試金石

紫乃森統子

第一幕

 

 

 慶応三年九月も末になり、夏も終盤を迎えていた。

 鴨川沿いの、とある茶屋で昼下がりの一服を楽しむ新選組隊士が一人。

 諸士取調役兼監察、高宮伊織である。

 いつもは監察という役目上、女装して――といっても本来が女子であるから、普段のほうが男装しているようなものなのだが――街へ出ることが多い。

 この日は珍しく、男装のまま屯所を出ていた。

 現代人の伊織にとっては、この時代の女性の装いはあまり馴染み易いものではない。

動きづらいのである。

 土方から久しぶりに非番をもらい、夕餉までに戻るという約束で、こうしてのんびりと茶を啜っているというわけなのだ。

(暑い日に、熱い茶を飲む。究極ですなあ)

 周囲から見れば、ただの変わり者である。

(まだ時間はあるし、これからどうするかな)

 最近やけに忙しかったせいか、急に与えられた余暇をどう過して良いものかと、実は少しばかり持て余し気味である。

 このまま暫く鴨川の流れを眺めていても良いが、それでは勿体ない気がする。

(よし! 久しぶりに清水にでも行ってみるか!)

 決心したその時、背後から人にぶつかられ、茶を溢してしまった。

「あっつッ!」

 湯呑みを持っていた右手の甲に、茶がかかった。

「すまん!」

 男が、伊織の正面に回ってきた。

 大小を差して、小ざっぱりと髷を結っている。

 年は土方よりもう少し下に見える。

 本当に申し訳なさそうな顔で謝られては、伊織も文句を言う気になれなかった。

「いや、大したことはない。どうぞお気になさらず……」

 伊織の言葉が終わらぬうちに、男は伊織の右手を取った。

「火傷しちゅう」

「は?」

 男は伊織の手を放し、懐からいくらかの銭を取り出すと、長椅子の上に置く。

「勘定はここに置いとくぜよ!」

 と、店の奥に声をかけ、尋常ではない速さで伊織を抱えて駆け出した。

「うおっ!?」

 訳も分からないまま男に抱えられて、伊織は鴨川縁へとやって来た。

 そこまで来ると、男は伊織を静かに地に降ろし、次にはその右手を水に突っ込ませた。

「あの……、そんな大した事ないですから。お金もお返しします」

 伊織のほうが恐縮してしまい、苦笑いを浮かべて言う。

 火傷を気にしてくれるのはいいが、強い力で手首を掴まれていて、そちらのほうが痛いくらいである。

 男は伊織に振り向くと、白い歯を見せて笑った。

「あぁ、いらんいらん! 女子に火傷さしたっちゅうに、なんもなしじゃあ俺の気ィが修まらんき」

(女だってバレバレかい。困ったなぁ)

 男装もすっかり板に付いたと思っていた伊織には、少なからず衝撃である。

「あの、私は見ての通り女子では……」

「せや、何で男の成りをしちゅう? 折角別嬪さんなんじゃ、もったいにゃあぞ~」

「だから! 私は男ですってば!」

 男装中に女であると露見するわけにはいかない。

 伊織は声を荒げて反論するが、男はそれすらも笑い飛ばした。

「ぶわっはっはっ! 嘘を吐くがやったら、もっとまともな嘘をつかにゃいかんがぜよ!」

 伊織は、頬がカッと熱くなるのを感じた。

 今まで、一度だって男装を見破られたことはなかったのに、たった一目会っただけのこの男には、どうして分かってしまったのだろう。

 鴨川の流れに浸していた手を引き上げ、火傷で赤くなった伊織の手を、男はじっと見つめた。

 伊織の手を握る男の手は、節が目立つ大きな手だ。

 或いはこの手の違いが、女であることを教えてしまったのかもしれない。

 華奢で小さな手を、こうも凝視されたのでは、男でないと露見してしまうのも無理がないように思えてしまう。

「名ぁは何ちゅうがか?」

「は?」

 握られた自分の手をぼけっと見ていたところに声をかけられ、一瞬うろたえる。

「名前じゃ。俺は中岡慎太郎っちゅうもんじゃき、よろしゅうにゃあ」

「あ……、私は、高宮です。高宮伊織」

「……っかぁ~っ! 伊織ゆうがかよ!? 斬新じゃのー!」

 伊織という名が別に斬新でもなんでもないことくらい、伊織自身よく知っている。この時代にもよくある名だ。

 慎太郎は、女が伊織を名乗ることが斬新だと言っているのだ。

「――それはどうも」

 仏頂面で答えて、伊織はしまった、と思う。

 これでは女であると認めてしまっているようなものだ。

 こんな失態を土方に知られては、大目玉を食らうこと受け合いである。

「――中岡さん。」

「おぉーう! そんな他人行儀な呼び方はないぜよ?」

 間違いなく、他人である。

 伊織のそんな心の突込みも、可愛らしく口を尖らせる慎太郎の顔を見るなり、何処かへ吹き飛んでしまった。

「じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」

 思わず笑いが込み上げるのを堪えつつ問うと、慎太郎は満面の笑みを返して、

「せやにゃあー、慎ちゃん、で頼むき」

 と言った。

 ずっと、伊織の手を握ったままである。

「慎ちゃん」

「ん?」

「いつまでも男同士が手を握っているのは妙だと思いませんか?」

 男同士、を強調して言われて、慎太郎は伊織の手と顔とを交互に見る。

「しかし、火傷が」

「握っていて治るものじゃありませんよ。それに、本当に何ともありませんから」

 放せ、と言わんばかりの目が効いたのか、慎太郎は渋々ながらに伊織の手を解放した。

 すかさず、先刻の代金を払おうと懐にやったその手を、慎太郎が軽く制した。

「俺はこれから用があるき、もう行くけんど、出来るがやったら医者に見せたらエエがよ」

 言うだけ言ってしまうと、慎太郎は立ち上がって袴の裾を掃い、背を向けた。

 あまりにあっさりしていて、逆に伊織のほうが焦ってしまう。

「あのっ! ありがとう!」

 慎太郎は振り返って、目を細めて笑った。

(変な人)

 颯爽と歩いていく慎太郎の姿を目で追いながら、伊織は忍び笑った。

 短く息を吐いて、再び鴨川の水面に目を落とした時、伊織は気が付いた。

「中岡慎太郎って……」

 反射的に慎太郎が去って行った方を振り返ったが、そこにはもう、彼の姿は見当たらなかった。


 ***


 何となく清水に行く気も失せてしまい、伊織は屯所へと戻った。

 門限まではまだかなり時間があったが、休暇を楽しもうという気分はすっかり消えてしまった。

(土佐訛りだったよね、あの人……)

 悶々と思案に暮れながら、土方のいる副長室に戻る。

(やっぱり、あの、中岡慎太郎だろうか)

 挨拶すらも忘れて、部屋の柱に凭れて座り込む。

「―――――おい!」

 土方の低い声で、伊織は我に返った。

「は!? あ? あぁ、なんだ、土方さん」

「なんだとは何だよ。部屋に入るときは声をかけろって、いつも言ってんだろ」

「いいじゃないですか、私の部屋でもあるんですから」

 気だるそうな言い方で、土方の小言をあしらう。

 が、それがあしらいきれないのは毎度のことである。

「ここは俺の部屋だ! 仕方なく置いてやってんだ、俺の言うことにゃ従え!」

「はいはい、わかりましたよ。まったく、小姑みたいなんだから」

 試衛館以来の隊士以外で、こうまで土方に横柄な態度をとれる者は、まずいない。

 こんな口喧嘩も日常のことである。

 だが今は、土方とさえあまり口を利きたくなかった。

 慎太郎のことで頭が一杯になっていて、返す言葉にもいつもの覇気がない。

 土方もそれに気が付いたのか、それ以上伊織に突っかかるようなことは言わなかった。

「ずいぶん早かったが、何かあったのか」

「………」

 なかったと言えば嘘になるが、あったと言って詮索されるのは有難くない。

「局長にはまだ言っていないが、俺は明日、江戸へ発つ。一月もすれば戻るが、留守中のことは頼んだぞ」

 伊織が何も答える気がないと践んで、土方は自身の話に切り替えた。

「うん、知ってる。大丈夫だよ。留守中は、新選組に大きな変事はない」

 土方の言うことに伊織が"知ってる"と答えるのには、土方はすっかり慣れていた。

 最初こそ、何でも知っている伊織に違和感を持ったが、こうも長く付き合っているとそれが当たり前になる。

(慣れ、というのは奇妙なもんだ)

 と、土方は改めて思う。

「俺がいない間は、無闇に外へ出るな。外部のことは島田や山崎に任せて、お前は内部を見張れ。いいな」

 今日、急に暇をくれたのは、それゆえのことらしい。

 土方のいない一月の間は自由な外出をさせない代わりに、一日自由に街の空気を味わわせてくれたのだろう。

 いかにも土方らしい優しさだが、今の伊織にはそれが恨めしかった。

 外に出なければ、あるいは何か仕事を言いつけてくれれば、彼とは逢わずに済んだかもしれない。

 こんなに胸を痛めることもなかったのだ。

 それとも、たった一度言葉を交わしただけでこんな気持ちになってしまうことが、希有なのだろうか。

(あの人、土佐の中岡慎太郎だ)

 この時代にいて、彼の運命を知る者は、恐らく伊織一人だろう。

 彼は近々、暗殺される。

 偶然にも坂本龍馬と二人きりになったところを、龍馬を狙った刺客に討たれる。

 悲運の維新志士である。

 伊織の知る歴史では、そういう運命になっていた。

「──おい、聞いてるのか!? せめて返事くらいはしろや!」

「あぁ、はい」

 まったく上の空である。

「おめぇに欠けてもらっちゃ困るんだ。くれぐれも勝手な行動はするんじゃねぇぞ」

 戒めるような強い口調で、土方は言った。

「──うん」

 返事はしても、考えていることは全く別なことである。

 これまでも、多くの人が命を落とすのを見てきた。

 救ってやりたいと思ったことも、一度や二度ではない。

 敵であれ、味方であれ。

 人が殺されない日はなかったように思う。

 そして、いつしかそれも運命なのだと割り切って考えてしまうようになっていたのも、また、事実だ。

 何だかんだと言いながら、新選組に生きてきた。

(あの人は、敵なのだ)

 そう思うと、なぜだか涙が出た。

 土方に気付かれぬように顔を背けたが、勘の良い人であるだけに、伊織が泣いていることは知れていただろう。



【第二幕へ続く】

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