第2話
遥は息継ぎのようにいくつかの山の頂を踏み、跳び続ける。一息でどれだけの距離を跳べるかはまだ試したことがなかった。だが、別段試すようなことでもない。とりあえず自分のイメージできる場所を点々と、踏みながら動けば目的地へは着くのだ。北へ、北へ、三竹坊の住む山へ。たん、たん、と一度の音だけを残して山の頂を抜けてゆく。空気が冷たくなってきた。もう、三竹の山も近いはずだ。
「かがみっ」
彼女は声を弾ませ、最後のひと踏みを、思い切って高く跳んだ。
しかし、彼女が着地したのは、思っていたのとは全然違う場所であった。三竹坊の住む山を目指したはずが、それは町の上空であった。土の上に着地する心積もりでいたら目測を誤った。足に触れたのは心許ない安普請の屋根の感触。踏み抜いてしまいそうで思わず彼女は転がった。ばん、と音を立て、まるで無様に彼女はアパートの屋根に落下した。
「い、痛、いた、痛い」
しこたま背中を打ちつけて彼女は唸る。いくら人間より頑丈とはいえ、天狗だって転んだりぶつかったりすれば相応に痛い。しばらく彼女は肩を押さえてうずくまっていた。
しかしここはどこだろう。肩を押さえる腕に顔をうずめ、彼女は屋根から辺りを見回す。あまり高い建物は見当たらない。高架の線路が遠くに走っているのが見えるが、駅はどれだろう。町のようだが基本的には海老根の町と同じで、それほど栄えた町ではないようだった。
がた、と音がした。屋根の下で何かを動かしている音だ。
続いて再び、がた、と何かの音。一体何の音だろう。振り向くと、屋根の端に掛かっている手が見えた。手に続いてひょいと覗いたのは見知った顔だった。
「三竹坊!」
思わぬ顔というべきか、思ったとおりの顔というべきか、そこには彼女の旧知の天狗がいたのであった。少々鬱陶しい長さの前髪に、卵のような形の顔である。眼鏡をかけると似合いそうな顔であった。
眉根に皺を寄せて彼は遥を見る。台風の翌日、倒れたテレビアンテナを見るような目であった。面倒くさい、放っておこうか、いや待て、いつかは直さねばならんのだ、だがしかし何も自分がやらなくとも。
そういった類の心の葛藤が、如実に目に表れている。
「わたしだよ、海老根の、雨縞、遥」
彼の表情を読んでか読まずか、遥は自分を指し、立ち上がった。その台詞をみる限り、彼女は単に相手が自分のことを思い出せないと思っているようだ。彼女がそう思うのも無理はないほど、もともと三竹坊はことさら記憶力に疎い天狗であった。
「……」
覗いていた顔は、一度ひゅっと眉をひそめ、そしてひそめた眉と同じ勢いで縁の向こうへ消えた。係わり合いになることの面倒くささが、彼女に対する旧知の情を押さえつけたようであった。
「ばかっ、三竹、わたしを、あっ、待っ」
遥はまるで転がるように屋根の向こうへ手を伸ばす。
逃げられる前にうまく襟首を掴んだと思ったら一緒にアパートの廊下へ落ちた。どがしゃ、と派手な音がする。廊下に置いてあった洗濯機にぶつかったようだ。それでも彼女は掴んだ襟首を離さなかった。失敬なやつだ。別にすがる訳ではないが逃げられる覚えはない。
「離せ、離せよ」
体の下で相手は苦しそうにもがくが、遥は問答無用で襟首を持ち替え、彼を引き寄せた。半分馬乗りになって、彼の前髪をざっと払う。あらわになったその左の生え際には親指ほどの傷痕があった。すかさず彼女はそこへ親指を押し当てる。
本陣三竹坊天狗は、本名さえも忘れてしまった天狗である。これは天狗においてもなかなかに珍しいことであった。大概天狗は通り名として土地の名前を名乗るが、人間であった頃の名前も同時に持つ生きものである。天狗は親しくなった者だけに本当の名前を教える。名前を忘れて以来、三竹坊は名前を教える代わりにこめかみの傷痕を見せることにしていた。なんでもそれが自分のしるしだという。彼は天狗の中でも風変わりな男であった。
ちなみに天狗は総じて、呼ばれると返事をしなくてはいられない生き物である。名前や、それに当たるものを教えることはそれだけリスクを伴う。今遥が彼にしたのは、名前を呼ぶのと同じことであった。三竹坊は苦しそうに顔を背ける。
「三竹坊、わたしにこの傷を見せた日を忘れたか」
「判った、判ったよ、おれだよ」
「ほら見ろ、知らんぷりをしても逃げられない」
「判ったよ、逃げないから離せ」
三竹坊は観念したように体の力を抜いた。そして、一呼吸。ようやく遥は気付いた。三竹坊は天狗の装束ではなかった。群青とオレンジが鮮やかなラガーシャツに、膝の抜けたジーンズという姿である。
「三竹坊、何でそんな、町の格好を」
言いながら彼女はさらに気付く。三竹坊は立派な天狗堂を持っていたはずだ。大体が世俗に触れることを嫌うはずの天狗が、どうして市井の、それも二階建ての安アパートの廊下にいるものか。
「どうして、こんな街中に」
三竹坊はやれやれといった風に首を振った。その姿はどうみても、その辺りにいる大学生といった風情であった。
三竹坊は自分の部屋へ遥を招き入れた。首根っこを掴まれていたさっきとは打って変わって余裕の様子でコーヒーを入れている。アパートの部屋は六畳の和室とキッチンだ。和室では遥が天狗装束のまま、胡坐をかいて腕組みをしている。彼女の座る畳はわずかに毛羽立っている。天狗の住処にはふさわしくない。生活の跡だ。
「きみはコーヒーって、飲んだことあるかい」
三竹坊が尋ねると、遥は憮然として顎をあげた。
「あるよ、コーヒーくらい」
「そう。最近覚えたんだけど、おれの淹れるのは苦いよ。いる?」
「苦いなら要らない」
「なかなかうまくならないんだ」
苛々したのか遥はちゃぶ台を叩いた。たん、と音がしてコーヒーカップが少しだけ跳ねる。
「余計な話はいいよ」
「落ち着けよ。世の中に余計でない話なんて、ない」
「あのさ」
「大きな声を出すなって。隣に響くだろ」
三竹坊は落ち着き払った様子でコーヒーを啜った。まるで天狗の言動とは思えなかった。
「やっぱり苦い」
心底から苦そうに彼は言う。遥は黙って剣呑な視線で彼を睨んだ。受け流すようにそっぽを向く三竹坊。鏡を借りに来ただけなのに、思いも寄らぬ展開だ。彼女はまったく呆れて肘をついた。
「大体、皆は知ってるの、このこと」
少しきつい声を出すと彼はそっぽを向いたまま首を振った。伝えてない、と短い返事。皆というのは窓辺同盟の盟友のことであった。窓辺同盟は遥や三竹坊たち、歳若い天狗数人で結成した小さな同盟だ。天狗はもともと孤高の存在である。力をあわせて何かをすることなどない。だが、それでは寂しいと誰かが言い出し、結成の運びとなった。いつのことだったろう。その時期までは思い出せなかった。誓いはたったひとつ。
寄る辺なく、鳥に身を変へ嘴を、窓辺に寄せる時来なば。
一宿一飯、今宵この時と同じやうに分け与へむることを誓う。
一宿一飯とは、天狗にとって精一杯の友愛であった。孤独によって天狗となった身だ。それが、どんなものによっても癒えるものではないことは誰よりも知っている。それゆえの誓いであった。永遠を約束することは出来ない。だが、行き場なく身を寄せることがあれば、一晩くらいは、せめて。分け隔てなく。
遥が深くため息をつくと三竹坊は少し気がとがめたようであった。彼とて、気の悪い天狗ではないのだ。彼女は彼の横顔を見やる。
「別にいちいち手紙出せっていうわけじゃないけど、山を降りるなら降りるって教えてくれたっていいじゃない」
一瞬だけ遠慮して、そして遥は核心を尋ねた。
「……どうして?」
そうだな、とまるで記憶の糸を手繰っているような顔で彼はしばらく考え込み、そして口を開いた。
「どうしておれが三竹を捨ててここに住むようになったか。それはけっこう難しい質問なんだ」
ゆっくりと、慎重な口調で彼はカップを置く。
「何から話そうか」
彼は語り始めた。
三竹坊の住んでいたのは、日本海側、北陸地方の半ばに位置する広大な土地であった。人里からは遠く、一番近い町といっても小さな、鄙びた漁村しかないような僻地だったが豊かな森であった。天狗の格はその縄張りの広さと豊かさに比例する。しかも遥と違って彼は師匠の天狗を持っていた。先代の三竹坊である。先代は歳経た天狗であった。鼻こそ長くなかったが白髭をたくわえて赤ら顔の、天狗の見本のような天狗であった。もちろん様々の業も見事というしかない手際であった。
先代の下で彼はさまざまの技を学んだ。雲を踏む法、身を変える法、壁を抜ける法、変化を追い払う法。本当にさまざまのことを彼は教わった。天狗は総じて教えるのが好きである。まさに天狗の見本といってもよい師匠であった。その師匠が三竹坊の名を彼に譲り、三竹を去って年月が経った。彼が師匠にならって天狗の中の天狗になるのも時間の問題であった。
三竹坊の名を継いでしばらくは彼も変わらず天狗として三竹の山を統べ、気ままな暮らしをしていたのであるが、ある日ふと思い立って山を降りたのであった。
「ざっと説明すると、うん、そういうことなんだ」
三竹坊は考え込むように口元へ手を置いた。
途中まで我慢して聞いていた遥だったが、三竹坊が話し終えたといった風情で軽く満足そうな顔をしているのを見てちゃぶ台を叩いた。コーヒーカップがさっきより余計に跳ねる。がちょ、と陶器の触れあう音。
「ぜんぜん判らない」
「何が。どこが」
「ほとんど全部」
「そういう曖昧なこと言われると困るんだけどな」
「な、なにを」
理解できないといった表情の三竹坊を前に、遥は声に詰まって頬を赤くした。曖昧なのはどっちだ、と言い返したいのだが言葉が出てこない。
大体、ふと思い立って、とは一体何事か。自分が三竹坊と知り合ったのはいつの頃か、彼女も忘れてしまった。だが、気の遠くなるほどの昔ではない。最後に会ってからどのくらい経って山を降りたのか。すぐなのか。随分経ってなのか。最後に会ったとき、彼は山を降りる話など、おくびにも出さなかった。すでにその時決心していたのか。それとも、その後に、何かがあったのか。肝心のことは何一つ判らないままではないか。
「いいよ、教えてやるよ。見に行こう」
三竹坊が彼女の心を読んだように、ふん、と鼻を鳴らした。前髪の隙間から、斜めに彼女を見る。暗い、だがぎらりとした目だった。
「これは多分、自分の目で見ないと判らないよ」
彼女は気勢をそがれて一瞬戸惑う。だが三竹坊の目の光に目を奪われて、思わず頷いてしまった。彼女の記憶にある彼は、そんな目をする天狗ではなかった。
「よし、行こう」
まるで挑発されたような気になってしまった。先手を取って彼女は跳びたとうとする。どこへ行こうとするのか。細かい場所までは判らなかったが、行って、見てやろうではないか。あたりの気配を探り、跳ぼうとする刹那の裾を三竹坊が掴んだ。絶妙のタイミングで裾を取られ、遥はつんのめった。目の前に窓枠が近づいてくる。がどっ、と鈍い音がした。
「…ッ、……っ!」
額を押さえ、彼女は悶絶する。あ、すまん、という心のこもっていない声が聞こえたような気がしたが、痛くてそれどころではなかった。空いている方の足で三竹坊を蹴り飛ばし、彼女は転がった。蹴られた三竹坊は部屋の反対の隅まで転がって壁で止まり、うう、と苦しそうな声を出した。
「…やるじゃないか。いい蹴りだ」
「あ、当たり前だ、ばか、あ、ああ、痛い」
「こっちだって痛い」
「知るか」
三竹坊は脇腹を蹴飛ばされたようで、体を妙なくの字に曲げている。そのままの姿勢で彼は再び、ううん、と唸った。唸り、そして息をついた。
「雨縞」
「……何よ」
「いいか、この辺りでは迂闊なことはしないで欲しい。波風が立つ」
奇妙な言い方だった。低い声。まるで誰かに聞かれることを警戒しているような声だった。遥は額を押さえ、腕の隙間から彼を見る。
「雲踏みも魂抜けも、姿変えも目眩しも駄目だ。帰るとしたら、金と服をやるから電車に乗って隣の町まで行って、そこから跳んで帰れよ」
三竹坊の表情は、やはり暗いままだった。
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