第4話
子供の頭くらいある石を、いくつも川原で拾ってきた。三竹坊の貸してくれたリュックサックは石で満ち満ちてはちきれんばかりである。
二人がいるのは中学校の屋上だった。川原に面したそれは鉄筋三階建ての頑丈そうな建物だ。もしかしたらこの辺りで最も高い建物になるのかもしれない。すでに夜に入った校舎。遥は着慣れない服を脱ぎ、すでに天狗の装束に着替えていた。彼女はフェンスよりも頭ひとつ高い、屋上出入り口のさらに上に立っている。あたりに風はない。
「わたしは、三竹坊とは違う天狗だから」
言いながら遥はリュックサックからひとつひとつ、石を出して並べた。三竹坊はまるで膝を抱えるようにして、出入り口の縁に座っている。彼は黙って彼女の動作を見ていた。
「だから、三竹坊の言うことはよく判らないよ」
石は全部で七個あった。彼女は内のひとつを手にする。女の片手には大きすぎるようにも見えたが、天狗の怪力である。まるで感触を確かめるように何度か、手で弄んで彼女は彼を真っ直ぐに見た。見上げるような彼の視線と、絡まった。
「でもわたしたちは、その時にしたいと思ったことを、そしてしなきゃいけない事を、やっていくしかないんじゃないだろうか」
微笑であった。まるで優しい微笑であった。そして不意に振り返り、彼女は手にした石をまるでつむじ風のような勢いで街中へ投げ込んだ。
きゅどっ。
奇妙な音だった。ぶつかるというよりは、何かがはめ込まれたような音だ。一拍遅れて土煙があがる。三竹坊は目を大きく開いてそちらの方向を見た。件の家のある方角だった。
「あ、雨縞」
「外しちゃった」
三竹坊を無視するような、独り言のような声。片目をつぶり、彼女は次の石に手を伸ばした。二人の見る先、土煙のおさまったそこには、やはり例の家があった。中学校からそこまで、距離にしてどのくらいだろう。ゆうに十町、現代の単位にして一キロメートルほどは離れているだろうか。夕闇に紛れ、もはや常人の目では闇との境目さえ怪しい距離である。しかし二人には見えた。屋根に派手な穴が開いていた。穴の開いた屋根の上で、眼球の怪異がゆっくりとその体の向きを変えている。おそらくそれはまだ、何が起きたのか理解していないようであった。
「雨縞、きみは」
「…やっちゃった」
「やっちゃったじゃないだろ」
「でも、始めちゃったものは仕方ないじゃない」
おそらく、件の怪異は雨縞遥の手にはあまる。それは確かであった。
「次は当てる」
短く言って遥は大きく振りかぶる。肩を開き、限界まで体をひねる。ぴたりと静止する瞬間。彼女は目を細める。
そして投げた。
その軌跡は人の目には止まらない。まるで残像のように彼女の腕が振りぬかれ、音だけを残して石が飛ぶ。
石が激突するのと、眼球の化物が二人を視界に捕らえたのは同時だった。今度はさっきよりも低い音がした。確かな激突音だ。だがそれは怪異を捉えた音ではない。ただ、硬いもの同士がぶつかった音だ。
「外した!」
遥が漏らしたのは短い声。軽く息があがっている。
「わたしは思う」
言いながら遥はまるで大砲の射手のように、次の石を取り上げる。
「わたしたちは出来ることを、ただしていくしかないんじゃないだろうか」
振りかぶって、そして再び投げる天狗の姿。
「結局同じことを繰り返すことになるけれど、それはきっと途方もないことではなくて」
三度目の激突音。そして静かだった町の空気がざわめきだす。町の住人たちも、自分の町で何事かが起こっていると気付いたのだ。そしてさらに彼女は四つ目の石を手に取った。
「むしろ、地に足をつけたことなんじゃないだろうか」
煙がおさまってゆくそこに、眼球の怪異の姿はなかった。
「三竹坊!」
遥は短く叫んで飛びのいた。三竹坊も一拍遅れて飛び退る。寸前まで二人の居た場所を、黒いもやのようなものが通り過ぎた。蜂の群れの唸るような音が聞こえる。
「汝、野に暮らすれば罪なくも、そこに人のある時は」
飛びのいた遥は空中で体をひねりながら手にしていた石を投げた。石は屋上への出入り口を直撃する。ずっ、と骨に響く音がした。まるではじけるように石は飛散し、鉄製の扉はひしゃげて、おそらく二度と開かないであろう形に成り果てた。石の欠片がばらばらと落ちるのにあわせて、眼球の怪異がゆっくりとそこへ降りた。再び当てそこなったのだ。それは地面から子供の膝くらいの高さに浮いている。やはり黒いもやのようなものが、その周りを覆っていた。それは表皮ではなかった。もやは絶えず少しづつ形を変え、ぶんぶんという音はそこから聞こえるようであった。眼球は、もやのまぶたを大きく見開いている。黄色く濁った眼球はぎょろりとその焦点を彼女へあわせた。
着地した遥から出入り口、怪異まではおよそ三間、六メートルほどである。彼女とは離れた方へ着地した三竹坊は片方の膝をついて、もやに包まれた巨大な眼球と彼女を見つめている。眉根にきつい皺が寄っていた。
「野に戻るならよし、さもなくば」
じりじりと体勢を変えて、遥は宣言した。天狗の正式な化物退治口上である。呼応するように蜂の唸り声に混じって何か、聞きなれない音が聞こえてくる。低く響くような、喋り声に似た何かだ。古い言葉でもない。やたら韻を踏んだ音であった。耳を澄ませ、三竹坊は叫んだ。
「雨縞、こいつは、日本の化物じゃないぞ」
斜から聞こえた三竹坊の声に、遥は口元をすこしひきしめた。三竹坊の声は随分と彼女を勇気づけた。化物と相対するのは心弾むことではない。それに、もともと最初の狙撃で決着をつけるつもりであった。生身で相対せば打ち倒せるかどうかわからない相手である。噂に聞こえた本陣三竹坊が加勢してくれるとなれば、これほど心強いことはなかった。
「三竹坊」
彼女は斜の彼を呼んだ。
「もう、退治するしかない。わたし、英語よく判らないし」
返事はない。
「三竹坊?」
「……おれはだめだ」
まるで搾り出すような声だった。遥は少し慌てて聞き返す。
「駄目だって何が」
「おそろしい」
「だから何が」
「もしも、山を降りて久しいおれが、すでに天狗でなくなっていたとしたら」
「ばかっ」
遥は横飛びに飛びながら叫んだ。すでに夜である。闇の中に、さらに色濃い眼球の落とす影から、何か細いものが彼女のほうへ一直線に伸びてきていた。その軌跡は目に映らない。影だけがそれを見せる。かわす寸前、彼女はその正体を見た。
腕であった。
厚みを持たない腕だ。飛び退る時に少しだけ見えた。ぺらぺらの、まるで紙のような腕が、さっきまで彼女のいた場所を掬うように地面から這い登っていた。地べたの影から生まれて、地べたの影に帰る腕だ。正直なところ、ぞっとした。捕まれたらどうなるかというよりも、それに触れてはいけないということを直感で理解した。彼女は飛びのき、そして自分がしくじったことを知った。咄嗟のこととはいえ、川原で拾ってきた石の転がっている方から、遠い方へ飛びのいてしまったのだ。
「三竹坊、どうしたの!」
三竹坊に冗談を言っている様子はなかった。だがしかし、戦いに加わる様子もなかった。再会したときと同じ、ただの大学生のような格好で、身構えているというよりはもっと別の、少し背中を丸めるような姿勢で手すりを背にしゃがんでいた。
眼球も、彼に注意を払う様子がなかった。ひとつしかない目が、彼女の方だけを向いている。三竹坊のことを、敵対する脅威とは思っていないのだ。悔しいような、奇妙な感覚だった。自分がひとりで苦戦していることよりも、三竹坊を歯牙にもかけない様子の眼球に腹がたった。奇妙な感覚だった。
ふたたび、円運動を描いて眼球から影が伸びる。反射的に飛びのこうとして、すんでのところで彼女はとどまった。息を止め、びん、と背筋を反らせて動きを止める彼女の数歩前を、厚みを持たない腕が掬いあげた。きら、とその側面が光り、そこへ彼女は自分の姿が写るのを見た。そこには、青ざめた表情の自分が映っていた。
そこに映ったのは、まぎれもない自分の姿であった。
身勝手に化物に戦いを挑んだというのに、いざとなったとき、一人でやり遂げるだけの自信がない。彼女は咄嗟に、三竹坊の助太刀を期待してしまった。まさに他力本願の姿だ。それはみっともないというよりも醜いというべきだと彼女は思った。
とぷん、と音を立てるように化物の腕が影の中に帰る。彼女は片膝をついて息を吐き出した。映ったのは見たくないものであった。しかし、見なければ気付かないものもあった。
「まるで、鏡だ」
呟いて彼女は落ち着きを取り戻した。そういえば出かける前、見たいと思っていたのも鏡だった。そうだ。これが終わったら三竹坊に鏡を借りよう。ずいぶん遠回りをしてしまった。三竹の天狗堂にあった丸い神鏡ではないかも知れないが、今や町で暮らしている身なら、手鏡のひとつくらい持ち合わせているだろう。彼女は両手をつき、屋上の感触を確かめるように頷いた。
「……三竹坊、怪我したのね?」
彼女は体を起こしながら三竹坊へ声をかけた。そうなのだ。冷静に考えれば、そうとしか思えなかった。
「さっき飛びのいて、飛び降りる時に、怪我を」
それは、天狗にはありえないことであった。何里もの距離を跳び歩く天狗が、たった一間二間の高さから飛び降りて足を捻るなど、考えられないことであった。三竹坊は答えない。それは何よりも雄弁な答えだった。
遥は返事を待たずに走り始めた。天狗は人間より頑丈である。だが、皆、生き物なのだ。何も変わらない。彼女の走る先は三竹坊のほうではなかった。化物のほうでもない。川原で拾った石の転がる方でもない。走る彼女を追うように平面の腕が数度振り上げられた。寸でかわし、彼女はとうとう転んだ。転がり、そして屋上の隅で立ち上がる。
「見ておいて」
聞こえるはずはなかったが、彼女は小さい声で三竹坊へ呟いた。立ち上がり、彼女は斜めに眼球を見た。眼球は滑るように左右へ振れながら彼女へ近づく。羽音がぶんぶんと唸りをあげていた。彼女は袖に手を隠している。袖のうちには転んだ時に拾った、小さな石のかけらを握っていた。
「これにあるは、海老根小天狗」
相手が充分な位置に来るのを待って、彼女は名乗った。自分にとって充分な距離であるということは、相手にとっても充分な距離だということだ。少しだけ震えるような気持ちになった。まるで耳を澄ませるように、眼だけの化物がその歩を止める。粘つくような悪意が空気から滲んでくる。敵意とは違う。悪意だ。自分を害そうとする相手に向けられるものとは違う。相手は、ただ彼女が苦しむところを見たいのだ。人間の住むところに取り憑いて、じわじわと不幸をなめ取ることとは別種の悦びを、この怪異は求めている。痛みや恐怖で、彼女がのたうちまわる姿が見たいのだ。苦しみによって形づくられた怪異であった。それは人を引きずりこみたいのだ。自分と同じ、悪意で作られた泥沼に天狗を引き込みたいのだ。泥の中へ引きずり込んで、見ろ、お前も我々と同じではないかと嘲りたいのだ。
しかし孤独が自分を守る。彼女はそう思った。孤独はまるで冷たい冬の空気のように、悪意と自分とを隔てる清浄な空気の流れとなる。孤独とは天狗の持つ唯一の武器だ。
彼女は相手の目をまっすぐに見た。怪異の目を見ることは避けるべきものだと一般には言われている。悪意や恐怖は伝染するからだ。ましてや相手は眼球の化物である。目を合わせることにどんな危険があるか分かったものではなかった。だが彼女はあえて目を合わせた。じっとその瞳をみつめる。辺りは暗い。化物の瞳孔はすでに開いている。開いた瞳孔で、化物はやはり笑っていた。遥はため息をつき、そして袖から手を出した。
「笑うな」
影の手よりも彼女の手の方が早かった。振り上げながら石が放たれる。影の手は彼女をかすめ、屋上の手すりをもぎ取った。影の手を避け、倒れこみながら彼女は自分が投げた小石が眼球の瞳孔へ吸い込まれるのを見た。
きゅ、とやはり何かを擦るような、はめ込むような音がして小石は眼球をつきぬけ、出入り口の壁へ刺さった。化物の体の内側には赤黒い肉があった。空気の抜けるような悲鳴が聞こえた。まぶた代わりの黒いもやが、まるで涙のように流れて屋上の床へ落ちた。それは少しだけ蠢いて形を保てなくなっていった。あとには黄色味のつよい眼球だけが、まるで浮力の残骸にしがみつくようにしばし揺れて、そして染みの上に落ちた。空気に触れて腐るように、それは地面へ落ちて形を崩していった。球を形づくれなくなる刹那、まるで断末魔のようにそれは遥のほうへ穴の開いた瞳を向けた。
「これも定め」
遥は低く息をついて、地面に広がる染みを避けるように少し動き、立ち上がった。影の手がかすめた手すりは、すっぱりと切断されている。彼女は眼球がぐずぐずと溶け、すっかり何も残さなくなったことを確認してからため息をついた。
「…いや。定めじゃないよな」
遥は服の埃を払い、化物の死んだ臭いに顔をしかめてから手すりの切断面を少しだけなぞった。なぞっただけで手の切れそうな切断面であった。
「そうだ。定めじゃない」
繰り返すとそれは、体に染みるように思った。定めではない。こうなることは決まっていたことでも、繰り返しの結果でもない。彼女が選んでここに対峙し、ひとつの答えを出したのだ。
「…寒」
息を吐き、自分を抱きしめてから彼女は三竹坊の方へ向かった。
足を折った男を背負って町へ跳んだときのことを、また思い出していた。背中に息づく体は生きている証拠だ。怪我をすると体温が上がるのだろうか。なんだか背中の三竹坊をやけに熱く感じた。彼女は三竹坊を背負って一度だけ跳んだ。着地したのはアパートのそばの駐車場であった。がらんとしたそこには、白い車が二台止まっている。人気はなかった。遠くに消防車のサイレンが聞こえた。遥が石を投げて破壊した家は、ここからは随分遠い。
送るよ、と揺すって位置を直すと、いいよ、ここからなら歩ける、と三竹坊は彼女の背中から降りた。体が離れ、二人は夜の闇にお互いの顔を見つめあった。
三竹坊と初めて出会ったのはいつだったか、不意に遥は思い出した。それは雨の宵、山狒々退治であった。群れなしてやってきた山狒々を追い返す用事だ。その山に住むのは老いてはいたけれども人のよい天狗であった。彼は、人はよかったが衰えていたので怪異を退けるにも人の手を必要としたのだ。一宿一飯の義理で顔を出したその晩、そこで初めて同年代の天狗と知り合った。それが三竹坊であった。
それは森の深くだった。遥は山狒々に殴られて切れた口をぬぐい、三竹坊は脱げた下駄を手でぶら下げて、今のように向き合った。そうだ。初めて出会ったとき、自分は彼に助けられたのだ。まるで、そのずっと前から知り合いだったような気がしていたのは、それからもずっと、三竹坊に会うのが暗い森の奥であったからだろうか。三竹山へ訪ねてゆくと、大概彼は一仕事を終えた後で、またきみか、と迎えてくれるのであった。
夜の森の深く、向かい合う白い顔。夜に浮かぶ白い顔である。町の駐車場は森の奥に少しだけ似ていた。木々には様々の生き物が住む。だが、注意しなければ判らない。何も知らなければ誰もいない夜の底のように思える。夜のアパートや夜の家もそれと同じだと思った。ここは田舎の町である。往来する人の声は聞こえない。どこからか、かすかに聞こえてくるテレビの音や音楽やサイレンは、夜の森のどこかで鳴く獣の声のようだった。
三竹坊は今、何を考えているのだろう、と遥は思った。いつものことながら彼の表情はひどく読みづらかった。
「ねえ、三竹坊」
彼女は話しかけて、迷った。三竹坊が山を捨てたのか。それとも山が三竹坊を捨てたのか。目の前にいる天狗が変わってしまったとは思わなかった。彼がはじめて出会ったとき、彼女を助けてくれた勇敢な天狗であることには変わりなかった。
だが、と彼女は思った。だが、本当に彼は天狗でなくなってしまったのだろうか。雲を踏み、姿を変え、千里を見通す力を失ってしまったのだろうか。おれは一体誰だ、と呟いた彼の顔を思い出した。穴のような眼であった。暗く、光をかえさない眼であった。
もし彼が、すでに天狗でなくなっていたとしたら、自分のしたことはただ、彼の身辺に波風を立てただけなのかもしれないと彼女は思った。人に害なす怪異を退治したということと、彼の身辺に波風が立つということは別のことだ。別のことだが、同じ自分がしたことだ。分けて考えるべきなのかもしれなかったが、できなかった。
これから先、新しい流れ者の怪異が空白のこの町へやってきたとして、自分は何が出来るだろう。眼球の化物よりも、もっと性質の悪い怪異が流れてくるかもしれない。その時彼女はこの町にいない。それは、なんという無責任なのだろうか。
「ごめん、わたし、三竹坊の周りを、滅茶苦茶にしたよ」
返事はなかった。許されると思っていないのに謝るのも、卑怯なことかもしれないと彼女は思った。そう考えたら彼からの返事が不意に怖くなった。天狗は孤独の生き物である。しかし、だからといって人と断絶するのが平気というわけではない。怖くなって彼女は返事をされる前に言葉を続けた。
「わたし、三竹坊が天狗をやめるなんて思ってなかったんだ」
再びの沈黙。自分が何を言いたいのか、考えながら彼女は自分の腕を掴んだ。
「何もしないで、波風を立てないで生きていくって言ってたけど、それがなんだか、無理をしているみたいに、見えて」
勝手なんだけどさ、と彼女は小さい声で付け足す。
「わたしは町に降りて暮らしたことはないから、よく判らないけれど」
言葉に詰まる。泥にはまってゆくような気がした。考えて喋って、付け足して、付け足して、結局言いたいことからずれていってしまう。わたしは頭が悪い。彼女は唇をかんだ。言いたいことをすっぱり表現できる人が羨ましいと思った。
三竹坊はただ黙って彼女を見ていた。彼女は視線を外した。
「もう、三竹坊は雲を踏めないの?」
ややあって、遥は尋ねた。残酷な質問かもしれなかった。だが、それが彼女の一番聞きたかったことだ。彼女は泥から足を踏み出した。
長い長い沈黙の後、三竹坊は呟いた。
「判らない」
そして彼は顔を上げた。
「おれはいつか、三竹に戻るのだろうか」
返事は出来なかった。なんと言うべきなのだろうと彼女は考えた。
「だがおれは、今はこれでいい。よたつきながらアパートに戻り、明日からまた人間と同じようにここで暮らす。今はそれでいい。それでいいと思うんだ」
三竹坊は遠くを見るように呟いた。
「しかし、無茶をするじゃないか」
彼はがらりと声の調子を変えた。いつもの、彼女が知っている三竹坊の声であった。石だよ、石のことだ、と彼は口を曲げた。彼女の砲撃のことを言っているのだ。返事できないでいると、三竹坊は仕切りなおすようにため息をつき、肩をすくめた。
「昔はああいうとき、仏像を使ったものらしいよ」
「?」
「不幸続きだった家がある日、滅茶苦茶に壊れる。もちろん天狗の仕業だ。さっきのきみと同じことをしたんだ。そして、家を壊された住人は途方に暮れるのだけれど、残骸から見覚えのない仏像が出てきてさ。家を壊されたっていうのにありがたがる訳だ」
「…仏像が降って来たから?」
「そう。そして、その仏像を拝みながら彼らはもう一度いちからやり直す。憑いた魔物もいなくなってるし、今度はうまくいきやすいじゃないか。そしていつか金持ちになって、そいつらは言うんだ」
一度言葉を切って、三竹坊は指を立てた。
「ご利益だ」
そのタイミングがおかしくて遥は少し笑った。笑うと三竹坊は少し嬉しそうな顔をみせた。
「そういう昔話がいくつもあるよ。この辺りにもあったはずだ」
昔は素敵な天狗がいたものだ、と彼女は感心するような気分になった。声高に自分の手柄を主張するのではなく、影にひそんで、後のことまで考えて魔物を退治する。それは格好のいいことだと彼女は思った。
「いいね。それは。天狗なのに、なんか、謙虚でさ」
遥が呟くと、彼は眼を丸くした。違う違う、と手を振る。
「ちがうよ、雨縞。天狗はもともと目立つのが好きな生き物だ。たぶんそれは正体を隠してた訳じゃない。天狗はせっかくの自慢する機会に、きっと黙ってはいないよ。夢枕にでも立って、さあおれに感謝しろ、新しい天狗堂を建立しろって毎晩でもやるぜ」
楽しげな様子の三竹坊。遥は口を曲げて黙る。せっかくいい話を聞いたと思ったのに、いきなり否定されて若干憮然としているのだ。では一体なんだというのか。謙虚でも思いやりでもなければ何か。
三竹坊は不意に真面目な顔になって低い声を出した。
「おれが思うに、単に許せなかったんだろ。あれを見たきみと同じように」
遥は赤面する。
言われた内容というよりも、彼の声の調子に赤面した。それは、とても誠実な声だった。咄嗟に口ごもると、三竹坊はくちびるを少しとがらせた。
「自然なことだ。正しいかどうかは判らないが、自然なことだよ。おれはそう思う」
嬉しかったのか、照れくさかったのか、恥ずかしかったのか、彼女は下を向いた。三竹坊は深追いしない。
「じゃあ何でわざわざ仏像を」
思い出して尋ねると、三竹坊は思わせぶりに次の句をためてから鼻で少し笑った。そりゃさ。そりゃあさ、と彼はからっとした声を出す。
「だって仏像って、石なんかと比べて硬いだろ。鉄だとか銅だとかで」
一拍。彼の言った意味を理解して、遥は声を上げて笑った。なんだ。たまたま手ごろにある金属塊が仏像だったというだけか。蓋を開けてみれば、簡単なことだった。
「雨縞。いつかおれ、また海老根まで遊びに行くよ」
電車にバスを乗り継いでかも知れないけどな、と彼は笑った。自嘲的でもない、透明な調子だった。
「じゃあ、さよなら」
そして彼はもう一度微笑んだ。清々とした微笑であった。小さく咳払いをして彼は足を引きずり、アパートへ歩き出す。遥は背中を見送り、そして袖に手を入れた。海老根の山から眺める夜景を思う。見慣れて、懐かしい夜景。
「あ、そうだ」
彼女はもうひとつ思い出して、傍らの車のサイドミラーを覗き込む。そこには清々とした顔の少女が映っていた。思ったよりすっきりした顔であった。前に鏡を見たときから別段歳をとったようには思わない。前髪を軽く指で櫛して彼女は微笑む。結局、鏡を口実に三竹坊に会いたかっただけなのだ。
さよなら。またいつか。彼女は息だけで呟き、三竹坊が歩いていった方をもう一度だけ眺めた。すでに角を曲がり、三竹坊の姿はない。
そして彼女は跳んだ。たん、と軽快な音がした。
町の天狗、山の天狗 高橋 白蔵主 @haxose
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