賞味期限が10年も過ぎた「赤いきつね」を食らう話。

ボンゴレ☆ビガンゴ

【賞味期限が10年も過ぎた「赤いきつね」を食らう話。】

 それは、祖母の遺品を整理してる時のことだった。


 部屋の隅を片付けていた母が、「なにこれ?」と首を傾げた。

 祖母の机の横のちょっとした隙間に、封の空いていない段ボール箱があった。


 未開封の段ボール箱には“赤いきつね”の文字が印刷されていた。

 母は訝しげに段ボール箱を開けた。

 中には赤いパッケージのカップ麺が詰まっていた。


「え、これ本当に“赤いきつね”じゃないの。しかも賞味期限10年も過ぎてる。何よこれ」


 カップ麺を取り出した母は悲鳴じみた声を上げた。


「おばあちゃんってカップ麺なんか食べなかったわよね?」


 本棚の整理をしていた僕に向かって母は聞いた。


「さあ、どうだっけ」 


 母の質問に僕は曖昧に頷いた。


「あんなもん体に悪いって、あんたにも食べさせなかったんじゃなかったっけ?」


 母に言われて思い出した。

 祖母はなぜかカップ麺は体に悪い、と信じていた。

 カップ容器から環境ホルモンが溶け出して人体に悪影響を与える、といつも言っていた気がする。

 そういえば、環境ホルモンって言葉自体をもう聞かなくなったな。

 コーラを飲むと骨が溶けるとか、そういう都市伝説だったのだろう。


「あんたがおばあちゃんの家に帰ってたのは小学生の時だけだったわよね」


「うん。中学からは家の鍵を持たされたからね」


 両親が共働きだったのと、祖母の家が学区域内にあったので、小学生の頃は実家ではなく祖母の家へ帰っていた。

 祖母の家で母親が仕事を終えるのを待ち、夕方に母親と一緒に自宅へ帰るのだ。

 中学になって鍵を持ち歩くようになってからは、あまり祖母の家には行かなくなってしまったけれど。


「しかし、なんでこんなものがあるのかしら……」


 首を傾げる母。

 その時、母のスマホが鳴った。


「あら、義雄さんだわ」


 親戚の叔父さんからの電話に出た母は、通帳の置き場がどうとか、実印がどうとか言いながら立ち上がると部屋を出て居間の方へ向かった。


 祖母の部屋に一人残された僕はそのまま本棚の整理を続けていたが、母が机の上に置いた“赤いきつね”がどうも気になった。


 誰でも一度は食べたことがあるであろう、どんぶり型のパッケージは見慣れたものだ。


 蓋に描かれた文字のデザインも“お揚げ”が映る写真の感じも現在のデザインとさほど変わらない。

 けれど、どんぶりの下の方に記載されている賞味期限は確かに10年以上前だ。


 日付は2010年の9月。


 恐る恐る手にとって振ってみる。ガサゴソと中の麺や火薬の袋が揺れる音がした。

 これ、中身はどうなってるんだろう。腐ったり変色したりしてるのかな。

 開けて見たい気もするが、それも少し怖い。


 そもそもカップ麺って非常食のようなイメージがあるけど、どのくらいの長期保存ができるのだろう。

 遺品の片付けにも飽きてきた僕は、スマホの画面で検索をかけてみた。


 いくつか記事が出てくる。

 どうやらカップ麺の賞味期限はメーカーによって違うけれど、製造から未開封で半年程度のものらしい。


 手のひらの“赤いきつね”をもう一度見る。


『賞味期限 10.09.06』


 確かに10年前だ。

 祖母がこのカップ麺を買ったのは、2010年の3月から数ヶ月の間という事だろう。

 2010年の3月。それは僕が小学生を卒業した年だった。


 あの頃のことを思い出してみる。


 あの頃、母親が残業で遅くなる水曜日と木曜日は、祖母の家で晩御飯を食べていた。

 祖母はテレビを見ながらご飯を食べることを許可してくれたので、アニメを見ながらご飯を食べられて、それが嬉しかった。

 そんな記憶がふわりと思い浮かんだ。

 でも、どうも祖母との食事は良い印象が残っていない。


 多分、祖母の作る晩御飯が美味しくなかったからだ。

 鯵の南蛮漬けとか、芋の煮っ転がしとか、佃煮とか煮物とか。

 そんなのばっかり。


 祖母は俺が晩御飯を食べる日には奮発して色々作ってくれるのだけど、

 味付けは薄いし、和食だし、子供の頃の僕にとってそれは正直ユーウツだった。


 学校で友達が、焼肉を食べに行ったとか、昨日の晩御飯はラーメンだったとか、そういう話を聞くたびに、なんて自分は不幸なんだと、ため息をついた。

 今になって、和食の美味しさを知ることができたけど、あの頃はまだ味の濃いものが好きだった。


 そうだ、それで祖母と喧嘩をしたことがあったんだ。


 あれが確か小学校6年生の時だ。


 あの日は、学校帰りに友達の家に行って遊んでいた。

 夕方になって五時のチャイムが鳴って、帰ろうとした時、

「今晩、家族ですき焼きなんだよ」と友達が言った。

 羨ましいと僕が言うと、友達は「一緒に食べようぜ」と言ってくれた。


 僕は飛び跳ねる勢いで喜んだ。

 その日は木曜日で、祖母の家で晩御飯を食べる日だった。

 昨日も祖母の煮物を食べさせられていた僕は、今日も似たような薄い味付けの物を食べる羽目になると暗い気持ちになっていたから、友達の言葉は天国への誘いの様だった。


 幸運なことに友達の母親も嫌な顔をしなかった。たまにはそういうのもいいわね、と言ってくれた。

 ただ、その後にこう付け加えた。


「お家でご飯用意してるんじゃないの? 電話して聞いてみて、良かったら食べていきなさい」


 友達の母親に祖母の電話番号を伝えると、電話をかけてくれた。

 良かったらうちで晩御飯を食べて行きませんか、と。


 けれど、祖母は断った。

 ご迷惑になるから、とか、ご飯を作って待ってるから。とか。


 友達の母親は申し訳なさそうに、「今日は帰りなさい」と言った。


 僕はすき焼きが食べられないことや、祖母の家に帰ればまた味の薄い煮付けが待っていることを思うと、悔しくて悲しくて、腹が立った。


「ばあちゃんのご飯、美味しくないから嫌い!」


 僕は割烹着を着て晩御飯の支度をしている祖母に向かって言ってはいけないことを言ってしまった。


 祖母は鍋を持つ手を一瞬止めて、振り返り、とても悲しい顔をした。

 けど、すぐに頬を緩めて、


「ごめんね、おばあちゃん昔の人だからハイカラなものを作ってあげられなくて」


 と微笑んだ。


「あんまり洋風なものは作れないけど、来週はマコト君の好きなものを食べましょ。何か食べたいものはある?」


 ちょうど、その時、居間のテレビに武田鉄矢のデカイ顔がアップで写った。

そして赤いどんぶりを画面に向けていた。


『あーかいきつねと緑のたっぬき♪』


 なんだか気の抜けるメロディが、やたら耳に残った。


「……“赤いきつね”が食べたい」


 本当に晩御飯にカップ麺を食べたいと思ったのか、自分でも思い出せない。

 もしかしたら、健康に悪いと言って食べさせてくれなかった祖母への当て付けだったのかもしれない。


「わかったわ。“赤いきつね”を買っておくから、来週は一緒に食べようね」


「ほんと?」


「ええ。約束する」

 

 記憶は曖昧でその後のことはあまり覚えていない。


 たしか母親が残業がない部署に異動したのがその頃で、祖母の家で晩御飯を食べる機会が急になくなった様な気がする。


 それにすぐ中学に上がって鍵を持たされたので、単純に祖母の家に帰ることがなくなったし、新しい学校生活や部活に忙しくて、あまりあの頃のことを思い出すこともなかったから、結局祖母との“約束”自体忘れ去っていた。


 けれど、いま目の前に10年前の“赤いきつね”がある。

 そして、さっき母親が段ボールを開封したので、この“赤いきつね”は誰も手をつけることがなく10年間大事にしまわれていたことになる。

 約束は果たされなかったのだ。


 祖母はどんな気持ちで“赤いきつね”を買ったのだろう。

 いつもご飯を作ってくれて感謝するべきなのに、ひどいことを言った僕なんかのために、祖母は本当に“赤いきつね”を買っていたのだ。

 

 ……いっしょに食べたかったな。


 祖母は口数は少なかったけど、いつでも僕の味方をしてくれた。

 僕のわがままを聞いてくれた。最後は痴呆が進んで、僕はそんな祖母と会うのが億劫になってしまって全然会いに来なかった。

 もっといっしょにいたら良かった。

 そして、二人で“赤いきつね”でも“緑のたぬき”でも食べて、お茶でも飲んで他愛のない話をして……。

 そんな風にできたら良かったのに。


 祖母の元気だった頃の姿が頭に浮かんで、急に目頭が熱くなった。

 葬式でも火葬場でも、こんな気持ちにならなかったのに。


 10年前の“赤いきつね”の蓋の上にポトリと涙が溢れた。


 鼻を啜る。涙を拭う。


 そうだ。

 目の前にあの時の“赤いきつね”はあるじゃないか。ばあちゃんと一緒に食べるはずだった、あの時の“赤いきつね”が今こうして目の前にあるじゃないか。


 食おう。


 それが僕にできる唯一のばあちゃんへの手向けだ。

 僕は立ち上がりキッチンへ走った。


 包装ビニールを破る。

 蓋を剥がす。

 粉末スープの小袋を取り出し封を開ける。

 “粉末”じゃなくなっていたけど、気にせずにお揚げを持ち上げて麺にかける。

 少し普通とは“違う”感じの酸っぱい様なちょっとした異臭がするが、気にしないふりをする。

 なにせ10年前の赤いきつねだ。

 腐っていたって不思議じゃない。それが原型をとどめて今、僕の目の前にあるのだ。それだけで十分だ。食える食ってやる。


 僕の決意は揺るがなかった。


 賞味期限なんかより、守りたい約束があるんだ。


 電気ポットからお湯を注ぐ。


 5分待つ。


 その間に、祖母とのいろんな思い出が頭に浮かんでは消えた。

 一緒に時代劇を見たことや、スーパーでお菓子を買ってもらったこと、

 ばあちゃんの背中に背負われた幼い日のことや、エプロンの蝶々結びを後ろから近づいてほどくなんていうちょっとした悪戯。

 そんな忘れて当たり前の大したことのない記憶が波の様に押し寄せて、また涙が出てきた。


 5分経った。


 ばあちゃん。遅くなっちゃったね。

 あの時はごめん。

 一緒に食べよう。


 ばあちゃんの遺影の前で手を合わせ、


 箸を持ち麺を啜った。




 ……そして、あまりの味に僕は盛大に吐いた。




 ばあちゃん。

 やっぱり賞味期限は守ったほうがいいね。





 〜完〜





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賞味期限が10年も過ぎた「赤いきつね」を食らう話。 ボンゴレ☆ビガンゴ @bigango

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