第4話 猫の名前
受付の咲田さんの娘さんは、資料館を管轄する教育委員会事務局の中では年下の末端で、受付ふたりの都合が悪い時は時々代わりに留守番に来た。
「……こんな静かな場所で、一日過ごして大丈夫ですか?」
「問題ないです」
突然だったためか、パソコンという文明の利器もない。聞けば彼女はそちらの方面には下手な男性職員より明るいようだが、ないならないで他のことをして過ごす、というようなこざっぱりした性格だった。
私はこういった場所は慣れているが、組織で働いている人というのは何かと人と行動をしたがる。人間という生物として群れたがるのは当然の本能だから、特に日本人は群れないことで不安になるというのは珍しいことでもない。本人たちがそれを理解しているかどうかは別として。
その点で言えば
「何か手伝うことありますか?」
「じゃあ追加情報と新しい目録の確認をお願いできますか」
「はい」
むしろ静かな方が好き。とばかりに黙って手伝いをしてくれる。無口、大人しいというわけでもなく話し出せば普通に話すし、仕事は早かった。
なー。
「いないはずの猫」の声がする。今日は平日。いつもなら受付の細谷さんか咲田さんが常駐していて猫はここにはこない。
はずだが。
「なーお」
「……………」
あろうことか事務室に入って来た。月曜日、のように。
ちりり、と首に巻いたリボンについた鈴が鳴る。
しかし私が黙っていると、やはり彼女には見えていないらしことがわかるので、見えない、聞こえないふりをする。
「なぁ~」
どういうわけか。
受付の席にいる彼女の横から、猫は呼びかけている。
いや、呼びかけているのかどうかは謎だが、明らかに私にではなく彼女に向かって鳴いていた。
ふ、と右手を向く。
「……」
その視線の先には猫がいるのだが、やはり見えていないのか、それでも何かを感じたのかしばらく彼女は一段上がったカーペットのあたりを見ていた。
「どうしました?」
「いえ……なんでもないです」
机に向かう。猫はいま彼女の見ていた方の真正面。向き合うようにその場にお座りをしていた。
正直、私はどうしたらいいのかわからない。
「あの、ひとつおかしなことを聞いてもいいですか」
「? なんですか?」
私は彼女に聞いてみることにした。
「忍さんは教育委員会には何年かいるんですよね」
「はい。母が入るより先に。なのでここにもよく留守番で来ます」
なるほど。ただ末端、でなくここが平気、という人選でもあったのか。いや。本当のところはわからないが。
なお、忍さんというのが彼女の名前である。咲田さんと呼ぶとお母さんと混同するので名前で呼ばせてもらっている。
「この資料館には古今東西のものがありますが、不思議な現象って何かあったとか聞きます?」
「え……」
少し眉を曇らせる。奇怪なまなざしで見られることは避けたいので、フォローの言葉を考えていると先に彼女が聞いてきた。
「それって怖い話とかですか?」
「いえ、単に子どもの声が響いたり怖がったりする人もいるけど、実際は外からの反響だよという話を聞いて」
「あぁ、そういうこと」
実はこの資料館内には薄幸の歌人専門の特別展示室がある。その女流歌人が亡くなった時の白いドレスなども展示してあり、ある意味、怖い。
ので、今のは怪談系の話か単純に何か謂れがあるのかを確認したかったらしい。
怖い話ではないので安心したのかひとつため息をつくと彼女は、いつも通りの口調に戻った。
「実際何があるという話は聞かないですけど、建物自体が校舎だし、何かあってもおかしくはないとは個人的に思います」
今度は割と可能性に肯定的な、かつどこか論理的な返事があった。
「例えば?」
「怖いことは勘弁してほしいですが、何かいてもおかしくないというか。日本には付喪神という言葉もありますし」
付喪神。年を経た物が魂を宿すという日本らしい考え方でもある。この年でその言葉を知っているのがちょっと驚きだが、それに対してあまり恐怖心はないようだ。
「なーお」
自分の方を向けとばかりに、猫が忍さんの机に飛び乗った。
……ひやりとするが、見えていないのだからどうしようもない。
「もしも」
ちょっと汗をかきそうな気分半分、聞いてしまう。
「そっち系の猫とかいたらどうします?」
「猫?」
なぜかわずかに目を輝かせた。なぜかというか猫は好きなんだろう。実際、他の人の前では姿を現さない猫自身が、今接近しておりついに書類の上にドカッと乗った。……段々大胆になっている。
「いるんですか? 猫やぐらありますよね」
それがあることを知っている。やはり猫好き確定か。しかもここの資料館には「猫の家」と書かれており猫やぐらという言葉はどこにも記されていない。
「いや、そういうことがあったら和むかなって」
「害がないなら歓迎です」
歓迎されていることがわかるからか、猫はごろんごろんと彼女の前の書類の上で転がりだしている。
「歓迎でも、忍さんだったらどうします?」
「え。まず名前を付けますか」
……何の疑いもなくポジティブな受け入れ態勢だ。
「例えば、どんな模様の猫ですか?」
それはただの雑談として、軌道に乗った。
私は見たままをいうのは何かと思ったので、適当に言ってみる。
「うーん、こういうところだからトラ猫とかではないっぽいけど」
「和風な感じだといいですよね。名前も和菓子系でどうですか」
なるほど、和菓子なら和を匂わせつつ特別おかしな名前にもならなそうだ。
「でも性格と模様が分からないと名前って付けづらいです」
けっこう凝るタイプらしい。
「和風か……やっぱり三毛猫?」
「あー合いそう。でも、だったら名前は『ミケ』でいいんじゃないですか」
いきなり安直になった。猫が起き上がってふんふんと彼女の方を見上げてひげを動かした。
「和風な何かは? 和菓子の話」
「ミケってすごく古典的だけど、だから定番というか……みーちゃんとかもよく聞くけど、なんとなく継承されてる名前っぽくてよくないですか?」
「そういえば三毛猫は日本の固有種でしたね」
納得してしまった。
この資料館に住まう「いないはずの猫」もまた、この建物と同じように古くから親しまれてきた存在には違いない。
「名前はないよリ、あった方が便利だし。もし何か面白いことが起こったら教えてくださいね」
17時。そう言って彼女は事務局へ戻っていった。私はここに直接出入りをしているが、彼女は事務局勤務だから、一足先に館を出る。
「なーお」
「……お前の名前、ミケだってよ」
私はそれまで彼女のそばで始終ごろごろと転がりながら寝過ごしていた「ミケ」が来ると、その頭を撫でながら帰り支度を始めることにした。
* * *
これは私の手記である。
あの仕事を請け負ってから、終わるまでの2年間。起こった、少なくとも私にとって、事実上の記録。
そのほんの一端。
いないはずの猫 梓馬みやこ @miyako_azuma
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