非晶性のメモリー
如月姫蝶
∞
私が片腕を失った時、彼女は笑った。喪失の原因は事故。どう転んでも——私たちが乗っていたバスは見事なまでに転げ落ちたわけだが——彼女の落ち度ではない。
だから彼女は、かつて無いほど明るく優しく笑ってくれたのだろう。
私たちは初陣を飾ろうとしたが、まさに白々しく前途を閉ざされた。
「これはビギナーには辛いよね。ロッジに戻ろう!」
引率していたインストラクターの女性は、早々に決断した。いっそ潔いほど雪焼けしており、なんでも国体出場の経験さえあるという彼女に、誰一人として反対しようとはしなかった。
「うわぁ、足が呪われたよ、赤い靴だけに」
まずは暖を取るようにと、インストラクターが触れ歩く中、
「綺麗……」
そばにいた私の唇から、そんな言葉が零れ落ちた。
「どした?」
亜美は耳敏くやって来る。私は、言葉に詰まらぬよう注意しながら説明した。
「
「おおお、映えるね!」
小峰雪絵が帽子を取ると、長い黒髪の房が背に落ちた。その艶やかな黒髪の縁に、数多の雪の結晶が繊細なビジューのようにあしらわれていたのだ。
それは、全身隈無く雪に塗装されてしまった別の少女の次くらいには、亜美たちの撮影欲を刺激したらしい。戸惑う雪絵に、救難用の名目で所持していたスマホを構えたカメラガールたちが肉迫した。
「綺麗!」
彼女たちの素朴な賛辞が、私には好ましかった。
もしもこの場にうちの両親が居合わせたなら、「なぜ雪の結晶は六角形なのか」と、得意げに水分子同士の結合について語ったに違い無い。だから私は、両親の不在に心底感謝した。
「すごく綺麗」
私もまた控えめに口にした。私の賛辞は、実は、同じ形は二つと無い結晶や、黒髪と白い結晶の対比についてよりも、黒髪そのものとそこから立ち昇る匂いへのものであることは、絶対に秘密にしておきたかった。
うちの父は、時折、科学的ではない方面からも、世の理を語ろうとする。
「いいかい、
これは、大学まで内部進学して医学部に入れることよりも大きいかもしれない」
かつて初等部に入学した頃、そんなふうに言って聞かされた。父は立志館の卒業生なのだ。
彼と彼の妻はどちらも産婦人科医で、二人でクリニックを開業している。そして私は一人っ子だ。
私は、五才の頃までお世話になっていたベビーシッターの
もう一点、父は、教師という人種について、噛んで含めるように説いたのである。
中等部に進学したある日、保健体育担当の教師である
彼は、会議室で二人きりになると、性教育用に作成したというプリントを、おずおずと差し出したのだ。
「
なんでも、中学生相手に避妊法を教示できるのは、私学ならではらしい。いずれ結婚最低年齢を迎えたら役立つ知識という名目で教えるのだが、最低年齢を待っていたら手遅れになったというケースが過去に存在したのだろう、多分。
プリントをさっと一読した私は、大きく頷いた。
「問題無いと思います」
だが、香沼があからさまに顔を引き攣らせたことで、私の中に父からの教えが込み上げた。
「すみません、生徒に言われたくはないですよね。私が両親から教わった内容とそっくりだと思ったんですが、このプリントはお預かりして、きちんと両親の意見を求めます」
私は、折に触れて練習している作り笑いを満面に湛えて、事なきを得た。
父から口を酸っぱくして言われていたはずだった。教師の中には、「本当は医師になりたかった」というコンプレックスを抱える者が一定数存在する。彼らの心の地雷に触れると、何をされるかわからないから用心するようにと。
小峰雪絵とは、中等部二年生で初めて同級生になった。ある日、図書室の大きな机を、気付いたら二人きりで共用していたのだ。
窓の外を見遣る雪絵は、いかにも物憂げに睫毛を震わせていた。
私は不思議だった。そんな表情を晒すのは、弱みにつけ込んでくださいと喧伝しているようで、酷く無防備ではないのかと。十三年以上も生きてきて、ここぞという場面で笑顔を作る以外は澄まし顔を決め込むことこそが、両親をはじめとする他人から身を守るための最適解だと、私自身は試行錯誤の末に結論していたから。
ただ、雪絵の横顔を見つめるうちに、呆気無く休み時間は終わりを告げた。その最後の瞬間に彼女と目が合って、私の眼球はチリリと焦げた。
元より、城森智衛と小峰雪絵は、クラスの名簿で隣接していた。さらに、一般論として、昼休みを孤独に過ごすことはリスキーである。
そして、どちらも医師の娘であるという共通点もあいまって、私と雪絵は、週に数回、昼食を共にするようになった。
「城森さんは、大学では医学部を選ぶつもり? 城森さんの成績なら余裕だよね?」
とある昼休み、雪絵が尋ねてきた。
「うちのお姉ちゃんが、よその医学部に入学したんだけど……医学部のお勉強って、やっぱりすごく難しいみたいで……『あんたは、あたしが生贄になったお陰で、好きな学部を選べるんだよ、感謝しなさい!』って、顔を合わせるたびにすごくきつく言われるの。もう、辛くって……」
雪絵の姉が入学した大学は、立志館とは偏差値的に段違いの一流大学で、ついでに言うなら、うちの母の母校でもあった。
「それって、嘘でもお芝居でもいいからお姉さんにたっぷり感謝して見せてから、小峰さんは好き放題に生きるというのではダメなの?」
私は、日頃の母への対処法から類推して、真剣に提案した。本音を伝えることは、こちらの弱点を仄めかすことにもなるというのに。
「うちの両親は、私が医師になるのは構わないけど、産婦人科はやめておけって言う。多分、少子化の関係だろうなとは思うけど、私にはまだ、彼らの言いたいことが全て理解できるわけじゃない。だから、医学部を志望するかどうかもまだ決めてないよ」
雪絵は、潤んだ目を、ゆっくりと大きく、顔から零れ落ちそうなほど大きく見開いて、睫毛を戦慄かせた。
「城森さんて……強いんだね……」
私は、急激に頬が紅潮するのを感じた。そして、何故だか、雪絵のことを見ていられなくなった。
二日目のスキー教室は、悪天候のため中止。参加者は全員、ロッジ内にて待機するようにと指示された。だが、私の全身を痛打したのは、そんなこととは別の報せだった。
「みんなには絶対内緒、約束だよ? 雪絵と香沼はね、実は絶賛熱愛中なんだ!」
亜美から廊下で聞かされたのだ。彼女一人の言い草なら、無視して歩み去っただろうけど、亜美の隣では、雪絵本人が、両手で顔を覆って、耳まで赤らめていた。
「わかった。絶対内緒だね?」
私は、小さく頷き、澄まし返った。
それからものの数時間後、亜美が私の脇腹を小突いた。
「ねえねえ、城森さんは、何人くらいに言いふらしてくれた?」
私は、顎を上げて眉を顰めた。
「誰にも。だって、約束したから」
「えぇえ? 役立たずぅ! 城森さんみたいな優等生が言いふらしてくれたら、男子も先生たちも信じるだろうし、香沼に昨夜のことを無かったことになんかさせないのに!」
「復唱する。だって、約束したから」
「真面目か! 絶対内緒と言われたら喋ってしまいたくなるのが、人情ってもんでしょうよぉ!」
私は、自分の足元から同心円状に地面が崩落してゆくのを感じていた。その崩落に誰も巻き込みたくはないのに、邪魔者の亜美はずかずかと踏み込んでくる。
私は、亜美の隣に立つ少女を見遣った。
「結婚最低年齢にも性行同意年齢にも到達してない」
雪絵は、もう顔を隠しておらず、控えめに微笑んで見せた。
「香沼先生は、いつもいつまででも、あたしの悩みを聞いてくれる人なの。だからあたし……昨夜は嬉しかった」
「ほらほら! 愛があるから、余裕っしょ?」
亜美は、無責任な追い討ちを掛ける。
「ふうん、そうなんだ。けれど、小峰さんと
私は、二人に背を向けた。どうか嘘がばれてはいませんように。私は、もう随分と以前から、雪絵のことを「友達」だとは思えていなかった。
翌朝、スキー教室は、遠方のスキー場へと場所を移して継続されることが発表された。雪不足や悪天候続きのために、開催期間中にスキー場を鞍替えした前例ならあるらしい。
移動用のバスの座席は、クラスの名簿順だった。
小峰雪絵は、城森智衛の隣に、青ざめた顔で腰掛けた。少し震えてもいた。
「昨日の話は二度としないよ。引率の先生方のミーティングに、香沼の姿が見当たらなかった。騒ぎ立てないほうがいいように思う」
私が囁くと、雪絵は、またいつかのように、零れ落ちんばかりに目を見開いた。
「友達じゃなくとも、同級生だから。ただ、それだけ」
私は、自分と雪絵に言い聞かせた。
悪天候の中、バスは出発した。
五才の頃、私の母親は交代した。原因は父にあったのだ、多分。
父と新しい母は、一緒に風呂に入っては喧嘩した。
「あからさまに自分よりも頭の悪い女が好みのくせに!」
「いやいや、そのほうが気楽だと思い込んでただけで、失敗して目が覚めたよ。でなけりゃ、二度目に君を選んだりしないさ」
私は風呂を覗きたかったわけではない。新しい母から、笑わない子供は可愛くないと面罵されたので、笑う練習をするために、洗面所の鏡を必要としていただけだ。
困り果てて覗き込んだ鏡には、なんとも物憂げに睫毛を震わせる非力な子供が映し出されていた……
眼前にアイボリーホワイトが広がってゆく。
ああ、これは確か、病室の天井だ。ここで目を覚ますのは、初めてではないだろう、多分。
「ああ、また目を覚ましたの?」
二代目の母が、傍らで優しく微笑み、声も朗らかなのが気色悪かった。
「暇だったから、あれこれ考えてあげてたのよ。右手を失くした以上、誰が見たって、医者になれなくてもしょうがないじゃない。いっそ、パラアスリートでも目指したらどうかな? なんて」
立志館学院には裕福な家庭の子供が集う。震災で大怪我を負ったもののパラリンピック出場に至った卒業生だって既存なわけだが。
「……どうしてここに?」
「やだ、忘れちゃったの? あんたたちのバスコロコロ事故が、かなり大袈裟に報道されてるから、いっそ今週一杯くらいは休診したほうがクリニックの評判のためになるだろうって……何回言わせる気?
もう、高次脳機能障害なわけ? 二流私大の医学部になら入れそうなタマだからって、今まで温存してあげてたのにさ!」
優しさのメッキなんて、簡単に剥がれ落ちた。母は、激しく髪を掻き毟る。
「智衛ちゃん!」
個室である病室の扉が開き、別の誰かが足早に入って来た。
「何様? なんなら雇ってあげようか? 障害児の下の世話くらいが、看護師風情にはちょうどいいかもね!」
二代目の母は、出会い頭に実母をこき下ろした。実母のことを話題にする時は、かつてお世話になったベビーシッターという設定で語ることしか許さないというルールを私と父に課したのも、二代目なのだ。彼女の気性と折り合いを付けることが、年齢が一桁だった当時の私には大問題だった。
そう、当時の私は、いつか図書室で出逢った雪絵のように、物憂く生きていた……
もしや私は、幼かった当時の自分を、雪絵に重ねていただけなのか?
いや、それならばなぜ……スキー場で、雪絵の黒髪は、湿っていて少しばかり脂臭くさえあったのに、どうしていつまでも嗅いでいたいなんて思えたのだろう? 雪絵と香沼が通じたと知らされた時、体の芯がきりきりと締め上げられて、熱くどす黒く鬱血したようになったことだって、なぜだかわからない。
私が抱いた感情の名前を呼び、形をなぞり、本質を識るためには、何が何でも雪絵にまた逢わなければならないのだ。
「ねえ、お母さんたち……雪絵はどうしてるの?」
「ピンピンしてるわ!」
二代目は即答した。
「あんたが片手を失くしたから、気を遣ってお見舞いにも来ないのよ。あんた、会いに行きたいなら、右手をまた生やす勢いで頑張りなさいよ!」
そして二代目は、そそくさと席を立った。
「私は心の広い女だから、ここは菜々子さんに譲ってあげるわ!」
お陰で病室には、ずっと逢いたかった菜々子お母さんと、私だけが残された。
「ねえ、教えて、雪絵はどうなったの?」
菜々子お母さんは、膝から崩れ落ちた。両手で口元を覆っても、泣き声を抑え切れなかった。
なんだか、うまく思い出せないや。雪絵の黒髪に宿っていた、白い結晶たちの形。
あんなの、所詮は水分子の塊に過ぎないから?
雪絵は、かつての私に似ていた。もしも抱き締めることができたなら、卵の殻を破って、羽化して、手と手を取り合って飛び立てたかもしれないね——
非晶性のメモリー 如月姫蝶 @k-kiss
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