桜舞う季節。彼女がついた嘘。

木立 花音@書籍発売中

桜舞う季節。彼女がついた嘘。

 桜舞う、この季節がやってくると、否が応でも思い出す記憶がある。

 陽光のもとキャンバスを前にして筆を持ち、桜の木を見上げていた少女とこの場所で出会ったのが今から五年前。

 あの頃俺は、完全に人生に行き詰っていた。

 先の見えない暗闇のなかで、膝を抱えうずくまっていた。

 だが、彼女と出会ったことで確かに俺は救われ、そして、今の自分があるのだと思う。例えるならば、そう、彼女の存在が光明となって。


 これから俺は、俺の人生のなかで出会った、大切な少女の話をしようと思う。


 少女の名は──立花玲たちばなれい



 俺が住んでいる秋田県仙北せんぼく角館かくのだて地区は、桧木内ひのきない川の川堤に約四百本ものソメイヨシノが二キロメートルにわたって植えられている、花見の名所として有名だ。

 春になり、満開になった桜が見頃を迎えると、県内外から多くの観光客が訪れる。川堤には出店が並び、歓声を上げる子どもたちやカップルの姿で賑わい、桜が散るまでの間盛況が続く。「みちのくの小京都」として名高い武家屋敷周辺にあるシダレザクラとともに、日本さくら名所百選にも指定されており、角館のシンボルとなっていた。


 春風が吹く。

 桜の花びらが舞う。

 そんな光景を窓の外に見ながら、俺は今日も今日とて薄暗い自室で一人、パソコンのモニターと向き合っていた。

 家賃三万円のオンボロアパート。

 テーブルの上には、昨晩食べたカップ麺の空。絨毯の上には脱ぎっぱなしの洗濯物。

 自堕落な生活ぶりを示す部屋の中に響きわたるのは、俺がキーボードを叩く無機質な打鍵音だけんおんのみだ。

 一心不乱に文字を紡ぎ、一度消して、直喩から隠喩表現へと書き直す。


 商社マンとして三年の区切りまで頑張ったものの、小説家になる夢を諦めきれずに脱サラしてからもう三年。

 純文学と自称している作品を年に幾つも仕上げては、片っ端からコンテストに出していた。

 だが結果はなかなか出ず、落選した回数なんてもう覚えていない。

 順風満帆だったはずの俺の人生は、とうに行き詰っていた。

 無謀だったのか。どんな形であっても、会社に籍を置いておくべきだったのか。いつまで経っても芽の出ない自分に失望し、塞ぎこむ日々。

 そうして四年目の春を迎えた今日、俺の筆は完全に止まる。

 食いつなぐ程度のアルバイトしかしていなかったこともあり、小説を書かなくなると段々時間を持て余すようになった。

 やることがない。

 折角桜の名所なのだし、と外出してみることにした。

 自宅を出て細い路地を裏に抜け、やがて川沿いにでる。

 川堤の歩道を歩きながら、満開のソメイヨシノを見上げた。

 たまにはこうして、気分転換をするのも良いだろう。こうしていればそのうち、また書ける日もくるだろうさ。なんの根拠もないが。


 目的なく歩き続けること約二十分。

 川の方に向かってキャンバスを立て、筆を片手に椅子に座りうーんと唸っている女性を見つける。チラ、と目を向け、綺麗な人だなとだけ思った。

 本当はそのまま、通り過ぎるつもりだった。

 ところが、まるで運命という名の歯車にでも導かれるように、俺の目が女性の姿に釘付けになる。

 奇妙な雰囲気があった。儚げ、とでもいうのだろうか。ふと、視線を逸らしたその隙に、消えてしまいそうな危うさがあった。

 春の陽射しに照らされた肌は色白。ともすると、病弱にすら見える白と対照的に、背中まで伸ばされた髪は艶のある漆黒。

 睫毛の長い瞳は切れ長で、ふっくらとした唇は鮮やかな赤──。


「私の顔に、何かついていますか?」


 まるで、日本人形のようだな、と感想を抱いていた俺は、自分の足が止まっていることにも、女性に話しかけられていることにも気付いていなかった。


「あ、俺に話しかけてるの?」

「他に誰もいませんよ?」


 間抜けな声を上げた俺に、彼女はウフフと笑ってみせた。


「見ない顔だけど……この辺りのひと?」

「違いますよ、観光です。東北地方で桜の花が綺麗な場所を尋ねたら、こちらを薦められまして」


 なるほど、と俺が頷くと、再びキャンバスと向き合う女性。

 キャンバスの上に水彩絵の具で表現されているのは、桧木内ひのきない川の土手を彩る桜の木々だった。

 下書きに薄く色を載せ始めた段階であったが、構図はなかなかどうして玄人染みている。

「上手いもんじゃないか」と褒めると、「四季の光景を、形にして残したいんですよ」と彼女ははにかんだ。


「あなたも一緒にどうですか? ……とそういえば、お名前聞いても宜しいでしょうか?」

「高坂だ。……とそれはともかく、俺はキャンバスも絵の具も持ってないぞ」

「ああ、説明が不足していましたね。失敗してしまうことを考慮して、全ての道具をもうワンセット用意してあるんです」


 彼女は屈むと、足元にある風呂敷包みをぽんぽんと叩いた。


「なるほど。じゃあちょいとお言葉に甘えてみるかな」

「どうぞどうぞ」

「でも、本当に失敗したらどうするんだ」

「大丈夫です。私、失敗しないので」

「まるでどこかで聞いたような台詞だな」

「ウフフ」


 彼女が差し出してきた予備の椅子に腰掛け、キャンバスと向き合った。


「あ、でも大丈夫でしたか? 私、軽率に誘ってしまって──」そう言いかけた彼女の声は、俺が下書きの線を入れ始めるとするすると引っ込んだ。「凄いじゃないですか。正直、驚きました」

「一応、クリエイターを名乗っている人間なものでね。もう何年も前の話になるが、水彩画を描いていた時期がある」


 ぽつりぽつりと身の上話を語って聞かせると、彼女は興味深そうに耳を傾けてきた。


「小説家を目指しているのですか。随分と苦労されているのですね」

「無謀なことをするから、苦労するんだよ」と自虐的に笑ってみせると、「夢を追いかけている人は素敵です」と彼女がフォローをいれた。


 彼女の整った輪郭線を見やり、ほぼノーメイクなのに気がついた。


「あれ、もしかして君、高校生?」


 背が高く大人びて見えるしてっきり成人女性だと思っていたが、見方によっては高校生に見えなくもない。

 すると彼女、中空に視線を留めてこう答えた。


「いえ、本来ならこの春から大学生の予定でしたが、残念ながら志望校落ちちゃいまして」

「ああ、浪人生」

「夢も希望もありません」

「申し訳ない。はっきりと言い過ぎた」

「いえいえ、事実ですから」


 苦々しく笑みを浮かべたのち、今度は彼女の方から身の上話を始める。

 話の内容をかいつまんで説明するとこうだった。

 自宅は栃木県のさくら市にある事。今は受験勉強の合間で、父親の実家がある秋田に来ている事。角館には、一週間ほど滞在している予定である事。


「そんな悠長にしていていいのか?」

「いいんですよ。根を詰めて頑張ったところで成果はでません。時には息抜きも必要でしょう」

「まあ、確かにな」


 なにやら、自分のことを言われているようで耳が痛い。思えば俺も、少々頑張り過ぎていたのかもしれない。


 それからしばらくの間、二人並んで絵を描き続けた。俺は下書きが全て終わったところで。彼女は下塗りがある程度進んだところで今日はお開きとなる。


「それ、一式全部あげますよ」

「いいのかい? と言いたいところだが、こんなに使っておいて返す訳にもいかないよな」


 そうですね、と彼女が笑う。暮れ始めの西日のせいか、彼女の頬にほんのりと朱が灯ったように見えた。


「また明日もここに来るのか?」

「はい、来ますよ」

「また俺も来ていいかな」

「そりゃあもう、喜んで」


 ほんの気まぐれで、付き合ってみただけだった。もう一度本気で絵を描こうなんて、露ほどにも考えていなかった。それなのに。

 無心で筆を走らせているうちに、自分の中で何かが変わる気がしていた。再び小説を書くための、とっかかりになるんじゃないかとそんな気さえしていた。


「なあ」

「はい?」

「君の名前を、うかがってもよいだろうか?」

「なんですか、また改まって。名前なんて、そんな特別な物じゃありませんのに」


 そう前置きをした上で、彼女はこう名乗った。


 立花玲たちばなれい、と。



 翌日から、川縁に二人並んでひたすら絵を描き続ける日々が始まった。

 こうしてじっくり観察していると分かるのだが、玲は別段絵が上手い訳でもなかった。構図の取り方やデッサン力には光るところもあるのだが、色塗りの技術については素人に毛が生えた程度でしかない。

 故に、見兼ねた俺がお節介焼きを発動して、彼女に手取り足取り教えてしまうのも必然だった。


「物書きの人だからと侮っていましたが、なかなか上手いのですね」

「一応、中学のとき美術部だったしな」

「へえ~……。あれ? じゃあ、いつごろから小説を書き始めたんですか?」

「高校に入ってからだね。高校時代は文芸部」

「またどうして? こんなに上手いのに」

「小説を書くのだって上手いぞ。受賞できていないだけで」

「そうでしたね。すいません」


 などと誤魔化しておいたが、言えるはずなどなかった。

 中学の時、同じ部活の同級生に告白してフラれた為、気まずくなって美術部を辞めたんだ、なんて。

 ましてや初恋のその子が、君とよく似ているなんてことは、言えるはずがなかった。


 ともかくこうして、俺と玲が絵を描く日々は続いていく。

 それこそ雨が降った一日を除いて、毎日決まった時間。決まった場所でただ黙々と二人で桜のある光景をキャンバスの上に表現し続けた。一週間が過ぎ、彼女が父親の実家に帰る前日を迎えた。

 ほぼ完成に近い状態までこぎつけたお互いの絵を称え合いながら、『そうか。彼女と会うのも今日で最後なんだな』と、ほんのりとした切なさが胸を過ぎる。


「明日、帰ってしまうのか」

「そうですね」

「寂しくなるな」

「あら。ずっと独り身だった冴えない男性が、随分とおセンチになったものですね」

「そんなんじゃねぇけどさ。で、この絵、どうするんだ? 最後の仕上げは実家でやるのか?」


 八割ほど完成した彼女の絵を見ながら、そう訊ねてみた。


「そうですねえ。まあ、そうなるのかな」

「コンテストに出してみる、というのはどうだ?」

「コンテストですか。そこまでは考えてなかったですね」


 スマホに表示させたコンテストのページを彼女に見せると、面白そうですね、と思いの外良い反応を示した。うん、事前に調べておいた甲斐があった。


「へえ、作品を郵送する以外にも、写真で応募することもできるんですね」

「今はインターネットで応募できるからね。便利になったものだよ」


 締め切りは六月の末だったので、まだ時間的に余裕もある。お互いじっくり仕上げて応募しようと誓い合った。


「それでさあ……」と、片づけを始めた玲に話し掛ける。

「はい。今度はなんですか?」呆れたように笑いながら、彼女が答える。

「君が良かったらなんだけど、連絡先を交換してくれないか」

「あはは、なんですかそれ? ナンパですか?」

「いやだってほら。コンテストに向けての進捗報告とか結果が出たら労いとか色々したいしさ」


 ふーん……と言って横顔になった彼女は、秒針がふた周りするくらいたっぷり悩んだのち、「いいですよ」と答えた。ちょっと悩みすぎじゃないですかね。


 こうして俺たちは、チャットアプリでお互いの連絡先を交換しあい、手を振り合って別れた。遠ざかっていく長身ながらも華奢な背中が、視界から完全に消えてしまうまで見送っていた。

 不意に吹いた一陣の風が、見頃を過ぎて緑色が目立ち始めたソメイヨシノの枝を揺らした。


*


 それから俺は、まあひたすらに小説を書いて──なんてことはなく、一心不乱に水彩画を仕上げた。

 今まで忘れていた情熱をキャンバスの上に叩き付けるように、ただ無心で。

 玲とは、別れた二日後に早速連絡を取り合った。「進捗どう?」「まあ、ぼちぼちかな」そんな感じの事務的なやり取りでこそあるが、早めに連絡しておかないと、早々に関係が自然消滅しそうで怖かった。

 自分の感情が恋心なのか。それとも男女の友情なのか。自分でもよく理解できていなかったが。

 男、高坂二十九歳。 

 久々にやってきた女性との繋がりに、心が弾んでいたことは否めない。


*


 季節はめぐり六月。じめじめとした梅雨の時期を迎える。


【先ほど、ウェブから申し込んだよ】


 と俺がメッセージを送信すると、


【私は先週応募しました】


 と淡白な返事。

 そうか、順調じゃないか、感心感心。よもや進捗で追い越されているとは予想だにしていなかったが。


*


 七月──。

 いまだ収まりを見せない、新型感染症ウィルスの影響で開催が危ぶまれていた夏の甲子園大会の実況を聞きながら、俺は小説の執筆を再開していた。──してはいたが、いまひとつ筆は走らない。

 絵画の筆はあんなに走ったのに、と心中で自嘲しながら、すっかり緑に衣を変えた桜並木を見上げて散歩した。


 この頃にもなると、玲と連絡を取り合う回数もめっきり減っていた。

 まあ、それもしょうがないことなのだが。三十路手前の男と希望に胸を膨らませる十九歳。

 そもそもの話、接点がある方が稀有なのだ。

 たまにするやり取りで、彼女の受験勉強が順調なことだけは把握できていた。感心感心。俺と違って。


*


 九月。

 なんとか締め切りに間に合わせ応募した公募の結果を待ちながら、自堕落な日々を過ごしていた。

 いや、あんまり前と変わっていないか。

 自分がなんとか社会の歯車になれていると自覚できるのは、週に何度かある派遣のアルバイト業務をこなしている時くらいだった。


 何時もと同じ。ベッドの上に寝転びぼんやりと天井の染みを数えていたその時、不意にスマホが着信音を奏でた。

 これは、チャットアプリの着信ではないな。

 そう思いながら画面を確認すると、メールボックスに入っていたのは『受賞』を知らせる文字。

 ただし、小説ではなく水彩画コンクールの方の。


「マジか!?」


 俺は跳ね起きると、早速玲に受賞を報告するメッセージを打った。返信は、即座にあった。


【聞いてくれ! 水彩画コンクールの結果が今届いたんだが、佳作を受賞した!】

【本当ですかやりましたね! 私は連絡が無いのでダメだったようですが、自分のことのように嬉しいです。おめでとうございます!】


 運気が向いてきたかもしれない。お祝いのメッセージが表示されたスマホを抱いて、俺はベッドの上に倒れこんだ。

 最高だ──。


*


 けれどまあ、人生というものは、そんなに上手いことばかり続かないわけで。

 七月に出していた公募は結局一次選考で落選。思いつきから、以前送った作品に手直しをして、また別の公募に送ってみることにした。

 元々自信のある作品だったから、きっとなんとかなるはず。そんな感じの、淡い期待を持って。


 そのまま彼女とは疎遠になって、季節だけがめぐっていく。

 十月末締め切りの公募に原稿を送り、木々が色づく秋がきた。そして、手足凍える冬が。

 年末ころウェブサイトで確認すると、一次選考は通過していた。来年はいい年になりそうだ。そう思いながらもいつの間にか公募の事も忘れ、気がつけばもう二月。

 そんな折、そう言えばそろそろ、とウェブサイトを確認すると、二次選考通過者の中に自分の名前があった。

 そこまで期待していなかっただけに驚いた。喜び勇んで玲にメッセージを送った。──聞いてくれ、二年振りに最終選考に残ったんだ!

 だが、彼女からの既読はつかなかった。

 その日の夜になっても。翌日になっても。そのことを俺は、辛いとも悲しいとも特に感じなかった。

 考えてもみろ。俺たちは十も歳が離れているんだ。彼女が今よりもっと大人になればと、そんな淡い期待がなかったわけでもない。だが、彼女と疎遠になるのはきっと必然だったのだ。曇っていた空から雨が降ってきた、とでもいうべきか。ついにこの日が来たか、という感覚しかなかった。

 むしろ、今までこんなムサい男に付き合ってくれてありがとな。

 そうして俺は、眠りについた。

 窓の外では、しんしんと雪が降っていた。


 進展があったのは、それから更に三日が過ぎたころ。

 玲に送ったメッセージに突然既読がついて、返信まであったのだ。

 天井の沁みを物憂げに数えていた俺は、慌ててスマホの画面を表示させた。次の瞬間息を呑んだ。


【あなたは、玲のお友達か何かですか?】


 嫌な予感が──していた。



 一週間後。俺は栃木県さくら市に来ていた。

 向かった先は、立花玲の自宅。そこは、白い塀で囲まれた、よく手入れされた芝生の庭を備えた小奇麗な一軒家だった。


 玄関で挨拶を済ませると、彼女とよく似た雰囲気を持つ母親に案内されて玲の部屋に向かう。母親が「こちらです」と言って扉を開け、一歩入った瞬間に驚いた。

 主が居なくなった事を示すかのように整理整頓された部屋の壁に飾られていたもの。それは、絵画。

 水彩絵の具で描かれた絵は全部で四枚。


 一枚目。俺もよく知っている、桜の木々と川堤の光景。


 二枚目。浴衣を着て、花火を見上げている少女の後ろ姿。


 三枚目。紅葉した木々に囲まれた校舎の姿。


 四枚目。しんしんと雪が降っている街並みを、窓ガラス越しに描いた物。


「四枚目の絵が、玲が最後に描いたものなんです。亡くなる一週間前に病室で完成させた物で、玲が見ていた最後の景色でもあるんですよ」


 そう言って堪えきれなくなったのか、母親は静かにすすり泣きを始めた。


 膵臓癌すいぞうがん。それが、玲が侵されていた病の名称。十二月頃に体調を崩して緊急入院すると、延命治療の甲斐も無く二月十四日に息を引き取ったのだそうだ。俺がメッセージを送った前日には、もう彼女はこの世界にいなかった。そりゃあ、返信なんてあるはずもない。

 だが俺が一番気になったのは、むしろ夏の一幕を描いた絵の方だった。


 紺碧の夜空に咲いた、大輪の花火を見上げているのは一人の少女。

 細い体躯と長い髪。

 着ている浴衣は白地にピンクで桜の花が刺繍されており、それはまるで、俺と共に過ごしたあの日の桜のようで。

 一人佇む少女の背中は、どこか儚げであり、また、寂しげでもあり──。


 なぜだろう、俺は思った。


 きっとこの日、彼女は泣いていたのだろうと。

 きっとこの日、彼女は失恋をしたのだろうと。

 そして、失恋をした相手は、残念ながら俺じゃないのだろうなと。

 それでも、と俺は思う。短い期間でこそあったが、俺と過ごしたあの日の記憶が、彼女にとって心の支えになっていたらいいなと。

 それだけを願った。


『いえ、本来ならこの春から大学生の予定でしたが、残念ながら志望校落ちちゃいまして』


 あの日聞いた玲の言葉。だが、これは嘘だった。なぜならば彼女、高校三年生なのだから。何故こんな嘘をついたのかわからないが、高校生が平日うろうろしていたら、何か事情がありそうだと勘繰られるのは自明の理。『闘病中である』という事実を隠すため、咄嗟についた嘘だったのかもしれない。


『いいんですよ。根を詰めて頑張ったところで成果はでません。時には息抜きも必要でしょう』


 同様にこれも嘘だった。母親いわく、玲が余命宣告を受けたのは今年の初夏。四月の段階ですでに、彼女が自分の死期を悟っていたであろうことは想像に難くない。時には、どころか、勉強を頑張る理由が彼女にはなかった。

 だからこそ、俺に連絡先の交換を要求された時も、彼女は逡巡する仕草を見せたのだろう。

 一方で『四季の光景を、形にして残したいんですよ』という発言は本当だった。全ては。


 ──自分が居なくなる人間だと知っていたから。


 俺は彼女のことを、美人で、自由奔放で、恵まれた環境で生活している女の子だと思っていた。だがそれは、全て俺の勘違いだった。

 彼女は誰よりも弱くて嘘吐きで、そして、誰よりも不自由だった。


『あはは、なんですかそれ? ナンパですか?』


 この発言にも他意はなかったのだろうか。だが、そんなことは最早どうでもいいこと。玲はもう、この世にいないのだから。


「玲がね、よく言っていたんですよ。最近絵を描きたいって気持ちが強くなった。それは、新しく出来た友達の御陰なんだって。それがきっと、高坂さんのことだったんですね」


 母親のその一言だけで、充分だと俺は思った。


 よし、とヤル気が漲ってくる。創作意欲が湧きあがってくる。

 書こう、彼女の物語を。立花玲という少女の生き様を。



 これがのちに俺のデビュー作となる、『余命一年の彼女』である。


~FIN~

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