◇猫はいい人。
「ごちそうさまです」
この言葉が、のちに私の中でじわじわと存在感を増す。猫くんが23歳になった日のことだ。
隕石にまで例えた彼との出会いも早く書き起こしてしまいたいが、まず私は「ごちそうさま」に触れたいと思った。猫くんの人柄がよく表れている気がするのも理由のひとつだ。
しかし私はなにも、ごちそうさまを言ったから人柄が良い、と考えているわけではない。
「ごちそうさまです」
我々はサイズ違いの同じオムライスを食べたあと、お会計の際に店員さんへ、二人揃ってそう口にした。猫くんは特に何も気にならなかったようだが、私はつい微笑んでしまった。
「さっき、ごちそうさまって言ったね」
「言ったよ?」
クスクス笑う私を彼は不思議そうに見た。それが何? と問う顔がまた好ましく感じてしまう。猫くんにとってはごく自然なことだったようだ。
「私も言うけどさ。店員さんには言わない人のが多いから。それが悪いわけじゃないけど、言う方がやっぱいいなぁって」
もちろん家庭内では言うべきだと考えているが、外食時にはタイミング等々の難しさも、あとは気恥ずかしさもある。時折、店員さんにきょとんとされてしまうことすらある。
お礼があれば素敵、私はそう思う。だから人には強要せず、無いからといって怒ったこともなかった。そして猫くんは「素敵」だった。
ただ、この会話には続きがある。
「ウチでは母がいつも言ってたから、まあ自然に」
「ほう、それは良きお母様だね。素敵なことだ」
私はそのように答えた。本当にそう思って答えた。だというのに、この時胸に何かしらの引っ掛かりを覚えたのも事実だ。
私が店員さんに「ごちそうさま」と言うようになったのは、今から数年前だ。定期圏内の知らない街に行こう、そう思い立って出掛けた先の喫茶店が初めてだったように記憶している。
実家で世話になっている私には、いつも食事を用意してくれる母への事前告知なく思い付きで外食することが出来ない。この日はたいへん珍しい、一人で過ごす貴重な一日だった。
持ち物は小さな財布と文庫本だけ。窓の向こうに初めて見る景色。美味しいカフェモカ、ホットサンド。あの高揚する気持ちは忘れられない。そうして最後に、昂るままレジの向こうへ声を掛けたのだ。
「ごちそうさまです、すごく美味しかったです!」
すると相手は照れくさそうに笑ってくれた。私はまた嬉しくなった。
そうしてだんだん、それが私の当たり前に変わる。
ここで猫くんの言葉に戻ろう。彼はお母上に倣って感謝を述べるようになったと言うではないか。引っ掛かりの正体を探るうちに私は気がついた。──私の母も同じだったことに。
教わったわけではなく、親がそうしていた。まったく同じだ。なのに猫くんはそれを見て、真似て、自然に身につけている。
私はといえば、彼の話に「素敵なお母様」だと感じたにも関わらず、母の行動を真似ようとしたことなどなかった。ただ偶然、口にするようになっただけだ。
幼少期「きちんとお礼をいいなさい」と叱られたことすらある私は、家族のいいところを行動に反映させている彼に対し感心するほかなかった。
ここで得た彼への印象を、どんな言葉で表現したらいいか、私は備忘録をつけている今も迷ったままだ。
真面目?
素直?
観察力がある?
どれも猫くんには当てはまる。だけど、ことこの件に関してはしっくりこない。二人手を繋いで街を歩く間もこっそり考えていたが、うまい表し方は見つからなかった。
物書きを趣味とする者としてどうかと言われそうだが、私は明確な単語探しを諦めることにした。ふんわりと感じたものは、ふんわりと表す。それでこそ、ありのまま伝わる気がするのである。
ゆえに、こう書き記そう。
お店でごちそうさまを言う習慣のある彼のことを私は──いい人だなぁと、思った。
言うからだけじゃない、その過程も含めて、いい人だと。
猫くんは、この結論に至るまでの経緯を知らない。
諸君も体感したように、私の説明は随分と長ったらしくなる癖がある。様々な事情が絡む2022年の世、数少ない会瀬にこのような演説を披露するのはもったいないではないか。
エレベーターを降りる時。受付を済ませた時。猫くんはいつも誰かにお礼を告げている。そのたびに私は、まだ
揺蕩う猫は私を絆す 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
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