完璧と傷
夢月七海
完璧と傷
『そうして神様は、壊れやすい世界を、両手で卵を優しく包んで持つように、その体で抱き締めました』
パパの研究室。足を床に放り出して、東の神話が書かれている本を読んでいたあたしは、その一文に疑問が生じて、顔を上げた。
あたしが背中をつけている壁と垂直に立つ壁に机を寄せて、パパは何かを書いている。
「ねえ、パパ」
「なんだい、ラム?」
パパはペンを走らせる手を止めて、あたしの方を見てくれる。
あたしが生まれた瞬間と同じ、優しい瞳をしていて、あたしはほっとする。
「この本によると、神様は壊れ物の世界を抱き締めているんだって。そのまま壊しちゃうのかもしれないのに、神様は、なぜ壊れ物の世界を抱くの?」
「きっと神様にとって、この世界は、何よりも大切なものだから、誰にも触れさせたくないんだよ」
あたしの質問に、パパは柔らかく微笑みながら、そう説明してくれた。
それを聞いて、あたしは深く納得できた。
「じゃあ、神様が作ったこの世界は、とっても大切で、完璧なんだね」
太陽の光を浴びて、草が伸び、花が咲く。その蜜を虫が吸い、花粉を運んで、実が成る。それを動物や鳥が食べる。死んだ生き物は、もっと小さな生き物に分解されて栄養となり、また新しい植物が生える。
海の水も日光によって蒸発し、雨となって落ちて、生き物たちを巡る。どれか一つでも欠けたら、崩れてしまうほど、素晴らしくて完璧な循環だと思う。
「……うん、神様にとっては、そうかもしれないね」
だけど、パパはちょっと寂しそうに笑った。あたしは、どうしてそんな顔をするんだろうと思ったけれど、自分の説には自信を持っていた。
神様が完璧な世界を愛するのは当たり前のこと。そして、あたしは完璧なんだから、パパにとっても大切なものなんだ。
■
一番最初の記憶の中で、あたしは裸んぼうで、バスタブの中に横たわっていた。
緑色の水の中、目を開けると、透明の硝子の板がある。息が苦しいとか、そう言うのはないけれど、ここから出たい気持ちに突き動かされて、あたしは、そのガラスの板を叩いた。
その板がどかされたので、あたしは上半身を起こして、水中から顔を出した。初めて吸った空気は、埃っぽくて、何かが腐ったような変な臭いがした。
瞬きを繰り返して、視界がはっきりしてきた時、目の前にある影が、一人の男の人のものだと気が付いた。もじゃもじゃとした茶色い髪の彼は、激しく泣きながら、私に向かって笑い掛けた。
「完璧だ……」
緑の液体まみれで、べとべとしている私の手を握り、その人は笑い掛けた。その両目からは、まだ涙がこぼれ続けている。
「……パパ?」
この時、私は、彼のことを、「パパ」と呼ばないといけないように感じ、そう口にした。すると、彼は、笑顔を消してはっと息を呑んだ。
「……うん、そうだよ。僕は、君のパパだ」
だけど、すぐにパパは優しく微笑んでくれて、私のことをぎゅっと抱き寄せてくれた。そして、私の緑色の髪を、ゆっくりと何度も撫でてくれた。
私は、それだけでこの上ない幸福感を抱き、初めて声を上げて笑った。
それから三年間、私はパパと一緒に暮らしている。森の中の小さな家、裏庭にある畑と鶏小屋があって、一階はパパの研究室、屋根裏があたしの部屋になっている。
洗濯や掃除をしたり、畑の野菜を育てたり、三羽の鶏の世話をしたり、パパと一緒に色んなことを勉強したりと、毎日は平凡で、とても幸せ。あたしは、パパ以外の人間に会ったことはないし、森の外へ行ったこともないけれど、パパはこの家が一番安全なところだと言っていたから、ずっとここで暮らしていたい、そう思っている。
■
月に一回、うちに旅商人が来る日。パパは、畑で育てていない野菜、日用品と服、研究に必要な道具と本などを購入している。
その時のあたしは、屋根裏に隠れている。旅商人が帰った後、あたしがはしごを下ろして一階へ行くと、パパは手紙を読みながら、難しい顔をしていた。
「パパ、どうしたの?」
話しかけると、パパは初めてあたしがいることに気付いたようで、驚いた顔をしていた。
「いや、パパの友達が、明日、ここへ来たいと言っているんだ」
「へえ、パパのお友達が」
あたしはびっくりして言い返した。パパのパパとママ、あたしにとってのおじいちゃんやおばあちゃんの話は聞いていたけれど、パパのお友達の話は、初耳だった。
「どんな人?」
「同じ師匠の元で学んだ錬金術師だよ。今度会うのは、八年ぶりになるかな……」
パパは、天井を見上げながら、指を折って年数を数えていた。
あたしも、パパのお友達に会ってみたい。そう思ったけれど、パパは心配そうに、一階を見回した。
「ちょっと片付けないといけないね。ラム、自分の持ち物は、上へ持っていってくれないかな」
「……うん。分かった」
ちょっとがっかりしながらも、あたしは頷いた。
パパは、自分以外の人間に、あたしを会わそうとしない。旅商人やお友達が相手でも、それは同じみたい。
でも、外の世界は危ないから、パパがあたしを守ってくれているんだと思うと、すごく嬉しかった。
自分の服やコップを片付けながら、にこにこ笑みが零れてしまう。パパは、そんなあたしを不思議そうに眺めていた。
■
ガチャッと、玄関の扉が開く音がして、ベッドの上で本を読んでいたあたしは、はっと顔を上げた。そろそろと足音を忍ばせて、屋根裏を歩く。
パパは気付いていないけれど、実はこの天井には小さな穴が開いている。そこから、下を覗くことも出来るし、よーく耳を澄ませば、会話だって聞くことが出来る。
お友達は、パパと身長が変わらない男の人だった。この角度からだと、頭のてっぺんしか見えないけれど、金色の髪が窓から入ってくる日光で、ピカピカ光っている。
お友達は、穴のすぐ下にあるテーブルの右側に座った。パパは、すぐそばのキッチンでコーヒーを淹れて、お友達に差し出してから自分もその向かいに座る。
「思ったよりも、質素な生活をしているな」
「ひとり暮らしだからね」
「食事とかも自分で作っているのか?」
「うん」
お友達は、パパの暮らしぶりについて興味があるみたいで、しきりにきょろきょろ見回しながら、質問を重ねる。パパは、私のこと以外は、全部正直に答えていた。
それが収まってから、今度はパパが質問する番になった。お友達は穏やかな声色で、自分の生活を話していた。
「結婚したんだ」
「そっか。おめでとう」
「とはいっても、前の話だけどな。息子もいるぞ」
「そうなんだ」
「今年で三歳だな」
あたしといっしょだ、とちょっと嬉しくなる。でも、あたしの見た目は十五歳くらいらしいから、その子と会っても、全然同い年には見えないだろうなと、急に寂しく思う。
あたしは生まれた時からこの見た目で、普通の人間みたいに成長しない。そのことを恨んだことはなかったけれど、息子の成長を楽しそうに話しているお友達を見ていると、パパもあたしの成長を見たいのかなって気になってくる。
「もうすぐミラの命日だが、墓参りには行くのか?」
お友達が、不意にそう尋ねた時、上から見ても分かるくらいに、部屋の空気が一変した。持っているコーヒーの水面が波立つほど、パパの手が震えている。
「いや……行くつもりはないよ」
「そうか」
パパの声は、明らかに低くなっていた。間違えて、コップを落として割ってしまった時のあたしみたいに、落ち込んだ声だ。
だけど、お友達はあまり気にしていない様子で、軽く返した。
それからパパは、お友達に研究のことを聞いていた。お友達も色々話してくれたけれど、その内容はよく分からない。
パパも自分の研究のことを話した。その流れで、研究の成果を見せようと、パパは席を立ち、自分の部屋に入っていった。
直後、お友達が、上を見た。一瞬、穴から覗いているあたしと目が合ってしまい、あたしは、すぐに顔を引っ込めた。
きっと気づかれていない、大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、でもすごく怖くなって、あたしは足を忍ばせて、ベッドの中に潜り込んだ
お友達は、あたしを見て笑ったような気がした。楽しそうとは絶対に言えない、ぞっとするような顔で。
■
お友達が帰ってから、パパの様子はちょっとおかしい。
なんだか塞ぎ込んでいる。あたしは、鶏が亡くなってしまった時に、悲しくて悲しくてやりきれない気持ちになったことを思い出した。
それでもパパは、いつもと同じように振舞って、二人一緒に夕ご飯の時間になった。
パパは、スープとサラダとパンにスクランブルエッグを一緒に食べる。あたしは、コップに入れた緑色の液体だけ……これが、あたしにとってのごはんで、パパと同じものやお水を摂ると、体の調子が悪くなってしまうらしい。
「パパ、お友達とどんな話をしたの?」
「お互いの生活とか、研究のこととか、普通のことだよ」
パパはにこやかに答える。あたしは、あの時、本当は覗いていて、お友達と目が合ったことを話せずに、「そっか」と笑い返した。
ちょっとぎくしゃくした夕食が終わり、あたしは自分の部屋に戻った。ベッドのすぐそばの窓は、庭を見下ろす位置になっている。晴れ渡った夜空では、月の光がとても綺麗だった。
……そのまま、夢の中をふわふわしていたら、ガシャンと、窓の割れる音で目が覚めた。外からにゅっと入ってきた腕が、窓の鍵を開ける。あたしは、喉の奥で悲鳴を上げた。
開かれた窓から入ってきたのは、見たことのない男の人だった。雨樋を伝って、こっちまで登ってきたのかもしれない。シーツを握って、動けないあたしだったけれど、彼の金髪の艶にはっとした。
「……パパの、お友達なの」
尋ねてみたが、返答はない。ベッドの上にのった彼は、あたしを上から下まで、何度も見回して、溜息をついた。
「ミラにそっくりだな。気持ち悪くらいだ」
「ミラって、誰?」
あたしの発した疑問を、彼は一笑した。
「君は、作られて何年になる?」
「三年……」
「そうか。あいつはたった五年で完成させたのか」
彼は、納得したように頷いているけれど、あたしには話が見えなかった。
ただ、言葉の端々に、不快感を抱いた。確かにあたしは人間ではないけれど、こんな風に物扱いされたら、気分も悪くなる。
「まあ、それもどうでもいいか」
ぽつんと呟いた後、彼は懐から、何かを取り出した。白い月光を反射して光るそれは、小さなナイフだった。
「パパ! パパ! 助けて!」
あたしはやっと、自分の危機に気が付き、必死に叫んだ。だけど、何も起こらない。彼が、憐れむような視線を向けるだけ。
「パパは今頃、ぐっすり眠っているよ。眠気を誘う香りを、部屋に入れたからね」
そう言って彼は、あたしの左手を握る。身をよじって逃げようとするが、力が強くて敵わない。
「大丈夫。ちょっともらうだけだから」
小指の付け根に、ナイフが当てられた。「あっ」と悲鳴を上げる間もなく、冷たい一閃によって、小指が切り離される。ベッドのシーツに転がる小指、傷口からは、緑の液体がぽたぽたと落ちた。
痛みはなかったけれど、体の震えが止まらなかった。斬られた箇所を庇うように右手で包んで、蹲る。じくじくと、傷口が閉じているのを感じている間に、彼は小指を持って、この部屋から逃げていった。
そのまま、朝日が昇るまで、あたしは一睡もできずに、涙を流さず泣いていた。
■
パパが、新しい指を作ってくれた。木を削ったそれは、今、あたしの左手の小指の位置に収まっている。
「……折り曲げることは出来ないけれど、物を持つには支障はないはずだよ」
パパはそう説明してくれた。確かに、新しい指は真っ直ぐ伸びたままだけど、あたしは右利きだから、問題は特にない。
それをいろんな角度から眺めていたあたしは、顔を上げて、にこっと笑った。
「うん。ありがとう」
しかし、パパは、あたしの顔よりも下の方に目線を落としながら頷いた。
……あたしが、小指を失った夜から数日間、パパとの関係はぎこちない。パパと話をしていても、目が合わなくなってしまった。
パパは、どこか心許ない足取りで、屋根裏部屋からはしごを下りて行った。はしごを戻さないとと思って、ベッドから降りる気力が無くて、そのまま寝転んだ。
あたしは、完璧ではなくなってしまった。指の傷を眺めていると、そんな気持ちが、心の中に立ち込める。
きっと、パパはあたしを見放したのだろう。パパが愛してくれたのは、完璧なあたし。こんな傷がついてしまった姿なんて、見たくないはずだ。
あたしは、存在している意味を失ってしまった。自分で自分を壊してしまおうかな……。そう思うと、自然に上半身を起こしていた。
コップを落として、粉々に砕いてしまった時のことを思い返す。あの時、パパはびっくりするほどあたしのことを心配してくれていたっけ。だけど、そんな嬉しかった思い出も、今では違う色合いを持っている。
物を壊すには、上から落とすのが手っ取り早い。あたしは、窓に向かってのそのそ這っていった。
開けた窓から身を乗り出す。小さな家でも、こうしてみると、とても高く感じる。あの地面に叩き付けられたら、緑の芝生の栄養になるのかな。
あたしは立ち上がる。足は震えていて、言うことを聞かない。さあ、窓枠から手を離すんだ。そして、前へと倒れ込むんだ。自分で決めたことなのに、実行できない。……今、そう、今こそ……。
窓から落ちそうになったあたし……一瞬、風と浮遊感を覚えたその体は、腰辺りで捕まえられて、屋根裏の方へ引っ張られた。
部屋の中に戻ってしまったあたしは、振り返って、自分を抱き締めている相手を見た。それは、泣き出しそうな顔をしたパパだった。
「何、やっているんだ……こんな、こんなことを……」
出会った時と同じように、あたしを抱きながらパパは泣いているけれど、その顔は、あの時と違って怒っているようにも見える。
あたしは、そんなパパの様子に戸惑い、目線を泳がせながら、しどろもどろに答える。
「でも、あたしは、完璧じゃなくなったから、パパにとって、もう、大切なものじゃないでしょ?」
「そんなことはないよ」
パパははっきりとそう言った。そして、ベッドの上で、あたしの体を半回転させて、自身と向き合わせた。
パパが、あたしの右手を取る。小指を付けくれた時よりも優しく、愛でるように、傷に触れる。
「僕は、不甲斐なかったんだ。娘を守れなくて、どう謝ればいいのかも分からず、可笑しな態度をとっていたんだろうね」
「パパは悪くないよ」
「ありがとう。ラムも、何も悪いことはしていないからね」
パパが、久しぶりに笑ってくれた。
あたしは胸がぎゅうと苦しくなる。あたしが人間だったら、涙が出ていただろう。
「東の神様も、きっと、世界が壊れてしまっても、見捨てたりはしないと思うよ。大切にするのは、完璧だからという理由じゃないんだ」
「じゃあ、パパは、どうしてあたしが大切なの?」
パパは、あたしの髪をゆっくり撫でながら、そっと囁くように教えてくれた。
「ラムがラムだから、大切なんだよ」
「パパ、あたし、嬉しい」
あたしは迷わず、パパに抱きついた。パパの大きくて、あったかい手が、あたしを包んでくれる。
パパの娘で良かった。パパがあたしを作ってくれて良かった。止めどなく湧き上がる水のように、そんな気持ちで心が満たされる。
あたしは、この瞬間、最大の幸せを、感じていた。
完璧と傷 夢月七海 @yumetuki-773
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