第8話 8
シャオウは口を挟まずに、わたしの長い話を聞いてくれた。ときおりうなずき、顔をゆがめて。
「それから
「ちょ、ちょっと待ってよ、ルー。ルーがいた
「……そう聞いている。わたしたちが逃げ出して十年くらい後には、砂に埋もれたって」
「なら、だいじょうぶだよ。今さらルーを追うものなんかいない。それに、もし何かあったら、おれたちみんなでルーを守る」
ひとりで抱え込まないで、とシャオウは下がり気味の目じりをさらに下げた。
「ルー、すまない。来てくれ」
ゾランの声にわたしたちは顔を見合わせた。話途中でわたしたちは師匠の寝室へと駆けた。
「師匠」
師匠のサーデグの瞼は、わずかに開いていた。わたしはゾランとともに、枕元へとひざまずいた。
「長い旅が終わるとき」
まるで歌うように師匠はつぶやいた。
「姫のうたを伝えることができました。不肖の弟子はあなたの歌をつなげましたよ」
不肖の弟子、と師匠は自身のことを言っている。
「ゾラン」
「ああ、ここにいる」
ゾランは師匠の手を取って頬にあてた。
「ありがとう。あなたのおかげで、わたしは一度も体を売らずにすんだ」
「あ、あたりまえだ。おまえは歌うたいなんだからな」
ゾランの声は、かすかにふるえていた。わたしは涙をこらえ切れなかった。
「そばにいてくれて、どれだけ心強かったか」
ゾランは師匠とわたしを守り続けた。時には追手と剣を交え、時には夜盗を追い払い……その腕に数えきれないほど助けられた。
師匠の目が、少しずつ閉じ始めた。思わずわたしは師匠の体にすがった。
「姫さま……ええ、わたしの弟子。自慢の弟子です」
まるでそばに姫がいるとでもいうように、師匠は話している。もう、お別れなのだ。幽界からの迎えが来て居る。
「シャオウ」
名前を呼ばれて、シャオウはつんのめるようして師匠のそばへ来て、膝を折った。
「ルーをよろしくお願いします」
「はい、必ず、かならず」
シャオウはよほど動転しているのか、同じ言葉ばかり繰り返した。滑稽でもあったが、むろん笑うものなどいない。師匠のほかには。師匠は満足げに微笑みを浮かべた。
「ルー」
はい、と答えたつもりだったが、もう声は出せなかった。無理に話そうとすれば、涙ばかりがあふれて言葉にならなかったのだ。
「楽しい旅だった。あなたはわたしの望みを叶えてくれた」
「望み?」
「姫の歌をつなげられた」
師匠から習った歌は数知れない。それらの多くは、師匠が姫さまから教わったものだと話してくれていた。いつまでも師匠の心を捉えて離さない
「ルー、あなたはあなたの歌を歌いなさい」
月李姫と比べることはない。じゅうぶんに、美しいのだからと。
「……ああ、なんて明るいのでしょう……」
ふっと師匠の唇が笑みをたたえたまま、静かに閉じた。
わたしの唇から嗚咽がもれた。ゾランが師匠の髪を優しく撫でる。
「サーデグ、おれたちはずいぶん遠くまで来たな。おやすみ、またな」
シャオウはわたしの肩を抱いた。夜は深く、どこまでも静かでまるで水の底にいるようで……。
天上の声は失われた。わたしにいくつもの歌を残して。
それから二度の春を過ぎたころ。
「ルー、仕込みの手伝いはもういいから、夜まで少しは休んでおいで」
義母がわたしに声をかけた。
「そう、無理しないでおくれよ」
義父もシャオウも、菜を刻む手を止めずに気づかわしげにわたしを見る。わたしは、目立つようになったおなかに手を添えて立ち上がった。
「お言葉に甘えて、休ませていただきます」
一年前にシャオウへと嫁ぎ、わたしは子どもを身ごもった。慣れないことばかりだけれど、義母が細やかな心づかいで、わたしを見守ってくれている。体を冷やさないようにと、いつも肩や膝に毛織のショールをかけてくれる。義父は悪阻で食欲のなかったわたしに、滋養のある粥や湯(スープ)を作ってくれた。
「夜は、あまり長く歌わなくていいからね。そう言っても無理か。歌わないルーは、ルーじゃない」
シャオウの言葉に、みんながうなずく。そう言ってくれる人たちに囲まれて、わたしは暮らしている。
「ゾランさんは、今どのあたりだろうね」
シャオウが外を眺めながら、青い空に目を細める。ゾランは、わたしの婚礼を見届けて西へと旅立った。
自分が生まれた海辺の土地をもう一度見てみたいと、西へ行く旅団(キャラバン)と一緒に。
「そうね、草の海と砂の海を越えて。またあの景色を見ているのかな」
わたしはゆっくりと歩いてシャオウの隣へと並んだ。薄い雲がひとすじかかる空を、燕が飛んでいく。
「ルーたちが来た道?」
そう、わたしたちが辿って来た道をまた。歌を歌って路銀を稼ぎ、時には隊商に加わり、ぐずるわたしをゾランが背負い、少ない食べ物を分け合って長い道のりをここまで来たのだ。
「いつか、旅のことを歌にしたいと思うの」
「それ、いいね。聞きたいよ、ルーの歌」
シャオウがわたしのおなかを撫でる。この子が大きくなるころには、歌ができるだろうか。
「師匠の歌も聞いて欲しいな」
結い上げたわたしの髪は二本の簪で飾られている。シャオウから贈られた珊瑚の簪と、師匠の形見の花の簪と。いつまでも褪せない思い出と一緒に。
「心づくしの礼をすると言ったよな」
オアシスを後にしてしばらくのこと。
ゾランが師匠に詰め寄った。師匠は指先を顎に当てて、そういえばと独り言ちした。
「待っているんだが、その心づくしとやらを」
ずいっと体を師匠へと近づけ、ゾランは迫った。
「そうでした」
やんわりとゾランを押し返して、師匠はウードを弾き始めた。そこは、打ち捨てられた寺院で、その夜の寝床だった。ウードは崩れた壁とわずかに残る天井へとよく響いた。
師匠は、黒髪の戦士の
どう考えても、即興とは思えなかった。サーデグ師匠は道中、ずっと考え作り続けていたのかも知れない。
不満げだったゾランの顔は、いつしか歌に聞き入るように目を閉じた。
印象的な音のめりはりと、ときおり混じる耳慣れない美しい響きの言葉とに、わたしも酔いしれた。
どれほど、続いただろうか。気づけば、歌は終わっていた。
ゾランは夢から覚めたように、目を見開いた。
「って、これがっ!?」
「心づくしの歌、ですが」
さも当然であろうというように、師匠は答えるとゾランは頭を抱えた。
「期待したおれが愚かだった……!」
がっくりと肩を落とすゾランの頬に、師匠は唇をあてた。ぱっとゾランが顔をあげる。
「ありがとうございます、ゾラン」
これ以上ないというくらいの笑顔で師匠はゾランへと礼を述べると、もう一度ゾランのひたいに口づけた。
不意を打たれたのか、顔を赤くしたのはゾランの方だった。
師匠は、すぐにわたしの隣へと来た。
「こんなわたしたちですが、一緒に参りましょう。飽きるほど歌を歌いましょう。見知らぬ土地と見知らぬ人たちがきっと待っています」
それから、わたしの短い髪をそっとなでた。
「この髪が伸びて簪が飾れるくらいになるころには、あなたさまはきっとひとかどの歌うたいになっているでしょう」
どこまでも、どこまでも続く草の海、砂の海。
師匠のウードとわたしの月琴。二つが響きあった日は遠くなったけれど。
今はもう遠くなった二人へ、わたしの歌声がとどきますように。
花の琴 ー花の簪外伝ー たびー @tabinyan0701
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