サライェヴォ1994

 丘の上に、二人の兵士がたむろしている。周囲には木々が生い茂り、彼らは、転がった丸太に腰掛けて煙草をふかしていた。

 煙草を咥えた隣の奴にジッポーを開いて差し出した。


「何か動きは?」

「いや……どうかな。普段通り。静かなもんだ」


 どこか遠くから響く銃声に、空舞う鳥の声が重なる。

 ひょいと後ろを振り返る。

 眼下には、近代的なコンクリートビルやアパートメントが痛々しい姿を並べていた。


「……ん?」


 再び、どこかから銃声が響く。


「どこでやってるんだ」


 座り込んで煙草をふかす兵士は興味無さそうな様子で、自分の吐いた煙を見つめている。対して、振り返った兵士は、やがて傍らの双眼鏡を手にした。


「ちょっと近くなかったか、今のは」

「どうだかな……放っときゃいいだろ」

「まぁ、一応な。一応」


 二、三歩動いて双眼鏡を覗き込むが、風に揺れる木々が視界を遮るので、彼は、にじり寄るように木々を潜って顔を出した。双眼鏡の中に映る、損壊した建造物たち。大通りに双眼鏡を向けると、人々が建物の影から影へ慌てて走り去る様子が見える。

 普段通りの見慣れた風景。

 彼は一度双眼鏡から顔を離し、煙草を摘む。

 再び、渇いた銃声が響いた。

 丸太に座ったまま動かない兵士は、煙草を揺らしながら顔を上げた。


「よくやるぜ、ホント」


 彼は根元まで吸い終えた煙草を煙もろとも吐き出し、靴底で揉み消した。肩からぶら下げたザスタヴァM70Zastava M70を担ぎなおして、後ろへ振り返る。


「じゃ、俺は行くぜ」


 別れの言葉を投げかけるも、返事はなかった。


「……なあ」


 妙な違和感に、彼は、同僚の元へ歩み寄る。


「おい、おいって!」


 座り込んだままの背をどんと叩くや、その身体はぐらりと揺れ――慌てて振り返った。双眼鏡から顔を離した兵士は、ぎょっとした表情で彼を見やる。


「何だよ、脅かすなよ」

「……いや、悪い。何でもねえよ」


 彼はため息交じりに肩をすくめると、怪訝そうな表情の相手に背を向けて、頭を掻き毟る。


「そいじゃ」

「おう」


 お互い手をひらと掲げる。

 前を向いて足にぐっと力を込め、斜面を登ろうとしたとき、小さな衝撃が腰に走った。響く銃声と共に彼は、斜面を登ろうとしたままぐらりと前のめりに倒れ込む。

 何事かと唖然とする彼は、腹の辺りから走る鋭い痛みを感じて、叫んだ。


「ちくしょう! やられた!」

「……え?」


 双眼鏡を手にしたもう一人の、ぽかんとした口元から煙草が落ちる。

 だが、次の瞬間には早くも我に返って、辺りを一瞥しながら同僚の下へと駆け寄った。


「くそっ、しっかりしろ!」


 彼は、前のめりに倒れたまま喚く彼の脇に首と腕を通すと、ぐいと持ち上げる。軍服が、わき腹からズボンに掛けて真赤に染まっていく。体重を支えながら、ぐらつきがちな斜面を踏み締めて上へ上へと急いだ。

 痛みに喚く同僚の声に混じって、何ら代わり映えのない銃声が響いた。



 照準の中央に標的が倒れる。

 薬莢が宙を舞う中、銃の装填機構が間断なく次弾を送り込む。なおも這いその場を離れようとする男にを捉えると、躊躇なく引き金に力を込める。

 一瞬の時を置き、男の頭が弾けた。


「フー……」


 細い、細い吐息が唇から漏れる。

 銃を構えていた人影は、銃から顔を離し、ゆっくりと身体を起こす。

 その人物は、まだ幼さの残る少女だった。

 汚れて荒れたストレートの黒毛が、肩の上で揺れていた。すっと窓から身を引いて、ため息混じりに腰を下す。ぼんやりと天井を見つめる瞳はくすんだ灰色をしていた。

 手にした小銃を、ぎゅっと抱え込んだ。

 少女は酷く落ち着いたような、安心しきった様子で、まぶたを閉じる。

 ザスタヴァM76Zastava M76――十五年くらい前に設計された小銃だ。

 彼女のそれはレティクルをはじめ純正品ではないが、仕上げが良かったのか精度は上々で、なにより状況が状況だった。武器も弾薬も、手に入れるのは簡単じゃない。

 少女は首元のマフラーを巻きなおし、窓枠に乗せてあった小さなクッションを摘むと、すっくと立ち上がる。


「……帰ろ」


 残った弾丸を抜き、壁沿いに奥へと引っ込む。

 リズムよく階段を駆け下りる彼女の腰、ホルスターには小さな拳銃が、ザスタヴァP25Zastava P25が収められていた。

 駆け下りた彼女は、そのまま大通りに面した玄関へは向かわず、荒れ放題に任されたままの部屋を幾つか通って、裏側の勝手口へと抜けた。

 ビル沿いに歩く彼女の頭上、ビルに挟まれて帯のようになった空だけが、奇妙なほどに青々と美しい。

 幾つかの道路を渡り、路地裏を抜けて、少女はやがて、煤汚れた小さなビルの中に辿り着く。


「よう。お帰り、アーニャ」


 玄関先にたむろしていた男たちが、人懐っこい笑顔をむける。

 「」から、既に三年が経っていた。少女――アーニャは、はにかみがちに笑い、小さな指でピースサインを作った。


「二人やりました」

「お疲れさん。大尉さんが呼んでたぜ」


 お互いに軽く目礼して過ぎ去る。

 ビルの中には雑多な雰囲気が満ちていた。玄関は開け放たれ、皆、ベンチに寝そべったり、部屋の一角で毛布包まったりしている。そこにいるのは圧倒的に男性ばかりで、誰もが銃を携行していた。

 だが、その姿や様子に機能的な統一感はない。

 皆、民兵たちだった。

 彼女は幾人かの民兵らとすれ違って、一番奥の部屋へと足を向け、ノックして促されるままにドアを開いた。


「おう、アーニャか」


 皆が大尉と呼ぶ男は、ソファの上に足を放り出して座っており、アーニャの姿を認めると、手にした何枚かの書類をひらひらとさせた。


「どうだ、調子は」

「二人です」


 彼女は背を正しぎみに頷いた。


「ン。そうか」

「それで、なんでしょうか」


 小さく頷く男に、アーニャは俯き加減に問い返す。

 大尉は顎髭に手をやって、書類をめくる。

 彼が本当に大尉なのかはよく解らなかった。そうらしい、とは聞いているが怪しいものだ。


「レティクルの調子が悪くなったって言ってただろう。新しいのがひとつ手に入ってな。使うといい」


 どこの横流し品だろうか。ごとりと机に置かれた箱は、ひどくくたびれていた。

 それでも中に収められたレティクルは未使用らしく、油紙にくるまれて鈍い光沢を放っている。

 それを認めた瞬間、アーニャの顔がぱっと明るくなる。


「あ……ありがとうございます」


 表情を崩すアーニャの瞳が子供のように輝いた――いや、事実彼女は子供なのだ。アーニャは未だ二十歳にも満たない。これまでに何人を殺していようとも。であるならそれは、子供らしくと表現すべきなのだろうか。

 大尉は気にするなと肩をすくめ、小箱を叩いて煙草を咥えた。


「戦況は好転しそうだ」

「そう、なんですか?」

「アメさんが本腰を入れてきてな」


 彼の言葉は、まるでアーニャの関心を捉える様子が無かった。大尉は苦笑して紫煙をくゆらせた。アーニャは新しいレティクルが気になる様子でもあったが、どうせそうでなくても、さしたる関心を示さなかったであろう。

 それでも、彼は上の空なアーニャに怒りはしなかった。


「相変わらず興味なしか」

「あ、いえ……」

「いいさ」


 彼は手をひらひらとさせてアーニャを追い払う。

 アーニャは、新しいレティクルを大切そうに抱え、幾度目かの礼を口にしながら部屋を辞した。

 いつでも銃を大切そうに抱え、まるで安心毛布さながら手放さず、戦争の勝敗も解決も気に留めない。どこか人を撃つことにしか興味がないようにも見える少女。それがアーニャが得た居場所だった。

 アーニャは廊下を行き交う人々の間を上手にすり抜けて歩き、受け取ったレティクルを取り付けるため、地下の工具室へ続く階段へと姿を消した。



 その日、夢を見た。

 私は新しいレティクルを取り付けたライフルを手に、夜の中をさまよっていた。

 レティクルを覗いても標的は映らず、人の気配を感じられぬその暗闇の中を、当てもなく歩いている。

 とぼとぼと歩いていると、ぼんやりと人影が浮かび上がる。

 遠く、誰だろうかとレティクルを覗き込むと、そこには、あの時の少女あの時のまま、変わらぬ姿で佇んでいた。

 びっくりしてふいに首を傾げる。

 そうやってレティクルから目を話した瞬間、陽射しの眩しさに目を覚ました。


「……あれ?」


 寝ぼけ気味の頭を起こして、懐中時計を見やる。時刻は朝の七時頃。ちょうど良い時間帯だ。

 周囲には数人の女性民兵がいた。それぞれ、寝袋にくるまったり、着替えたりしている。挨拶に返事をしながら、アーニャは窓の外を眺めた。

 薄っすらと曇が流れる灰色の空。雲の隙間から、時折ちらちらと光が射している。そしていつも通りの、散発的な銃声。

 彼女は起き上がり、ジャケットを羽織った。


「三年振りだね」


 ぼそりと口の中で呟く。

 呟いて、顔を洗いに部屋を出た。

 水道もまだ完全には復旧していない。水が出るのは外の水道ひとつだけで、皆そこで顔を洗うなり飲用水を汲むなりしていた。列を作るでもなく、なんとなく群れるような形でおいおい順繰りに水を汲んでいく。

 アーニャもプラスチックの桶を手に、水道が開くのを待っていた。


「……誰?」


 ふと、妙な気配を感じて振り向く。

 周囲は自分よりも背の高い人が多勢いて、よく見渡せない。それでも、見渡せないなりにぼんやりと辺りを見回していると、とんと後ろから小突かれる。


「どうした、空いたぜ」

「あっ」


 慌ててしゃがみこみ、桶に水を汲む。

 背後から唸り声と、腹痛だ何だとからかう声が聞こえてきた。

 アーニャは特に気にすることもなかったが、水を汲み終わって離れようとした時、人が倒れたと誰かが大声を上げ、数人が担いで慌てて医務室へと運んで行った。



 ビルの一角。

 彼女は窓際から身を乗り出さぬよう、ちらと顔を出す。

 昨日取り外した古いレティクルを双眼鏡代わりにそっと向ける。銃口がこちらとは反対方向に向いていた。顔先がちらと覗くことはあるが、身を乗り出しているというほどではない。

 向川の焼け焦げたマンション、最上階の左から三番目。

 窓枠から数歩離れたアーニャは、ひっくり返った箪笥の上に小さなクッションを添え、押し付けるようにして銃を置いた。そうしておいてから、ゆっくりと腰を下した。

 そのままどれほどの時間、じっとしていただろう。

 相手は、二度ほど通り目掛けて発砲していた。通行人は多勢いる。狙いを外しても、人々は狙われていようが皆そこを通るので、どうしても気が緩み、狙いは不正確になる。

 だから――こうして顔を出す。


(きた)


 引き金を引いた。

 鋭い発砲音と鈍い振動が、身体の芯を震わす。

 数秒して、アーニャは身を翻して部屋を離れた。小走りに壁際へ回り込んで、壁にもたれる。


「ふー……」


 深く細い、深呼吸のようなため息。


「……外した」


 憂鬱そうに表情を曇らせて、小さく呟いた。



 銃を担いで、彼女は大通りを歩いていた。

 ただし、建物と建物間だけは駆け抜けるようにしながら。

 ザスタヴァM76Zastava M76は彼女の身長の三分の二ほどもあり、彼女の歩に合わせてゆらゆらとその長身を揺らしている。

 先ほどの標的はもう場所を移ってしまっただろうし、暫くあそこには現れないだろう。それが、行き交う通行人を狙うこととの違い。

 一方的ではないのだ。

 新しいレティクルの調整は済ませているが、今日は慣れも兼ねてだ。無理はせず安全にやろうと、行き交う住人らの間をすり抜けて歩いた。

 手提げ袋を手にした、おそらくは配給所から帰ってきた子供たち。通り過ぎる数名の子供たちを何気なく見やったときだった。


「……あれ?」


 そのまま逸らした視線を、取って返したように走らせる。

 彼らではない、それよりも奥、街路樹の脇。

 あの少女がいた。

 夢の中同様「」から何も変わらない姿で、纏う雰囲気もそのままに佇んでいる。顔をあげた少女と目があった。


「ぁ……」


 声を掛けようとして、アーニャの手が躊躇いがちに空を掴む。

 少女は、ついと瞳を逸らした。ゆらりと動く視線の先に、アーニャはつられるようにして顔を向ける。その先には、今しがた通り過ぎていった子供たち。

 彼らはじゃれあいながら、手提げ袋を揺らし、リュックを抱えてバリケードの裏を走っていて、バリケードの切れ目に差し掛かったときだ。

 小さく響く銃声と共に、最後尾の少年がひっくり返った。


(やられた)


 異変に気付いた少年たちは振り返って大声をあげ、行き交っていた大人たちが慌てて駆け寄る。アーニャもまた駆けつけようとして、思い出したように少女の方角を振り返った。


「いない……」


 その姿はそこには既になく、アーニャは少年へと視線を戻す。

 だがどういうことか、先ほどまで街路樹の隣にいた筈の少女は、倒れた少年の隣に立って少年を見下ろしていた。冷たい表情で、言葉もなく、ただただじっと見つめているだけ――そうした姿に、思わず息をのんだ。人ならざる者であろうことなど、三年前のあの夜、既に理解していた筈なのに。

 それでも彼女は、私の命を救ってくれた少女だった。

 それだけに、こうもまざまざとそれを見せ付けらると、改めて背筋がぞっとした。

 わっと駆け寄った大人たちが少年をバリケードの側へと引きずり込むと、その少女はゆらりと背を向けて歩き出した。

 絶叫する少年の足元をきつく縛り、誰かが叫ぶ。


「大丈夫だ、安心しろ、足だ!」

「俺が担いでいく。誰か先に病院へ連絡を!」


 手馴れた様子で指示を飛ばす彼らの輪から、ひとり離れていく少女。

 それを交互に見やって、アーニャは表情を曇らせた。


(たぶん、あの子は助からない)


 確信めいた直感。


「あなたは……」


 気付いた瞬間にはもう、その姿が遠く離れている。

 とても、歩いているとは思えない。それでもその少女を追いかけて、アーニャはバリケードを離れ、我が身も省みず駆け出した。


「ねえ、どこいくの!」


 路地裏に消えていく少女に追いつき、アーニャは声を張り上げた。

 少女はアーニャの制止がまるで聞こえていないかのように、静かに歩き続ける。張り詰めた声と、走るアーニャの足音だけが路地裏に響く。


「待って!」


 殆ど衝動的に、その後ろを追った。

 追いかけてどうするのか。そんなことは決まっている。今、私が彼女を追いかけているのは単なる衝動だとしても、もう一度会えたならどうするか、そんなことは、とっくの昔に決めていた。


「お願い、待って!」


 肩に手を伸ばしながらも、かつて、拳銃を受け取ったあの瞬間のように、一瞬の躊躇に指先を強張らせる。それでもアーニャは、歯を食いしばり、その躊躇を振り切って少女の肩に手を掛けた。

 掴めた。

 もしかしたら触れることすらできないのではないかと思っていた。

 だが彼女には、確かに実在感があった。

 肩を掴まれてふらつく彼女を追い越すようにして、行く手を阻む。

 荒ぐ息を抑えながら、少女の顔を正面から見つめる。


「はぁっ、はぁっ……呼び止めて、ごめん……」


 あの時と変わらぬ、冷め切ってまるで興味のなさそうな少女の表情。アーニャは、それを当然のことと受け止めた。少女は、そういう存在なのだと。


「助けてくれたこと、ずっとお礼を言いたかったの。覚えている? 私のこと」

「……」


 少女は黙ったまま答えない。

 それでも、その沈黙は肯定であると思われた。アーニャは腰のホルスターからあの時受け取った拳銃を引き抜いた。ザスタヴァP25Zastava P25――あの時は解らなかった名前も、今は知っている。

 アーニャは掌を開き、その銃を見せつける。


「ありがとう」


 はにかむアーニャ。

 少女はじっとアーニャを見つめていたが、やがて、事もなげに言い放った。


「助けたわけではないよ」

「……えっ」


 その様子からは、決して謙遜や偽りは感じられない。かといって正直さともどこか違う。ただただ淡々と事実を告げただけ。助けたわけではない。彼女がそう言う以上、おそらくそうなのであろう。

 であるならば。


「だったらなぜ」

「理由なんてない」

「……」


 言葉を失ってたじろぐ。

 選びなさい、理由なんてないのだから――あの時、あの部屋でそう告げた彼女の声が、頭の片隅で朧気に再生される。その言葉と今の言葉が重なって、アーニャは首を傾げた。その疑問の正体を説明できず、彼女は押し黙った。

 俯き、掌の拳銃をひとしきり見つめて目を閉じる。

 ゆらと顔を上げたとき既に、彼女の姿はそこになかった。



 ビルからビルへと走る兵士の姿が見える。

 アーニャは、呼吸を落ち着けつつ標的を追う。

 静かに引き金をひいた。

 体に伝わる鈍い振動。直後、標的がひっくり返った。半自動小銃は、彼女が遊底を引かずとも自ら空薬莢を弾き出して次弾を装填してくれる。彼女は射撃姿勢を崩さず、僅かな振動から標的を捉え直す。

 あるいは少女が再び姿を現すのではないかとの想いが脳裏によぎるが、待てどもその様子は無く、やがてアーニャは、這いずる兵士が遮蔽物に隠れてしまう前にもう一度銃弾を叩き込んだ。

 兵士が動かなくなったのを確かめてから、ゆっくり窓を離れる。


「はー……」


 肩の緊張を緩め、ザスタヴァM76Zastava M76を抱く。


(理由、かぁ)


 目を伏せて、どこを見つめるでもなくぼんやりと頭を巡らした。


(理由もなしに私を助けたりしたの?)


 考えておいてから、首を振ってその思考を打ち消した。

 それは違う。彼女は、そもそも助けたのではないと言った。理由もなく、助けるつもりでもなく、ただ選ぶよう告げて銃を渡したのだ――掌をホルスターに重ね合わせ、ホルスターの上から拳銃をゆっくりと撫で回した。

 でも。だけれど。

 窓からは顔を出さず、壁越しに今撃った兵士の方角へ目を向けた。


(そうだ)


 ふいに、疑問がわく。


(私は、何故彼を撃ったんだろう)


 彼を射殺することに理由があっただろうか。トドメを刺す理由は。撃った理由は。彼を狙った理由は――確かに彼は敵だった。けれども、それが理由ではないように思えた。しょせん、そんなものは単なる環境や受動的なものなのであって、そこに私の意志は介在していないのだから。


(だいたい、私自身が……)


 かつて私を殺そうとした人々と肩を並べて戦っている。私たちを助けようとしてくれたであろう人々を敵としている。

 自らの出自を思い出して、彼女はぼんやりと遠い記憶に思いを馳せる。よくも誤魔化せたものだ。けれど誤魔化せたまま、ここまで来てしまった。

 出自も、主義主張もへったくれもない。

 ただこうしていると落ち着く、安心するからそうしているだけだ。


「あ……そっか」


 もしかして――ぱちりと目を開くと同時に、遠く爆発音が届いた。

 その音に顔をあげるアーニャ。

 視界の隅に映る、黒い少女。いつの間にか隣に佇んでいた少女は、窓から遠く爆音のした方角を眺めていた。

 アーニャは少しびっくりしながらも、落ち着いた心持で問い掛ける。


「誰か死んだ?」

「……」

「遠くから眺めるだけでいいの?」

「……」


 アーニャの問いかけに、彼女はついと振り向いたが、それきり何か答えることもなく、また窓の外を眺めはじめた。


「ずるいな。そういうの」


 姿を見せといて知らんぷりみたいなの――呟きは静寂の中に紛れて消えた。

 しんと静まり返る部屋。

 お互い何も喋らず、かといって少女が姿を消すこともなく、時間だけが過ぎていく。二、三分ほどして、アーニャは思いついたように顔をあげた。


「コーヒー、付き合ってくれる?」


 少女が顔を向ける。

 答えは無かったが、アーニャが立ち上がって歩き出すと、少女が続いて歩き始めた。

 廊下を歩く二人。

 裏口から外へ出て非常階段を下ると共に、薄っぺらい金属の音がかしゃん、かしゃんと路地裏に木霊する。けれどその足音は、一人分だけだ。

 アーニャが時折振り返ると、少女は自分のペースを崩さず、全く音を立てないで、静かにゆっくりと歩いている。それはまるで、影法師が遅れて続くかのようだった。

 銃声が環境音のこの街を、二人は歩く。

 道行く人は誰も彼女の存在に気付かない。

 やがて人通りも途切れた公園の一角で、アーニャは腰を下した。

 公園といっても、そこは荒れ放題に任され、まるで公園らしくはなかった。芝生は禿げ返り、数少ない遊具は既に破壊されて無残な姿を晒して、ベンチや水呑場だけが、辛うじてそこが公園であったことを主張している。

 敵の陣地からも近く、背後には廃車となったトラックが放置され、並んで車やらドラム缶、その他大量のスクラップが乱雑に積まれていた。


「どう? 私のお気に入り」

「……」

「ご覧の通り、粗大ゴミ置き場でね。いつも静かなの」


 アーニャは小さなリュックを開き、水筒とカップを取り出した。水筒からコーヒーを注いだ。ゆっくりと座った彼女にコーヒーを差し出すと、彼女は黙ったまま受け取った。


「暖かいうちにどうぞ」


 相手のリアクションは薄かった。

 少し残念そうな顔で、アーニャは、自分のカップに口をつけた。


「ねえ。名前は?」


 アーニャの問いかけに反応しない少女。

 彼女は荒れ果てた芝生の上、壊れたコンテナにもたれかかったままだった。答える気配もなさそうで、アーニャは諦めたように視線を外したが、


「ないわ」


 それだけに、答えがあったことに驚いた。


「じゃあ、何か呼び名は?」

「死神とか、悪魔と呼んだひとなら」


 口を曲げるアーニャ。


「へんなの……おかしいね」


 アーニャはそっとコーヒーをすすってから、少女へ顔を向けた。


「あなた、なにしてるの」

「……なにも」


 ぽつりと呟いてから、少女は付け加える。


「なにもしないわ」

「それじゃ、私のことはなぜ?」

「私はなにもしなかった」

「……なにも?」


 少女の答えに、怪訝そうに眉をよせるアーニャ。

 少女は、小さく頭を振った。


「私はなにもしなかった。彼らとあなたの力関係が、少し崩れただけ……」


 言い終えて、ゆっくりアーニャへ振り返った。


「選んだのはあなた」


 冷たい眼差しに変化はなく、その瞳に見つめられて、アーニャはぶるりと肩を震わした。

 彼女は、その震えを押さえ込むように小銃を抱え込む。

 さして興味もなさそうな表情で、少女はアーニャをじいっと見つめている。アーニャはぎゅっと瞳を閉じて、辛うじて問いかけた。


「選んだって……何を」

「殺すこと」

「そんなの」

「殺されることも選べたわ」

「……冗談」


 辛うじて呟くも、それが冗談ではないことは感じている。

 今まで彼女の言葉に、何よりもその佇まい、冗談を感じたことがない。今だってそうだ。彼女は包み隠さず真実を告げている。それが選べたのだと告げている。それは解っている。

 解っているのだが。

 であるなら。であるなら、なぜ――


「――どうして、私にくれたの」


 銃を。


「理由なんか――」

「無い?」

「えぇ」

「……調子、狂うなぁ」


 その言葉に少女は答えなかった。

 アーニャは困ったように膝を抱え、頬をついた。見つめる少女と視線が合うが、案の定表情に変化はない。それが却って少女の言葉に真実味を持たせてしまっていて、どこか哀しくなる。


「あの理不尽な暴力から私を救ってくれたのは……あなたと、あなたのくれた銃だった」

「それは――」

「助けた訳じゃないのは解ってる」


 少女の言葉に割り込んで、アーニャは続けた。

 解ってる、解っていると数度呟いて、苦々しげに表情を曇らせ、視線を逸らして。それでもなお耐え切れずに瞳を閉じる。

 裸電球に瞬く蛾の影。周囲からは嗚咽が響く。銃はひたすらに静かで、暴力を伴わずして無慈悲に生を断った。崩れ落ちた友人の作った真赤な水溜りにまみれ、私は恐れていた。

 死を。おそらくは、無機質な、無意味な死であることこそを。

 あのとき私は――


「絶望に組み敷かれていた」


 一度死んだのだ。


「そこにあなたが現れたのよ……」


 それでも、理由など無いのだ。


「私に銃をくれたこと……私が銃を手に入れたことは、ただ、何でもない、だった?」

「えぇ」

「そっか」


 ただその手に銃が握られただけだった。それだけのこと。理由などない。理由など、何も。


「私は、もうあの部屋で死んでたのかな」


 人を撃って感じる安堵と落ち着きの正体が、ようやく解ったような気がした。

 あの安心感は、死という「むこう側」に相手を追いやることで感じていたものではなかったのかもしれない。私は死者だった。私ははじめから「こちら側」にいたのだ。誰か他人を抱いて感じる安堵のそれだったのだ。

 私は全ての意味と価値を失って、ひとり生者を眺めていた。

 あの部屋で見た鉄格子の意味を知って、アーニャは問いかける。


「あの時のみんなは生きてる?」

「……えぇ」


 少女の小さな頷きに、アーニャは全てを察した。


「やっぱり……でも良かった。みんなあのまま殺されたんじゃないかって、今までそう思ってた」


 けらけらと笑って顔をあげる。

 腰のホルスターから拳銃を、P25を抜いて、ゆっくりと少女へ突きつける。


「アナタはどっち?」

「……」


 死者か、生者か。

 その問いが無意味であろうことは薄々感じていたが、それでも問わずにおれない。答えがなくともそれで構わなかった。だから暫しの静寂が場を支配したとき、アーニャは自らも気付かぬうちに自嘲を顔に浮かべていたし、少女の口元が微かに動いたことも見逃した。


「死者よ」

「……そか。それじゃ……あはは。お揃いだ」


 アーニャは、彼女の胸にぐいと銃口を押し付けて、顔を伏せた。


「だったら本当に死ねばいいのに」


 そのまま、銃口を顎へせり上げて、崩れるようにして胸に顔を埋める。

 胸に顔を押し付ける。

 少女の下あごにぴたりと触れた銃口。

 少女は、冷たくアーニャを見つめるが、胸に埋められたその表情は見えず、ほのかに暖かい吐息だけが衣服越しに伝わってくる。


「……つめたいね」

「そう……」


 少女の胸は冷たかった。

 そこに温もりはなく、心臓の鼓動すらない。

 けれども、それが心地よかった。

 遠く、遠く響く銃声。

 生と死が交差する街、夕暮れに佇む瓦礫置き場と化した公園の片隅、重なった二人の影法師は細く長く伸びていく。

 ゆっくりと、諦め混じりに身体を起こすアーニャの顔が、夕日に照らされて橙色に浮かび上がる。どこか標的を仕留めたあとにも似た、落ち着いた、安心した笑顔だった。

 お互いに言葉は交わさなかったが、自然と、少女はカップを差し出した。

 差し出されたカップの中には、注がれたままのコーヒーが冷め切って揺れている。


「飲まなかったの?」

「のめないから」

「コーヒーが?」

「……」


 全部、か。

 アーニャは小さくため息を吐く。

 立ち上がった少女は、膝とお尻の砂をぱんぱんと払う。


「それじゃ」


 一言、ぼそりと告げて少女は歩き始める。

 足音はないままに、ただひとり。

 アーニャはやるせない表情で、首をもたげた。

 行ってしまう。

 おそらくは、二度と会えない。

 直感がそう告げていた。


「死神さん」


 思わず、声をあげる。

 少女はぴたと足を止めた。


「あなたはひどいよ」


 少女は振り向かず、アーニャも首をもたげたまま。お互いに顔を合わせることはなかったが、それでも、アーニャはとつとつと言葉を紡いでいく。


「私に銃を与えるだけ与えて。おかげで、もう死んでいるのに、身体が朽ちるまでずっとこの世を彷徨うはめになっているんだから。たとえ私が、自分で選んだ道だとしても」


 だけど。

 だけどね。

 正面を向いて、少女の背中を見つめる。


「私には、アナタが天使に見えたよ」


 少女は半身だけ翻し、アーニャを見やった。


「みんなはアナタのことを死神と呼ぶかもしれないけれど、あの時の私にとっては、やっぱりアナタは天使だったんだよ」


 投げやりな、それでいて、どこか憑き物が落ちたような表情。


「だから、ありがと」

「そう……」


 少女は、逡巡したかのように地面を見つめておいて、瞳をアーニャへと向ける。その唇が、微かに動く。


「……またね」


 呟き、少女の口元に微かな笑みが浮かんだ。

 短い一言を終えると共に、少女は再び背を向けて歩き始めた。

 ゆっくり、ゆっくりと黄昏の街の中へ消える。

 呆気にとられてきょとんとするアーニャだったが、何故だか、彼女が微笑んだことが、またねと呟いたことが、それが妙に可笑しくって、口元に手をあててくすくすと笑った。

 黄昏を越えて夜が広がり始めた空。

 いつかと同じように半月が輝いている。



 少女は二度とアーニャの前に姿を現さなかった。

 アーニャは、それから一年ほどして死んだ。

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ボスニア1995 御神楽 @rena_mikagura

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