どうして。

橋本伸々

どうして。

家のドアを開けてもただいまと言わなかった。


リビングの明かりは付いていたし、ただいまと言えばリビングにいるお母さんから返事は返ってきただろうけれど、もう何日も帰宅してもリビングに向かって声をかけることはなかった。


階段を音も立てずに昇り、左に曲がったところにある自分の部屋のドアをスーッと開けた。できるだけ静かに。そおっと。


そうしてパチリと部屋の電気をつける。


その瞬間、私は帰ってから音を立てないよう息を殺していたのが水の泡になるほどの大声を上げることになった。



部屋の電球からぶら下がった白いロープから、ぶらりと女性の遺体がぶら下がっていたからだ。




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キャーっと甲高い大きな悲鳴をあげた後、慌てて両手で口を押さえた。


じっと耳を澄ませても階下から「どうしたの?」というような心配する声は聞こえてこない。どうやら下にいるお母さんにまで叫び声は届かなかったようだ。


ホッとひとまず息をついたけれど、電球からぶら下がった物体が目の前で和泉の帰りを待っていた事実は変わらない。



どうしてこんなことになったんだろう。




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私は冷静になってその死体を見つめた。


普通、家に帰ってきて、自室自分の部屋に首吊り死体が待っていたらもっと取り乱すものなのかもしれない。


だけど悲鳴をあげたとはいえ冷静にそれを見ていられるのには理由があった。



電球からぶら下がっている太くて白い、死体が吊り下がったロープは、昨夜寝る前に私が用意したものだったからだ。




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辛い。苦しい。死にたい。

毎日のように感じていた。

何で生きているんだろう。

苦しいのに。しんどいのに。辛いのに。死にたいのに。

誰にも求められていないのに。どうして。



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きっかけはひょんなことだった。

クラスのカースト頂点の女子の好きな男子に告白された。ただそれだけ。


OKなんかしたらめんどくさいことになるって分かっていたから、丁重にお断りした。

けれどそんな噂すぐに広まってしまう。

次の日からクラス全体での無視が始まった。



最初は無視だけだったが、女子の世界のいじめは陰湿でねちっこい。


学校に置いておいたものが無くなっていたり、根も葉もない噂が流されていたり、聞こえるような声の悪口を浴びせられたり。



どうしてだろう。どうすれば良かったのだろう。何度も思った。

こんなんだったら告白された時にか弱い女の子を演じてその男の子に守ってもらえるようにしたらよかったかな、なんて思ったけれど、全てもう遅すぎる。



1週間前、下足のロッカーの中に固く結ばれたロープが入っていた時、ふっと自分の中の糸が切れた気がした。


やってやろうじゃないの。そして遺書に書き綴ってやる。

この何ヶ月にも続いた記憶の全て。


その内容が実名ごとネットにでも出回って彼女らの人生を妨害するくらい大ごとになってしまえばいい。

私の人生を傷付けた分、アイツらの人生だって傷付けてやる。

グッチャグチャに、傷つけてやる。


そういう思いを抱いて、昨夜その太いロープを電球から吊り下げたのだ。



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自殺する日の当日にも学校に行くなんて、律儀なやつだな、なんて少し自分で可笑しく思った。


だけど最後にみんなの顔をこの目に焼き付けておいてやろうと思った。

そして同時にみんなの網膜にも私の姿をこびりつけておいてやろうとも思っていたのだ。


世界は変わらない。私がこの世界から消えたって。


そんなこと高校生にもなると、何となく理解していた。


日本だけでさえ一日3000人以上の人が亡くなっている。

昨日亡くなった人の名前を一人も和泉は知らない。

亡くなって多くの人に悲しまれるなんて一部の芸能人くらい。

新聞のお悔やみ欄だって誰も見ていない。


私がいなくなったって昨日と同じように世界は回る。


そうわかっていても思い知らせてやりたかった。

後悔させてやりたかった。


そのためにしたためた手紙を机の上に準備して、ロープもしっかりと結び目を確かめて覚悟を決めたのだ。



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したためた手紙を入れた白い封筒と電球からぶら下がったハングマンズノットで固く結ばれたロープ。

それが私が今朝この部屋に残していったものだった。


当然ベッドや机などは残っていたけれど、最期だからと部屋の中も和泉にしては綺麗に片付けて行った方だ。


その部屋にきちっと鍵をかけて家を出ていったのだ。


当然だがその時にはロープに先客などいなかった。


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だけど今目の前には先客がいる。


思いもしなかった先客。

学校から帰る私を部屋で待っていた。


口を押さえて声が漏れないように押し殺しながら、恐る恐るその物体を見上げる。

長い髪が顔を隠してはっきりとは確認できない。

きっと女性だろうというくらい。



ああ、こんなことに。


家に着いたら決行しようと、覚悟を決めて帰ってきたのに。

先客に邪魔をされてしまっている。


彼女に場所を開けてもらわないと行動に移せない


どうすればいいの?


何でこの人まで私の居場所を奪おうとするのだろう。

だいたいこの人は誰なんだ。


不思議なことに、目の前で自殺した死体があるということの恐怖感は私の中に少しもなかった。


確固たる目的が定まっているからなのかもしれない。


早くどかさないと。

お母さんに見つかったらことだし、何より自殺の決行ができない。


どかすために必要なもの。


そうか、ハサミだ。


次へ進むための道筋を見つけて、その死体を置いて部屋を出た。



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目当てのハサミを取るのに随分と時間がかかった。

物音一つ立てずに確保する必要があったからだ。


リビングでお母さんにバレない様にするのはとても慎重にならざるを得なかった。


こちらに背を向けて、延々と水をジャージャーと流しながら洗い物をしているとはいえ、音は少しも立てたくない。


そろり、そろり。


やっとの思いでハサミを取って階段に向かうと、スタスタと階段を登る足音がした。


ゾッとして恐る恐る階段をのぞく。


その後ろ姿はお父さんだった。


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何で? 

いつも10時は越えないと帰ってこないのに。

こんな時間に家にいるなんて。


やばい。

当然の様にリビングにいるお母さん以外当然誰もいないと思っていたから、部屋のドアが開けっぱなしだ。

お父さんの部屋は私の部屋とは反対側だけど、何か異常があることはチラリと見られただけで分かってしまうだろう。



咄嗟にどうしようか考えたが、頭が動いてくれなくて、全くもっていい考えは浮かばない。


ただただ祈るしかない。

お父さんがの部屋の方を向かないように。


もし私に用事があるなら下から声を出して呼んでいただろうし、よっぽどのことがない限り大丈夫だろう。



お父さんはゆっくりゆっくりと足取り重く、階段を一段一段登った。


そうして一番上の段まで上り終えてもしばらくは下を向いていた。


永遠にも感じる時間が流れる。


そしてお父さんはゆっくりと左を向いた。


つまりは私の部屋の方。

心臓が止まりそうなほどギュッとなった。


だけどお父さんは、驚きの表情を顔に出さなかった。

悲しそうな目をして部屋の奥を見つめ、力なくつぶやいた。



こんなことに……」




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どうして。 橋本伸々 @Ha4moto

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