春音と梨沙

もちもち

春音

 春音はるねは喋るようにピアノを鳴らした。

 放課後、夕陽が差し込む音楽室にいるのはあたしと春音しかいない。けれど、春音が奏でる音があまりに情報過多で、まるで満員の音楽室にいるような気がしている。

 よく聞く曲だった。どう聞いてもスウィングしているけれど、たぶん元は厳格なクラシックだったはずだ…… たしか、『エリーゼのために』ではなかったか。あたしは普段からJ-popばかり聞くような人間だから、クラシック界隈になると全然話が通じなくなってしまうし、正直聞いていると眠くなる。

 だが今、傍らで踊るスウィングは心地よかった。……の、だが。

 だんだんと音が重なって洪水のようになっていくピアノに、それはやり過ぎではとツッコミを入れたくなってきている。眠っているどころではない。


「音、音多すぎでしょ」

「あはは」


 あたしのツッコミに、春音は可笑しげに笑いこそすれ音符の数を減らすことはない。気分がいいのだ。片足でペダルを踏みながら、空いているもう一つの足はリズムを刻んでいるのか単に遊んでいるのか分からない。藍色のスカートの裾も気にしない。

 彼女の前にはただ黒いグランドピアノしかない。そこに置かれるはずの楽譜があるのを、あたしは見たことが無かった。




 彼女にとってピアノで音楽を奏でるというのは、きっと呼吸をするのと同じくらいの動作なのだろう。放っておくと一時間でも二時間でも途切れることなくクラシックから映画音楽、あたしのよく聞くJ-popまであらゆる曲をメドレーにして走らせてしまう。

 春音のピアノはとにかく音がたくさん重なっている。原曲よりも重なっていたり飾る音が挟まることが多い。一体あの音はどこから湧いてくるのだと、夕闇差し迫る教室で尋ねたことがあった。

 ぽいぽいと無造作に鞄に教科書を詰める春音は、キョトンとした顔で返した。


「ぼくにはああやって聞こえてるけど、梨沙りさには聞こえないの」


 彼女の言っている意味が全く分からなくてあたしが首を傾げると、春音は「うーん……」と虚空で指を躍らせながら考えた。

 そうして、パッと顔を輝かせて「ちょっと来て」と腕を取られて連れていかれたのが、放課後の音楽室だった。


「なにか喋って」


 唐突に春音に請われ、あたしは戸惑った。「え、と…… そんなこと言われても」

 すると、彼女は笑いながらモノトーンの鍵盤の上に長くて綺麗な指を滑らせた。いくつかの音が一つずつ重なって、サイダーのようにシュワっと弾ける。


「梨沙の声」

「え」

「ぼくには、梨沙の声はこんな風に聞こえるの。ねえ、もっと何か喋って」


 春音はニコニコと笑いながらあたしを見た。そう言っている間も、彼女の指は鍵盤の上をゆっくりと踊り、まるであたしが次に喋り出すのを待つように、促すように、さらさらとイントロが流れる。

 あたしは今目の前で起こった、そしてこれから起ころうとしている何かに気圧されてしまった。声を出していいのかも分からない。……の、だが。

 あたしを待つように彼女が奏でているその曲がコンビニの入店音だと気づいた瞬間に、一気に脱力してしまいそうになった。こんな綺麗な入店音初めて聞いた……

 あたしは一体何を恐れていたのだろう。


「…… 豚こま切れ300グラム、玉ねぎ半個、カレールウ半パック、バター10グラム、」

「ええ~なにそれ、バター? ぼく、カレー好きなんだよねえ」


 あはは、と春音は笑いパターンを抜け中音から高音へ指を払うように音を駆け上がる。

 あたしの『肉と玉ねぎしかない極旨カレー』のレシピと調理法を聞いた彼女は。


 音楽室の窓の外は夕陽に燃された空も鎮火して、青い帳が覆い始めていた。白いピアノは夜に青く光り始め、その上を春音の長い指先が何の躊躇いも違和感もなく滑っていく。

 夜の青をそのまま凍らせてグラスに入れ、その上からほのかに甘いソーダを注いだような。静かでひんやりとしているけれど、冷たくはなく、一匙の好奇心が混じる。

 彼女が奏でたのは、そんな曲だった。


「梨沙の声は綺麗だわ。夜に似てる。けど、ちゃんと星が瞬いてるの」


 音を紡ぎ続けながら、春音が喋る。器用なことをする。

 まさか肉と玉ねぎしか具の無いカレーから、こんな青くて美しい旋律が始まるなんて、一体誰が想像できたというのだ。


「レシピじゃなくて、梨沙の声だからね」


 思わず突っ込みを入れてしまったあたしに、春音はやはり「あはは」と笑って言った。


 何もないところから美しいものを取り出すのが魔法だとしたら、彼女の指先はまさに魔法の杖だった。

 自分の声がこんな綺麗な音に変わるなんて思いもしなかった。出会わないならば一生出会うことなんてない音楽だ。そんな世界へ、彼女はあたしの腕を掴んで笑い声と一緒に連れて来てくれた。


「春音」

「うん?」

「ありがとうね」


 あたしの言葉に、春音はびっくりしたように指先を止めかけたので、あたしは「続けて」とお願いした。彼女は驚きながら戸惑いつつも、まるでその戸惑いを指先に乗せたような間奏を紡ぐ。転調して、困ったような不安なような。あたしから何が出てくるのだろうと待っている音。

 きっと、彼女の世界は常に音楽で溢れているのだ。彼女は音楽でお喋りをする。


「すごくうれしい。うれし過ぎて、泣いてしまいそう」


 悲しくもないのに胸が熱くなる。彼女はこんな感覚を齎してくれた。

 春音はパタパタと瞬きをして、それから声を上げて笑った。指先が弾ける。更に転調とコロコロ変わる拍子、色とりどりの金平糖をまき散らす様に可愛くて楽し気な音が溢れ出てきた。

 溢れたメロディが止まらずに、夜の音楽室を光で満たそうとしている。


「ちょっと、春音……?!」

「あはは、なんだか楽しくなってきちゃった! ぼくも、とてもうれしいよ!」


 うれしい、という感情を彼女はそのまま音楽に乗せてしまう。呆気に取られていたあたしも、踊るように弾き鳴らす春音を見ているうちに楽しくなってきてしまった。

 魔法だ。音の洪水に溺れて、ここからが本番。

 幾重にも展開される春音の世界を前にカスタネットの一つも叩けないあたしは、椅子の上で音の波に体を揺らすしかないのが、悔しくて笑ってしまった。

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