ありがとうのちから

加藤 航

ありがとうのちから

 ありがとうには特別なちからがある。そう教えてくれたのは小学校時代の恩師だ。

 おばあちゃん先生と親しまれていたことをよく覚えている。誰にでも優しく、慈悲深く、そして感謝の心を忘れない人だった。


 先生の周囲には「ありがとう」の言葉が満ちあふれていた。

 先生本人が発するものもあれば、先生へかけられるものも多かった。人に親切にする者は、人から親切にされるようになる。これは人間同士の関わりの中で自然のこと。そこには常に、ありがとうの言葉が行き交う。


 ありがとうと述べる時、それは人から親切をされた時であって、嬉しいのは当然のこと。ありがとうを受け取る時、それは親切を褒められたようでもあり、嬉しいことだ。

 使う方も聞く方も、みんなを嬉しくする特別な力。これがありがとうのちからなんだ。僕はそう思った。


 ある時、先生がこんなことを言った。


「貴方が憎いと思う人にこそ、ありがとうを使いなさい」


 意味が分からなかった。

 ありがとうとは感謝の印。親切にされてこそ使われる言葉。親切と感謝の投げ掛け合いによる温かな関係。それこそがありがとうという言葉の力だと思っていたから。憎いと思う相手に使うなんて、おかしなことだ。

 

「憎い相手というのは、即ち貴方の敵です。しかし、ありがとうには、敵を敵でなくしてくれる、特別な力があるのですよ」


 敵を敵でなくする。特別な力。

 僕には分からなかった。納得できない僕に、先生はにっこりと微笑みながら「いつか分かる時が来ますよと」言ってくれた。


          *


 あれから二十年が経った。

 先生は既に亡く、僕は未だにあの言葉の意味は理解できていなかった。


 今、僕の目の前に憎むべき敵がいる。人生でこれほど憎いと思った相手はいない。

 震えながら土下座をする僕を、憎き敵が見下ろす。その顔には蛇のような笑みがへばり付いていることだろう。

 してやられた、だまされた。全てを奪われ、叩きのめされた。

 この世を渡る悪は、頭がいい。僕はこの不愉快極まりない男に罪を着せられ、屈服を強いられた。大人の世界は辛く厳しかった。ありがとうの精神など、微塵もない。隙を見せれば最後、ぺらぺらに干からびて打ち捨てられるまで、搾取されるのみ。


 敵が何かを言っている。心の煮えたぎる音が大きすぎて、何を言っているか聞き取れない。人間の根源的なところから怒りと憎悪が津波のように押し寄せてきて、良心だとか思いやりだとかいう、上っ面だけの精神を破壊してゆく。結局これなのだ。人間の深いところにあるのは闘争だ。どんなに綺麗な言葉で飾っても、古くて強い本物の力には敵わない。


 僕が見聞きしてきた綺麗な言葉や精神が流されてゆく。その中に「ありがとう」があった。

 ああ、そんな言葉もあったなあ。


「貴方が憎いと思う人にこそ、ありがとうを使いなさい」


 そんなことも言っていたな。憎いと思う人、それは目の前にいる。そんなとき、唐突に分かったのだ。先生の言っていた言葉の意味が。


 僕はゆっくりと顔を上げる。立ち上がり、敵と対峙した。


「なんだ? 言いたいことがあるなら言ってみろ」


 敵が不敵に笑う。僕は目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。そして――










「ありがとおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっっ!」




 ズガガガガガガガガガガガガガガガッッッッッ!

 ドゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴッッッッッ!


 僕の喉から発せられた爆発的な破壊音波が敵を吹き飛ばす。

 僕の前方で大地がめくれあがり、雲が裂け、木々がなぎ倒される。衝撃波をまき散らし、辺りの建物に壊滅的な損害が広がってゆく。


 先生の言ったとおりだった。

 確かに敵は敵ではなくなった。塵になった。

 

 先生は従軍時代、新型兵器の運用に関する特殊部隊の隊長だった。咽頭部に装着する特殊兵装である「九十九式発声型音響破壊砲」の数少ない使い手だ。

 九十九式は、凄まじい攻撃力を誇ったが、まともに制御できるものがほとんどいなかったため運用は中断されてしまった。しかし、取り扱いの難しい九十九式で大きな戦果をあげたのが先生だ。

 本土上陸寸前まで迫った連合軍の艦隊を、たった一人で撤退に追い込んだ功績は特に大きく讃えられている。南方への派兵に於いては、現地に展開する敵兵を一人残らず消し去った。深いジャングルに潜伏する敵も、音の攻撃からは逃れられなかったようだ。


 我が帝国に圧倒的勝利をもたらした先生が好んで使った言葉こそ「ありがとう」である。

 扱いの難しい九十九式であるが「ありがとう」という言葉が持つ音の波形は、多くの状況に適した効果を発揮しやすかったのだという。

 これこそが、ありがとうのちから。その真意である。

 先生の部隊が「ありがとう」を放ちながら敵軍を滅ぼしていく様をまざまざと見せつけられた現地住民たちの間では【arigato】と読んで、破壊という意味で定着しているそうだ。


 僕の目の前は更地になった。清々しい風が背中から吹き付け、遮る物のない青空へと駆けてゆく。


 こっそりと九十九式を渡してくれた先生に今こそ届けたい。


 ありがとう。

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