俺と親父と緑のたぬき

いとうみこと

親子の絆

 電車を降りると夜の九時を過ぎていた。ズボンの裾から吹き込む風が予想以上に冷たい。朝の天気予報で今季いちばんの寒気が流れ込んだと言っていたが本当のようだ。上着の前をかき合わせて信号を渡り、緩やかな坂道を駆け足で登り切ると、息が上がった代わりに少し暖かくなった。ここを右に行けば祖母がひとりで暮らす俺の実家、左に行けば伯父が営む定食屋がある。俺は迷わず左へ曲がった。


 店の看板の灯りは既に消え暖簾も下りている。この時間ならば伯父夫婦は店の奥の住居に引っ込んで、いとこの佳奈が後片付けをしているだろう。カウンターに明かりが灯っていることを確認して、俺は入り口のガラス戸を勢いよく開けた。


「なんだ陽平か」


 少し驚いた様子で顔を上げた佳奈だったが、入ってきたのが俺とわかるとすぐに笑顔になった。髪をひとつにまとめ、店の名前が入った紺色のエプロンをかけたいつも通りの姿に何だかほっとした。両親の離婚で母親の実家で育った俺と、店が忙しい時には実家に預けられていた佳奈は姉弟のようでもあり、俺にとっては唯一心を許せる異性でもある。


「お疲れ様。来るなら来るって言ってくれたらいいのに。ビールでいい? 何か食べる?」


 俺の返事を待たずにまくし立てて冷蔵庫に手を伸ばそうとする佳奈を制して、ビールはいらないから何か温かい汁物が欲しいと言った。こんな日は心も体も内側から温めたいと思った。


 佳奈は暫く考えていたが、何か思いついた様子で奥へと入っていき、戻ってきた時には赤いきつねと緑のたぬきがたくさん入った袋を抱えていた。


「今日特売だったのよ。陽平好きでしょ? あれ? 違った?」


 俺が無意識に表情を曇らせたのだろう、佳奈の顔に戸惑いが浮かんだ。


「好きだよ、それでいい。いや、それがいい」


 俺は鞄を置いていつものカウンター席に座った。佳奈は黙ったまま水を張った小鍋を火にかけ、手際よくカップ麺のビニールを剥がし封を開ける。業務用のコンロは火力が強いとみえて、ふたりの沈黙が不自然に長くなる前に湯が沸いた。


「陽平はきつねだよね」


 湯を注いだ容器をカウンターに載せながら佳奈が言った。


「今日はたぬきが食べたいかな」


「あら、珍しい。じゃあ、あたしは久しぶりにきつね食べようっと」


 佳奈がカウンターから出て俺の右隣に座り、おしぼりを渡してよこした。俺は夜風で冷えた顔を熱いおしぼりに埋め、今日一日分のため息をついた。


 ことりと音がして、出汁のいい香りが鼻をくすぐる。おしぼりを顔からどけると、蓋の上に割り箸を載せた緑のたぬきが目の前にあった。その光景が、父親との唯一の思い出を鮮やかに蘇らせた。


「お父さん、良くないの?」


「え?」


 不意を突かれガタンと椅子が鳴った。返す言葉をあたふたと探す俺を、佳奈は真っ直ぐ見ている。佳奈にごまかしが通用しないことは俺がいちばんよく知っていた。


「誰から聞いたの?」


「文子さんだっけ、叔母さんの名前。昼前に電話がかかってきたのを私が受けたの。すぐにお父さんにかわったけどね。文子さんのお兄さん、つまりは陽平のお父さんが脳梗塞で入院して意識が戻らないのだけど、陽平のお母さんに知らせた方がいいかどうか困ってるって話だったよ」


「そう、なのか。それで、母さんには知らせたの?」


「うん、お父さんがすぐに電話してた。でも、会いに行く気はないみたいだって」


「そうなんだ」


 離婚してもう二十年以上になる。原因は耐え難い価値観の相違だそうだ。母親の今の気持ちがどんなものなのか、俺にはまるで想像がつかない。母親にはどう伝えようか、そもそも伝えるべきなのか迷っていたが、既に知っているのならひとつ肩の荷が下りたことにはなる。


「で、お父さんの具合いはどうなの?」


「うん、そうだな」


 もはや黙っている理由はない。


「叔母さんから電話もらってすぐに仕事抜けて病院に行ってきた。あの人は集中治療室にいて、まだ意識が戻らない。このままかもしれないし、明日目覚めるかもしれない。目が覚めたとしても後遺症が残るかもしれないし、何ともないかもしれない。結局のところ、先のことは何もわからないらしい」


 俺は事実だけを淡々と伝えた。いつになく真面目な佳奈の顔は極力見ないようにして。


「こんなことしてたら伸びちゃうな。もう食おうぜ」


 俺は箸を咥えて割り、水滴が辺りに飛び散るのも構わず勢い良く蓋を剥ぎ取った。たちまち湯気が立ち昇る。俺はカップを両手で持ち上げ、ふうふうしながらスープを啜った。喉から食道へ、そして胃へと温かい川になって出汁が流れ込む。それから少しふやけたそばをたっぷり挟むと、豪快に音を立ててすすり上げた。


「陽平、天ぷら忘れてる」


 佳奈が小皿に載せた天ぷらを目の前に差し出した。そうだ、これが無くてはたぬきではない。


「これをそのまま齧るのが旨いんだよな」


 あの日の父親の言葉が不意に蘇って箸が止まった。


「大丈夫?」


 半分齧った揚げをスープに戻して佳奈が俺の顔を覗き込んだ。


「俺さ、前にあの人と緑のたぬき食ったことあるんだ」


「え、いつ?」


 高校一年の夏、母親が再婚して隣県へ引っ越すことになった。母親は俺も連れて行きたがったが、入ったばかりの高校をやめたくはなかったし、何より母親の恋愛対象である新しい父親と暮らすことに少なからず抵抗があった。母は俺が気を利かせて無理をしているのだろうと勘ぐったりしたが、最後には俺の意思を尊重してくれた。


 それから一月ほど経った夏休みのある日、暇を持て余していた俺のところに一本の電話がかかってきた。父親の妹で、離婚後も義理堅くお年玉や卒入学祝いを送ってくれていた文子叔母さんからだった。それは意外にも父親が俺に会いたがっているという内容だった。


 離婚以来、俺はただの一度も父親に会ったことがなかった。だから父親は俺なんかには興味がないのだと思っていた。母親は父親について肯定も否定もしなかった。ただただ無関心だった。だから俺は父親に対して恨みもない代わりに愛着もなかったと思う。


 そうは言っても、心のどこかで父親を欲していたのも事実だ。父親に肩車された子どもを見るのが嫌だったし、父親参観日は仮病を使って休むことも多かった。そんな自分と決別したくて会いに行ったのかもしれない。


 決して広くないアパートの一室で俺は父親とぎこちなく向かい合った。そこでお茶より先に出てきたのが蓋の上に割り箸を載せた緑のたぬきだった。


 俺が不思議そうな顔をしていたのだろう、父親が少し困った顔で言った。


「小さい頃、お前好きだったよな? 母さんがいない時にこっそり食べたこと、覚えてないか?」


 俺は首を振った。母は俺がアトピーになって以来自然食にはまり、今よりずっと農薬や添加物に敏感だったと聞いたことがある。隠れてとはそういう意味なのだろう。母の言う価値観の違いとは、例えばこういうことだったのかもしれないとその時感じた。


 俺はきつね派なのになあと思いつつも、黙って箸を取り汁を啜った。どこで食べても安定の旨さだ。たまに食べるたぬきも悪くないと思った。


「天ぷらもあるぞ」


 俺は皿に載せた天ぷらを受け取るとそのままボリボリと齧った。父親も一緒になって自分の天ぷらをバリバリと噛み砕いた。


「これをそのまま齧るのが旨いんだよな」


 俺が緑のたぬきの天ぷらを齧るのは、目の前のこの人がルーツだったのだとその時初めて知った。俺の記憶にないだけで、この人と同じ場所で同じ時間を家族として過ごしていたのだ。


「すまなかった、この通りだ」


「え?」


 父親が箸を置いて唐突に頭を下げた。


「俺たちが別れたことでお前に寂しい思いをさせてしまった。そのことをずっとお前に謝りたいと思っていたんだ」


 俺は何だか不思議な気がした。そもそも俺の中に許すも許さないもなかったからだ。


「じいちゃんもばあちゃんも元気だし、母さんはいなくなったけどおじさんやおばさんもいとこも近くに住んでて困ることはないんだ。だから大丈夫」


「そうか……なら良かった」


 拍子抜けしたようにそれだけ言うと、父親は残った天ぷらをスープに混ぜ、音を立ててそばをすすった。沈黙の中で、俺はふと自分の言葉がこの人を傷つけたのではないかとの思いに至った。間接的にお前など必要なかったと言ったのではないかと。しかし、当時の俺に自分の思いを的確に伝える能力はなかった。だから黙って伸びた麺を啜るしかなかった。


「そんなことがあったんだね」


「ん」


「その後お父さんとは?」


「会ってない」


「そっか……でもさ、お父さん嬉しかったと思うよ」


「え? なんで?」


「息子の中に自分を見つけられたから」


「天ぷら齧ったこと? そんなことで喜ぶか? そもそも俺、きつね派だし」


「そうだったね」


 佳奈がクスクスと笑った。俺も何だか可笑しくなってヘヘと笑った。と同時に鼻の奥がツンとした。


「大丈夫、きっとまた一緒に食べられるよ」


 佳奈の手が俺の背中をぽんぽんと叩く。この手に俺はどれだけ救われてきたことだろう。


「今度は俺がおごるさ」


「だね」


 その時俺のメールの着信音が響いた。


「文子叔母さんからだ」


「なんて?」


 俺は絶句した。佳奈が急いで覗き込む。そして俺の首に両腕を回して抱きついてきた。俺の両目から制御不能な涙がダムの放水のように溢れる。


「意識が戻って、命の危機は脱しました」


 メールにはそう書かれていた。

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俺と親父と緑のたぬき いとうみこと @Ito-Mikoto

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