ボスニア1995
御神楽
クライナ1991
鉄の混じったようなざらざらとした臭いが、喉の奥を鷲掴みにした。
喉の奥より引きずりだされ、口の中にじわりと広がるすえた臭い。
思わず口元へ手をやった。
必死に押さえ込もうと肩を上下させる。頭の中で全てが錯綜している。何も考えられない。
嫌だ。
思い浮かぶのはただそれだけ。
理由を考えることすらできない。ただ、ただ、嫌だ。
嫌だったのだ。彼女は汚物ではない。死んだ、死んでいたとしても。事切れた彼女を前に嘔吐するという行為そのものに対する、強烈な嫌悪感。
ぐっと、何かを飲み下すようにして吐き気を抑え込む。
「はっ……はっ……」
その部屋に響くのは、自分の吐息と、すすり泣く幾人かの嗚咽だけ。
昨日まで笑っていた。
さっきまで励ましあっていた。
今の今まで、鼓動を感じていた。
何故。どうして。
思考が、その処理能力を超過した感情にかき乱される。
「ぁ……」
寒い。冬でもないのに。真赤に塗れた手で自分の肩を力の限り抱いた。握り締めた。爪が食い込むくらいに。
黒い髪にこびりついた血は、既に水気を失ってどろりと粘り始めていた。
瞳は焦点も合わぬまま、ゆらゆらと揺らめいて、時折、思い出されたように瞬き、薄っすらと涙を浮かべる。
(殺された)
誰かが叫んで、わっと泣き喚く。
「みんな殺されちゃうんだ!」
彼女はその叫び声にびくりと身体を振るわせ、より強く自分の肩を抱きしめる。
(殺される……殺されるのかな、私たち)
ぐったりと横たわるナシムの遺体を見やって、彼女は、アーニャは唇を噛み締めた。
(ナシムみたいに?)
瞳の奥で蘇る。
有無を言わさぬ一方的な暴力。
銃口を向け、指に力を込める。そのたった二動作だけで、彼女は、ナシムは生を断たれた。
太くて毛むくじゃらの腕をした、自分たちより一回りも二回りも大きな大の大男。それが、その肉体的暴威を振るうまでもなく、引き金に指を掛けるだけ。それだけで、ナシムは殺されてしまった。
ナシムを殺したのは、むせ返るような臭気さえ感じられたその重苦しい身体ではなく、機械。意思持たぬただの道具。
おかしいじゃないか。
これはなんだ。
吹けば飛ぶ、羽毛のような軽さ。
こんなに軽いのか。こんな。こんなにも。
インスタントな死。ナシムの死には何の物語もなかった。なら、この死は何だったというのだろう。私の死は何になるのだろう。何故死んだ。何故殺された。何故。何故だ。何故。わからない。何ひとつわからない。
(そんなの……嫌だ)
絶対に嫌だ――死が?
違う。死ではない。ナシムのような死が、そのインスタントな死こそが、たまらなく嫌だった。流れ作業のように死にゆくのだけは絶対に嫌だった――それは、明確な言葉にこそならなかったが、アーニャの心の中で確かに呻き始めていた。
(嫌だ!)
叫び。
口にしたつもりのその言葉は、頭の中に響いているだけだった。
それでも、それは確かに叫びだった。
声にならぬ声。
誰ひとり聞いていない叫び。
誰一人――
「嫌か?」
頭上で声がした。
透き通った声にアーニャは目を開いた。ナシムと自分の間に、誰かが立っていた。黒いスニーカー。黒いズボン。黒いシャツ。黒いパーカー。パーカーに手を突っ込んで気だるそうに立つ、見知らぬ少女。
一緒に捕えられていた子たちの中に、こんな少女はいなかった筈だった。
黒いタートルネックに隠れた肌は病的に白く、髪の毛もまた黒々と、ただ髪の毛に隠れがちなその瞳だけが生々しいまでに赤い。
現実味に乏しい美しさ。
アーニャを見つめる彼女は、さして興味も無さそうな表情を漂わせたまま、先ほどの言葉をもう一度繰り返した。
「嫌か?」
「私……」
辛うじて、搾り出すように答えた。
「……嫌だ」
対するその黒い少女は、その言葉を確認すると、眼下のアーニャから顔を逸らし、暫しの間、じっと押し黙っていた。
「そう」
やがて、ぽつりとそう洩らす。
「わかった」
小さく頷く少女。
ぞくり。直後、アーニャは全身を、冷たくべたついた「何か」に絡め取られ、撫で回されたような気がした。冷汗がぶわと浮き上がり、息苦しさに胸を締め付けられる。
恐怖ではない。
不思議と。警戒心は薄れた。
安心感と言ってよいのだろうか。それは甘くるしく、官能的な響きを備えている。
「それ」の正体が何であったのかは解らない。
ただ、眼前の少女が差し出した、その小さな手に握られている機械を、アーニャは知っていた。
「銃……」
その拳銃は掌に納まるほど小さく、裸電球の灯りに照らされて、鉄特有の鈍い光沢を放っていた。
少女は拳銃を掲げた。反射的に身体を震わしたアーニャだが、揺らされた拳銃をよくよく見つめると、向けられているのは銃口ではなく銃握だった。少女はそんなアーニャの反応をまるで気にする風もなく、淡々と言葉を続ける。
「あげる」
「……え?」
きょとんとして、彼女の顔を見つめる。
「選びなさい」
「選ぶって……何を」
その問いに答える言葉はなかった。
少女の表情は冷ややかであった。その声には、感情など微塵も込められていない。無機質であるのとは違う。抑揚が無い訳でもない。ただただ、ひたすらに冷たい。
アーニャは、夢遊病患者のように手を伸ばす。
銃握へと伸ばされる腕は披露と緊張からぐったりと疲れ、こわばって棒のようにゆらゆらと揺れていた。それでも、腕は半ば無意識に伸びていく。
銃。
受け取る。受け取って、それで。どうするのだろう、私は。
銃に触れる瞬間、アーニャの指先はぴんと跳ね、動きを止める。怖い。けれど欲しい。なのに怖い。
それは――
「選びなさい。理由なんてないのだから」
――一瞬の戸惑いと躊躇。
最後のそれを踏み越えさせたのは、少女の声だった。
その声、囁きに、反射的に銃を握った。少女の言葉に、意味はあったのだろうか。解るようでいて解らない、まるで脈絡を感じさせぬ。
それでも少女は、アーニャが掴んだ銃をすっと手放した。
ずしりとした重みに腕ががくっと落ちた。
本当にくれるのだ。
「私……」
「理由なんてない」
口ごもるアーニャに割り込む少女。
「理由なんてない」
少女は一字一句同じ言葉を繰り返し、アーニャは、自らの手に握られた拳銃をじっと見つめた。
やがてふいに視線を戻したとき、少女の姿は既になかった。
と同時に、周囲のすすり泣く声が再び耳に入ってきた。ぼんやりと周囲を見回したが、その様子には何も変わったところがなかった。すすり泣く声が響くその部屋で、電球に吸い寄せられた蛾の影だけがゆらゆらと揺らめいている。
まるで少女など最初から存在しなかったかのように。
(私、何を見てたんだろう……)
それでも、夢ではない。
彼女の手元には、確かに残されているものがあった。
拳銃。無言のままそれを強く握りなおす。ずっしりとした重みに、まるで暴力を感じさせぬ冷たさ。その感触を確かめるように、左手を添える。
彼女は押し黙った。
一言も発さず、ただただじいっと拳銃を見つめ続ける。
皆、自分のこれからに悲観するばかりで精一杯で、彼女の手に握られていたものには気付かない。
(私は……)
頭の中でさえ言葉が続かない。
霞みがかってしまったかのように、言葉にできなくなってしまう。
(私は……)
口の中とも胸の中ともつかぬ曖昧なまま、うわ言のようにただ繰り返す。ナシムは死んだ。ナシムを殺したその機械がここにある。その力を差し出して、少女は選べといった。答えも無いままに、何に対して選べとも告げないままに。
選ばなければ、と思った。
たとえ、何を選べばよいのかすら解らずとも。
それがあの少女に対する誠意だと思った――けれども、状況は彼女に時間を与えてはくれなかった。
薄っぺらい金属の音を響かせて、部屋のドアが開く。
ドアを開け放って男が顔を見せた。肩から突撃銃を提げた、また別の男だった。
男は煙草を咥えたまま、生気の感じられぬ目を子供らへ向ける。ひとり、またひとりと顔から身体を舐め回すように見やり、口端から煙を吐く。自分へと顔を向けられた子は恐怖に強張らせ、次へと視線が移れば涙交じりに俯き、心の中で息を吐く。
そうして順繰り辿ってきた視線が、ナシムの傍らにへたり込んでいたアーニャにぴたりと止まる。
アーニャははたと気付いて顔をあげ、ぼんやりと男を見返した。
男の眉間に皺が寄った。
電球ひとつの薄暗い部屋の中、彼が目を凝らしたのは事切れた遺体を前にへたり込むアーニャ自身ではなく、彼女の手元だった。
見慣れた、しかしこんなところにある筈のないもの。
怪訝そうな表情は、みるみる驚愕に変わる。
生気の抜けた瞳が獰猛な暴の色を帯びる。
一呼吸遅れて、ぼんやりとしたアーニャの表情が張り裂けた。引きつるように息を吸い込み、手が強く強く銃を握り締める。
「私、私は……!」
「おまえ!」
男が叫んだ。彼は胴を捻り、肩から提げた突撃銃へ手を向ける。
殺される。
殺されてしまう。
ナシムと同じように、いともたやすく。
やだ。
理由なんてないのだから――
頭の中に、少女の言葉がリフレインする。
何かを叫んだ――と思う。おそらくだ。解らない。
男の口からは煙草が舞い落ち、周囲の子らは反射的に身を引き、蛾の影は変わらず揺らめいている。脈動の中、アーニャは瞳孔を開かせ、曲がりなりにも積み上げていた思考を押し崩した。
それは無意識の行為。
渇きの音。
彩りが失せた。
音が消え去った。
時が止まっていた。
心地よい共鳴だけが耳の奥にじんと響く。
安堵――「それ」を選んだと同時に訪れた安堵に、肩の力が抜けた。
床に跳ねる薬莢の音が現実を、男の額から流れる赤色が彩を、それぞれそ部屋に取り戻す。
前にぐらりと揺れた男は、一歩だけ踏み止まったものの、そのままぽかんとした表情で倒れ込み、寸劇の幕を引く。
アーニャは心臓の鼓動を感じた。爆発、拡散していた意識が逆再生されるように集束しはじめ、当初のそれよりも更に小さな一点へと帰っていった。一拍だけ聞こえた心臓の鼓動はドラムロールさながらに加速し始めるが、それに反比例して意識は穏やかだった。
床に転がる男。
じわりと広がる赤色を前に、アーニャはゆらと立ち上がる。
周りの子供たちがわっと騒ぎ出すのをまるで意に介さず、その喧騒を背に男の死体を踏み越え、歩き始めた。
ドアが開いている。
拳銃を握り締めたまま、彼女は静々と歩を進める。部屋からドア、ドアから廊下へと。
廊下へと踏み出してから、彼女はふいに部屋を振り返った。
あの少女が佇んでいた。
少女は今しがた転がったばかりの、まだ暖かい男の傍らに佇み、パーカーのポケットに手を突っ込んだままじっと彼を見下ろしている。
そんな少女の後ろ、裸電球に照らされて浮かび上がる、泣き喚く顔や唖然とした表情、驚愕と共にアーニャを見つめる瞳。そこにはあらゆる感情がない交ぜになって満ち満ちている。それでも、それは炸裂せぬままその場で淀んでいくばかりだった。
そんな彼らと少女の間に男が転がっている。
そこには鉄格子があった。
存在しない鉄格子。
少女一人だけが鉄格子のこちら側にいた。無言で佇むその少女は、視線に気付いてか、ふいに顔を上げてアーニャを振り返る。
先ほどと変わらぬ冷たい瞳。
それでも、アーニャは自然と微笑んだ。
少女は何も返さず、アーニャもそれきり背を向けて駆け出した。窓枠に沿った四角い月明かりだけが廊下を照らしている。足を踏み出す度に、割れた窓ガラスが靴の底でじゃりじゃりと音を立てる。
廊下の曲がり角、崩れ落ちた一角を乗り越えて転がり出る。
ひっくり返って頬をすりむいた。ズボンをはいていてよかった。膝をすりむかずにすんで――その傍ら、銃を落としはしなかったかと、手元を見つめる。
大丈夫、しっかりと握られている。
アーニャは立ち上がり、再び駆け出した。
「はっ、はっ……」
白い息を切らせてただただひたすらに。
木々の合間から覗くのは、雲ひとつない満点の星空。輝く半月。
綺麗だった。
「あはっ」
思わず漏れた感情が口を突く。
「あははは――
――アーニャは駆ける速度を落とさず、空を見上げ、途切れがちに笑った。
ぼやける視界の中で、月が優しく微笑みかけていた。大丈夫、私は大丈夫だよ。胸の中で語りかける。ありがとう。大丈夫だから、どうか心配しないで。月は最後までアーニャを照らしていたが、やがてより鬱蒼とした枝葉に覆い隠される。
少女はなおも走る。
走り、走って――
やがて、ぷつりと暗闇に消えた。
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