町の天狗、山の天狗
高橋 白蔵主
第1話
雨縞遥が天狗となったのは極めて自然の成り行きだった。
彼女の生まれた土地は海老根という。海からは遠く、平坦な土地がなだらかに続いている。私鉄に揺られて数分もゆけば比較的開けた市街へ出られる好立地であるが、海老根自体は小さなベッドタウンであった。水田の平野から少し目を上に向ければ、そこには土地の名となった海老根の山並みが広がっている。横たわった海老のように、町のぐるりを取り囲む山並みだ。海老根の山々のうちひとつ、小平岳のふもとに彼女は生まれた。
海老根の土地に先住していた天狗が死んだのは彼女の生まれるより随分昔のことだった。海老根小天狗と呼ばれた先代には跡継ぎがなかった。先代は孤独なまま死んだ。だがしかし幸運なことに近隣に目立った変化怪異の類もなく、ただ海老根は彼女がうまれるのを待っていたかのように、長い間空白の土地としてあった。海老根の土地に選ばれた彼女は最初の十数年を人間として暮らした。初めから天狗に生まれるものはない。極めて当然の話だ。彼女は人間の少女として少しずつ歳をとり、ある日、雲を踏むことを覚えて山へ呼ばれた。
勿論のことだが、天狗の在不在は町の人びとにとっては関係のない話だった。かつてのように、生活の為に山へ入らねばならなかった時代ならばともかく、機械文明の発達した現在では、そこに天狗がいようがいまいが、町の暮らしは続く。人びとは滅多に山へ入らない。狐狸や変化、怪異の類が海老根に居を構えればまた話も違うものであろうが、海老根の山並みの座主が空白である限り害のある話ではなかった。
天狗は、ただ一つの素質によって天狗となる。
それに何よりも必要な素質は、孤独であった。いつから、どれだけ、どのように孤独であったか彼女はすでに忘れてしまった。しかし彼女は確かに孤独であった。素質のあるものを土地は選び、そして天狗としてつれて行く。孤独であったからこそ海老根の土地に選ばれ、雨縞遥は海老根小天狗の名を継いだのである。
人は孤独によって天狗に新しく生まれ、そして同時に沢山のものを捨てる。雨縞遥も例外ではない。彼女はどれだけのものを、どこへ、どうして捨てたのか忘れてしまった。自分で捨てたのか、捨てられてしまったのかさえ忘れてしまった。彼女に残っているのは名前だけである。彼女は人であった頃のものを全て、記憶さえも捨て、海老根の山天狗となったのである。
海老根は小平岳の中腹にあるのが海老根小天狗の堂である。
かつて朱色に塗られていたと思われる木の鳥居はところどころはげ、腐り、色褪せ、今や見る影もない。鳥居と殆ど距離をおかずに小さい宮がこしらえてあって、これこそが海老根小天狗堂であった。遥はもともと小柄な方ではあるが、その彼女をして屈ませる小さな入り口を潜れば、中は質素な板張りであった。宮の中に余計なものは一切置かれていない。そのぼろぼろの外見とは裏腹に、中には埃などなく、床も壁も腐っているところなどなかった。明かりこそないが、つやつやと、磨かれたような床である。廃屋というよりはむしろ快適にみえる三畳ほどの板の間で彼女は生活している。手足を伸ばして寝転べるだけの場所があれば天狗にとっては足りるのであった。
この天狗堂に参道があったのはいつのことだろう。いまや、天狗堂には境内さえない。あたりは高い杉だらけだ。内の一本など、まるで天狗堂の漆喰を脅かすように、ぎりぎりの傍から生えている。この分では土台が杉にやられてしまうか、杉を柱として立て直すようになるのも時間の問題のように思えた。そもそもが平らでない土地に立てられた天狗堂である。木が茂り、参道も変わった今や、そこは完全に忘れ去られた宮となっていた。
それはいまや誰からも忘れ去られ、さらに朽ち果てつつもあるが、彼女にとってはちょうどよかった。雨風さえしのげればそれでよい。中途半端に参拝者などあっては逆に窮屈というものであった。普段であれば人の眼をくらませるくらい朝飯前ではあったが、そばに人がいる場所で眠るのは気が疲れる。彼女はあまり人と接するのが得意ではなかった。
いつ頃からこうしているのか、実は彼女自身判らなかった。彼女はただ、天狗として暮らし、野にあっては戯れに獣を追い、変化怪異の流れ着いた時は追い払い、時に天狗杉の上にたって町を見下ろし、ただ天狗として遊びくらしていた。いつからかというのは判らない。天狗の記憶というものは実に緩い。
猫が鳥居を潜って堂の下で鳴いた。
「それ、暇ゆえに」
それは鳴き声ではなかった。訪れたのも正確に言えば猫ではなかった。齢を重ねた海老根の変化、八足緑青の姿であった。その名の由来は、さながら足が八本にも見えるという神速と、銅錆に似た瞳の色である。猫又は変化の中でも少々特殊の部類に入る。
変化怪異の類と関わりあうことは、天狗にとって避けられないことというわけではない。だが、山天狗は定住の地を持つため、住処を求めて流浪する怪異と友好的な関係は築けない。縄張りというのはまさに、縄を張った場所のことである。天狗の住む山には、区切りごとに縄が張ってある。それは土地を束ねる存在の有無を示すものである。藁で編んだそれは、人間相手の標識ではない。この先に住まう者あり、という警告なのである。往々にして、一つの山、一つの縄張りに天狗と変化怪異は共存できない。
その摂理の輪から外れたところにいるのが猫又である。猫又は定住しない。一所に長く留まることはあるが、その身が朽ちるまで住むことはない。猫又は土地ではなく家につく。建物につく。言い逃れのような屁理屈ではあるが、緑青は海老根の土地についた変化ではなく、あくまでも海老根の天狗堂についた変化であるという。天狗堂が朽ち倒れたり、猫の気まぐれが起こったりすればいつでも出てゆくという。故に雨縞遥と猫又は同じ縄張りにいることが出来るのだという。
「暇なれば」
猫又が彼女を呼ぶ声が続く。
「なによ、緑さん」
雨縞遥は戸を開けて表に出た。やや眠たそうな顔である。時刻は午後のはやくではあるが、昼寝の最中であった。天狗の装束はゆったりとした和装である。柄こそ無地だが、ともかくも丈夫そうな生地に見える。襟元に小さく曲がった海老が刺繍してある。海老根の山天狗に伝わる装束である。よ、と声をかけて、裸足の天狗が砂利を踏む。肩に掛かる髪が揺れた。
「暇なるべし」
まるで強情な子供のように繰り返す猫又を抱き上げ、彼女は天狗堂の屋根に上った。
「そういえばこの間、うわばみを見たよ。でかい蛇の変化の」
猫又は寝転ぶ彼女の周りをぐるぐると歩いている。時にまたぎ、見飽きたはずの草を猫そのものの手つきで叩いたりしている。遥はそれを横目でちらりと見て目をつぶった。
「磐梯に行く途中にさ。あれ、まだいたんだね」
殆ど語尾が眠りに足を突っ込んでいた。起きたばかりなのに、また眠りそうな様子である。
「うわばみといえば」
緑青は銅の錆のような色をした足先を顔にこすりつけた。
「遠く異国にもうわばみに似たもの、おりけりと聞く」
「さよですか」
物知りですね、と軽くいなすように遥は頬をかき、足を組んだ。いなされた猫又もそれほど不満そうな顔ではない。
「西洋のうわばみも昨今にては、旅人を取って食うこともせず、ただ野にあって獣を呑む日々とか」
「いいことじゃないの」
あくまで遥の声はのんびりしている。猫は存外噂好きの生き物である。外国の変化の噂話までいちいち取りあっていてはきりがない。
「人が遭難すると面倒くさいからね。ヘリコプターがわんわん飛んでさ」
遥も一度、迷い込んだ登山者を助けたことがある。
それは何年前のことだろう。つい最近のようにも思うし、ずっと昔のことのようにも思う。確かそのときも、沢の崩れる音がした。何かと思って行って見たらば男が足を折って倒れていたのだ。
あれはいつのことだったか。彼女は、年月に疎いところがあった。すべての天狗が人間と同じように歳をとるというわけではない。とらぬというわけでもない。数を数えることが苦手な天狗は、うまく歳をとることが出来ない。逆に、数えることが得意な天狗は比較的人間に近い速度で年をとる。
沢から滑り落ちて気を失った男を抱え、雲を踏んで町へ降りたのはいつのことだったか。彼女は夢うつつの頭で、昔のことを考えていた。それはデパートの屋上であった。なるべく人気のないところを選んだつもりだったが、子供が目を丸くして二人を見ていた。今にして思うと少々やりすぎたかとは思う。男は、登山道の入り口に捨ててくるだけでもよかった。しかしもう跳んで来てしまった。仕方のない話だ。泥だらけの男を床に寝かせ、彼女は子供の頭に指を乗せた。君、ゆめゆめ人に話すことなかれ、と子供に念を押して再び跳んだ。
子供が人に話したところで実害はないだろう。そもそも子供が黙っていても足を折った男が話すだろうし、彼が話さなくとも、折れた足のまま誰にも見つからずにデパートの屋上まで来られる者がいるわけがない。結局それは謎の事件として人の口にのぼるのだ。長く生きている天狗の友人が、お説教めかしてしばしば彼女に言っていたことを彼女は思い出す。目立つことに意義はないよ、雉も鳴かずば撃たれまい、だ。天狗は派手を好むが、目立つことを好まない。
それにしてもあれは、いつの話だっただろうか。
天狗堂の屋根で、遥はふと思いついた。自分は一体今、いくつだろうか。いくつに見えるのだろうか。気にすると気になりだして彼女は自分の頬を撫でる。皺くちゃではないし、おどろくほどつるつるというわけでもないようだ。そういえば、鏡などもう随分見ていないような気がした。沢に映る姿を見ることはあるが、はっきりと自分の顔を見たのはいつの日だったか。鏡だ。鏡を見てみたい。彼女は鏡を思い浮かべ、それから古い天狗の友人のことを思い出した。その人物ならば鏡を持っていそうである。あくびをして、彼女はようやく体を起こした。
「久々の遠出だなあ」
彼女は相手の顔を思い浮かべる。本陣三竹坊。それは歳若い天狗だ。少なくとも彼女には、同い年のように思える数少ない天狗だった。天狗の世界において、横のつながりは貴重だ。天狗は総じて自分以外の天狗を格下だと思っている。天狗の慢心というものだ。友人として付き合える天狗は、彼女にとって数人しかいない。
「いずこにか」
耳ざとい猫又が目を細く閉じたまま尋ねる。
「ちょっと、そ、こ、ま、で、」
まるで少女のようにふざけて呟き、いい終える前に彼女は羽のように両手を広げた。猫又が非難がましい目で見上げる。
「帰ってきたらまた遊ぼう」
いい終える前に彼女は跳んだ。たん、と小気味よい音が響く。残された猫又はしばらく鼻の頭をこすっていたが、やがてあくびをして目を閉じた。天狗に付き合ってはいられない、とばかり貴重な天狗堂の日光浴を楽しむつもりのようであった。
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