第6話 アンインストール

 ガンで亡くなった妻に宛てた手紙。いや、離婚した妻のことを「君」と例えて執筆した長編小説が終盤に差し掛かったときに、はじまったのはコロナだった。スペイン風邪以来の疫病だった。僕らはマスクをつけることを余儀なくされる。工事現場はほとんど完成している。悔しいことに僕の長編小説より先に完成しそうだ。僕は、自分の執筆速度の遅さを呪った。何がプロとアマを隔てるのか、その壁が何なのか。未だに答えは出ない。受賞するか、受賞しないか。一次選考を通るか、通らないか。給料をもらうかもらわないのか……。


「通って下さい」


 工事現場を足早に駆け抜ける。大型トラックの数もめっきり減ってきたが、今度は植木を搬入している。美しいマンションが建った。きっと、ここに新たな物語をはじめるために新婚夫婦が入居してくるのだろう。なぜ、そう思うのか僕は分からない。だけど、それが僕と妻だったらよかったのに。まあ、それはあり得ない。過ぎたことは戻せない。


 作品の完成が、工事現場に負けるとは思わなかったな。だけど、これが僕の歩む速度なら仕方がない。少しでも早歩きができるように、あわよくば走り続けられるように。僕は、書くしかない。スマホゲームもアンインストールした。だけど、それだけで何かが変わるわけではない。僕は、まだ模索している。そして、「君」との物語を描き続ける。そうだ、作品が完成したらコンビニでビールを買おう。君のテーブルクロスも光るぐらい磨こうか……。


 君へ送る物語が君に届かないことを僕は知っている。君のいない世界で僕はこれから建つマンションを毎日目にするのだろう。移り住むか? 一軒家は今の僕には広すぎる。「君」を小説に落とし込んだ暁には、心機一転して引っ越すのもいいかもしれない。「君」のテーブルクロスが埃かぶってしまうこともない。君を文字に閉じ込めて、僕は家を離れる……。そうすれば、この作品そのものにも意味を持たせることができる。そう信じたい。


〈君は出て行った。その日を僕は忘れない。君の食器を並べて僕は君と向かい合うつもりで食事をする。今日はガーベラを買ってきたよ。一輪と言わず、花瓶に生けよう。君は僕を馬鹿にしたような顔で笑う。その笑顔を僕は忘れない。僕はスマホで書き留めるよ。これからも〉

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大きな積み木 影津 @getawake

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