第二幕
翌早朝に、土方は井上源三郎を伴って江戸へ出立した。
見送りに立った伊織の目が赤かったのにも気付いていたらしく、早駕籠に乗り込む前に、伊織の頭にポンと手を置いた。
土方は特に何も言わなかった。
その代わりに、土方の大きな手が優しく、暖かかった。
新選組の敵である慎太郎を助けたいと思うことは、この手を裏切るということなのだと、伊織は余計に切なさを覚えた。
「行ってらっしゃい」
「あぁ」
交わした言葉はそれだけだった。
土方がどんな表情をしていたかも、よく見ることが出来なかった。
***
隊内の取締を任されたとはいえ、伊織がする仕事は限られていた。
いつ、どこで、何があるのか、大抵ののことは知っている。
その歴史的知識は、これまで外れたことはなかったし、これからもそうなのだろう。
万が一、例外が生じれば、その先の歴史が大なり小なり変わってしまうということだ。
伊織は、土方のいなくなった副長室に戻ると、いつも通りに室内の掃除を済ませた。
いつもなら、この後は朝食である。
本来、小姓の役割を担う者がその主人と膳を並べることは有り得ない。
だが、伊織は普段、近藤や土方と一緒に朝食をとっていた。
今日は一人だ。
近藤はこのところ、城への出仕で多忙を極めているし、幹部衆も自室で食事をとる。
(ちょうど土方さんの出張時期で、良かったのかも……)
今土方の傍にいれば、心を見透かされてしまいそうな気がする。
(これから一月、暇になるなぁ)
土方東下中の主な動きといえば、それはすべて、新選組にとって雲の上のことである。
そう簡単には、こんな末端にまで届いてはこないだろう。
忙しくなるのは、むしろ土方が帰ってからだ。
「おぅ、高宮! 鬼副長がいなくて寂しいだろ!? こっちで一緒に朝飯食えよっ」
障子戸が壊れるくらい力強く開け放たれた先には、原田と永倉の姿があった。
「あれ、お二人ともこれから朝食ですか」
永倉はともかく、大飯食らいの原田が、食事前にわざわざ誘いに来たのは意外だった。
「左之助がどうしてもって言うからさ~。たまには高宮の顔見ながら飯食うのもいいかなと思ってな」
「あー、ウソウソ! 言い出しっぺは新八よ! 新八っつぁんたら、昨日のおめぇの様子が変だってんで、気にしてんだよ」
「バーカ。おめぇだって心配してただろうが」
押し合いへし合いする二人の様子がおかしくて、伊織は誘いを受けることにした。
今は少しでも、笑っていたい。
そうしなければ、笑うことを忘れてしまいそうな気がしていた。
「監察は今日、何かあんのか?」
食後の茶を啜りながら、それとなく尋ねてきた永倉に、伊織は首を横に振った。
「島田さんたちは通常の隊務につきますけど、私は副長に内部取締を命令されましたから。私には非番のようなものです」
「ふーん。まぁ、ここんところおめぇも何かと忙しかったようじゃねぇか。鬼副長がいねぇ間くらいは羽のばしてもいーだろ。っと、じゃあ俺、巡察だから行くわ! じゃあな!」
原田は最後にめいっぱい飯をかき込むと、慌ただしく部屋を出ていった。
「相変わらずいい食べっぷりですね~、原田さんは」
笑って見送る伊織の横顔を、永倉は真顔で見つめた。
その視線に気付いて、不意に伊織も真顔になる。
「? ……永倉さん?」
「今度は何があるんだ?」
え、と伊織は息を呑む。
「あんたが暗い顔になると、その後に必ず大事件がある。──どうなんだ?」
「……あ、やだなぁ、何ですかソレ。何もありませんよ」
永倉の鋭い指摘に無理に笑顔を作ったせいで、口元が不自然に引きつる。
「そんなら別に、いいんだけどな。知っていてもどうにもならないことだってあるさ」
「永倉さん……」
「ま、監察って役職柄、抱え込まなきゃならないモンもあるだろうが、俺たちに出来ることがあったら言ってくれよ」
永倉が伊織の狼狽をどう感じたかは読みとれなかったが、柔和に転じたその口調に、ひとつ胸を撫で下ろした。
永倉や原田にも、先立っての藤堂平助分離の衝撃が、未だ消えぬ様子である。
試衛館からの仲間だった藤堂の御陵衛士参加は、永倉らにとって随分複雑な心境であるのだろう。
分離とは名ばかりで、実状は脱退とほぼ同じであった。
「まぁ、気が滅入ってる時にゃ、気晴らしするのが一番さ。ちょうど俺も非番なんだ。一緒にどうだ?」
「あぁ、すみません。留守中は極力外へ出ないよう言われてるんですよ」
永倉は伊織の両肩を掴み、その額と額をくっつけた。
突然のことに伊織は呆気にとられてしまった。
「熱はないな!?」
肩は捕まえたまま、永倉は額を離し、伊織の顔をのぞき込む。
「ははっ、大丈夫ですってば」
「そうかー? あんたが土方さんの言うことに大人しく従うなんて、どういう風の吹き回しだ!? 具合でも悪いのか?」
「そんなことありませんって。もー、永倉さんこそ何なんですかっ」
「何だよー、そんな邪険にすんなって~! 体調悪いなら俺が介抱してやるぜ?」
ありがた迷惑な永倉の腕をすり抜けて、廊下へ出る。
「永倉さんは下心ありそうだから遠慮しますッ」
振り向き様に舌を出してみせる伊織に、永倉は、
「寂しい夜は添い寝してやるからな~」
と、なおも冗談で返して笑った。
***
土方が東下して数日が経つと、さすがに伊織も暇を持て余していた。
屯所内の掃除や洗濯、隊士の稽古を覗くなど、いろいろと気分を紛らせようとはするのだが、常に頭の中では別のことを考えてしまう。
(もう一度、会いたい)
そして、確かめたかった。
もう殆ど確信はしているものの、やはり人違いであって欲しいと思ってしまう。
忘れてしまおうとすればするほど、それは頭の中に張り付いて離れない。
会いたい、と強く思う反面で、次に会えばきっと、彼の命を救おうと決心してしまうであろうことが怖かった。
日が経つにつれて増していく胸の蟠りが、一体どんな感情から生まれたものなのか、伊織には判然としなかった。
切ないのか、怖いのか、不安なのか、様々な感情が渦巻いていて、根底が見えないのだ。
伊織は、すっかり赤みが消えた火傷の痕を唇に押し当てた。
(慎ちゃん……)
***
翌日、伊織は鴨川を訪れた。
数日前に、慎太郎と別れた場所である。
あの時と違って、曇り空で風も涼しかったが、川の流れは穏やかなままだ。
川縁に立ち尽くしながら、伊織の心は揺らいでいた。
こんなところへ来て、どうしようというのか。
ここで再会できるとは限らないのに。
もし万が一会えたとして、それで慎太郎に何を言うつもりなのか。
(……帰ったほうがいい)
万が一、が起こる前に。
永倉や原田のように、心配してくれる者がいるではないか。
土方のように、必要としてくれる者がいるではないか。
彼らを裏切ってまで、歴史を変えてまで、たった一度会っただけの慎太郎を救おうなどとは、馬鹿げている。
中岡慎太郎は、坂本龍馬と協力して薩長同盟を実現させ、土佐陸援隊隊長を勤める、幕末の重要人物だ。
もし彼が暗殺の魔の手を逃れて生き延びたら、その先の歴史は必ず変わってしまうだろう。
そうは思うのに、叶うならば慎太郎には生きて欲しいと、切実に願ってしまう。
そんなことは許されない、と諦めてしまえたら、どんなに楽になるだろう。
ただ逡巡するばかりで、足は一歩もその場を離れようとしない。
(何してるんだろう、私……。馬鹿だなぁ)
考えるのは慎太郎のことばかりで、坂本龍馬の心配など、かけらも浮かばない。
慎太郎と違って、会ったことがないからだろうか。
それとも、龍馬のことこそ既に諦めてしまっているからなのか。
元々、暗殺は龍馬を標的として行われたことだから、と。
一刻ほど、しゃがみ込んで川面を眺めていた。
まだ日の入りには及ばないが、あれこれと悩んでいるうちに、だいぶ時間が過ぎていたらしい。
(今日は、もう帰ろう……)
伊織が、久しぶりに立ち上がった時だった。
「おー! おったがよー!?」
恐れていたというべきか、待ち望んでいたというべきか、万が一が起こった。
伊織の姿を見つけたその人は、あの日と同じ笑顔で弾むような足取りで駆けてくる。
その姿に、伊織は心音がうるさいほど大きく高鳴るのを自分の中に感じた。
伊織の二、三歩手前でぴたりと立ち止まると、慎太郎は改めて笑ってみせた。
並びの良い白い歯が、相変わらず印象的だ。
「久しぶりじゃのー!」
屈託のない声に、伊織は何故か安堵を覚えた。
「──久しぶり」
「ここ暫く姿が見えんかったき、心配しちょったがよ」
あれ? と伊織は思う。
確かに屯所にこもっていて外部に姿はみせなかったが、慎太郎は自分を探していてくれたのだろうか。
必ずしもそうだとは限らないが、自分を覚えていて、そして声をかけてくれたことが、素直に嬉しかった。
「げにまっこと、もういっぺん会えて良かったぜよ。俺としたことが居所も尋かんと、まっこと後悔しちゅう!」
伊織は内心、ぎくりとした。
尋かれて、答えられるわけがない。
「……いやぁ、私も故あって今は追われる身でして。お教えするわけにはいかないんですよ」
つっこんで尋かれる前に、予防線を張る意味でついた大ウソである。
言った後、苦し紛れとはいえ、もっとましな言い訳はないのかと、伊織は自分にツッコみたくなる。
そうして、その苦し紛れが意外な展開を見せた。
「ほぉ、そりゃあ難儀じゃのー。そんで男のナリをしちゅうがか」
慎太郎は、息がかかるくらいにまでにじり寄って、伊織の目をのぞき込んだ。
あまりの至近距離に伊織が後ずさろうとしたとき、慎太郎の両手が伊織の肩をがっしと掴んだ。
「ほんなら、俺んとこに来たらエエき!!」
「……はぁ?」
「女子の身ィで苦労したんじゃの~。何があったかは聞かんき。俺についてくりゃあ、幸せにするぜよ!!」
「いえ、あの……」
「俺は土佐陸援隊の隊長を勤めるモンじゃき、暫くは忙しくしちょうろうが、女子一人くらい守っちゃらぁ!」
熱心に語りかける慎太郎とは対照的に、伊織は冷や水を浴びせられた気がした。
──やはり、この人が。
確信していたこととはいっても、全身から血の気が引いていくのを止められない。
──助けてあげたい。
何故、今になって、この人に出逢ってしまったのだろう。
新選組に対する思いは、半端なものではなかったはずだ。
それなのに、ここにきて何故、こんなに心が揺らぐのだろう。
「──伊織?」
慎太郎の声が、耳元でする。
いつの間にか、肩を掴んでいた手は放され、代わりにその腕は伊織の華奢な身体を優しく包んでいた。
ここで新選組の監察だと名乗ったら、この人はどうするのだろう。
躊躇なく捕縛し、間諜だとして牢に繋ぐだろうか。
(土方さんなら、そうするだろうな)
あの人はそういう人だ。
隊務に私情は挟まない。私事はいつも二の次だ。
慎太郎だとて、その点は同じはずである。
志高い、維新志士なのだから。
伊織は、静かに慎太郎の腕を解かせた。
「隊長のあなたが、素性も知れぬ者を側に置くのは良くないですよ」
俯いたまま、伊織は声を低めて言った。
慎太郎は、すぐさまその場にしゃがみ込んで伊織の表情を窺う。
上目で見上げる慎太郎と、視線が絡んだ。
どうしてこの人は、こうも真っ直ぐに人を見つめるのだろう。
思わず、伊織は川面に視線を滑らせた。
何となく、息が詰まる。
「少なくとも伊織は、敵じゃあないき」
「どうしてそうだと言い切れる」
「そりゃあ、俺を見つめる眼差しが、愛に満ちとるがよ!!」
にわかに吹き出しそうになるのをやっとのところで堪えて、伊織は自然と眉を顰める。
「そんな目をあなたに向けた覚えはない」
「ほんなら、なぁんで目ェそらすがよ?」
慎太郎はやおら立ち上がり、伊織の細い顎を掴むと、半ば強引に仰向かせた。
と、同時に伊織の視線は再び慎太郎へと向けられる。
「こぉんな切なげな目で見といて、それはないぜよ」
言い終わるか終わらないかのうちに、慎太郎は伊織の唇にその唇を重ねた。
「!」
一度は押し返した慎太郎の腕が、もう一度伊織を抱き寄せる。
その腕はやはり優しく、その唇は温かい。
心地よく感じる傍らで、胸の辺りが締め付けられるように苦しい。
切ない、という言葉は、的確であるように思えた。
新選組に正式入隊して以来、愛だの恋だのという感情とは程遠い日常を過ごしてきた。
そんなものに向き合う余裕は無かった。
本当なら、もう恋愛の一つや二つは経験していておかしくない。
そういう時期を新選組という場所で過ごした影響は、伊織が考える以上に大きかったらしい。
柔らかい温かな感触は、暫しの間、伊織の唇を占領していた。
やがて、惜しむように躊躇いながら、唇が離れる。
そしてまた眼差しが絡み合った。
「……俺は伊織に惚れちゅうがよ?」
少し目を細めて言う慎太郎の口調が、妙に可愛く思えてしまう。
(──────はっ! 何してるんだ、私は!!)
抗いもせずに慎太郎の口づけを受けていた自分が、なんだか滑稽に思えて恥ずかしくなる。
みるみる頬が熱くなるのを感じながら、慎太郎の腕から逃れようともがく。が、慎太郎は放さなかった。
「はっ、放せッ! 私に衆道の趣味はないっ!」
渾身の力でもって抵抗するも、相手は本物の男である。
精一杯男らしく言ったところで、力の差はあまりに歴然としていた。
そんな伊織の額を、慎太郎は、ぺしっと軽く叩いた。
「意地張るんはいかんぜよ。俺が真面目にゆうちょるんじゃき、おまんも真面目に答えないかんじゃろう?」
言われて、伊織は言葉に詰まった。
慎太郎の言うことは、もっともである。
伊織は抵抗を諦めるしかなくなってしまった。
「俺は伊織とハニィムーンに行きたいと思うちゅう」
(……ハニィムーン?)
心中で呟いて、ピンときた。
「あぁ! ハネムーンか。確かこの時代、坂本龍馬とお龍が日本で初めて行ったって……」
「伊織! 龍馬を知っちゅうがか!?」
「あっ、しまっ……!」
ふと思い出したムダ知識が、思わず口をついて出てしまった。
これでは慎太郎が驚くのも当然だ。
「いや! その! 噂に聞いただけで!」
新選組の監察が、聞いて呆れる狼狽ぶりである。
「そ、それより、今日は何も用事無いんですか!? 忙しいんでしょうに、油売ってちゃダメですよー!」
いつも以上の動揺を抑えきれず、いい加減自分が情けなくなってくる。
話のそらし方も、普段の三倍は下手である。
慎太郎は、少し怪訝そうに眉を顰めたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「……せやにゃあ。考える時間もやらんと、答えせがんでもしゃあないき。明後日じゃ! この場所で、今ごろに待っちゅう。返事はそん時でエエき。必ず、来るがよ!?」
「は……、はぁ。……って、ちょっと」
伊織が戸惑うのも気にかけず、慎太郎はもう一度、軽く唇を重ねる。
そうしてくるりと背を向けて、元来た方へと歩き始めた。
「絶対、エエ返事持って来るがよ!? それまでは俺も待っちゃらぁ!」
無意識に追いかけようと出した足を押し止め、嵐のような人だ、と伊織は思う。
(土方さんが留守でよかった……)
***
伊織が屯所に帰り着いた頃には、既に宵闇が漂い始めていた。
ふらふらと門をくぐったところで、不意に声をかけられる。
「高宮。ちょっといいか?」
同じ監察方の島田だった。
身体も大きく顔も厳ついわりに、人当たりの良い男で、日頃から親しくしている中の一人である。
「あぁ、島田さん。いいですよ、どうしました?」
気のせいか、島田の表情に緊張の色があらわれている。
「ここでは目立つ。場所を変えよう」
何事かと訝しみながらも、島田の後についていく。
ついた先は、道場の裏手だった。
中に人はいないらしく、島田は伊織が完全に建物の影に入るのを待ってから、口を開いた。
「あんた、今日、鴨川にいたな?」
「え? えぇ、いましたよ。それが何か?」
「今日会っていた男が誰なのか、わかってるのか?」
見られていたのか、と伊織はひとつため息をつく。
「知ってますよ。島田さんも、あの人が誰なのかは知ってるんですね」
暗くてよく見えないが、島田は難しい顔で頷いたらしかった。
「あれは、海援隊の坂本と並ぶ要注意人物だ。とはいえ、うかつに取り締まれる人物でもない。……いつからなんだ?」
「……いつから? って、何ですか」
他意もなく伊織が問い返すと、島田は言いにくそうに言葉を濁らせながら、
「だから、その……中岡とは、いつから……そういう関係になった?」
と言った。
伊織は、顔から火の出る思いである。
ただ一緒にいるところを見られたのならともかく、一部始終を見られていたのだ。
返す言葉もない。
「し、島田さん! それは誤解です! 私に衆道の気がないことは、あなたもご存知じゃありませんか! あれはっ、あの人が勝手に……」
伊織の必死の釈明に、島田はひとまずホッとした様子だった。
が、それも束の間。すぐに声を潜めて、伊織に耳打ちした。
「中岡の陸援隊には、既に村山が入っている。あんたが接触する必要はないだろう? 副長の命令通りに、内部取締に専念しろ。そのほうがあんたのためにも、隊のためにもいい」
海援隊に遅れること三ヶ月で、陸援隊は結成された。
つい先立っての十月七日に、新選組からも村山謙吉という隊士が間者として陸援隊潜入に成功していた。
しかし、その村山がいずれ間者であると露見し、牢に入れられてしまうのだ。
それを知るのはこの時代で伊織だけである。
伊織としては、できれば大事に至る前に、村山を救出したいと、前々から思ってはいた。
六日の夜に村山派遣の話を聞かされた時も、その必要はないと反対したのだ。
どうしても間者を送り込むなら、自分が行くとも言った。
だが、近藤はじめ監察方は猛反対だったのだ。
(……そうだった。中岡の心配をしたり、くだらない色恋に惑わされる前に、助けなきゃならない仲間がいるんじゃない)
島田に諭されなかったら、一時の情に絆されて、本気で中岡のもとに走っていたかもしれなかった。
「島田さん。ありがとう。明日、私も陸援隊に志願します」
「!? 高宮! 俺の話が聞こえなかったのか!? 馬鹿を言うな!」
慌てふためく島田を宥め、伊織は冷静に話す。
「折りを見て村山さんを脱退させますから、土方さんが戻ったら、決して新たな間者を送り込まないよう伝えてください。いいですね? これからの新選組には、一人でも多くの隊士が必要なんです」
唐突な伊織の申し出に、島田は驚いた顔で耳を傾けている。
その目を真正面から見つめて、伊織は話し続けた。
「いずれ陸援隊では、新選組間者の存在が露見するでしょう。そのとき、間者が私なら事前に逃げることも出来ますが、村山さんでは無理です。明日私が発ったら、私自らが屯所に戻るまで、陸援隊には直接関わらないように。諜報経路は村山さんから引き継ぎますから、変更は要りません」
「本気で言っているのか、高宮!? 副長がそれを許すと思うのか!?」
「行動を起こせば、土方さんも許さざるを得ませんよ」
困惑を極める島田に、伊織は軽く笑ってみせた。
***
翌朝、皆が朝稽古に励んでいる間に、伊織は身の回りの物を簡単にまとめて、不動堂村の屯所を後にした。
見送りに出たのは島田一人である。
「正直、俺は反対だ。副長だって、留守中あんたの身に何事もないようにと内勤をめいじたんだ。そのくらいはあんたもわかってるんだろう?」
「えぇ。でも、心配ないですから。局長たちには適当に言っといてください。それじゃ、行ってきますね」
屯所の門で島田と別れ、伊織は洛東白川村の陸援隊本部を目指した。
その胸中は、島田に向けた笑顔とは裏腹に、不安が渦巻いている。
確かに、ある程度の史実は把握している。
が、それはあくまでも新選組や幕府、朝廷に関する大まかな事件に関してである。
陸援隊で新選組間者の存在が明らかになる日こそ知ってはいるが、土佐藩の詳細な動きについては、さすがにあまりよく知らない。
(これは、一応諜報活動にも精を出さないといけないかなぁ)
結果的にはあまり意味を為さないこととはいえ、間者を担う手前、全く何もしないわけにもいかないだろう。
うまくすれば組織の中枢で、有力情報にありつける可能性もあるのだが、漏らすべき情報とそうでないものの区別は慎重につけねばならない。
それに、第一、伊織に中枢部は危険すぎるといっていい。
新選組から分離した、伊東甲子太郎率いる御稜衛士と中岡とは、面識があったはずだ。
伊東の一派とは顔を合わせないよう、細心の注意を払わねばなるまい。
万が一、伊織が陸援隊に潜入していると伊東らに知れれば、その時こそ危険である。
陸援隊屯所に近づくにつれ、下っ腹に重い鉛が蓄積されていく。
やがて白川の陸援隊本部の門前までやって来た時には、
(やっぱり、ちょっと無謀かもしれない)
と、やや後悔を覚えた。
しかし、ここまで来て新選組へ引き返すのも、阿呆らしい。
(いざ、行かん!)
伊織が意を決して一歩前へ踏み出そうとした、その時。
背後から何者かにぶつかられ、前のめりになって派手に転んでしまった。
「おーっ、すまんにゃあ! 怪我はないがか!?」
土佐弁だ。
ハッとして身体を起こすと、伊織は小さく声をあげた。
「あんまり小っこくて見えんかったがよ! 悪りぃ悪りぃ」
さっぱり反省の色もなく詫びて、手を差し出した男。
坂本龍馬であった。
呆然とする伊織の腕を掴んで立ち上がらせ、龍馬はそのまま伊織の身体をひょいと抱き上げた。
まるっきり子供扱いである。
「お? ……何じゃあ、おんし。女子がじゃったかぁ!」
「!!」
龍馬の追い打ちに、伊織は完全に固まってしまう。
中岡といい、龍馬といい、一目見ただけで男装を見抜くとは、侮れない。
そういえば、中岡と出会った時も、後ろからぶつかられた記憶がある。
よくよく前方不注意な奴らである。
「おっ! 腕から血ィが出ちゅう! 手当しちゃるき、このまんま担いでっちゃらぁ!」
伊織は龍馬の肩に担がれ、難なく(?)陸援隊屯所の門をくぐるのに成功した。
【第三幕へ続く】
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