もちもち

 本をよく読んでいる奴だった。

 いつも穏やかなブラウンの瞳を笑わせて俺たちを見ていた。


「本当に、君たちはすごいと思うんだよ」


 俺たちの中で一番知識を持っているのはそう言う彼女だったが、皮肉でもなんでもなく本気で言っているのだと分かっていた。

 学校にある創立千年を誇る図書館の蔵書のほとんどを読み尽くし、蓄えている知識量が物を言う魔法学・魔法薬学の知識も教師陣にも匹敵する量を有している。生徒・教師両方から「歩く知識庫」「知識喰らい」などとも呼ばれるほどだ。

 本好きが高じたというよりも、まず先にという欲求があるのだろう。

 一度、俺は彼女に何故そんなにたくさんのことを知りたいのか、知って何をしたいのかと尋ねたことがある。

 彼女は少し苦笑いするように答えた。


「僕は何も作れないから。何かを生み出す人が好きなんだ。

 僕が持っている知識は、どこかで誰かが生み出したものでしょう。

 そういうのを集めて眺めている感じ」


 綺麗な鉱石や美しい花を集めているようなものだろうか、と俺は首を傾げた。

 だが、彼女のすごいところはただ蒐集しているだけではない。蒐集したものを正しく理解しているところだ。だからこそ教師陣も彼女を一目も二目も置き、卒業を前に講師の一人として迎え入れたい意向なのだそうだ。

 という存在が生まれる以前から存在するという異世界を結ぶ我が学園で、彼女は間違いなく逸材と呼ばれる学生だった。


「君の方がすごいのだけどね。

 この間のマルヒキガエルのバター煮はとても美味しかったよ。マルヒキガエルの茫洋としてしまう輪郭を月の粉で固定するのは誰も思いつかなかった。そうすればバターだろうがナメクジ龍の粘液だろうが煮詰められるものね。

 今度、食堂でも採用されるのだって?」

「誰かが料理長に喋ったみたいだな」

「料理長は、君のアイディアだってことは知らないの?」


 ブラウンの目をキョトンと丸くして彼女が尋ねる。俺がうんと頷くと、なぜか彼女の方が困ったような顔をするのだ。


「正しい知識の出どころは、ちゃんと正しくしておかないと、後世が困ってしまうよ」

「マルヒキガエルの輪郭固定が後世まで残るものかな」

「知識は波及していくものだよ。君はソテーにしたが、誰かは改めて解剖するために固定するかもしれない。解剖した結果は更に別の知識を生んでいく。

 知識とはそういうものだ」


 静かに柔らかに彼女は俺を諭す。女性にしては少し低い声は、しっとりとしていて優しい。

 白く長い髪を払う彼女の指先は深い紺色、星の色に染まっている。

 彼女は長命種、その命の果ては星空に溶けてなお悠久を漂い知識の星を降らすのだと言われていた。




 教師の一人となっていた彼女が学園を飛び出し、『大樹』の根本にいると聞いた時。

 この世界の知識を吸い尽くした彼女が飽きてしまい世界の根幹を繋ぐ『大樹』を切り落とそうとしているのだと、俺はそう聞いていた。


「飽きる? 僕が、この世界を」


 ふふ、と目の前の彼女はいつもどおり俺に笑いかけた。

 木漏れ日の降る図書館でマルヒキガエルの話をしていたあの頃と、彼女は何一つ変わらない。「久しぶり」と白髪の混じりかけてきた俺を、彼女は笑顔で迎えた。

『大樹』の根本。長閑で明るい森の中。


「君はそうは思ってないだろう。僕が、飽きたなんて」

「もちろん。お前の知識欲は星空のようなものだ。果てがない」


 だからになっている。


「僕の欲が果てないように、世界の知識も終わりがない。素晴らしいことだよ。

 僕はちょっと遊びたくなってしまったんだ。

 僕自身もびっくりしている。僕にまだ知識以外に欲求があったなんてね」


 そう言って、彼女は俺の方へ星色の指先を伸ばした。いや、もう指先だけではない、手首の方まで侵食している。

 しかし、その指先は俺には届かない。俺は。『大樹』に辿り着けたわけではない。

 彼女の指先は俺との間に歪む。空間に沈むように。


「君がマルヒキガエルのバター煮を作ってくれたときから、僕はね」


 彼女は綺麗に微笑む。


「みんなの創り出すものをもっとたくさん知りたくなってしまった」


 何も創り出すことができないと言った彼女は、きっとそれは純粋に言葉通りに、悪意の欠片もなく真実なのだ。

 俺は胸が痛い。

 世界から敵と認識されるために、あの日彼女にマルヒキガエルのバター煮を出したわけじゃない。


「世界を危機に陥れてまでしたかったことなのか」

「君たちは必要なものを次々と生み出す。必要というのは欲求だ。欲しい、無ければならない。

 その衝動が最も生み出されるのはいつだろう。

 たぶん、自分の身が侵害されるときなのではないだろうか」

「そこで生み出されたものはお前を傷つける」

「創造がいつも美しくて美味しいとは限らない」


 俺の言葉が届かない。彼女の姿が一瞬揺らぐ。

 マルヒキガエルの姿が茫洋なのは存在自体が曖昧だからだ。そこにありそこになく、在るという認識がマルヒキガエルをそこに結ぶ。

 月の粉は時間を固める。マルヒキガエルの存在をそこに固定してバター煮が完成し、彼女は大喜びで美味しそうに平らげた。

 俺がやったことはそんな些細な美味しさのためで、彼女の笑顔のためで。それを俺ががためのことで。


「月の粉を使ってるのだね。空想はそのときそこにある。

 『大樹』を思い浮かべた君を月の粉が固定した。ずっと固定することはできないようだけど」


 月の粉の用法はマルヒキガエルの件の後、急速に発展した。

 知識は波及する。彼女の言ったとおりだった。

 創造がいつも綺麗で旨いとは限らない。この先、マルヒキガエルを美味しくし、彼女に引き合わせてくれたこの道具が、彼女の胸を貫くことになるのかもしれない。


「新しい知識をもって、ここまでおいで」


 彼女は笑った。いつもの笑顔で。

 俺はつかめないと分かりながら、歪む空間へ手を伸ばす。感触のない感触が指先を包んだ。

 


 蕩けるように柔らかな緑の空間が消え、辺りが夜の闇に包まれた。

 指先を握り込む。

 これも欲だろうか。行き過ぎた感情によく似ている。

 彼女を救いたい。星色の手をもう一度掴みたいと思ったのだ。

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