第3話

 もうすぐだ、と不意に三竹坊が呟く。三竹坊のアパートを出て、二人は並んで歩いていた。並ぶと遥の方が頭ひとつ小さい。無理矢理着替えさせられたジーンズとパーカーの、慣れない肌触りに戸惑いながら、遥は彼の方を見た。ポケットに手を突っ込んだ三竹坊はあくまで歩みを一定のままに保っている。夜の町だ。街灯が灯りはじめている。あたりはすでに肌寒く、暗い。

「あまり真っ直ぐ見るなよ」

 何のことだか判らなかった。きっと続きがあるのだろうと次の句を待っていたが、角を曲がった瞬間、三竹坊が何について言ったのか彼女は理解した。気付かない方が無理というものだ。


 それはまるで、目に見えるような悪意だった。


 家がある。家の、植え込みにさえどす黒い瘴気のような物が漂っていた。二階の雨戸は閉められたままだ。暗い。周りに高い建物があるというわけではないのに、暗い。明らかに回りの家々と違った雰囲気のする建物であった。何かが居る。何かが巣食っている。彼女は思わず体を硬くした。低い声でぶつぶつ言うような音が聞こえるような気がした。それは虫の羽音だろうか。それとももっと別の何かか。

「それはおれたちの手には負えないわけではない。だが」

 三竹坊はずんずんとその家に向かって近づいていく。遥は一瞬気後れした。心の準備が出来ていなかった。海老根の山はつくづく平和であった。こんな悪意の塊のようなものを相手に争ったことはない。しかし、出会ってしまったなら、やらなければならない。彼女は息を吐いた。三竹坊は市井に伏して、わたしの加勢を待っていたのか。仕方ない。乗りかかった舟ならばやるしかない。こぶしに力を込めた瞬間、ぐい、とその手をつかまれる。

「身構えるな、雨縞。通り過ぎるだけだ。一瞬だけ見えるから気付かれないように見るんだ」

 それきり黙った三竹坊。掴んだ手が冷たい。掴まれたまま問題の家の前を通り過ぎる。


 家には灯りがついていた。まるで泥水の中にもがくような灯りだった。悪意がその灯をかき消そうとしている。中にいるのは人間だった。変化が人間のふりをしているのではない。二階の雨戸は閉められたまま、明かりが漏れている様子はない。悪意の中心に、人が生活しているのだ。彼らは気付いているのだろうか。いや、気付いているはずはない。気付いてしまっては、一刻としてその家にはいられないはずだ。

「三竹坊」

 青ざめて彼女は彼の手を掴み返した。屋根の上だった。巨大な眼球がひとつ、月の出ている方を睨んでいる。もやがかかっていてうまく見えないが、確かにそれは巨大な眼球だった。それはなんという名か。判らないがとにかく強大な怪異だ。気付かれたくない。おそらく、それは慢心している。眼球だけのものが笑うというのも奇妙な話だが、眼球にまとわりつく黒いもやが、まるでまぶたのように見える。まぶたをゆがませて、それは笑っていた。自分を脅かすものなどいないと思っているのだ。ならば今なら。不意をつけば。あるいは。彼女は猫の呼吸になった。

「だから、立ち止まるな」

 制する三竹坊の声は冷たかった。打って出る気はない。声がそう告げていた。彼は手を繋いだまま、引きずるように彼女を連れて過ぎてゆく。

「振り返っちゃだめだ」

 三竹坊の声は本当に冷たかった。


 悪意の中心をゆき過ぎて十数分。団地の脇の、やけに開けた感じのする公園だった。アート作品だろうか。何もないところに崩れかけた壁のようなものが立っている。おそらくは鉄で出来た小さなレリーフが中心に埋め込まれているが、日々子供たちのボール遊びの標的になっているのだろう。それを中心にして、ボールの跡が沢山ついていた。自販機でコーヒーを買って、三竹坊は遥に放り投げる。何とか受け取って彼女はそれを見つめた。

「飲んでいいよ。緊張しただろ」

 その声はいつもの三竹坊の声だった。遥は続きを待った。三竹坊は何も続けないまま、なだらかなカーブを描く滑り台のような丘をのぼった。

「天狗は、近づく怪異を跳ね除けるものだ」

 まるで詩人のような口調だった。もはや夕方である。影絵のように三竹坊は滑り台の丘の手すりにもたれた。

「なぜなのか。天狗が怪異と相容れない理由をおれは知らない。それに、その答えを解き明かしても、別にすることが変わるわけじゃない。これからも天狗は近づくものを追い返し、縄張りを守り続けるだろう」

「……三竹坊」

「だが、あの目玉の化け物はどうだ。あの目玉も、この町を自分の縄張りだと思っているようだ。天狗と同じように、自分の縄張りの中へ紛れ込んだ流れ者を追い返す。だから、この辺りに怪異はあいつしか居ない」

「……」

「同じなんだ。していることは同じなんだ。ただ縄張りを守り、流れ者を追い返す」

 遥は黙って缶コーヒーを開けた。かしゅ、と缶の開く音。

「ならば、問うしかない。天狗と怪異の違いやいかに」

 三竹坊の視線が自分に注がれるのを感じた。それは、のど元へつきつけるような声であった。遥はコーヒーに口をつけないまま、しばらく缶を見つめていた。三竹坊のそれは、鋭い問いかけのように聞こえるが、肝心のことを置き去りにしたままだ。

「あの家は」

「なんだ」

「あの家の人は、どうなるの」

 答えを聞かなくとも判っていた。あんな怪異に住み着かれて、普通で居られるはずがない。弱い人間ならば気が触れることもあるだろう。不幸は山のように降ってきているはずだ。何のせいだとも判らないまま、ただただ日々を転がるように困窮の坂道を下っているに違いない。三竹坊の無言の返事がそれを肯定していた。二人は長いこと黙っていた。

 天狗にヒューマニズムというものはない。だが、積極的に人を害する天狗はごく稀だ。天狗は孤独によって天狗となる。悪意によってでも、積極的に人と関わっているものを、孤独とは呼ばない。喉が渇いた。ようやく遥は手の中の小さな缶にくちびるをつけた。

「放っておくの?」

 遥は影絵を見つめた。

「……どうするべきなのか、おれには判らない」

「わたしは」

「あれを追い払っても、追いやった先で同じことの繰り返しになるだけだ」

「だけど」

「退治することも出来るだろう。だけれども、おれには判らない。あれを退治すれば、この町は空白になる。また流れ者が流れてくる」

 三竹坊は手すりから手を離した。

「ここでもまた、繰り返すだけだ」

 疲れた声だった。彼は立ったまま、すう、と滑り降り、遥の隣にある遊具に腰掛けた。背あわせのようだ。二人は別々の方向を向いている。三竹坊は夜の空を見ている。遥は手中の缶を見つめている。

「きみは、おそろしく思ったことはないか」

「繰り返し繰り返し、いつまでも同じことを続けてゆく。それは無意味ではないだろうか。途方もない。途方もないんだ。おれの手にはあまる」

 でも、と遥は遮った。遮って彼の方へ向き直った。

「でも、あの家が、いや、あの家を放っておくのがいいって思ってるわけじゃないんでしょう」

「波風が立たなければ、何も起こらない」

「…意味が、判らないよ」

 少しつよい調子の遥の声。まるで三竹坊の言葉は独り言のようだ。自分に言い聞かせるような、喋りながら考えるような、深く深く沈んでゆく音色である。

「あの家はいずれ立ち行かなくなるだろう。あの目玉がそうさせる。家には誰も住まないようになる。空っぽになる。化け物屋敷として、野ざらしになってゆくだろう。だが、それにさえ目をつぶってしまえば、あるいは」

 言葉を切って三竹坊は、挑戦的な問いを口にした。低い低い声だった。

「はじめから何もなかったのと同じことになるんじゃないだろうか」

 遥は返事をしなかった。言葉遊びにはまり込むような気がしたからだ。


「それは、卑怯だよ」

 遥は慎重に彼の様子を窺った。

「じゃないか、とか、あるいは、とか」

 うまく言えなかった。彼女は自分で、自分が何を言いたいのか判らなかった。わたしは何が言いたいのだろう。彼女はうちにある、もやもやしたものを意識した。名前のないものだ。怒りではない。悲しいというわけでもない。彼女は話の焦点が変わっているように思った。自分と彼とでは、見ているものが違うのだ。きっと何を言っても話は、ずれていってしまうのだ。


 三竹坊は声の調子を変えた。彼は立ち上がり、回り込み、まっすぐに彼女を見据える。

「おれたちはかつて、御山に呼ばれて天狗になった。だが、なんのために?」

 返事が出来なかった。考えたことがなかった。

「山を守る為にか? 確かに御山があっての天狗だ。御山がなければ名前もない。では、変化を退治するためにか? だが、おれたちはこうして、変化を目にしてただ、通り過ぎることもできる。目をつぶればやり過ごせるんだ」

 三竹坊は今まで歩いてきた方をちらりと見た。

「おれは三竹を捨てた。あの天狗堂を空っぽにして、ここへ降りてきた。おれは今、まだ天狗なのだろうか?御山はおれから天狗の力を取り上げるのだろうか?」

 しばし、躊躇うように間をおき、とうとう彼は呟いた。

「おれは一体、誰だ」

 遥はなぜだかおそろしい気がして、その意味を問えなかった。自分の目で見ないと判らない、と呟いたときの彼の目を思い出した。天狗であることよりももっと深い、別の孤独を抱えた、くらい目であった。


 遥はただ、缶コーヒーを両手で隠すように抱えながら彼を見た。手の中の缶と同じように、漠然と、心が冷えてゆくのを感じていた。彼女はかつて、火の焚かれた天狗堂で四人、石に座って一宿一飯の誓いをした日を思った。その時隣にいた歳若い天狗は、今や、そのときと違うものを見ている。時間が、流れたのだ。二人の間に、自分たちの間に、時間が流れていたのだ。彼女は自分の身が天狗であることを、少しだけ呪うような気持ちになった。時間を数えるのが苦手で、いつまでも変わらないつもりでいる。しかし、世界の時間は常に流れているのだ。そこから逃れることは誰にも出来ないのだ。


 遥は目をつぶり、黒いパーカーの袖で自分の頬をぬぐった。三竹坊は変わってしまったと言うのは多分、簡単なことだ。そんな意気地なしだと思わなかったと、罵って、跳んで帰って縁を切ってしまえばそれまでのことだ。

「三竹坊」

 しかし彼女は彼の名前を呼んだ。そして、彼の手を取った。

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