梨沙

 目に映るあらゆるものに音楽が付いていると思っていた。

 その音楽がぼくにしか聞こえていないものだと割と早くから知ってはいたのだけど、ぼくがピアノを鳴らすたびに「どうしてそうなった」と問われると新鮮に驚いてしまう。「なぜ聞こえないのか」と尋ね返してしまうほどだ。あるいは、そうやって尋ね返すと、相手は意味が分からないと余計なことを言わずに話が終わることを、経験で知ってしまったからかもしれない。


 梨沙りさもやはり、ぼくに同じ質問をしてきた。

 ぼくはいつも通り問い返す形で答えてしまったのだが、首を傾げた彼女を見て、どうしても彼女には分かってほしいような気持になってしまった。

 初めて彼女と話した時、梨沙はぼくに、本当にただの感想のように言ったのだ。



「春音さんの声って、すごく滑らかなカスタードクリームね」

「な、…… なんて??」


 隣同士の席、はじめましてからの自己紹介をしただけだった。相手からの初手がそんななので、ぼくの戸惑いは当然のものだったろう。

 梨沙はきっとぼくの戸惑いをカスタードクリームの詳細が分からないという意味で受け取ったみたいで、「ええとね……」と親切にもその先を続けてくれた。


「けっこう甘いのだけど、しつこくないというか、口の中に残らない甘さなの。

 トロっとしてるけど滑らかで、そうね、絹のようなイメージかしら。豆腐じゃなくて、布の絹よ。まあ、あたしも絹なんて食べたことないけど、イメージね、イメージ。

 美味しいということよ」

「なる…… ほど」


 果たして、人生の中で自分の声をして『美味しいカスタードクリーム』などと形容される人はこの世界で何人いるだろうか。唐突に稀有な存在になってしまったぼくは、目の前のクールだけどなんだかちょっと天然が入ってそうなクラスメートを見つめてしまった。

 すると、彼女はようやくぼくの戸惑いの本当のところに気付いたようで、落ち着けるように自分の髪を触りながら「ごめんなさい」と切り出した。


「あたし、よくこうやって困らせてしまうみたい。

 人の声を聴いたりモノを見たりするとまったく関係が無いのだけど、味が思い浮かんでしまうの」


 それはもしかして……、とぼくは言いかけたが、寸でで思い留まった。これはきっとぼくが今、彼女に伝えることではないだろう。

 代わりに、ぼくは自分の青いペンケースを手に取って、


「これも?」

「はんぺん」

「はん…… こ、このペンは?」

「マカロニ」

「担任の声は……?!」

「卵かけご飯、かな」

「TKG!!!」


 ぼくは思わずのけ反って大声で笑ってしまった。おかげで彼女には注意されるし、なにを騒いでいるんだと周りから注目されてしまった。ぼくはこれから、担任の声を聴くたびに卵かけご飯を思い出す宿命を負ってしまったのだ。なんてこと。

 ぼくは可笑しくて可笑しくて腹筋が壊れそうだったのだが、それ以上に嬉しかったのだ。こんなところに、ぼくと同じ、しかし全く違う世界を見ている人がいる。ぼくは、ぼくは───


「ご、ごめん、馬鹿にしたわけじゃないの。

 あなた、ええと……」

「梨沙」

「梨沙! ねえ、ぼく、梨沙の見ているもの、きっと大好きだわ」


 よろしくね! と梨沙の手を取って握手をすると、彼女は驚いたようにキョトンとしていたが、やがて苦笑にも似た笑みを見せた。「こちらこそ」




 ぼくの声を『カスタードクリーム』と評した梨沙は、なんと翌週に「だいたいこんな感じ。もっと滑らかで美味しいはずなんだけど」と、自作のカスタードクリームを渡してくれた。カスタードクリームって家で作れるものなんだ、とぼくは素直に驚いた。


 あれからぼくは事あるごとに梨沙に味を聞いて、梨沙も呆れずにぼくに付き合ってくれた。

 信号機にコーンスープ、電車の発着音にトロピカルゼリー、壇上の校長先生にいももちというのだから、毎日予想だにしないメニューが豊富だ。

 梨沙の見る世界は本当に美味しい。その対象とはまったく関連のない食べ物ばかりだが、彼女の味の描写は細かくて、ぼくはまるでそれを食べている気分になる(まさか校長先生を食べるとは思わなかった!)。

 梨沙の世界はすごいな、と語彙力も空しい表現でぼくが伝えると、梨沙は戸惑いながらも笑って、そうして少し寂しそうな顔をするのだ。


「でも、一つだけ」


 梨沙は迷うようにゆっくりとぼくに告げた。


「分からないの。

 自分の声は、なんの味も思い浮かばないんだよね」

「…………」

「ごめんね、変なこと言ったわ。

 気にしないでね」


 驚いて言葉が出てこなかったぼくに、梨沙はいつもの調子でサクサクとそう言って、「それじゃあまたね」と手を振って分かれ道を行ってしまった。

 自分の声の味が分からない。とは。

 ぼくは家の冷蔵庫から、梨沙からもらったカスタードクリームを取り出した。美味しくてもうわずかしか残っていない。料理をするわけでもないぼくは、これをどう使っていいのか分からなくてもっぱらパンに塗って食べていたが、美味しい以外に評価のしようがない。

 彼女が味わったぼくの声だ。こんな声をぼくはしていたのか、と初めて味わう類の感動があった。

 スプーンに一掬い。カスタードクリームそのものを味わってみる。


 ──── まろやかで柔らかい、日向に流れるワルツが聞こえた。


 梨沙、寂しそうな顔をしていたな……

 あんなに美味しいものに溢れている世界の中で、ただ一つ、自分だけが味わえない。ぼくがそれを教えてあげることもできない。あの世界は梨沙だけにしか感じられない世界だ。

 ぼくは。ぼくは───


 彼女を想うと悔しくて悲しくて、ぼろりと涙がこぼれた。





「ぼくにはああやって聞こえてるけど、梨沙には聞こえないの」


 反射的に返してしまったぼくの言葉に首を傾げる梨沙。夜の青に静かに浸されていく彼女の頬が傾いている。

 ああピアノがあれば、ここにピアノがあればいくらでも聞かせるのだけれど。ぼくは無意識に指を動かしていた。

 …… そうだ。聞かせればいいのだ。ぼくは、はたと気付いた。

 彼女が感じるものと同じ味を伝える事はできないが、ぼくが梨沙の声をどんな音で聞いているのか、彼女に聞かせることができるのだ。

 梨沙がぼくの声をカスタードクリームのワルツにしてくれたように。今度はぼくが彼女の声を。

 胸の奥から湧いたこのきらめきを、ぼくは抑えられなかった。

 時間はとうに下校時刻を過ぎていて、ぼくも梨沙も家までは一時間以上掛かってしまうけれど。

 今しかない、という気持ちが消せなかった。


「ちょっと来て」


 梨沙の手を引っ張って、ぼくは夜が始まる廊下を走った。

 わくわくしていた。足元から軽快な三拍子が聞こえる。暗い廊下はぜんぜん怖くないけれど、繋いだ手からぼくの鼓動が、テンポを伴って梨沙に伝わってしまうのではないかと思うくらいドキドキしていた。


 なにか楽しいことが始まろうとしていると思った。

 アンダンテよりも少しアップテンポに、スウィングの掛かったワルツ、踊り出したくなるイントロが消えない。

 つぶさに伝えたい、梨沙へ。あなたの声が静かで美しく、綺羅星を抱く夜空のような音楽をしていることを。

 あなたの世界を知らないぼくが、あなたが知らないぼくの世界で見たあなたの姿。



 鼻歌を歌っていたかもしれない。

 ぼくはそれぐらいの気分で、音楽室の扉を開けたのだ。

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春音と梨沙 もちもち @tico_tico

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