第7話 7

「門を抜けたら、東の沙湖さこを目指しましょう。沙湖には東の者たちもたくさん住んでいますし、なにより大使が住んでいます」

 翌朝はやくに、サーデグはわたしにそう告げた。沙湖はまさしく、父がわたしに指示したオアシスだった。わたしがうなずくと、サーデグはわたしに問いかけた。

「声は出ませんか」

 悲鳴をあげたときからまた、わたしの声は出なくなっていた。唇をかみしめてうつむくと、サーデグとゾランは目配せしあった。

「あなたの楽器を見せていただけませんか」

 思わずわたしは月琴を抱きしめた。ふたりがわたしから取り上げるとは思わなかったが、父の形見となった月琴を誰にも見せたくなかった。

 サーデグは困ったように眉を寄せたが、無理強いはしなかった。

「では、大切に持っていてくださいね。これからあなたは、男の子とします。わたしは知り合いの楽師に頼まれて、ひとりはぐれたあなたを探しに来たということに。楽器は弾けますか」

 こくりとうなずくわたしを見て、サーデグはほっと息をついたが、ゾランは難しい顔をしたままだった。

「では、行きましょう」

 サーデグは布を頭に巻き、自身のウードを背負った。ゾランは外套をまとうと、剣を腰に吊るした。食料の入った袋はゾランが担いで前を歩き、サーデグはわたしの後ろについた。

 門を目指しているのは、わたしたちだけではなかった。家を失ったものや親類知縁を頼って壊されたオアシスを後にするものが多くいたのだ。

 東の門にたどり着いたとき、すでに長い列ができていた。門に陣取る西の兵士二人が、一人ひとりを調べていた。強くなり始めた陽ざしの下、みな押し黙って自分の順番が来るのを待っている。調べの最中に、とつぜん兵士から荷物を取り上げられたり、殴られたりするのが見えて、待っている者たちは更に押し黙る。列の前を見る限り、子どもはわたしだけだった。

「手をつなぎましょうか」

 サーデグは腰をかがめてわたしに話しかけた。おずおずと差し出した手をサーデグは取った。つないで驚いたことは、しなやかに見えたサーデグの指先が硬いことだった。長い間、弦楽器を演奏してきた者の指先は皮が厚くなり硬くなる。父も、そうだった。わたしは、父の手を思い出した。傍らにいるのが父のように感じられた。丸まっていた背中から力が抜けて真っすぐに前を見ることができた。

 わたしたちの順が迫ってくる。わきの下に汗をかき、口の中が乾いてきた。サーデグの手も湿り気を帯びてきた。

「次の者!」

 いかつい男が二人、出口の左右に立っていた。西の兵士だ。鎧は付けてはいないが、剣は履いている。上役の兵士だろうか。長椅子に腰かけて、門がつくる日陰のなかに鎧をまとった男がひとりいる。男たちの鋭い眼光が怖くて、わたしはサーデグの陰に隠れた。

「妙な組み合わせだな、おまえたち」

 言い終わらないうちに、髭で顔が覆われた兵士がわたしに掴かみかかった。悲鳴をあげそうになったが、掴まれる前にゾランが兵士の手首を捉えて押し返した。

「乱暴しないでくださいよ。ああ、おれはこの人たちの雇われ用心棒ですけど」

 そう言うとゾランは、腰に吊るしてある小さな金属の板を兵士に見せた。

「傭兵か」

「傭兵は開店休業で。歳も四十を超えたので、今は護衛が中心ですがね」

 ニヤリと笑って見せるゾランは、兵士たちよりもよほど盛り上がった腕と厚い胸板をしていたので、兵士たちは苦い顔をしながらうなずいた。

「そっちは? お前は、男か」

 ぞんざいな口の利き方で、禿げた兵士がサーデを舐め回すように視線を動かした。

 わたしの隣でサーデグが、すうっと息を吸うのを感じた。

「わたしは、楽師です」

 兵士たちが、サーデグの高い声に驚いたのか目を見開いた。

「なんだ、おまえのその声。やっぱり女か」

 兵士たちは、げらげと笑いだした。見ると長椅子に腰かける男まで腹を抱えて笑っている。サーデグは何度もこんな仕打ちにあってきたのだろうか。兵士たちの態度の悪さに、なんだか腹がむかついた。

「噂に聞くことがあるが、もしやおまえは男を捨てた歌うたいか」

 長椅子の男が、しまりのない顔でサーデグに声をかけた。男を捨てた? わたしはサーデグを見あげた。サーデグはわずかに眉を動かしただけだった。

「なら、商売女と同じか。ひと晩たのむかな」

 男たちはサーデグをさかなに三人で笑い転げている。

「わたしの名は、サーデグ。この子はわたしの知り合いの子です」

 サーデグは毅然と話したが、髭の男がサーデグの声真似をして、男たちは更に笑い続けた。まるで聞いている様子はなかった。突然、ゾランが怒鳴り声をあげた。

「さっさと通さねえか。おまえらのタチの悪い冗談に付き合っていちゃ、らちが明かねえ」

 ゾランの声に気おされたのか、髭と禿げ頭の兵士はびくりと体をふるわせて中半端な笑い顔のままで口を閉じた。

 わたしはサーデグの腰につかまって様子をうかがっていたが、長椅子の男のところへ赤いベールを被った女がお茶を運んで来るのが見えた。女は茶を長椅子に置きしな、男になにか耳打ちをした。男のにやけ顔が見る間に引き締まっていき、髭の男を呼んだ。もう一人の髭の兵士は、ゾランに急かされながら荷物の中を検めている。

「そこの坊主、こっちへ来い」

 呼ばれてわたしの体がびくりとふるえた。サーデグの腰につかまったまま、動かないわたしに痺れを切らしたのか、髭の男が大股で近づいてきた。

「さっさと来ないか!」

「乱暴はやめてください」

 サーデグはわたしをかばおうとしたが、わたしは兵士に腕をつかまれ転んだ。転んだ拍子に上衣の袖がやぶれると、兵士は力づくで上衣をわたしからはぎ取った。

「子どもはすべて、裸にして調べよと言われているからな」

「やめてください!」

 なおも、わたしから完全に服を取り去ろうとする男の手が伸びる。サーデグはわたしと男の間に入って、男の手を阻もうとする。ゾランは持ち物を調べていた男ともみ合っている。

 わたしは、人前に肌をさらした恥ずかしさと恐ろしさで腰が抜け、立ち上がれなかった。座っていた男が焦れたように立ち上がった。そのとき、男の横に立つ女の赤いベールが風に飛ばされ、顔が露になった。

 ――メイ!

 それは紛れもなく、わたしを裏切った侍女のメイだった。メイはいつもの意地悪そうな笑みを、赤く塗った唇に浮かべている。わたしが皇女だと知らせたのだろうか。一気に血の気が引き、めまいがした。

「坊主、おまえの楽器はただの飾り物だろう。赤の他人の楽師たちと、ここから抜け出せると思うな。ほんとうに男かどうか確かめる必要がある。服を脱いで裸になるか、そいつを弾いて見せるかどちらかだ」

 もしかしたらメイは、わたしの素性をまだ話していないのかも知れない。ただ、わたしに怖い思いをさせ、恥をかかせたいだけなのかも知れない。その証拠に、メイは見世物を見る客のような目つきでわたしを見ている。

「どうした、さっさとどちらかを選べ」

 わたしはふるえる腕で、月琴の布を外すと、こどものわたしには大きすぎる月琴を抱えて地面に座った。

 落ち着け、落ち着け。わたしはお何度も息を吸っては吐いた。最初はわずかしか吸えなかった息が徐々に大きくなる。

 指はまだふるえるが、わたしは月琴の弦にふれた。ぴんとした音が石造りの門に反響する。

 硬質で高く鳴り響く三本の弦をわたしは無心にかき鳴らした。

 父から何度も手ほどきを受けた曲だ。弾くほどに体から強ばりが取れていく。あっけに取られているメイが目の端に見えた。

 メイ、ほんとうにわたしのことが嫌いだったんだね。メイにはわたしと同じくらいの妹がいると聞いたことがある。羊を追って、野に暮らす家族のために売られてきたメイには、なに不自由なく暮らすわたしが憎らしかったのかも知れない。

 曲はゆるやかなものへと移り、わたしは目をつぶるといつしか歌っていた。かすれた声は曲が進むにつれて、なめらかに喉をふるわせていった。

「声が……!」

 サーデグの声が聞こえた。

 わたしは歌った。メイがきまぐれで歌ってくれた子守唄を。

 遠くに白く雪を頂く山波、緑の草原とどこまでも青い空。一羽の鷲が空高く飛ぶ。

 メイの歌を聴くたびに、まだ見ぬ地を思い描いていた。狭い宮殿を飛び出し、門の外へ。どれほど夢見ただろう。

 きらびやかな音の重なりが聞こえて目を開くと、傍らにサーデグが腰を下ろしウードを弾いていた。

 わたしの月琴とサーデグのウードは互いに呼び合うように奏でられる。むろん、サーデグの手業には遠く及ばない。けれど、サーデグはわたしが引き立つようウードを鳴らし、小さく声を重ねた。

 やがて歌は後奏の響きとともに終わった。

 わたしは大きく息をついて隣に座るサーデグを見た。サーデグの青い瞳がゆっくりと弧を描く。そして白い腕を伸ばして、わたしを引き寄せ髪に口づけた。

 目の端にメイが見えた。メイは口元を押さえて呆然とわたしを見ている。いや、周りの者たちはみな黙ってわたしたちを見ていた。

 と、列から小さく拍手が起こった。パラパラと聞こえた拍手は瞬く間にもりあがり大きくなった。

「さあ、早く着て」

 サーデグは裸のままでいるわたしを立ち上がらせて服を着せてくれた。裸だったことを忘れるほど、無我夢中で歌っていた。初めて人前で歌った昂揚感がわたしを押し包んだ。頬が熱い。今さら緊張してきたのか膝が笑っている。サーデグはわたしの手を取るとみなに向かって、片膝をつき優雅にお辞儀をした。あわててわたしも頭を下げた。拍手はますます大きくなった。

「月琴を見せろ!」

 唐突な叫び声とともに、わたしの手から月琴が奪われた。長椅子に腰かけていた男がいつの間にかわたしの後ろにいて、月琴を持ち上げ背面を凝視していた。

「かえして!」

 両手を一杯に伸ばして、わたしは月琴を取り返そうとしたが男はわたしをひと睨みして、月琴を持つ手をさらに高く掲げた。

「これは、潘王のものではないのか!」

 背丈の割に盛り上がった筋肉で鎧がはちきれそうな男は、高々と月琴を掲げてわたしを睨みつけた。

 月琴の背面には、螺鈿細工で赤い花がいくつも飾られている。薔薇という名にしては、控えめで可憐な花の名は、コウシンバラだと父がかつて教えてくれた。

「この花は、潘王の印だろう。王が着ていた鎧にもあった。さあ、服を脱げ。おまえが逃げた皇女だと証言する者がいるんだ」

 拍手はいつしかざわめきに変わっていた。さっきまで少しでも早く門をくぐりたいと前のめりで並んでいた人たちが、じりじりと後ずさる。

 わたしはとっさに手を前に組んでうずくまった。駄目だ、メイはとっくにわたしのことを告げ口していたんだ。父の紋章の入った月琴を持つ理由をわたしが話せるはずがない。

「待ちなさい」

 凛とした声がざわめきを打ち消した。

「その月琴は、わたしが王から褒美として頂いたものです」

 サーデグはわたしの前に進み出て、男と対峙した。

「以前、王の宴で歌った褒美に月琴とこの簪を頂戴いたしました」

 サーデグは頭に手をやり、すっと一本の簪を銀の髪から抜いた。わずかに波打つ髪が腰まで降り、風になびいた。

「ご覧ください」

 手にした簪を、サーデグは男の前に差し出した。それは、地味なつくりではあったが確かにコウシンバラの透かし模様が刻まれていた。

「王は音曲への造詣と理解が深く、たとえ西の者であっても見事な演奏をするものには礼賛を惜しまない方だったことは、あなたもご存知のはず」

 サーデグに詰め寄られ、男は顔を引きつらせて半歩さがった。

「だよな、門番を任されているくらいのお人だ。知らぬわけはないよな」

 いつの間にか、荷物を担いだゾランがサーデグの横にいた。頭ふたつ分は大きいゾランから見下ろされ、男は月琴を胸に背を丸めた。

「先ほどのわたしたちの歌を聞いて、ご理解いただけると信じておりますが」

 サーデグはわたしを抱き起こすと、自分の隣に立たせた。男は月琴を抱えたまま、首を左右に巡らせた。気づけば、髭と禿げは殺気立つゾランから距離を置いていた。

「お、おい女。こいつは皇女じゃないのか」

 門の下に呆然とたたずむメイは、声をかけられると顔をあげた。わたしは体全部が心臓になったように感じた。鼓動とともに体がゆれる。

 メイは唇がわなないているのか、手がふるえているのか。目元を乱暴にこすると顔をそむけた。

「見間違いだったわ。皇女が月琴を弾けるとか歌を歌えるとか、一度も聞いたことがない。皇女はきっと、火事で焼け死んだのよ」

 メイ!

「ほ、ほんとうか!?」

「うるさいわね、何度も言わせないで」

 メイはそう言ったきり、門の中の小部屋へと消えた。サーデグはかすかに微笑み、うなずいた。

「月琴をお返しください。それはこの子がこの先もずっと演奏する大切な楽器なのですから」

 男は助けを求めるように視線をさまよわせたが加勢者はなく、有無を言わせぬ気迫のサーデグへと月琴を渡した。

「では、先を急ぎますので。皆さま、お騒がせいたしました」

 サーデグは涼し気な眼差しで門番たちへ笑みを送ると、わたしの手を取りゾランに続いて門をくぐった。

 とたんに視界が開けて耳鳴りがしたように感じた。青く広がる空とわずかに草が生えている大地に続く足あと。さきに門をくぐった者たちの後を追い、わたしたちはしばらく無言で進んだ。

 オアシスの城塞が見えなくなった辺りで、わたしは足から力が抜け手をついてへたり込んだ。

 逃げた。逃げおおせたのだ。

 ぽつりぽつりと乾いた大地に涙が落ちた。

「母さまのいいつけ、やぶっちゃった。歌、歌うなって言われていたのに」

「初舞台だったのですね。最上の出来でしたよ、姫さま」

 しゃがんでわたしの背中に手を置いたサーデグのまなざしは、どこまでも柔らかだった。

「どうして、わたしのこと……」

「気づいていませんでしたか。あなたさまのズボンの紐通しのところに、ギョクが結び付けられていたんですよ。小さいですけれど、潘王の紋章が彫られた玉が」

 あわててズボンを確かめるわたしに、それからとサーデグは続けた。

「あなたには、わたしのよく知る姫の面影がありましたから」

「まったくな、笑っちまうくらい似ているぜ。叔母と姪だろう。似るもんだな。もっともあちらの姫よりは目がいくぶん大きくて、鼻筋も通り過ぎていないみたいだがな」

 ゾランの声が続く。サーデグは眉間にしわをよせて、ゾランを睨む。

「おっと、怒るな怒るな。悪かったよ、口が滑った。おまえの大切なお師匠さまをけなすつもりじゃないからな」

 ゾランは慌てふためいて、顔の前でさかんに手を左右に振った。

「姫、お名前を教えていただけませんか」

 サーデグは膝立ちして、わたしの手を取って立ち上がらせた。

瑞季ルェィジー……」

 わたしはようやく二人に自分の名を告げた。

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