにもなったかどうかだ。帰ってからこれをどう分配するかはロアール爺さんの役目だ。ニールス、ペター、マグヌスなど、船主の配当は一万二千クローネ以上になるかも知れない。現金収入の少ない村の人たちにとっては一日でこれだけの売上げになったのは有難かった。

スカーシヴァグの長い冬がやって来た。海が凍り付くまで、天気の良い日は漁に出られる。だがそれもあとしばらくだけだ。

男たちは何もすることがない。若いものの中にはオスロ辺りまで出稼ぎに行くものもいるがほとんどの男たちは暇を持て余していた。今年は五人がイングランドへ行ってしまったからポーカーの仲間も十二人だけになった。マグヌスは時々参加するがヤスヒロはめったに顔を出さない。

毎週土曜日、集まるのはポーカーのためだけではない。いろいろなことが話題になる。大体は女の話か、漁のことや商売の話だ。

ソルタへの最初の出張販売は大成功だった。来年はもっと回数を増やそう。そして売値は自分たちで決めるべきだ。買い付けに来る業者の言いなりにはならないでおこう、などという事が話し合われた。

ヤスヒロのおかげで魚も高く売れるようになったし、マリオンも喜んでいる。スカーシヴァグにとって、来年はいい年になりそうだ。

「ところでマリオンは喜んでいるがシセルはどうなっているのだ。男は決まらないのか」

と誰かが聞いた。

シセルはまだ三十八歳だ。男無しではいられないだろう。だが、ここに集まった男たちはみんな女房に尻尾を握られている。シセルから求められれば亭主を貸し出してもよいという女もいるかもしれない。だがシセルからはそんなことは言いださないだろう。

男たちにはどうすることも出来なかった。

暇なのは女たちも同様だった。網の手入れも終わってしまった。あとは時々食べ物を持ち寄っておしゃべりをするぐらいだ。

マリオンが聞いた。

「シセル、あんた、男はどうするのかね? 好きな男は誰なんだ」

シセルは答えられない。自分からそんなことは言えない。女ならそれが普通だ。

しびれを切らしたマリオンが言った。

「しょうがないな。ヤスヒロを貸してやろうか?奴ならだれも文句は言わないだろう」

という事で週一回はヤスヒロに、シセルのところへ通わせることにした。

こうして、ヤスヒロ自身も知らないうちにシセルの愛人にさせられていた。

種馬じゃぁあるまいし・・・・と思ったがシセルもいい女だ。背が高く、すらっとした美人で、マリオンのように開けっ広げではなく知的な雰囲気の女だった。週一回だけなら体の方も何とか耐えられそうだ。

シセルにも男が必要だとはわかっていたが、自分にその役目が回ってくるとは思っていなかった。もし自分が行くとしてもマグヌスか誰か、男から言われるのなら解るが、こんなことをマリオンから、しかも命令調で言われるとは意外だった。

トントンと扉をたたくと普段と同じ顔つきで玄関まで出てきた。これからセックスをしようという雰囲気ではない。

台所に行くとソーセージやチーズの盛り合わせを始め、精の付きそうな料理が並んでいた。マリオンのところと一緒だ。マリオンに聞いたのか、酒の強くないヤスヒロのために赤ワインが一杯だけ用意してあった。

食事が終わるとシャワーを浴びてきたら? といわれてベッドルームに入ったら、バスタブが置いてあった。

この村に来てからはどこへ行ってもシャワーだけで、バスタブに浸かったことはない。

「バスタブを使ってもいいだろうか」

と聞くと

「どうぞ」

といったので蛇口を緩めると猛烈な勢いでお湯が出てきた。服を脱ぐ暇もないほど早く、お湯が満たされてしまったので一旦閉めてから服を脱いで、久しぶりにゆっくり浸かることが出来た。日本人はやっぱり風呂がいい。

それからのシセルは、やはり北の国の女だった。台所を片付けて部屋に入ると一瞬にしてメスの獣に変身した。風呂から出てきたヤスヒロを捕まえると、あとはマリオンと一緒、いや、マリオン以上に男に飢えていたのでガツガツと攻めてきた。

マリオンだけが特別ではなかったようだ。この村の女はこれが普通のようだった。やはり、セックスはスポーツの一種と考えているようだ。長い、暗い、寒い冬を乗り切るためにはこういうことが必要なのだという事をヤスヒロも少しずつ理解して来た。

ひととおりの儀式が終わるとシセルが聞いてきた。

「わたしどう?あんたからは変態に見える?」

やはり、日本人からはどう見られているのかを気にしているようだった。

「いや、すごくよかったよ」

それ以上、適当な言葉が見当たらなかったが、それだけでシセルは安心した様子だった。

村の広報誌にソルタの町の広告が載っている。その中にクリスマスまでの約二十日間だけの、雑貨屋のアルバイトの募集広告があった。住み込み食事付きで日当が八百クローネ、仕事はクリスマスツリーの飾り付け用品の販売だった。

ソルタの町の情報が得られると思ったのでマリオンとシセルに話して、そこへ行く事に決めた。春になって魚の売り込みに行くためにはソルタの町の情報を掴んでおくことが必要だと説いたら条件付きでしぶしぶ同意してくれたのである。

その条件とは、週に一回は帰って来ること、そしてマリオンとは二回、シセルとは一回寝ること、だった。

クリスマスまでの間、店はかきいれ時だ。定休日は無い。だがアルバイトは土日以外なら週一回だけ休めることになっていた。そこで、毎週火曜日に、七時の閉店と同時に橇に乗り十二時頃にマリオン宅に着いて一回目のセックス、翌日昼頃まで休んでからシセル宅に行き、セックスのあと夕方までを過ごす。そしてまたマリオン宅に戻り、二回目の義務を果たした後、仮眠をとって夜中の三時前に出発して八時の開店までには店に戻る、という強行軍だった。強い風が吹き、すごく冷え込む日もあったが、トナカイは平気で、到着が遅れることは無かった。

セックスというのも、楽しんでするのはいいが、二十七時間で三回の義務となるとさすがに疲れる。しかし、三週間だけの辛抱だ。帰るたびに二人へのお土産も忘れなかった。どうにかクリスマスイヴの日まで乗り切れそうだ。

ソルタの教会に最近赴任してきた牧師の奥さんがこの町ただ一人の日本人だと知った。春子というその人もヤスヒロの事を聞いて、教会のクリスマスツリーの飾りつけを買いに来た。久しぶりに、お互い日本語での会話を楽しむことが出来た。

春になったら魚の訪問販売にやってくるので宣伝をよろしくという事と、売り込み先について、どこかいいところがあったら紹介してくださいと頼んでおいた。こうして少しずつソルタでの知り合いを増やしておくことが春からの商売に大きく役立つはずだ。

世界中にコロナが広がっている。A国も例外ではない。しかしスカーシヴァグもソルタも感染者は出ていない。ソルタの町長は徹底した感染防止策を取っていた。空港へ到着する客全員の滞在先を把握して、二週間は、毎日、健康状態を報告させていた。

年が変わった。ソルタでのアルバイトが終わり。再び、静かな長い冬の日々が続いていた。

週三回はマリオンとシセルのところへ通う事がヤスヒロの大切な仕事だと、村の人全員が理解していた。マグヌス宅には二人の女の子がいて、生徒数たった三人だけの村の分校に通っていた。その女の子たちでさえ、今日はマリオンの日、今日はシセルの日と、ヤスヒロが出かけていくのを知っていた。たぶん、何をしに行くかも、そしてそれが大切な仕事であるということも知っているのであろう。

男たちは相変わらず土曜の夜だけ集まって、ポーカーに興じていた。女たちは週に一度か二度、おしゃべりを楽しむために集まっていた。

イングランドへ行った男たちはすっかり仕事にも慣れて張り切って働いているという便りがあった。しかし炭鉱には、ときたま、といっても数十年に一度ぐらいだが、落盤事故もある。無事に勤めを終え、早く帰って来るのをみんな祈っていた。ヤスヒロと寝ていてもそれは夫への裏切りではなく、マリオンもシセルも、夫への愛が揺らぐことは無かった。

・・・・・・・・・・・・・・・

ヤスヒロは時々ソルタへ行って町を歩き回ったり春子の教会を訪ねたりしていた。春からの本格的な出張販売を成功させるためには、町の情報をしっかり把握しておくことが必要だと思ったからである。

彼には漠然とした計画があった。それは一日も早くスカーシヴァグの村を豊かにして、イングランドまで出稼ぎに行かなくても、男たちが村で暮らせるようにしようという事であった。彼らは、何も好んで、辛い危険な仕事を選んだのではない。一年のうち半年近くが凍り付くこの村では十分な稼ぎが得られないからであった。留守の間、自分の女房の相手を他人に任せるというのも、もちろん苦しい決断であったはずだ。

昨年秋に初めて三台の橇を連ねてソルタへ出張販売に行ったのは大成功だった。しかしそれが今後も続くかどうかは分からなかった。これまで村へ買い付けに来ていた業者は当然、対抗策を考えるだろう。ソルタの町の人もよそ者に対する警戒心を強めるかもしれない。そういう中にあっても何とかこの仕事を定着させなければならないと思っていた。

十一

昨年は橇を使ったが、雪が解けたら車で行かなければならない。それも冷蔵車が必要だ。買うとなれば、積載量四トンの車で一台五十万クローネぐらいはする筈だ。

とりあえず冷蔵車はレンタカー会社で借りなければならないので、春子の旦那である神父さんに紹介してもらった会社で交渉して見た。

借りるのはまだ大分先の話だ。四月中旬ぐらいからだと分かると、なかなか相手は乗って来ない。のらりくらりと逃げようとしたがヤスヒロが詰め寄って催促したら一日一万クローネでどうかと言われた。無茶だ。それでは利益の大半は消えてしまう。

三日後、ロアール爺さんも連れて行って交渉を続けた。一週間で四万クローネと言ったが、まだ高い。交渉を重ねて、一か月八万クローネで決着した。先払いと言われたが、そんな金は無い。手付金として四月初めに三万、あとは漁が始まってから二万五千、次の週に残り二万五千と決めた。

その三万クローネでさえ村には無い。男たちを集めてひとり五千とか、三千とか出して貰う約束が出来たので翌日また行って、ロアールの名義で契約書にサインしてきた。

ヤスヒロとしては、その一か月の間は分配金を少なくしてでも資金を貯めて、何とか新車購入のメドを付けたいところだった。

そうこうしているうちに四月になった。ヤスヒロは男たちから資金を集めるとロアールと共にソルタのレンタカー会社を訪ねた。資金は二万三千クローネほどにしかならなかったので、ヤスヒロもなけなしの貯金をはたいて残り七千クローネを出した。

氷が解け始めた。様子を見るため十日には試験的に船を出した。大丈夫だろうという事になって十二日に一斉に女たちに見送られて出港して行った。ヤスヒロもマグヌスの船に乗って久しぶりの漁を楽しんだ。十五日には車を取りに行かなければならないが、ヤスヒロが船を降りられないので、ロアールにはマリオンとフルダが同行することになった。フルダというのはロアールが面倒を見ている後家の女だ。

ソルタの町ではいずれ販売拠点を設けて商売をするつもりだ。そういう時には女たちに頑張ってもらわなくてはならない。だから今のうちに少しずつ慣れておいてもらった方がいい。いつも漁は男だけの仕事で、漁網の修理をさせられるだけだったマリオンは張り切って出かけて行った。

十二

本格的に漁が始まった。十五日に車を取りに行くと、翌日の十六日には早速、前日水揚げした魚を満載にして夜明け前に出発した。初めはヤスヒロが前もって根回しをして見込みがあると思ったレストランとスーパー数軒を回った。その次は昨年十一月に初めて訪問したレストランに行き、最後に町一番の大きなスーパーで残った全量を買い取ってもらった。値段は大幅に下げたが、売れ残って腐らせてしまうよりはいい。

スカーシヴァグの住民は男も女も魚には詳しいが商売には全くの素人ばかりだ。ヤスヒロは子供の時から店が遊び場のようなものだったので、知らぬ間に商売の感覚が身についていた。売れないと分かったら数を買って貰う条件で値下げをしたり、サバを十匹買った人には売れにくいタラをオマケにするなどして売れ残らないように考えて売り捌いた。女たちにはレストランで店の主人に魚の捌き方を教えるように言ったら、喜ばれて、新メニューに加えようかと言って買ってくれた店もある。

漁は順調な時も不漁のときもある。海が時化て出られない時もある。水揚げが少ないときは無理をして安くしなくても売れ残ることはなかった。訪問販売は一喜一憂しながらも、ほぼ期待通りの成績を上げていた。初めのうちは必ずヤスヒロが同行したが、そのうちロアールと女たちだけに任せることも出来るようになった。

マリオンとシセルとのヤスヒロの関係も以前と変わらず続いていた。外見上は愛人のようだが彼らにとっては、それは一緒にスポーツを楽しむ仲間のような関係だった。

ヤスヒロは言った。

「マリオン、うまくいけば、今年秋ぐらいにはニールスたちに帰って来て貰ってもいいのではないかな」

「えっ、なんで?帰って来るのはまだ二年先だよ」

「いや、旦那さんが君を置いてイングランドまで行ったのは、この村での稼ぎが少ないからだろ。この村で、漁だけで楽に暮らして行けるのなら、わざわざ厳しい炭鉱の仕事などに行かなくてもいいんじゃないかな」

「あんた、あたしが嫌いになったの? そりゃー、あたしはちょっと、しつこいかも知れないけど、あんただって楽しんでるんだろ」

「まぁ、それはそうだが・・・いや、そういう問題ではなくて、今のまま順調に魚が売れれば村全体が豊かになって、出稼ぎになんか行かなくても良くなるんじゃないかという話だよ」

「あっ、そうなんだ」

十三

ヤスヒロは続けた。

「俺も君が好きだよ。でも君はやはりニールスの女房だ。こんな関係は早く終わらせなければいけないだろ。俺は旦那の代用品だよ。君だって早く旦那を取り戻したいだろ。だいいち、旦那だって、向こうではきっと、イギリスの女と寝ているぞ。分かっているだろうけど」

「そうか、でもソルタでの商売はこれから先もうまく行くのかね」

「いや、それはまだ始まったばかりだから分からないが、うまく行けば来月には冷蔵車が一台買えるかもしれない。そうすれば商売もやりやすくなる」

「そしてその次はソルタで直売所を設けたいのだが、それも、どのくらいの資金がいるか分からない。だが、直売所が出来れば店先で魚を捌いて売ることも出来るだろう。そうすれば利益もグンと増える」

「あんた、いいヤツだね。でもニールスやアルフが帰って来たら、あんたはお払い箱だよ。それでもいいのかね?」

「いいも何も、今の状態が、そもそも間違っていると思うんだ。村の経済が良くなって、ニールス達が帰って来たら俺は日本へ帰るよ」

「えっ、今なんて言った?日本へ帰るって?それは駄目だよ。あんたが居なくなったら、寂しいじゃないか」

「でもね、俺がいては目障りだよ。ニールスだってアルフだって、俺の顔なんか見たくないだろうし、俺だって、いまさら毎晩一人で寝るなんてまっぴらだよ」

ヤスヒロには東京に彼女がいた。だが、ロンドンにいた時に、その彼女が彼の親友と結婚したと聞かされた。そこで、そんな二人のいる日本へ帰る気がしなくなって、このスカーシヴァグにやって来たのだった。だが、今はそういう気持ちも消えて、日本で仕事を見つけようという気持ちになっていた。仕事が見つからなければ八百屋の店を手伝ってもいい。

・・・・・・・・・・・・・

そして五月には予定通り冷蔵車を買って、すぐに神父さんの紹介で空き倉庫を借りることも出来た。内装を少し変えて六月には直売所がオープンの予定だ。

このころになると、村として法人格を持たなければならないという事が分かって来た。いまはロアール爺さんの名義で何でも契約しているが、爺さんが死んでしまったら車も直売所も所有者が曖昧なままで、爺さん名義の銀行預金も引き出せなくなる。

十四

次は神父さんに税理士を紹介してもらった。神父と春子には世話になりっぱなしだ。

スカーシヴァグ漁業協同組合という法人を、初めて設立登記をした。今まで無かったのが不思議なくらいである。今までは村全体が大家族のような雰囲気で、みんなで助け合って暮らしてきた。

船はすべて漁師の持ち物なので、獲れた魚は全量漁協が買い上げることになった。そして売上金の中から、マリオンなど販売員の給料やその他諸経費を支払った残りが漁協の収入となる。

六月に直売所が出来て女たち数人が交代で店番をするようになった。皆、魚の扱いには慣れたものばかりなので、店先で捌いておしゃべりをしながら料理法を教えると、面白いほどよく売れた。冷蔵車は荷物を降ろすと帰っていき、スーパーやレストランなどへはその直売所から軽自動車で配達をするようにした。

ヨーロッパの人たちは一般に魚より肉を好む。だがこうして直売所で宣伝すれば、徐々に魚を食べる人も増えて来るであろう。

こうしてヤスヒロの思い描いた販売戦略は少しずつ実を結びつつあった。冷蔵室を作るとか、配送車をもう一台増やすとか、まだまだ、やらなければならないことは色々あったが、もうちょっとでニールス達の帰国の条件が揃うことになりそうだ。

そんなある日、直売所にスーツ姿の男たちが三人やって来た。オスロから来た商社マンである。用件は鯖を大量に買い付けたいという事であった。スカーシヴァグでの鯖の水揚げはせいぜい一日千匹だ。それ以上獲っても捌ききれない。しかし、彼らの希望は将来的には年間五万トンだという。A国は鯖が良く獲れる。日本へも大量に輸出されている。

女たちではとても話にならない。翌日ヤスヒロを呼んで話を聞いてもらうことになった。

電話で話を聞いたヤスヒロはロアールやマグヌスと話し合い、取り敢えず話を聞こうという事になって、その日は漁を休みにして三人でやって来た。

今までの漁獲量は多くて一日千匹、約一トン余りだ。年間五万トンなんて獲れるわけがない。だが、男たちは、最初は五百トンでも千トンでも良い。六百トン積みの冷凍船を港に着けておくから、毎日獲れた分だけそこに詰め込んでくれれば良い。満タンになったらそのまま東京やシンガポールへ直行するという話だった。価格はトン当たり六千クローネ、六百トンなら三百六十万クローネとなる。日本円なら四千七百万円になる。悪くないと一瞬思った。だが、どうやって漁獲量を増やすかだ。マグヌスには咄嗟にはその方法が思い浮かばなかった。

十五

すぐには返事が出来ない。じっくり検討して、試しに鯖だけを獲った場合に一隻の船が一日にどれだけ獲れるのか試してから返事をすることになった。

男たちは慌てなかった。とりあえず、冷凍船を回すから百トンでも二百トンでも積み込んでもらえばいい。そして漁獲量を増やす努力をしてほしい、と言った。

男たちの名刺には【A国漁業開発振興株式会社】と、肩書きが付いていた。

≪これは国策事業なのだ。今は一日数トンしか取れないかも知れないが他の漁港でも初めはそうだった・・・・・≫ 男たちは言った。

≪見込みが付いたら大型船を買うと良い。そしてそれに最新型の漁群探知機を備え付ければ一日に数百トン、年間五万トンは夢ではなくなる・・・・・≫

もちろんそれには大きな資金が必要だが、審査が通れば国が二分の一を補助してくれるそうだ。そして残り二分の一も国からの低利融資で、漁獲量に応じて三十年ぐらいかけて返済すればいい、という好条件だった。

ヤスヒロたちは知らなかったのだが、この村の経済発展を指導しているのが日本人の青年だという事を国策会社の方では把握していて、スカーシヴァグに目を付けてきたのであった。

・・・・・・・・・・・・・

ヤスヒロはこれで、どうしてもニールス達を呼び戻さなければいけないと思った。ソルタの直売所で安定収入の道は開けた。その上で鯖を村の主な収益源に育てられればスカーシヴァグは大きな発展を遂げることが出来る。それにはニールスやペターやアルフなど村の主力メンバーの力がどうしても必要だ。大型船を購入するかどうかの判断にはこの三人が加わってもらわねばならない。

村の男たちを集めてヤスヒロが説明した。名も無い貧村だったスカーシヴァグはこの数カ月の間に、この地方では最も急速に発展している村として注目されるようになってきた。しかしもう、自分の役割は終わった。自分は日本へ帰るが、これからは村の人たちだけでやって貰わなければならない。どうかニールス達を呼び戻して皆で村の発展に努めて欲しいと訴えた。

男たちの中には

「せめてもう一年、村に残って俺たちを手伝ってくれないか」

という者もいたが、それではいつまでも頼られるばかりで、かえって村の自立を妨げることになる、と思ったので考えを変える気はないことを伝えた。

女たちはもっと、ヤスヒロとの別れを深刻にとらえていた。それはそうだ。村の経済の発展に尽くしてくれただけでなく、一年もの間、マリオンやシセルがヤスヒロのお陰で、夫の留守の間、寂しい思いをすることも無く、生き生きと、のびのびと暮らしてきたことを、みんな自分の事のように喜んでいた。村が発展するのは良いが、ヤスヒロとの別れは辛かった。ヤスヒロのいないスカーシヴァグがどんなに寂しいか、想像するのも辛かった。

十六

ニールス達の帰国は一年目の契約終了となる十一月十五日と決まった。その後十八日にニールス達の歓迎会を兼ねて、ヤスヒロの送別会がソルタの町に新しく出来たホテルを借り切って行われることになった。

十二日がマリオンとの最後の夜となった。

初めての夜と同じようにマリオンは燃えた。野獣のように燃えた。もう、今日が最後だと思うとやりきれなく、最後にはさめざめと泣いた。マリオンにこんな一面があることをヤスヒロは初めて知った。ニールスのいない間、弱みを見せまいとしてわざと強がっていたのだとわかった。

最後にはしっかりと抱き合った。いつまでも離れたくはなかったが、やがて別れの時が来た。

その翌日はシセルとの最後の夜だった。

シセルもまた、いつも以上に激情に身を任せて飽きることが無かった。だが、終わった後は丁寧に頭を下げて、

「この一年、本当に有難うございました」

と、涙がこぼれるのを拭おうともせず、シセルらしい別れの形をとった。

 ・・・・・・・・・・・

十八日の歓送迎会場は多くの人で溢れていた。それはニールス達の歓迎会でもあったが、ヤスヒロの送別会を兼ねるという事で多くの人が集まったのであろう。

スカーシヴァグの住人のうち、寝たきり老人やその世話をする人たちを除くほとんどの人たちが来ていた。

ソルタの町からも、牧師夫妻はもちろん、直売所の現地スタッフたちやスーパーなど、ビジネスの関係者、町長に警察署長までが来て、口々にヤスヒロの功績を称えた。彼らの中には日本という国を、はじめ中国の一部のように思っていた者もいるが、日本というのは、鯖を大量に買ってくれるアジアの大国だという事を今は誰でもが知っていた。

その二日後、いよいよヤスヒロの出発日だ。ソルタからオスロ経由でフランクフルトへ飛び、そこからルフトハンザ航空で成田へ帰る。

コロナ禍にあってチケットが取れるかどうかを心配していたが、事情を知った漁業開発振興会社の社員が、彼は国の輸出拡大に貢献してくれた人だと政府へ伝えてくれたので、政府役人用に確保してあった座席を分けてもらうことになって、即座に解決した。

 ・・・・・・・・・・・

ヤスヒロは高校卒業後ロンドンの大学に四年間通い、その後四年間はヨーロッパ各国で旅行ガイドなどをして暮らし、そして最後にスカーシヴァグへやって来て一年半を過ごした。途中数回の旅行ガイドとしての帰国はあったが、高校卒業後九年半ぶり、二十七歳になってからの帰国だ。

最後のスカーシヴァグでの一年半は、彼にとっては決して忘れられない日々となった。

スカーシヴァグという極北の村は何もかもが日本と違っていた。夏には太陽が沈まない白夜の日があり、冬には太陽が地平線の果てに沈んだままの、夜だけの日が二か月以上続く。娯楽施設の無いこの村で、暗い、寒い、長い夜を過ごす為には男女の睦みあいが欠かせないものだと言っても日本人には理解できないであろう。

・・・・・・・・・・・

前々日の歓送迎会では多くの人が集まったが、狭いローカル空港が混雑するのを避けるため、この日の出発時にはマグヌスとロアール、そしてマリオンとシセルなど数人だけの見送りとなった。

もう決して再びこの地を訪れることはないだろう。

離陸して、眼下の白い雪原を見下ろすと、スカーシヴァグで出合った人たちの顔が一人ひとり、走馬灯のように浮かんできた。ロアールやマグヌス、そのほかの武骨だが心やさしき男たち、そしてマグヌスの可愛い子供たち、そして勿論、マリオンとシセル。彼女たちと過ごした濃密な夜のことは、あれは本当にあった事なのだろうか?もしかしたら自分は夢を見ていただけなのだろうかと、思えてくるのだった。


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北の国のおんな @umiyama3kawa

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